【連載】藤原雄介のちょっと寄り道㉞
防弾ガラス越しに見た街
ボゴタ(コロンビア)
▲コロンビアの地図
▲ボゴタのボリバル広場
▲どこにでもあるオフィス街だが…
プラント・エンジニアリング企業の業界団体が組織した調査ミッションの一員として、コロンビアとメキシコを訪れたのは、今から20年前のことである。「中南米諸国に対する我が国プラント業界の市場戦略と競争力の課題調査」。それが私たちの仕事だった。
コロンビアでは当時、1960年代から政府軍、左翼ゲリラ、極右民兵の三つ巴の内戦が50年以上も続いていた。80年代から90年代には麻薬戦争による暴力が横行していたので、世界で最も危険な国の一つと言われたほどだ。
私たちが当地を訪れる2年前、日本人が被害にあっていた。2001年2月22日、自動車部品大手、矢崎総業の現地合弁会社「矢崎シーメル」副社長、村松治夫さん(当時52)がボゴタ市内で拉致されたのである。結局、村松さんは悲劇的な最期を迎えることになるのだが……。
このようにゲリラ活動の活発化で外国からの投資は減る一方である。富裕層も国外に逃げてしまった。ゲリラによる高圧電線の破壊などで、インフラの損失は年間数億ドルにも達していたのである。失業率は実質、40%とも言われていた。
そんな時期に、私たち6人の調査団が首都ボゴタに乗り込んだ。2泊3日の滞在で、調査のために6つの役所や銀行などを訪問したのだが、治安上の理由で自由に街を歩くことが許されない。当然、ボゴタの街の印象が殆ど記憶に残っていないのである。
移動は総てJBIC(国際協力銀行)のボゴタ駐在事務所が手配してくれた。私たちが乗せられたのは、物々しい装備の防弾車両だ。目的地の建物に横付けすると、先ず自動小銃を構えたボディーガードが歩道に散開する。
鋭い目を周囲に目を走らせて安全を確認すると、車内で待機している私たちに、「早く建物に入れ!」と目配せするのだ。まるでアクション映画そのものである。
小走りで建物に駆け込むと、そこには空港の手荷物検査場と同じ設備が供えられていた。検査員が、中身をあらためたバッグはX線検査装置に吸い込まれてゆく。私たちも金属探知ゲートを潜らなければならない。
「いくら何でも大袈裟過ぎませんか?」
と、私はJBICの駐在員Kさんに尋ねた。
「本当に面倒くさいですよね。でも、ボゴタの街では、これが日常なんです。早く治安が回復することを祈るばかりです」
生真面目な表情で答えるKさんだった。
▲防弾車両のドア
いずれにしても、防弾車に乗ったのは、後にも先にもこの時だけである。
防弾車はドア内やボディの内側に、強固な特殊鋼板や防弾チョッキにも用いられるケブラーやアラミド繊維の複合材などを隙間なく貼られている。銃弾がもつ運動エネルギーを吸収することで、銃弾や爆弾の破片が車内まで届かないようにする構造だ。
窓ガラスは、ガラスとポリカーボネートが多重に積層された厚さ5cm以上にもなる防弾ガラスで銃弾を受け止める。そのほか燃料タンクも補強され、燃料の流出を防ぐ機能も付加されている。
タイヤも特殊な構造だ。たとえ銃撃されて空気が抜けても、構造体のみで車重を支えて走れるというランフラットタイヤが装着されていた。
普通の車と比べると、防弾車には1000kgほど重量が増加する。重い防弾ガラスを開閉するためにパワーウィンドウのモーターの強化も必要であり、重くなったドアを支えるヒンジも強化され、軽く操作できるように開閉補助機構が備えることもある。
私が乗った防弾車のドア開閉には、大変な力を要した。開けるときは、ドアに身体を預けるようにして押し、閉めるときは両手でドアハンドルを思い切り引いた。車両が重くなった分、加速の際、エンジンが喘いでいる様に感じられた。
Kさんは、「早く治安が回復することを祈るばかり」と言ったが、そんな彼の願いも虚しく、コロンビアの治安が回復には、長い年月がかかることになる。
さて、誘拐された村松さんはどうなったのか。
誘拐グループはその後、村松さんを極左ゲリラ組織のコロンビア革命軍(FARC)に引き渡した。そして各地を転々と移動させられたようだ。FARCは2700万ドル(当時のレートで30億円)に上る身代金を要求していたという。しかし、解放交渉は難航していた。
そして2003年11月24日、北西部のサンフアン・デ・リオセコ近郊で銃殺体が見つかる。村松さんの亡骸だった。誘拐されてから2年9カ月後の残念な結末である。
このニュースは、日本でもかなり大きく報道されていたので、ご記憶の方もいらっしゃるだろう。しかし、現地の雰囲気を知る私たちにとっては、けっして他人事とは思えなかった。大きな衝撃を受けたものである。私が訪れた2003年には、村松さんも含む3万5000人が殺害され、3500人が誘拐されるという、まさに異常事態であった。
コロンビアのコーヒー豆の生産は、ブラジル、ベトナムに次いで世界第3位だ。日本への総輸出額の40%はコーヒー豆が占めている。私は酸味が少なくて苦みが際立つコロンビアコーヒーが大好きだ。
もう20年以上も前だろうか、テレビでコロンビアコーヒーのコマーシャルが頻繁に流れていた。ソンブレロの男が、コーヒーの香りを嗅ぎながら’Uuum, café de Colombia!’とウットリつぶやくヤツだ。
幸いなことに、2016年以降、コロンビアの治安は回復傾向にあるという。あのコマーシャルのような、のどかな風景が現実のものとなっていることを願うばかりだ。
【藤原雄介(ふじわら ゆうすけ)さんのプロフィール】
昭和27(1952)年、大阪生まれ。大阪府立春日丘高校から京都外国語大学外国語学部イスパニア語学科に入学する。大学時代は探検部に所属するが、1年間休学してシベリア鉄道で渡欧。スペインのマドリード・コンプルテンセ大学で学びながら、休み中にバックパッカーとして欧州各国やモロッコ等をヒッチハイクする。大学卒業後の昭和51(1976)年、石川島播磨重工業株式会社(現IHI)に入社、一貫して海外営業・戦略畑を歩む。入社3年目に日墨政府交換留学制度でメキシコのプエブラ州立大学に1年間留学。その後、オランダ・アムステルダム、台北に駐在し、中国室長、IHI (HK) LTD.社長、海外営業戦略部長などを経て、IHIヨーロッパ(IHI Europe Ltd.) 社長としてロンドンに4年間駐在した。定年退職後、IHI環境エンジニアリング株式会社社長補佐としてバイオリアクターなどの東南アジア事業展開に従事。その後、新潟トランシス株式会社で香港国際空港の無人旅客搬送システム拡張工事のプロジェクトコーディネーターを務め、令和元(2019)年9月に同社を退職した。その間、公私合わせて58カ国を訪問。現在、白井市南山に在住し、環境保全団体グリーンレンジャー会長として活動する傍ら英語翻訳業を営む。