【連載】藤原雄介のちょっと寄り道③
魔法の呪文は「五つのア」
台北、台中(台湾)
台湾には1990年から1993年までの4年間駐在した。それまでに、スペインとメキシコに1年ずつ留学、そしてオランダにも足かけ2年駐在している。自他ともに認める西洋かぶれで世間知らずだった私は、台湾駐在を打診されたとき、子供じみた反応をしてしまう。
「台湾なんかイヤ! ヨーロッパがいい!」
噂が広まるのは早い。社内の先輩諸氏から、矢継ぎ早に呼び出されて散々お小言を喰らった。
「お前はアホか? 台北は、酒も飯も美味いし、小姐(シャオチェ)もきれい。そして何より仕事が面白い。誰もが行きたがる台湾を蹴るとはどうかしているぞ!」
上司や先輩諸氏に背中を押され、気持ちを切り替えるしかない。こうして私は台湾に旅立った。
そして、あっという間に4年が過ぎる。利に聡く、抜け目がないように見えてもどこか憎めなくて情に厚い。いつの間にか、そんな台湾の人々が大好きになってしまい、家族ぐるみの付き合いをする友人も何人かできていた。そんなときに本社から帰国の辞令が。
もし、台湾に駐在しなかったとしたら、私は西洋かぶれの気障で嫌味な男であり続けたに違いない。「今もそうだろ!」と友人諸兄からの野次が聞こえてくるようだが……。
「まだまだやり残した仕事があるので、もう少しここに居させてください!」
またまた私は子供じみた駄々をこねてしまう。しかし、そんな我儘が通る訳はない。最初は台湾行きを躊躇していた妻も二人の娘もすっかり台湾の魅力にハマってしまい、皆帰国を嫌がった。
私が勤めていた会社では、台北と高雄の駐在経験者が「台湾マフィア」と人が呼ぶ同窓会のようなグループを形成していた。当時20カ国ほどに海外駐在事務所があったが、歴代駐在員同志の繋がりはさほど強いものではなかった。
では何故、台湾マフィアと呼ばれるような集団が形成されたのか。北京語、台湾語、客家語、日本語、英語が入り混じる摩訶不思議な言語空間。大陸の中国文化、山胞(高砂族)と呼ばれる先住民の文化も。
そして現在の日本人が忘れてしまった古き良き日本文化も残っている。弱きを助け、強きを挫く。勤勉で正直で約束を守る「日本精神(ジップンチェンシン)」だ。
それらが重層的に交錯して作り出す社会が、なんとも居心地がよく、日本人が忘れていた日本人としての誇りを思い起こさせてくれるからではないだろうか。駐在経験者は、そんな、感情・情緒の共有を皆無意識に求めていたのかも知れない。
台湾については、これから何度か書くことになるだろうが、今回は、台湾に駐在するとまず叩き込まれる「五つのア」についてお話しよう。アセラズ、アワテズ、アテニセズ、アタマニキテモ、アキラメズ。この五つが、台湾ビジネスで生き残るための魔法の呪文である。
台湾で仕事をすると、権謀術数渦巻く情報戦に勝ち抜き、契約にたどり着くまでにお客様、コンペティター、エージェントなど様々な人間が入り乱れ、紆余曲折、乱高下を繰り返す消耗戦が避けられない。目出度く契約に辿り着くことができても、台湾で頻繁に耳にする言葉「没関係(メイグアンシ=大したことじゃない、大丈夫、関係ない)」「沒有辦法(メイヨウバンファ=だって、しょうがないじゃん)」の壁に阻まれるので、物事は決められたとおりにはなかなか運ばない。
当然、イライラが募り、悪態をつきたくなる。そんなときに「五つのア」を唱えると、あら不思議、こちらも「没関係、沒有辦法」、「ま、いっか。しょうがないじゃん」の心境になり、元気を取り戻すことができるのである。
