【連載エッセー 】岩崎邦子の「日々悠々」㊸
「お母さん、無事生まれたよ、女の子だよ」
アメリカから娘本人が電話をしてきた。出産から何時間も経っていない様子だ。
「うわ~、良かったねぇ!」
と言ったものの、まさか本人が知らせてくるとは……。
今から20年も前の話である。
娘の出産予定日は12月半ばだった。アメリカでは一大イベントのクリスマスが直前で、日本も暮れが迫り、何かと忙しい頃である。出産の手助けをするには、なんとも動きが取りにくい。初産ともなれば、妊婦は出産の前から実家に帰り、産前産後を母親が手助けをするのが当たり前の時代だった。もしかすると、今も日本ではこの習慣は残っているかも。
しかし、娘は帰国をせず、アメリカで出産をした。陣痛で入院し、出産後は48時間で追い出されるようにして退院である。嬰児をゆりかごに入れ、車で自宅に帰るのが普通だ。その後の生活の買い物や家事は通常通りに過ごすのがアメリカ流である。
とはいえ、赤子の世話はなにしろ初めてのことばかり。娘は心細く大変な思いをしたにちがいない。命名はファーストネームを娘夫婦で考え日本人らしい名前にしたが、ミドルネームは私に任されて英語で花の名前を考えた。
孫が誕生してから私がアメリカの娘の所に行ったのは、年も明けた1月5日のことである。ニュージャージー州にあるが、ニューヨークに近いニューアーク空港には婿と娘が迎えに。もちろん赤ちゃんの孫はゆりかごに入れてきている。こんな小さなうちから、車に乗せられて連れまわされることが、当時の私には心配であったが、この地では当たり前のことらしかった。
娘の家に着いてやっと、日本人の母親らしく娘の家事の手助けをすることになった。と言っても、食事の支度することが大半である。赤子の沐浴は午後の暖かい時間にするが、日本ではやかんで湯を沸かし、たらいに水を入れ、湯加減を見ながらしたものだ。ここはバスタブの横に大きめの洗面台があり、何とも都合の良いもので、湯加減も排水も娘は慣れた手つきで、楽々とこなしていた。
日本では産後の1カ月くらいは、無理をせず過ごすのが当たり前だが、ここはアメリカだ。何か辛かったことはなかったのか。アメリカではクリスマスになると、家族や兄弟姉妹全員が集まるのが通例だという。娘のところも例外ではなく、大勢が集まった。出産は病気ではないのだからと、誰もが平然としていて、「特に気遣われることもなかった」というではないか。体格が違う人たちとは、理解度が異なるようだ。
話は飛ぶが、次女が生まれたのは2年後の夏だったので、長女の面倒もみるために私は予定日の前から娘の家で待機していた。出産後、やはり早々と自宅に帰ってくる。婿さんの両親が生後3日目の赤ん坊を見にやってきた。豪放で体格も立派な舅は「キュート!」を連発しながら、ひょいと抱きしめてくれるのだが、首も座らない赤子の次女はぐらぐらと頭が揺らされている。首を手で補助しながら抱いて欲しいと思う私は、はらはらしながらその姿を見つめるほかなかった。姑はじめ婿さんもにこにこと笑っている。新生児への接し方も、やはりお国の違いなのか。
今夏もアメリカから娘やすっかり大きくなった孫が我が家にやってきた。忙しくしている中で、孫たちの小さかった頃のことが、次々と思い出される。(次週につづく)