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インディオの家に泊まった 【連載】藤原雄介のちょっと寄り道⑭

2023-07-22 05:30:09 | 【連載】藤原雄介のちょっと寄り道

【連載】藤原雄介のちょっと寄り道⑭

インディオの家に泊まった

プエブラ(メキシコ)

 

 

 首都メキシコシティの東南東100キロに位置するプエブラは、コロニアル様式の美しい街だ。私は1978年から1979年にかけて日墨交換留学生として、プエブラ州立大学でラテン・アメリカ経済を勉強した。当時のラテン・アメリカ経済を表すジョークを紹介しよう。「ラテン・アメリカは明日の国々だ! だけど、きっと明日はない!」

 プエブラの歴史は、1532年に遡る。スペイン人宣教師がある夜、天使が現れる夢を見た。天使が宣教師に「ここに街を作りなさい」とお告げをしたという。天使の言うことには逆らえないので、宣教師は街の建設に着手した。こうして街が完成し、「天使の街プエブラ(Puebla de los Angeles)」という別名でも呼ばれるようになった。
 プエブラの旧市街と近郊のチョルーラ遺跡は、世界遺産にも登録されているので、遺跡好きならご存じかもしれない。チョルーラには、スペイン人が破壊したアステカ時代の大神殿の遺構がある。
 スペイン人は、チョルーラに限らず、先住民のあらゆる神殿を破壊し、その上にキリスト教の教会を建て、スペインとキリスト教の威光を誇示しようとした。教会は美しく、素晴らしい建物だが、その下に眠る先住民の神殿を思うと、やりきれぬ思いがこみ上げてくる。
 
 ところで、この文のタイトルに「インディオ」という言葉を使ったが、現在のメキシコでインディオは差別用語である。今では、先住民のことを「インディヘナ」と呼ぶ。
 ちなみに、メキシコの人種構成は、60%が混血(Mestizo)、インディヘナが21%、そしてスペイン系を主とするヨーロッパ系が18%。別の統計では、47%のメキシコ人が自分はヨーロッパ系の子孫だと答えているのだそうだ。
「メキシコに人種差別はない」
 そう言われているが、実際は違う。人種による経済格差は甚だ大きい。多くのインディヘナは、貧しい生活を強いられているのが現状だ。
 Juan(フアン)もインディヘナの一人である。フアンは湖で魚を獲り、それを燻製にしてプエブラの市場で売って細々と生計を立てていた。私より5、6歳は若い。自動車の排ガスがもうもうと立ちこめる市場通りで、「どこで魚を獲ってくるの?」と私が訊いたのが、彼と知り合うきっかけだった。
「今度、家に遊びに来ないか?」
 たまに言葉を交わすようになったある日、プエブラ近郊の小さな村に住んでいた彼から突然誘われたのである。普通、留学生がインディヘナの物売りと知り合う機会など滅多にない。
「行く、行く!」
 私は、嬉々として即答した。
 
 こうして一日に数本しかないバスに乗ってフアンの家に到着した。友人のアレハンドロも一緒だ。アドベ(日干しレンガ)で作った壁に藁屋根の粗末な家だった。そんな家にフアンは両親と可愛いお嫁さんのAnamaria(アナマリア)の4人で暮らしている。貧しいが、温かく素晴らしい家族だ。インディヘナ特有のはにかんだ表情を浮かべながら精一杯もてなしてくれた。
 フアンが獲ってきた魚をお母さんが燻製にする。家には辛うじて電気は通っているが、水道はない。井戸水を使う。風呂もある。庭先にアドベ(日干しレンガ)で作った小さなカマクラの様な形をした蒸し風呂だ。
 鶏、ウサギ、山羊、七面鳥を飼っていた。私の為にウサギを一羽解体するという。フアンは、ウサギの腹を切り裂いてから、
「ジュスケ(ユウスケのスペイン語読み)、あとは自分でやってみる?」
 と挑戦的な目をして言う。
 一瞬、躊躇したが、彼からナイフを受け取り、ウサギをさばいた。指先に伝わるヌメヌメとした内臓の感触。ムワッと立ちこめる血の臭い……。吐きそうになりながらも、フアンの指示に従って、なんとか最後までやり遂げた。命をいただくとはこういうことなのか。胸の中で手を合わせた私である。

 その夜の食卓には、ウサギを塩、唐辛子、そしてメキシコ料理に欠かせないシラントロ(コリアンダー)で煮込んだシンプルな料理が供された。脳裏に浮かぶ解体時のイメージを払拭しながら、「ゴメンね…」とつぶやき、骨付きのウサギの肉を恐る恐る口に運ぶ。命をいただいているという実感が込み上げてくる。悲しいことに、とても旨かった。

