俺はワルポンだっ!

ちょいワルおやじを卒業したワルポンの斜め下から見た現代社会

『にほんの里100選・曲川木の根坂』

2009-06-06 16:28:14 | Weblog
ワルポンの車には「クルマルート検索機」いわゆる「ナビ」は付いていません。
「方向オンチ」の方とは違い、昔から方向感覚は良いほうで、あまり道を間違うことはありません。自慢です。

それにナビの感情の無い無機質な女性の声が繰り返されるのも嫌いです。まだ、うちのナビゲーターの方が、時々居眠りをしますけれど、マシです。

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安楽城小学校を後にして、「金山杉」を探し求めてドライブを続けました。

ところが山の道路は、山の尾根が張り出していれば、その山裾を大きく回ったり、川が蛇行していれば、それに沿って曲がりくねったり、前面に山が立ち塞がればトンネルに潜ったり、山や林や深い谷で視界が見通せず、すっかり方向感覚が狂ってしまいました。

道を聞こうにも人が居ません、民家が有りません、標識も見当たりません。
どっちに向いて走っているのか確かめようが無いのです。

しばらく走ると、鮭川村に出ました。
いけない! これは「金山杉」の金山町とは反対の方角に来てしまったのです。
うむ、そうだ! ここ鮭川村には「にほんの里100選」の一つがある・・・

急に思いついて、くだんの御三人様に「金山杉は止めて、里山見物に行こうよ!」と、恐る恐る提案してみましたら、案外あっさりと賛同を頂きました。

でも、里山の名称も、何処にあるのかも知りません。
駅前の観光案内所で聞いてみようと、奥羽本線・羽前豊里駅に行ってみましたが無人駅で、何時来るか判らない列車を待ってたむろしていた高校生がいたので聞いてみたのですが、「知らない」という。

じゃあ、役場か郵便局に聞いてみよう!

駅から2kmほど先の京塚郵便局に飛び込んだところ、判らないという。
でも、ご親切に、役場の産業振興課に電話で聞いてくれました。
「ナビ付いてますか?」、「無い」・・・ じゃあ、と云う事で地図を描いてくれました。

「ここから県道35号線を2kmほど戻り、信号二つ目を左折し県道58号線へ、川を渡り、すぐのT字路を右折、2~3km行ったら、“みやまの里木の根坂”の看板のあるところを右折し県道377号線へ、山道を約10km行った先です。狭くて危険な道ですから気をつけて・・・」と、さすが郵便配達のプロです。

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「にほんの里100選」の一つ、山形県鮭川村にある「曲川木の根坂」(まがりがわきのねざか)、そこには手打ち蕎麦屋があるという・・・楽しみに出発です。

ヘアピンカーブ、乗用車もすれ違えないような細い道で所々に待避所が・・・、急な上り坂・下り坂、切り立った山の斜面に作られた道でガードレールも無く、下を覗くと目もくらみそうな断崖絶壁・・・手に汗、背中に冷や汗を掻きながらの運転です。
少々オーバーですが、A級ライセンス取得者で無いと運転できません。

人っ子一人に会いません。
でも、山菜取りの人たちの車が所々に停められていました。
こんな山奥の曲がりくねった山道が、バス通りとは・・・
まだ日本にもこんな秘境が残っていたのです。

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やっとの思いで「みやまの里・木の根坂」に着きました。
そこには少しばかりの棚田と畑が広がっていました。


うぐいすが、我々を歓迎の意味で、そこかしこで「ホ~ホケキョ」とさえずっています。谷渡りは、まだ上手く出来ないようです。
道端の草むらには、すぐに手一杯採れそうなぐらいにワラビがにょきにょき生えていました。ここまで来なければ絶対に出会えない、正に別天地でした。

でも、手打ち蕎麦屋は開いていません。残念!


