昨日、三輪明宏が司会の民放で、岸辺シローが出ていて、岸辺氏がどうしても自立出来ない悩みを相談していた。で、三輪氏が次の様な感じで言われていた。
いつもブツブツ言っている人は、自分の周りに毒をどんどん吐いている様なもの。最後はそれに囲まれて、自分でアップアップして身動きが取れなくなって苦しんでいる。そうでなくて、全て、人の忠告も、いろんな苦しみも、感謝して受けること。そうすると、次第に、どんどん幸せな気持ちになって来る。そう、貴方の気持ちの持ち方次第で、人間どうにでもなるって感じで言われていた(なるほどと思った)。
そうだよな、万事塞翁が馬で、いいと思っていたことが、後になって考えてみると、逆だったり、又、その時いいと思っていたことが、先々逆になったりと、いろいろだ。人生なんて、ずっと楽(らく)して楽しく何てある訳ない。苦しいことを経験して、楽しいことがそれに反比例して感じられるのだ。人生は、自分なりにいろんなことを味わう、それが生きると言うことじゃないのかなあ。
自分が産まれた時は、昭和24年(5月)で、既に戦争は終わっていた。皆、貧乏で、近所の子で、お腹空かして泣いている子もいた。腹一杯食べたらどんなにいいだろうと思っていた。卵やカマボコは、贅沢って感じで、栗まんじゅうが、最高のお菓子だったかな。周りは子どもだらけで、いつも子ども同士の喧嘩が絶えなかった。中学の時でも、経済的な理由で、修学旅行に行けない同級生がいたなあ。自分の場合、お金がなくても、2年間も浪人させてもらって、親には、深く感謝している。大学に行っても、貧乏学生の集まりって感じだったなあ。多くの人が、バイトをして、生計の足しにしていた。専門課程に入ると、忙しくて、又、ちょうどバブルがはじけた時で、金欠病で多くの医学生が苦しんでいたなあ。しかし、今思うと、これが良かったかなあ。医者になっても、初めのまる1年間は、額面月わずか8万で、それからいろいろ引かれていた。しかも、自分の場合は、卒業と同時に結婚までしていたので、苦しかった。初めの県病時代は、家内の100万円を小刻みに使って、何とか餓えをしのいでいたって感じかな。
仕事は、メチャクチャしていた。朝から晩まで、殆ど休みなし。初めに県病に就職した日に、小児科部長から言われたことは、「小児科医は、お金と無縁だ。お金儲けがしたければ、早いとこ、他の科に変われ。365日24時間、休みはないと思え。そんな中で、ちょっとコーヒーを飲んだりして、息抜く道を覚えなさい!」と言われた。
(宮崎)大学に行っても、開設したばかりで、スタッフがわずかに7人、教授と助教授以外の5人で当直を回していた。つまり、平均5日に1回は、大学で当直をし、外来・入院・学生の教育(それに、学外の健診や時にバイトにも出て)、そして、研究も少し手伝わされていたのだ。
今思えば、いい思い出となっているが、後輩がこれを読んで、どう思うかなあ、今では通用しないことだけど。過労死寸前で仕事していたのは確かなことで、文句も表だって言えず、諦めていたかな。
話は、ずっとずっと先があって、県病→大学→佐伯と地元に帰ってきた。佐伯では、正に、お産の多い小児救急の多い救急病院で、独りで24時間365日8年半余、年間500の新生児・未熟児と毎晩の小児救急で、大学どころの忙しさどころじゃなかった。ホント、初めのまる3年間なんて、休みが1年間に1日もなくて、毎日が当直って感じで、よく体がもったものだと今でも思っている(いつ倒れても不思議でなく、病院側も心配していた)。
で、(19床持っての毎日診療の)8年半余の開業時代が、一番楽だったかな。しかし、採算で苦しんで、潰れたけど。(開業している時に、趣味の基礎が出来たかな?)