台中近辺のあるお客様にプラスチックフィルムを製造する機械(カレンダーマシン)を納入した時のことだ。機械は仕様どおり、納期どおりに納入されたのだが、試運転終了後に支払われる筈のお金をのらりくらりと埒もない理由を並べ立てて払ってもらえない。
駐在してまだ半年も経っていなかった頃だ。社用車でひとり入金の督促に。お客様の工場には、昼前に到着した。蔡董事長(会長=仮名)をはじめ、総経理(社長)、技術部長、それに現場責任者の4人が愛想よく出迎えてくれた。
私は礼儀正しく、しかし毅然として支払い要求の正当性を説き、即刻の支払いを迫った。皆黙って私の話を聴いている。蔡董事長が口を開いた。
「藤原先生、お話はよく分りましたが、もうお昼です。まずは食事に行きましょう。それからゆっくりお話しをしませんか。美味しい餐廳(レストラン)を予約しています」
台湾では、宴会もビジネスの一部だと言われる。陽気に酒を酌み交わしながら、相手の人品骨柄、性格、教養、頭の切れ具合、人脈などを冷静に値踏みする。
私は、乾杯攻撃で撃沈されるのを警戒しつつも、「まずは打ち解けて信頼関係を築くことだ」と健気に自分を鼓舞しつつ昼食会に臨んだ。
田舎にも拘らず結構豪華なレストランの個室に通されると、赤い旗袍(チーパオ、俗にいうチャイナドレス)の美人が現れるではないか。艶やかな微笑みを浮かべて店の副総経理だと挨拶をする。
その時点では、この美人が私を酔い潰すためにお客様が手を回した「乾杯要員」だということに気づいてはいなかった。そこが新米駐在員の悲しさである。
魚の浮袋、アヒルの舌、鶏の足、花咲蟹、伊勢海老、鮑、鴨の旨煮、ツバメの巣のスープ……など山海の珍味が続々とテーブルに並ぶ。
「藤原先生、今日は遠いところにわざわざ足を運んでいただいて本当にありがとうございます。まずはみんなで乾杯しましょう!」
蔡董事長が、金門高粱酒(金門島の高粱を主原料とするアルコール度数58度の蒸留酒)が注がれた小さな杯を挙げる。台湾の作法に則り一気に飲み干す。
「藤原先生、駆け付け三杯です。さ、ぐっとやりましょう」
すかさず、総経理が二の矢を放ってくる。更に、技術部長が私の目を見据えて乾杯を促す。
まだ、料理にはほとんど口を付けていない。せめて何か胃に入れなければ直ぐに酔いつぶれてしまう。前菜に箸を伸ばそうとした矢先、件の美人副総経理が旗袍の裾を翻して現れた。
「藤原先生、さ、私とも乾杯してください」
このような場合、断るという選択肢はない。女性からの乾杯を断るなどまともな男のすることではない。さ、これで一段落。腹ごしらえをしようと再度箸を伸ばしかけると、これまで黙っていた現場監督が控えめに言った。
「私とも乾杯してください」
ここで、一つ補足しておかねばならない。「大家一起来(さ、みんなで一緒に)」と乾杯を提案した者が言わない限り、乾杯は誘った者と誘われた者が一対一で目を合わせて飲み干すのが礼儀だ。つまり、私は既に高粱酒を5杯飲んでいるが、蔡董事長は1杯だけ、他の人たちは2杯しか飲んでいないのだ。
ヤバイ、頭がくらくらする、だんだん気が大きくなってくる。仕事の話は全くせず、冗談で笑い転げながら杯を重ね、宴は進んだ。一度トイレで口に手を突っ込んで吐いてきた。
が、意識は朦朧として倒れる寸前だ。社用車の運転手、蘇さんは、心配そうに私を見ている。運転手が一緒に宴席に着くことは珍しくない。勿論、酒は飲まないが。
▲当時、台湾の宴会ではジャンケンで盛り上がった。右から2人目が筆者
台湾では、食事はみんなで一緒にするものであり、社長も運転手もない、という感覚が強い。こういった風習は台北では、すたれかけてきていたが、地方ではまだごく普通の事だった。