一番奥の家の玄関には、地元選出の加藤紘一先生の特大のポスターが硝子戸越しに張ってありました。
家の前の畑で、さやえんどうに竹で手をやっていたおじいさんに「先生の後援会ですか?」と訊ねると、「そうだ。毎年、正月礼に来てくれるよ」と自慢げでした。

閉まっている手打ち蕎麦屋のことを訊ねると、「今日と明日は休みだ」と言う。
曲川小学校・木の根坂分校があったのだが、子供が居なくなってしまったので閉校になってしまったこと、それで校舎で手打ちそばを始めたこと、予約すれば農作業や山菜取りが体験できて体育館にも泊まれることなどを話してくれました。

名にし負う豪雪地のため山を下りた家も多く、今では9戸しか残っていないと云う。
集落は井上一族で、みんな井上性であること、「結(ゆい)」と云われる共同作業でお互いに結束が固く助け合って暮らしていること・・・などと話してくれました。

国道に出る近道がないか訊いたら、「このまま真っ直ぐ走ったら、すぐだ、一本道だ」と言うので、昼も近いので、先へ急ぎました。

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しばらく走ると、バスの終点で、ほんの数戸の深沢という集落に着きました。
集落を過ぎて真っ直ぐ進むと砂利道になりました。間違ったと思って戻り、枝分かれしている道に入ってみても、それは皆行き止まり、夫々の家へ行く道です。

真っ直ぐの一本道ということだったので、再び戻って、さっき真っ直ぐ進んだ砂利道を更に先へと愛車を進めました。
砂利道は、砂利というより石ころ道になってきました。大きな水溜りも出てきたりしましたが、構わず先へ進みました。

車は立て揺れ、横揺れがますます激しくなってきましたが、所々に山菜取りの車が止まっていましたから、安心して、「もうすぐ良い道に出れるぞ!」と自分に言い聞かせながら、どんどんどんどん進みました。
御三人様からは、「何時になったら昼食が取れるのか」とブーイングの嵐です。

でも、スピードは、揺れが激しくて歩く程度の速さしか出せません。この先どうなのか少し心配になってきました。
盛んにさえずるうぐいすの声も耳に入らなくなってきました・・・

やがて、路肩に停めた車の中で昼食をとっている山菜取りの若者を見つけました。
「大きな通りまで、後どのくらいか?」と聞くと、「この先は行き止まりだ」という。

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「ええ~ええっ!」と絶句!

昼飯の為に、近道しているつもりだったのに・・・
方向オンチになってしまったのかなあ?
いえ、単なるボケの始まりじゃないかって・・・

いつものことながら、行き当たりばったりの思い付きのドライブでした。


追伸
御三人様へ
ミステリーツアー/サプライズドライブに、ご参加・お付き合い下さいまして有難うございました。少なからず、不安と不満を与えてしまいまして、誠に申し訳ございませんでした。
(2009-5-19)

『安楽城小学校の思い出』

2009-06-05 22:11:36 | Weblog
昨日は鳥海山の「湯の台温泉・鳥海山荘」に、ご婦人三人と泊まったのです。

今日は午後の2時ぐらいまでに酒田へ帰ればよいとのことで、国道344号を通って金山町へ行き、建築木材として高い評価を受けている「金山杉」の建物や樹齢200年を越す美林を見物してから帰ろうということになりました。

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新緑がまぶしく輝き、フジの花やタニウツギの花が咲き乱れる谷沿いの山岳道路を小一時間ほど進むと真室川町に入りました。民謡「真室川音頭」の真室川町です。

     ♪私ゃ~真室川の 梅の花~こ~りゃ♪
       貴方ま~た この町の鶯よ~♪(はぁこりゃこりゃ)
         花の咲くのを待ち兼ねてこ~りゃ♪
          蕾のうちから通って来る♪(はぁどんとこい どんとこい)

何気なく、ふと道路脇の道しるべを見ると、「安楽城(あらき)小学校」とあるではありませんか。
頭が目まぐるしく回転して、すぐに、半世紀前の記憶が呼び覚まされたのです。
どうしても、その学校を見てみたくなったのです。
ご同行の御三人様の了解を無理やり強引に頂いて、ひんしゅくを買いながら、立ち寄ることになりました。

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小学校6年の昭和31年12月に、「子供銀行」で訪れていたのです。

「子供銀行」というのは、児童の代表が局長になって通帳も発行して、みんなから、お小遣いやお年玉を無駄使いしないで貯金をしてもらい、貯蓄の大切さやその仕組みを学ぼうというものでした。

「安楽城小学校」は、「お隣の小学校」で、当時、「子供銀行」の優秀な運営を行っているということで、4年から6年生の代表が校長先生を先頭に、親共々視察団を結成して訪問したのでした。

もっとも、お隣と云っても、ツキノワグマやカモシカも棲む出羽丘陵の深山幽谷の道無き道を30km以上も挟んでのことですから、歩いては到底行けません。
バスに乗って、汽車(蒸気機関車)に乗り換えて最上川沿いに新庄まで上って、更に奥羽本線に乗り継いでの長旅でした。


