■歴史読物■
▲川瀬巴水・作「池上本門寺」
【連載】池上本門寺と近代朝鮮
東京都大田区の池上本門寺は、身延山と並ぶ、重要な日蓮信仰の本山だ。この池上本門寺こそ近代朝鮮と意外に大きな関係を持つ寺院なのである。本堂がある小高い山につながる96段の石段は美しい。「昭和の広重」と呼ばれた版画家、川瀬巴水もこの石段を描いたほどだ。この石段を寄進したのは、豊臣秀吉の朝鮮征伐に従軍し、虎退治で有名な戦国武将の加藤清正である。清正の武士道精神を慕って日本についてきた朝鮮人がいた。名を「金宦」という。清正が亡くなると、金宦はその恩義に報いようと殉死する。二人の墓は熊本市の本妙寺にあるが、池上本門寺には近代朝鮮と関係の深い7人の墓がある。一体、誰が眠っているのか。そこには意外な人物が…。
▲日本統治時代の朝鮮全図
■第6回■アメリカの落とし穴にはまった国士
児玉誉士夫 (こだま よしお 1911~1984)
田中秀雄 (近現代史研究家)
昭和51(1976)年早々に発覚したロッキード事件は、得意の絶頂にあった児玉誉士夫を完璧に叩きのめしたスキャンダルであった。児玉は外国企業からの巨額のわいろを手にし、脱税と外国為替取引法違反をしたとして起訴された。かつて「国士」と呼ばれた名声は地に落ち、右翼青年が児玉の自宅(東京・世田谷)をセスナ機で襲う特攻自爆テロに及んだ。
ロッキード事件は戦後最大の汚職事件ということになり、マスコミによる児玉叩きは空前のものとなった。この後、児玉は政治活動をすることが完全にできなくなり、失意のうちに昭和59(1984)年に亡くなった。
まさに彼は昭和の時代を政治運動家として駆け抜けた人物だった。児玉を右翼の総帥、政界の黒幕、薄汚れた特殊工作機関の親分、といったマイナスのイメージで思い浮かべる人々は今も多いだろう。しかし児玉と縁の深い池上本門寺の境内を歩くと、こうした腹黒いイメージの児玉とは全く違う、人間的な優しさに満ち溢れた児玉誉士夫の匂いが漂ってくるのである。
本門寺は昭和20(1945)年4月15日の大空襲により、境内の大部分を焼失した。城南大空襲という。戦後の再建には長い時間が必要だった。鐘楼の再建は昭和39(1964)年で、その折の檀家総代は児玉誉士夫である。児玉が鐘楼の再建に全面的に貢献していたことが空襲で壊れた鐘の説明版に書かれている。
また境内には、箒を持って掃除している首をかしげた小僧さんの可愛い石像がある。台座には「裏を見せ表を見せて散る紅葉」という良寛の句が彫られている。字は児玉誉士夫の愛妻の安都子である。彼女は俳句をよくしていた。
児玉誉士夫は生前に墓を作っている。交通事故で妻がわずか40歳で亡くなった昭和35(1960)年6月から間もない頃らしい。墓の一角には「釣人の主を思ふ夕時雨」という安都子の句碑が立っている。「釣人」は夫のことである。児玉は政治を忘れることのできる釣が好きだった。その夫が雨に濡れていないかと案じる妻の思いがこの句には込められている。
優しい愛妻が児玉にとって唯一のやすらぎであったことは、安都子の句も収めた妻への追悼文集である『はなふさ』(非売品)にある「妻と共に」を読んでも分かる。妻の死は児玉にはつらいものであった。「梅雨暗く涙も涸れぬ妻逝けり」「その後の空しき庭や蝉しぐれ」という句を児玉は残している。かけがえのないものを失った者の悲しみが切ない。句が作られたのは、彼もその渦中にあった60年安保で日本中が騒然としているときなのだ。
政治運動家としての児玉誉士夫の生涯を、この小文でまとめることなどできるものではない。韓国に関することだけを要約してみよう。
児玉の政治運動は昭和の初期に始まるが、昭和10(1935)年までは国家社会主義運動家の時代である。牢獄体験を経て、支那事変が始まった昭和12(1937)年からは大陸が舞台で、アジア主義者としての側面が強い。対英米の戦争が始まってから終戦までは、いわゆる児玉機関の時代である。戦後が政治のフィクサー時代となる。
支那事変後に彼は石原莞爾との接触があり、その関係で東久邇稔彦王、辻政信、田村真作、繆斌ら東亜聯盟関係者と親しく付き合っている。石原の率いる東亜聯盟は、日本、満洲国、中国が経済と国防は共同、政治はそれぞれ独立して提携することを目的としていた。この運動には朝鮮人にも共鳴する人が少なくなかった。戦後、在日本韓国民団の団長を務めた曺寧柱、権逸といった人たちが代表的である。