俗に「煙酒不分家(タバコと酒は誰のものでもない、みんなのもの)」といい、タバコと酒は自分が飲む前に人に勧めるのが礼儀だ。勢い、宴席は弥が上にも盛り上がる。
朦朧とし始めた意識の中で、少し残っていた正気をかき集めて切り出した。
「もういい加減にお金を払ってください!」
酔っ払っているのでつい語気を強めてしまう。蔡董事長が答える。
「分かりました。お支払いしましょう。但し、友好の証にみんなでもう一度乾杯しましょう」
「そんな…。私は皆さんの何倍も飲んでいます。もう、無理です!」
「藤原先生、もう、飲めないですと!情けない、あなたはそれでも日本男児ですか! もう一回乾杯したら必ずお金は払います」
蔡董事長は、大日本帝国海軍の軍医だった。表情は柔和だが、態度、言葉の端々に元軍人の片鱗が見え隠れする。
「それでも日本男児ですか!」と詰め寄られれば、飲まない訳には、いかない。ええい、ままよ、と高粱酒を喉ちんこ目掛けて放り込んだ。
その先は覚えていない。気が付いたら、夕闇の中を台北に向かう車の中だった。蘇さんが、心配そうな顔で、ルームミラー越しにこちらを見ている。全く、だらしない醜態を曝してしまったものだ。彼は、優しく諭すように言う。
「藤原さん、気が付きましたか。台湾では、今日みたいなことはよく起こります。気を付けてくださいね」
蘇さんの言葉は優しいがその裏で、「やれやれこの新米駐在員、これからいったいどうなることやら」と懸念しているのがありありと伝わってきた。数日後、残金はきちんと会社の口座に振り込まれた。因みに、上記の会話は総て日本語である。
あれから、もう30数年が経つ。日本語を第一言語として話し、「日本精神」を胸に抱き続けてきた世代の人々は、数少なくなってしまった。
「アセラズ アワテズ アテニセズ アタマニキテモ アキラメズ」
私は、今でも壁にぶつかるとこの呪文を唱える。読者諸賢も、日常生活の小さなストレスや世の中の理不尽さにため息をつくとき、仕事で行き詰った時などに試してみてはいかが。ネバーギブアップ (Never give up!)などという昨今流行りの単純な外来語より、「五つのア」は効きますぞ。
▲IHI台北事務所。左端が筆者、右端が運転手の蘇さん
【藤原雄介(ふじわら ゆうすけ)さんのプロフィール】
昭和27(1952)年、大阪生まれ。大阪府立春日丘高校から京都外国語大学外国語学部イスパニア語学科に入学する。大学時代は探検部に所属するが、1年間休学してシベリア鉄道で渡欧。スペインのマドリード・コンプルテンセ大学で学びながら、休み中にバックパッカーとして欧州各国やモロッコ等をヒッチハイクする。大学卒業後の昭和51(1976)年、石川島播磨重工業株式会社(現IHI)に入社、一貫して海外営業・戦略畑を歩む。入社3年目に日墨政府交換留学制度でメキシコのプエブラ州立大学に1年間留学。その後、オランダ・アムステルダム、台北に駐在し、中国室長、IHI (HK) LTD.社長、海外営業戦略部長などを経て、IHIヨーロッパ(IHI Europe Ltd.) 社長としてロンドンに4年間駐在した。定年退職後、IHI環境エンジニアリング株式会社社長補佐としてバイオリアクターなどの東南アジア事業展開に従事。その後、新潟トランシス株式会社で香港国際空港の無人旅客搬送システム拡張工事のプロジェクトコーディネーターを務め、令和元(2019)年9月に同社を退職した。その間、公私合わせて58カ国を訪問。現在、NHK俳句通信講座講師を務める夫人と白井市南山に在住し、環境保全団体グリーンレンジャー会長として活動する傍ら英語翻訳業を営む。