藤沢周平の時代小説に出てくる海坂藩は彼の出身地である庄内藩がモデルと言われています。その城下町・鶴岡はワルポンにとっても第二の故郷なのです。
というのは、学生時代の2年半をこの地で過ごしたからです。
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当時の衆議院議員の選挙制度は中選挙区制で、ここ山形2区は農業が主な産業で、自由民主党3、日本社会党1の保守王国でした。
3人の自民党代議士先生は、城下町鶴岡・田川郡、港町酒田・飽海郡、内陸の新庄・最上郡の3地区をそれぞれに主な地盤としていましたが、一旦選挙になると互いに票田をせめぎ合う選挙戦は戦国時代国盗りの戦(いくさ)さながらの激しいものでした。
日頃から先生方は“金帰月来”で東京と地元を往来し、選挙区を廻り、田んぼに下りては農民に語りかけ、後援会の陳情を受けるなどの顔見世興行が必然だったのです。
したがって、鶴岡の代議士先生も基本は東京暮らしでしたから、平日の地元の自宅は留守番のおばあさんが一人だけ、無用心だということで“電話番・兼・用心棒”の学生アルバイトの募集がありました。
“3食付きの家賃は只”という貧乏学生には取って置きのいい話でした。
当時、柔道部に籍を置いていて、多少腕力には自信がありましたので、早速に応募したところ、柔道が出来るということで、見事採用となった次第です。
そういえば、この時以来、米穀通帳を預けっぱなしかも・・・
いつものように金曜日の夜に帰られた先生を駅まで迎えに行き、護国神社にお参りしました。
ちょうど桜が満開の時期でしたので、「お堀にかかる桜越しの鳥海山を望める鶴岡一の花見の場所へ行こう」とおっしゃり、神社の裏手のお濠端の桜を眺めてから帰宅しました。
自宅には後援会の方々がお見えでしたが、翌朝の夜行列車で帰られる奥様を迎えに行くということで、「先に休みなさい」と言われ、2階に上がって寝ました。
・・・翌朝、奥様が帰られて先生の異変に気付いたのです・・・
当時は今のような葬祭場も有りませんでしたので、高校の体育館での盛大なお葬式でした。
爾来、ご家族の皆様からは今日までご指導を頂いて参りました。
卒業年次になって、酒田に本社のある会社に就職が決まりました。
その会社のオーナーは酒田・飽海地域を地盤とする代議士の城代家老と言われる人物でしたので、お世話になった先生の後援会の幹部からは、「お前は敵の陣営に行くのか」とお叱りを受けましたが仕方がありません。
1996年に小選挙区比例代表並立制になって、この地区は山形3区となり、当然1人区となりましたので、3地域の地盤は一体化し、従来からの対立も解消されたのです。
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お世話になった代議士先生のご子息から、ある日、突然、「庄内館の稲荷神社の社を建ててくれ」と、電話がかかってきました。
庄内出身者の学生寮が駒込の丘の上に建っていました。
木造の寮を建て替えるのだという。
「敷地内に稲荷神社があって、祠にオーナーが寄付した銘板があったので、寮の建て替えに合わせて神社の社も新しくしたいので、今回も寄付してくれ」と云う。
オーナーはすでに他界してしまっていますが、神仏の信仰心の厚い方だったので、断るのも意ではないと思いましたので、事の次第を会社に話し、百万円までの了解を取り付けました。
設計積算は自分で行い、基礎コンクリートは自社生産、台座の石は大谷石、檜の社と廻り柵は蓮田の宮大工に、朱の鳥居は専門業者へ頼み、組立取り付け工事は自社でやり、予算内に収めました。
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あれから6年、内陸の山形県育英会の寮や女子寮、庄内館も含めた学生寮は建て替えられて、公益財団法人やまがた育英会として発展的に統合されたのでした。
これらの事業を立案推進し、無借金で達成されたのが代議士先生のご子息で、初代代表理事に就任されたのでした。
そんな彼も昨年他界され、今般、「偲ぶ会と功績を讃える銘板の除幕式」に、稲荷神社の社建設の縁でご案内を頂き行って参りました。
丘の上の寮へ上る坂は彼によって“庄内坂”と命名されたそうです。
