
【気まま連載】帰ってきたミーハー婆㉚
クリスマスを前に
岩崎邦子
「メリー・クリスマス!」
と、ニコニコ笑顔の男性から大きな声で話しかけられた。時は11月の初旬。といっても、35年も前のことである。米西海岸のロサンジェルスに住み始めて間もない、アパートのエレベーター内での出来事だ。
びっくりした私は少し頭を下げ、小声で「メリークリスマス」と、やっと返答をした。手には鍵束をしっかり握りしめて、何かされそうなら、その男の顔をそれで引っ掻く用意もしていた。
今考えれば、駐在先の住まいは、安全な街の中である。屈強なドアマンもいる所だったので、無用な心配であったのだが。
陽気な男性は「ジャパニーズ・レディ?」などと言いながら、「グー!」などとも言っている。ろくに会話も出来ない私だが、短い時間の中で「もうすぐ、クリスマスがやってきて、良い季節になった…」と、言っていることは理解できた。
夫がアメリカ勤務になった当初は、娘が高校3年生であったため、進路が決まるまでは、ニューヨークで単身赴任であった。娘は市ヶ谷のキリスト教の学校に通っていたが、先生の勧めもあって日本の大学より、留学するほうがベターなのでは、となった。
TОEFLの試験を受けて英語の実力を調べ、ニューヨーク近辺で、日本人の生徒が少ない学校を知人に紹介して頂き、入学準備も整った。やれやれと一安心となった矢先に、夫はロサンジェルスの転勤となった。
まぁ、そんなこんな、があった中、私は夫の元に行くことになった。当時は日本の景気も良かったし、人種のるつぼとなっているため、アメリカでの生活において、注意すべき点、危険からの回避の仕方などを本で調べたりした。
今思えば、笑ってしまうことが幾つかあった。靴の底には20ドル紙幣を忍ばせておき、何かあったらそれを差し出すことで、身の安全が保てる、とか、部屋の鍵も一種の武器になるとか、だ。
前置きが長くなってしまったが、アメリカ人には殊の外クリスマスの行事には熱が入っている。が、暖かくて居心地の良い季節が続くロサンジェルスでは、場違いな気分がしてならなかった。
娘はニュージャージー州の大学を留年することなく、無事に卒業した。私たちは日本へ戻ったが、その頃は、帰国子女の日本での就職は難しい(自己主張がしっかり出来ることを学んだことは、小生意気で扱いにくい)と言われ、ニューヨークで会社勤めをすることになった。
後に結婚もしたことで、日本に帰る気持ちはすっかり失せたようだ。娘が長女を出産したのは、12月14日であったが、私は年末・年始の諸々の用を済ませて、駆け付けることに。
正月明けにやっと、ニューアーク空港に着くと、生後間もない孫娘をベビーバスケットに入れて、ひょいひょいと私を迎えに来てくれたことに驚いた。お産は病気ではないので、病院は48時間で出なければならない。その後は、平常の生活をするのが当たり前なのだという。
そうしたことに、驚きもしたが、空港内にはクリスマスツリーの飾り付けがあり、車から見る家並みの中にも、クリスマスの雰囲気がまだまだ残されていて、日本との大きな違いを実感させられた。
孫たちが幼かった頃は、娘家族の元に私は一人で行くことが多かったが、それは秋から冬にかけてが多く、30日から50日位は滞在した。ある時は日本語学校の運動会だったり、リンゴ狩りだったり、ハロウィーンだったりを、娘家族と楽しんだ。
マンハッタンまで出かけ、ミュージカルの「コーラスガール」「ライオンキング」などは、英語の言葉が分からなくても、歌やダンスの迫力に感激したものだ。
ロックフェラーセンターのクリスマスツリー点灯式にも、一度連れて行ってもらった。この点灯式は、11月下旬か、12月初旬で、サンクスギビングデー(感謝祭)翌週の水曜日に行われる。
