(週刊東洋経済 2007.4.28 p46-49)より
ある日、町から小児科救急が消えた
大同団結で危機打破 「堺市モデル」の可能性
母親たちは「子どもが夜中に診てもらう小児科がない」と嘆く。医師は「1カ月に4日休めれぱまし。もう限界」と青ざめる。小児科は長らく、需給の構造課題を抱えてきた。小児科医の週労働時間は、老齢まで含めた平均で60時間に達し、20歳代は68時間を超える。
「日本の小児科医の常識は“非常識"だ」と藤村正哲・大阪府立母子保健総合医療センター総長(日本小児科学会・小児医療政策室長)は言う。イギリスでは専門医は基本週労働時間の40時間を超えて働く義務はなく、研修医レベルでも2009年までには週48時問に軽減される。
「医師が都市に偏店したために遇疎地に医師がいなくなったというのは間違い。大都会で病床が多い病院ほど欠員が多い。1~2人欠けても診療科閉鎖には至らないが、その分残った医師に大きな負担がかかる。問題の本質は病院勤務の小児科医が少なすぎること」(藤村総長)。
学会が集的化を提言
日本小児科学会は2005年独自に練り上げた"改革ビジョン”の提示に踏み切った。「欧米はチーム医療制度が、日本は主治医の文化が根強く、医師に仕事が集中する。まるで手工業で、システムになっていない。最近、観洗バスの運転手の過労によると思われる事故があったがそれと同じだ」(藤村総長)。長時間労働が安全性を低下させるのは自明の理。「小児科医の労働条件を改善するシステムとしては集約化』しかない。夜中でも1時間以内で行ける小児救急センターを整備していこう」(藤村総長)と提言した。
2次医療圏ごとに「地域小児科センター」を整備。センターにはー次救急(軽症)二次救急(入院レベル)や新生児集中治療機能を備え、地域の入院を集中させる(下図参照)。各病院でばらばらに当直する必要がなくなり、医師の負担が軽くなる。
センターを取り巻く病院は小児科病床を縮小するが、外来診療はこれまでどおり。診療所も含めて住民がかかりつけの小児科を替える必要はない。病院側は病床縮小で収入減だが、経費も減るので現状の収支均衡が大きく破れることはない計算だ。
大きな構造転換を伴うが、「危機を嘆くだけでなく、新しい世界の転機にしなければならない。それに、何も急に集約するのではなく、医師の異動時等に集約化を進めていけぽいい」。そう言う藤村総長が目下、成り行きを注視しているのが、大阪府堺市の取り組みだ。「堺の例がうまくいけば、草の根の取り組みとして全国のモデルケースになる」。
医師不足のドミノ倒し 1次救急が一時消滅
大阪の小児科診療所の多くは20:00まで診療している。そこで、堺市ではもともと、市内6病院(市立堺病院、大阪労災病院、清恵会病院、耳原総合病廃、混心会病院、ベルランド総合病院)で準夜(21:00~)・深夜(0:00~)の一次救急を行っていた。
1989年には、土日救急のゲートキーパー的存在として、以前からあった市北部の宿院急病診療センターに加え、市南部の竹城台に「泉北急病診療センター」が稼働する。医師のほか看護師、薬剤師、検査技師、放射線技師を配置。各病院は、センターでは見きれない重篤患者の後送機能を分担することになった。
ただ、小児科医不足で温心会病院の小児科が閉鎖。2001年には、中核的存在だった市立堺病院にも異変が起こる。大学病院からの当直医派遣が停止し、院内の7医師だけでは準・深夜に対応できなくなったのだ。堺市医師会小児科医会の提案を受け入れ、堺市は急きょ、泉北急病診療センターで1年365日の準夜診療を開始した。
ところが2004年、さらなる衝撃が堺市を襲う。発端はお隣り、大阪市住之江区の南大阪病院だった。大学病院からの医師派遣がやはり停止し、小児科がなくなったのだ。勢い、大阪市南部の小児救急は隣接する桧原市七堺甫へ流れ込んだ、堺市で受け皿となった市立堺病院、清恵会病院はー次救急、救急送とも担当していたため、業務が集中。各院の小児科部長が次々と体調に支障を来す事態になった。