で、それから又、勤務医になって、5人で当直をし、それから、又、大分県に帰って、救急病院で2人~3人で小児救急をし、そして、今の職場になっている。
今は、昔のことを考えれば正に天国。来年の3月までで、一応、退職。還暦前で、もう、頑張れない。それでも、今年は、12月27日~1月4日までは、小児科は、全て自分がすることになっている(いつも、年末年始は、している。数が少ないので、さほどきつくないかな)。
ここまで無事に来れているのは、多くの人のお陰。感謝、感謝、感謝、家内孝行も今からしないといけないなあ。
この日、17歳の石川遼選手が、年間1億円を最年少記録で突破した。皆さんのお陰です、自分の技量よりも成績が先に走っている何て言われていた。素晴らしい発言だなあ。彼は、若くして感謝と謙虚さの塊って感じだなあ。見習わないといけないなあ。
いつもブツブツ言っている人は、自分の周りに毒をどんどん吐いている様なもの。最後はそれに囲まれて、自分でアップアップして身動きが取れなくなって苦しんでいる。そうでなくて、全て、人の忠告も、いろんな苦しみも、感謝して受けること。そうすると、次第に、どんどん幸せな気持ちになって来る。そう、貴方の気持ちの持ち方次第で、人間どうにでもなるって感じで言われていた(なるほどと思った)。
そうだよな、万事塞翁が馬で、いいと思っていたことが、後になって考えてみると、逆だったり、又、その時いいと思っていたことが、先々逆になったりと、いろいろだ。人生なんて、ずっと楽(らく)して楽しく何てある訳ない。苦しいことを経験して、楽しいことがそれに反比例して感じられるのだ。人生は、自分なりにいろんなことを味わう、それが生きると言うことじゃないのかなあ。
自分が産まれた時は、昭和24年(5月)で、既に戦争は終わっていた。皆、貧乏で、近所の子で、お腹空かして泣いている子もいた。腹一杯食べたらどんなにいいだろうと思っていた。卵やカマボコは、贅沢って感じで、栗まんじゅうが、最高のお菓子だったかな。周りは子どもだらけで、いつも子ども同士の喧嘩が絶えなかった。中学の時でも、経済的な理由で、修学旅行に行けない同級生がいたなあ。自分の場合、お金がなくても、2年間も浪人させてもらって、親には、深く感謝している。大学に行っても、貧乏学生の集まりって感じだったなあ。多くの人が、バイトをして、生計の足しにしていた。専門課程に入ると、忙しくて、又、ちょうどバブルがはじけた時で、金欠病で多くの医学生が苦しんでいたなあ。しかし、今思うと、これが良かったかなあ。医者になっても、初めのまる1年間は、額面月わずか8万で、それからいろいろ引かれていた。しかも、自分の場合は、卒業と同時に結婚までしていたので、苦しかった。初めの県病時代は、家内の100万円を小刻みに使って、何とか餓えをしのいでいたって感じかな。
仕事は、メチャクチャしていた。朝から晩まで、殆ど休みなし。初めに県病に就職した日に、小児科部長から言われたことは、「小児科医は、お金と無縁だ。お金儲けがしたければ、早いとこ、他の科に変われ。365日24時間、休みはないと思え。そんな中で、ちょっとコーヒーを飲んだりして、息抜く道を覚えなさい!」と言われた。
(宮崎)大学に行っても、開設したばかりで、スタッフがわずかに7人、教授と助教授以外の5人で当直を回していた。つまり、平均5日に1回は、大学で当直をし、外来・入院・学生の教育(それに、学外の健診や時にバイトにも出て)、そして、研究も少し手伝わされていたのだ。
今思えば、いい思い出となっているが、後輩がこれを読んで、どう思うかなあ、今では通用しないことだけど。過労死寸前で仕事していたのは確かなことで、文句も表だって言えず、諦めていたかな。
話は、ずっとずっと先があって、県病→大学→佐伯と地元に帰ってきた。佐伯では、正に、お産の多い小児救急の多い救急病院で、独りで24時間365日8年半余、年間500の新生児・未熟児と毎晩の小児救急で、大学どころの忙しさどころじゃなかった。ホント、初めのまる3年間なんて、休みが1年間に1日もなくて、毎日が当直って感じで、よく体がもったものだと今でも思っている(いつ倒れても不思議でなく、病院側も心配していた)。
で、(19床持っての毎日診療の)8年半余の開業時代が、一番楽だったかな。しかし、採算で苦しんで、潰れたけど。(開業している時に、趣味の基礎が出来たかな?)
で、それから又、勤務医になって、5人で当直をし、それから、又、大分県に帰って、救急病院で2人~3人で小児救急をし、そして、今の職場になっている。
今は、昔のことを考えれば正に天国。来年の3月までで、一応、退職。還暦前で、もう、頑張れない。それでも、今年は、12月27日~1月4日までは、小児科は、全て自分がすることになっている(いつも、年末年始は、している。数が少ないので、さほどきつくないかな)。
ここまで無事に来れているのは、多くの人のお陰。感謝、感謝、感謝、家内孝行も今からしないといけないなあ。
この日、17歳の石川遼選手が、年間1億円を最年少記録で突破した。皆さんのお陰です、自分の技量よりも成績が先に走っている何て言われていた。素晴らしい発言だなあ。彼は、若くして感謝と謙虚さの塊って感じだなあ。見習わないといけないなあ。