お稲荷さんの御利益(ごりやく)で招かれたのかも・・・
というのは、学生時代の2年半をこの地で過ごしたからです。
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当時の衆議院議員の選挙制度は中選挙区制で、ここ山形2区は農業が主な産業で、自由民主党3、日本社会党1の保守王国でした。
3人の自民党代議士先生は、城下町鶴岡・田川郡、港町酒田・飽海郡、内陸の新庄・最上郡の3地区をそれぞれに主な地盤としていましたが、一旦選挙になると互いに票田をせめぎ合う選挙戦は戦国時代国盗りの戦(いくさ)さながらの激しいものでした。
日頃から先生方は“金帰月来”で東京と地元を往来し、選挙区を廻り、田んぼに下りては農民に語りかけ、後援会の陳情を受けるなどの顔見世興行が必然だったのです。
したがって、鶴岡の代議士先生も基本は東京暮らしでしたから、平日の地元の自宅は留守番のおばあさんが一人だけ、無用心だということで“電話番・兼・用心棒”の学生アルバイトの募集がありました。
“3食付きの家賃は只”という貧乏学生には取って置きのいい話でした。
当時、柔道部に籍を置いていて、多少腕力には自信がありましたので、早速に応募したところ、柔道が出来るということで、見事採用となった次第です。
そういえば、この時以来、米穀通帳を預けっぱなしかも・・・
いつものように金曜日の夜に帰られた先生を駅まで迎えに行き、護国神社にお参りしました。
ちょうど桜が満開の時期でしたので、「お堀にかかる桜越しの鳥海山を望める鶴岡一の花見の場所へ行こう」とおっしゃり、神社の裏手のお濠端の桜を眺めてから帰宅しました。
自宅には後援会の方々がお見えでしたが、翌朝の夜行列車で帰られる奥様を迎えに行くということで、「先に休みなさい」と言われ、2階に上がって寝ました。
・・・翌朝、奥様が帰られて先生の異変に気付いたのです・・・
当時は今のような葬祭場も有りませんでしたので、高校の体育館での盛大なお葬式でした。
爾来、ご家族の皆様からは今日までご指導を頂いて参りました。
卒業年次になって、酒田に本社のある会社に就職が決まりました。
その会社のオーナーは酒田・飽海地域を地盤とする代議士の城代家老と言われる人物でしたので、お世話になった先生の後援会の幹部からは、「お前は敵の陣営に行くのか」とお叱りを受けましたが仕方がありません。
1996年に小選挙区比例代表並立制になって、この地区は山形3区となり、当然1人区となりましたので、3地域の地盤は一体化し、従来からの対立も解消されたのです。
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お世話になった代議士先生のご子息から、ある日、突然、「庄内館の稲荷神社の社を建ててくれ」と、電話がかかってきました。
庄内出身者の学生寮が駒込の丘の上に建っていました。
木造の寮を建て替えるのだという。
「敷地内に稲荷神社があって、祠にオーナーが寄付した銘板があったので、寮の建て替えに合わせて神社の社も新しくしたいので、今回も寄付してくれ」と云う。
オーナーはすでに他界してしまっていますが、神仏の信仰心の厚い方だったので、断るのも意ではないと思いましたので、事の次第を会社に話し、百万円までの了解を取り付けました。
設計積算は自分で行い、基礎コンクリートは自社生産、台座の石は大谷石、檜の社と廻り柵は蓮田の宮大工に、朱の鳥居は専門業者へ頼み、組立取り付け工事は自社でやり、予算内に収めました。
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あれから6年、内陸の山形県育英会の寮や女子寮、庄内館も含めた学生寮は建て替えられて、公益財団法人やまがた育英会として発展的に統合されたのでした。
これらの事業を立案推進し、無借金で達成されたのが代議士先生のご子息で、初代代表理事に就任されたのでした。
そんな彼も昨年他界され、今般、「偲ぶ会と功績を讃える銘板の除幕式」に、稲荷神社の社建設の縁でご案内を頂き行って参りました。
丘の上の寮へ上る坂は彼によって“庄内坂”と命名されたそうです。
お稲荷さんの御利益(ごりやく)で招かれたのかも・・・