児玉も少年の頃の孤独な放浪時代に朝鮮半島で暮らしたことがあり、行き倒れになっていたところを朝鮮人農民に救われた体験を回想録に書いている。朝鮮人に親しみを持っていたことは確かである。戦後こうした人々と親しく交際するベースはあった。力道山との交友もその一つである。
戦後、日本から独立した朝鮮は38度線で共産主義と自由主義、南北二つの国に分かれた。実はこの構図も日本国内であった。北朝鮮派と南朝鮮派がお互いに対立し、抗争する時代が長く続いたのである。これは市街戦さながらに、朝鮮戦争に先駆けて始まった。曺寧柱、権逸と言った人たちも、この闘争に巻き込まれている。
昭和25(1950)年、朝鮮戦争が始まると児玉はマッカーサーに「日本人義勇軍」を申し出る手紙を出しているが、まさに当時は共産主義の軍事的脅威が最大限に現れていた時代であった。こうした中で、児玉が国内でも民団関係者と強いつながりを持つようになったのである。
反日姿勢の強い李承晩体制下で竹島が占領され、李承晩ラインが引かれて日本人漁民が逮捕抑留された。これでは韓国との国交正常化交渉は進まない。交渉が動き始めたのは昭和36(1961)年、軍事クーデターにより朴正熙軍事政権が打ち立てられてからである。
東西冷戦の真っただ中という時代を考えなければならない。この軍事政権誕生に曺寧柱や権逸はもろ手を挙げて賛成し、日韓関係の正常化を望んだ。朴正熙もアメリカのケネディ大統領に送った書簡で、日韓関係の正常化は反共産主義陣営の結束強化という見地から見なければならない、極東の安全のために必要だと述べている。
児玉もこれに応じなければならないと考え、当時の保守政界の実力者、岸信介、河野一郎、大野伴睦らを説得したのである。竹島問題を棚上げにするのもやむを得なかった。日韓基本条約が結ばれたのは昭和40(1965)年である。その後、児玉は正常化の功績者として、昭和46(1971)年に韓国政府より二等樹交勲章を贈られている。
利権目当てのフィクサーであると白い目で見る人もあるが、巨額の利権がついてきたとしても、それは結果である。児玉の場合、利権で得た報酬のほとんどは国内の政治工作に消えただろう。私腹を肥やすことは、彼が私淑し、自決の現場に居合わせた大西瀧治郎海軍中将に叱られることではなかったか。
大西は「敗戦後の日本はアメリカの奴隷になる」と児玉に予言した。この現実となった奴隷体制を変えて日本を国産戦闘機開発や自主防衛に向わせることこそ、自分の使命だと彼は思っていただろう。しかしそのための政治資金工作のためにあったのが、米国ロッキード社とのエージェント契約だったのは悲しい皮肉である。児玉は思いがけない落とし穴にはまったのだが、それは必然の運命だったのだろうか。
児玉の葬儀に政治家の出席はほとんどなかったが、源田実参議院議員の姿があった。元聯合艦隊参謀の源田実は、児玉のその悲願を知っており、その中途挫折に哀悼の意を表していたのかもしれない。
▲石像の台座に「裏を見せ表を見せて散る紅葉」と良寛の句が
▼俳句を嗜んだ安都子夫人の句碑
田中秀雄(たなか ひでお)さんの略歴】
昭和27(1952)年、福岡県生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。日本近現代史研究家。映画評論家でもある。著書に『中国共産党の罠』(徳間書店)、『日本はいかにして中国との戦争に引きずり込まれたか』『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』(以上、草思社)、『映画に見る東アジアの近代』『石原莞爾と小澤開作 民族協和を求めて』『石原莞爾の時代 時代精神の体現者たち』(以上、芙蓉書房出版)、『優しい日本人哀れな韓国人』(wac)ほか。訳書に『満洲国建国の正当性を弁護する』(ジョージ・ブロンソン・リー著、草思社)、『中国の戦争宣伝の内幕』(フレデリック・ヴィンセント・ウイリアムズ著、芙蓉書房出版)などがある。