孫たち、小柄な私、周りには大きな人ばかりの中で埋もれそうになる中、超長身の婿さんに、ヘルプされながらであった。カウントダウンと共に、電飾も見事なツリーに点灯された途端に、人々の歓喜に満ちた声と笑顔で埋め尽くされた。
娘が住んでいるのは東海岸のニュージャージー州プリンストン市。大半の家は室内にツリーを飾っていたようだ。モミの木を栽培している農家に行って自分の家にあった大きさの木を購入する。
星やリボン、サンタ、靴下、雪の結晶、電飾など、思い思いのオーナメントでツリーを飾り付ける。送られて来たクリスマスカードは、部屋の一角にピンで留め置き、親戚や友人からのプレゼントは、その木のまわりに置き、クリスマス当日に開く。
小さい子供達にはパソコンでサンタさんの動向を見ることが出来る。フィンランド上空をトナカイで出発したとか、今はどの国の上空辺りを走らせているとか……。やはり、「メリー・クリスマス!」は寒さの中で聞く方が、ピンとくる。
孫たちも大きくなり、娘も仕事をしているので、久しくアメリカへ行くこともない。日本の我が家でも、クリスマスが近づくとアメリカで買い求めた、クリスマスグッズを飾ったりもしていた。都内の有名各所では、競ってクリスマスツリーの飾りをし、点灯のカウントダウン風景が放映される。
近隣の家でもシーズンが来ると、電飾を家の周りに廻らせている所があり、点灯される時間になって見物に出かけることもあった。
テレビもクリスマス特番・クリスマスソングで、賑やかに心躍らせる番組を放映する。デパートやスーパーマーケットに行けば、『ジングルベル』が鳴り響き、いやが上にも、心が踊らされたものだった。
ここしばらくは世界中にコロナ騒ぎの恐怖が吹き荒れているせいか、クリスマスのための行事が薄れている気がする。お店でのクリスマス商魂のクリスマスソングも、耳に入ってこないと思うが。いや、私が年を重ねてしまって、もう、それらの賑々しい気持ちがすっかり萎えているからか?
アメリカの娘の家でもツリーは部屋の片隅に置いたが、飾りも半分くらい。気分はやはり盛り上がらないようである。プレゼントするにも郵送料の値上げが響いていることも、痛手になっているとか。
つい最近のニュースによると、全米野球記者協会・ニューヨーク支部主催の晩さん会は、開かれない。なので、オミクロン株&ロックアウトが影響し、エンゼルス大谷の来年1月に予定されていたМVPスピーチは中止に。
娘が曰く、ニューヨークでもオミクロン株は猛威を振るっているが、日本のような水際対策がされていないことが、感染者の増大に拍車をかけている、と。
娘家族は、孫も含め、3回目のワクチンをクリスマス前に打ったという。
日本の私達高齢者も、いずれ3回目のワクチンが奨励されて打つことになるだろう。
クリスマスソングも幾つか思い当たるが、気分は『ジングルベル』や『ホワイト・クリスマス』でもない。私は、クリスチャンではないけれど、コーラスでも歌う曲が胸に響く。
♪あら野の はてに 夕日は落ちて たえなるしらべ 天よりひびく……
♪諸人 こぞりて むかえまつれ 久しく待ちにし 主はきませり……
【岩崎邦子さんのプロフィール】
昭和15(1940)年6月29日、岐阜県大垣市生まれ。県立大垣南高校卒業後、名古屋市でОL生活。2年後、叔父の会社に就職するため上京する。23歳のときに今のご主人と結婚し、1男1女をもうけた。有吉佐和子、田辺聖子、佐藤愛子など女流作家のファン。現在、白井市南山で夫と2人暮らし。白井健康元気村では、パークゴルフの企画・運営を担当。令和元(2018)年春から本ブログにエッセイ「岩崎邦子の『日々悠々』」を毎週水曜日に連載。大好評のうち100回目で終了した。