 

▲フアンの家族と煙に燻された部屋で。右からフアンの父親、母親、フアン、筆者、アレハンドロ(筆者の友人)、アナマリア

▲お母さんが土間で魚を燻製にする

 
「湖に仕掛けた魚の網を引き上げないといけないんだ。一緒に来るかい?」
 食事が終わってから、フアンが私とアレハンドロを誘う。面白そうだ。同行したのは言うまでもない。
 私たちを乗せた小船がゆっくりと湖上を進む。しばらくすると、蚊の大群が襲ってきた。フアンはタバコをくわえ、私にも吸えと言う。
「蚊が多いだろ。蚊を追っ払うにはタバコの煙が一番。ガンガン吸えよ!」
 へー、そうなのか。
 ここはメキシコの田舎である。キンチョーの蚊取り線香など売ってはいない。血に飢えた蚊は獰猛で、顔や耳、手など露出しているところ目がけて容赦なく襲ってくる。当時喫煙者だった私は、タバコをひっきりなしに吸うことに。タバコの煙の効果は多少あったようだが、慌ててタバコを吸い続けたせいで、気持ちが悪くなってしまった。

 翌日も刺激的だった。
 目覚めるのが遅かったので、フアンのお母さんが作った淡水魚(名前は聞き漏らす)の燻製とトルティージャ(トウモロコシの粉で作った生地を薄くして焼いたもの)を朝昼兼用の食事として平らげた。淡水魚の燻製は、臭いのではないかとあまり気乗りはしなかったが、食べてみると思いのほか旨かった。

 しっかり腹ごしらえができたところで、散弾銃を持ってサボテンが散在する荒野へ向かう。野ウサギ狩りに出かけたのである。ピストルはおろか、空気銃も撃ったこともないので、最初は緊張したものだ。が、何発か撃つと、ベテランの猟師になった気分になったから不思議である。もう何発か撃つと、あたかもメキシコ革命の英雄、パンチョ・ビリャの魂が乗り移ったような高揚感に襲われた。単純な男である。

 残念ながら、ウサギは一羽も仕留めることができなかったけれど、フアンから糞の形状と乾燥具合、足跡から動物の種類や行動を読み取る方法を教えてもらうなど、初めての狩猟経験は、とてもワクワクするものだった。散弾銃を撃ったのは、後にも先にもこのときだけだが、発砲の瞬間、肩にかかる衝撃の強さを今でも覚えている。

 フアンとその家族と過ごした一泊二日の短い時間は、私にとって、忘れることのできない貴重な体験だった。その後もフアンとは市場で何回か顔を合わせたが、相変わらず言葉少なく、はにかんだ微笑を浮かべるばかり。フアンは今、どうしているのだろうか。野ウサギ狩りで使った赤い紙の散弾実包の殻は記念に持ち帰り、世界中で集めたガラクタの中に埋もれている。

 

▲散弾銃で野ウサギを狙う。肩に掛けているのは、マチェテと呼ばれる山刀

▲メキシコ革命の英雄、パンチョ・ビリャになった気分だ

 

 

 

  

【藤原雄介(ふじわら ゆうすけ)さんのプロフィール】
 昭和27(1952)年、大阪生まれ。大阪府立春日丘高校から京都外国語大学外国語学部イスパニア語学科に入学する。大学時代は探検部に所属するが、1年間休学してシベリア鉄道で渡欧。スペインのマドリード・コンプルテンセ大学で学びながら、休み中にバックパッカーとして欧州各国やモロッコ等をヒッチハイクする。大学卒業後の昭和51(1976)年、石川島播磨重工業株式会社(現IHI)に入社、一貫して海外営業・戦略畑を歩む。入社3年目に日墨政府交換留学制度でメキシコのプエブラ州立大学に1年間留学。その後、オランダ・アムステルダム、台北に駐在し、中国室長、IHI (HK) LTD.社長、海外営業戦略部長などを経て、IHIヨーロッパ(IHI Europe Ltd.) 社長としてロンドンに4年間駐在した。定年退職後、IHI環境エンジニアリング株式会社社長補佐としてバイオリアクターなどの東南アジア事業展開に従事。その後、新潟トランシス株式会社で香港国際空港の無人旅客搬送システム拡張工事のプロジェクトコーディネーターを務め、令和元(2019)年9月に同社を退職した。その間、公私合わせて58カ国を訪問。現在、白井市南山に在住し、環境保全団体グリーンレンジャー会長として活動する傍ら英語翻訳業を営む。


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