追い打ちをかけるかのように新臨床研修制度がスタート。市立堺、清恵会がそろって大学病院からの医師派遣が受けられなくなる可能性も持ち上がった。医師不足と過剰労働がばたばたとドミノ式に波及するなか、昨年6月には恐れていた“空白”が起きた。泉北急病診療センターが閉まった深夜の小児-次救急を行う病院は、市内に一つもなくなってしまったのだ。
「約300人が行き場を失う事態になった」。ベルランド総合病院小児科の大島利夫副院長は昨年を振り返ると今でもぞっとする。「小児-次救急は95%が軽症だが、軽症の中にある重症を見落としたらあかんやろ、と。それに、空白が続けば、別の地域で次のドミノを倒すことになりかねない」。
牛歩の自治体にシピレ 医師たちの一念発起
本来、小児救急は市町村の責任だが、「堺市は人口84万の政令都市にしてはあまりにもビジョンに欠ける。われわれが何とかしなければ」。片桐真二・かたぎり小児科院長が会長を務める堺市医師会小児科医会は立ち上がった。
堺市も交えて検討を重ねた結果、新たに小児救急医療センターが動き出すまで、今ある泉北急病診療センターが1年365日21:00、5:00の準・深夜診療を担うことで決着をみた。"空白"から半年後、06年11月のことである。センターは平日の準・深夜に加え、土曜日は18:00~5:00まで、日曜祝日は10:00~翌朝5:00まで診療することになった。年間延べ526人分の頭数が必要になる計算だ。インフルエンザ流行時にはさらに週7~8名の増員もいる。病院勤務医たちが出務するだけは到底回らない。ここで頼りになるのが開業医たちだ。
「堺はその点では自慢できる。実は、センターが土日救急だけやっていた時代から、堺市内の開業医は70歳まで救急へ出務するよう義務づけられている」と、泉北急病診療センター管理医師も務める片桐院長は胸を張る。
365日準夜を始めた5垂則には大阪府と堺市が「公務員の兼業抵正を小児救急に限って例外とする」という特別措置を認めてくれた。おかげで、和泉市の大阪府立母子保健総合医療センターや、市内の保健所に勤務する小児科医にも出務してもらえる。在阪5大学へも応援を要請し、堺市救急医療事業団に「ドクターバンク」も設立した。センターは今年度、全体の29%を開業医が、36%を市内病院と保健所の小児科医が、そして在阪大学、母子保健医療センターや市外開業医、在宅女性小児科医などが35%を担い、バランスよく運営されている。
供給が需要刺激? 追っかけごっこの面も
「開業医の出務は小児科医で年9~10回、内科・小児科医で256回へ増えた。『救急をやりたくなくて開業したのに』という先生もいるけれど、『残された先生方の激務を考えてください』と話せばわかってくれる」(片桐院長)。
医師の垣根を超えたスキームは全国でも極めて珍しい。堺は市面積が広く、小児科開業医約80人(うち小児科専門医約50人)、勤務医30人と人材も比較的豊富ではある。小児科医会が昭和30年代から独立してあることも大きい。開業・勤務医の分け隔てなく、年6回は定例勉強会を開き意思疎通してきた。「医療は人がやること。こうしたつながりが最後はものを言う」(大島副院長)。
泉北急病診療センターには昨年度2万5087人の小児救急患者が来た。平日の準深夜は30~60人、日曜祝日は200~300人に達する。
インフルエンザがはやった3月の第1日曜日は423人が訪れた。救急は全員が初診。診療にもおのずと時間がかかる。特に先月はタミフル問題でさらに説明に時間を要した。15516人の患者が来た深夜は、まず寝られない。まさに不夜城だ。隣の泉州や南河内にも「堺市モデル」が伝播し始めているが、まだ365日深夜救急を確立できず、開業医の協力も有志レベルにとどまっているもよう。「現行の2次医療圏にとどまらず、広域化も含め、新しい小児医療圏の考え方が必要ではないか」というのが、片桐院長の杢目だ。
「これが完成形ではない」。大島副院長もそう考えている。 「何とかせなあかんやろと、医師が自らブランを立て、行政をせっついてようやくここまで来た。ただ、後送病院のどこか一つでも受け入れられなくなったら今のシステムは維持できなくなる」(大島医師)。それほど、小児救急の現場は切羽詰まっている。