校門のところで、卒業生で郵便局員を勤め上げたという一級上の方にお目にかかり、当時の話をいろいろ伺いました。懐かしさで一杯でした。

山里の川の雪解け水は、飽く迄も澄み通り、きらきら光輝いて踊るように流れ下っておりました。


       ☆       ☆       ☆       ☆

ワルポンの卒業した小学校は隣村と統合になり、もうありません。
ワルポンの卒業した中学校も統合され、更に町で1校に再統合され、廃校になりました。
本当に母校が無くなってしまったのです。

ついでに云うと、大学の学科も時代遅れと言う事で再編成されて無くなってしまったのです。
まあ、勉強嫌いには、それも致し方のないことですかねぇ・・・

年甲斐も無く、感傷に浸っていると、御三人様から、「ねぇ!早く金山杉を見に行こうよぅ!」と、現実に引き戻されたのでした。

いつものことながら、行き当たりばったりの思い付きのドライブ行です・・・
(2009-5-19)

『新聞紙』

2009-06-02 19:33:13 | Weblog
新聞で一般紙の全国紙といえば読売・朝日・毎日・サンケイですよね。専門紙には日経・日刊工業など、スポーツ紙ではスポニチ・報知などがあり、他にも業界紙や政治・宗教関係の新聞あり、ブロック紙では中日・東京新聞などや地方紙・私的な新聞などなど・・・数え切れない新聞が発行されていますよね。

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          【ちょっと汚い話ですみませんが・・・】

先頃、中国へ旅された知人に、その前に行かれた方が「中国ではトイレ事情が悪いので、トイレットペ-パーの芯を抜いてロールをつぶして2個ほど持って行った方が良い」とアドバイスされておられましたが、「持ってって、正に大正解だった」との帰国話を伺いました。

終戦後、物資の無かった日本の田舎でも事情はまったく一緒だったので、よく理解できました。
新聞の取れない家では、天井から余分に長めの太い荒縄が垂れ下がっていて、それにつかまってふんばり、用を足し、その縄の先で拭くのもありました。

「さあ~さあ~お立会い ご用とお急ぎの無い方はゆっくりと聞いておいで・・・ ・・・ 取り出したるは夏なお寒き氷の刃(やいば) 一枚の紙が二枚 二枚の紙が四枚 四枚の紙が八枚 八枚の紙が十六枚 十六枚が三十と二枚 ・・・ ・・・」

新聞の取れるような家では、ガマの油売りの口上よろしく、新聞の見開き一枚を、半分に切り裂き、又、半分、又、半分・・・ 十六分の一の大きさに切り揃えて木箱に重ね入れ、風に飛ばされないように握りこぶし大の平べったい小石を載せてありました。

歴史のある旧家では、使用済みの生紙(きがみ)と呼ばれた和紙を使いました。綴じられた紙縒り(こより)を外し良く揉んでから使うと優しい感触でした。
本当のお金持ちだけが、ちり紙を使えた時代ですが、昭和も30年代に入ると灰色の再生紙のちり紙が世に出て、この分野でも一息ついた感がありました。

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新聞の一面は見出しも大きくトップニュースが載ります。他には朝日の天声人語、読売の編集手帳、日経の春秋などのコラム欄が設けられています。
一面の裏は政治に関するニュース、続いて海外、更には経済、株式欄が続いています。

一番後ろのページの裏側のページは、いわゆる三面記事と云われる社会記事が載っています。事件などのニュース、訃報、「サザエさん」や「ふくちゃん」などの長寿で人気の四コマまんがなどです。

裏側から中ほどに進むに連れて、配達される区域の地方記事、家庭蘭、スポーツニュースが載っています。

掲載の写真は、2009年6月1日夕刊の一番内側の紙面です。
右側のページの右縦半分が無いじゃあ有りませんかっ! ビックリ!

この不景気で広告が集められなかったのかなあ?
それとも広告を集め過ぎて1.5ページ分増えたのかなあ?
それにしても印刷の工程や新聞一部をセットする上で、不都合は無かったのかなあ?

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トイレ用の紙に切ると、これでは12枚しか取れません。
朝日新聞さん! 不足の4枚分どうしてくれるんですかっ?


(冗談ですよ、家ではちゃんとトイレットペーパー使っていますよっ!)