
【連載】呑んで喰って、また呑んで⑯
ビール1本3000円の暴力バー
●香港・九龍サイド
さんざん呑んだのに、「もう一杯」となるのが吞兵衛の悲しい性(さが)である。が、私はそうではない! ぜったいに! そう言いたいところだが、残念ながら私もその例外ではなかった。
今は騒然としているが、平穏だった香港でのことだ。パリからの帰路、学生時代からの友人U君の住む香港に立ち寄った。数日滞在したが、東京に戻る前々日、某有力紙の香港特派員と香港島の日本料理屋で夕食を一緒にすることに。
しかし、この特派員氏、ほとんど下戸である。困った人だ。そんなわけで、早めに夕食を切り上げた。時計を見ると、まだ10時前ではないか。宵の口である。呑み足りない。このまま友人の住むコンドミアムに帰るとうのも、芸がなさすぎる。せっかく香港に来たのだから、どこか面白そうなバーにでも入って、しんみりとひとり酒をしよう。そう思って香港島から九龍側に渡った。
で、なんとなく入った店が素晴らしく最悪だった。今、思い出してもハラワタが煮えくり返る。そのバーはネイザン通りの裏手にあった。若い男が出迎えたので、
「これしかお金を持っていない」と私は米ドルを数枚(3000円ほど)男に見せた。「だからビール1本だけでいいよ」
不気味な愛想笑いを浮かべる男。バーテンダーのいるカウンター席に座ろうとしたら、
「今日はお客が少ないので、こちらにどうぞ」
と男にテーブル席に案内された。店内を見渡すと、少ないどころか、客がひとりもいないではないか。不吉な予感がしたので、店を出ようとすると男に腕をつかまれて無理やり座らされた。
「で、何を呑みますか?」
「さっきも言ったが、ビールを1本だけ」
「何か食べますか?」
しつこい奴だ。
「何も要らないって!」と普段は温厚な私が珍しく声を荒げた。「ビール1本だけ!」
数分後、男はビール(「サン・ミゲル」)を運んできた。フルーツの盛り合わせと共に。
「こんなの頼んでいないぞ!」
「ノー・プロブレム」
けっ、何がノー・プロブレムだ。
「食べないからな。ビール代しか払わないぞ!」
そんな私の声を無視するかのように、男はヘラヘラと笑っている。そして、また言った。
「ノー・プロブレム」
ええいっ、ビールをさっと呑んで引き揚げよう。こうして、ものの5分もしないうちに、私は勘定をするために男を呼んだ。
「フルーツなんかひと切れも食べてないからね。ビール代だけ払う」
男は表情も変えずに無言で消えた。しばらくして男が戻ってきた。数字が書かれた紙切れを持って。な、何だと! そこには高額の数字が。日本円にすると2万円だったろうか。
「ビール1本しか呑んでないぞ!」温厚な性格の私でも、このときばかりは怒りで逆上した。「なんでこんなに高いんだ!」
「フルーツが高いんですよ」
「フルーツなんか頼んでもいないし、食べてもいない。ぜったいに払わないからな!」
そう言って、当初男に見せた3000円相当の米ドルを渡そうとした。が、どこから湧いてきたのか、いつの間にか男の数が増えているではないか。5人はいただろう。それも屈強で人相の良くない男たちだ。全身下品とでも表現しようか。早く言えば、皆さん、ヤクザの風貌である。
こりゃ、あかん。身ぐるみはがされるのか。とは言っても、持ち金は全部で5000円もない。怒った連中にボコボコにされて海に捨てられるかもしれない。過去の楽しかった出来事が走馬灯のように脳裏に浮かんできた。いやだ、まだ死にたくない。
そう観念しかけたとき、入り口付近で声がした。お客が入ってきたのだ。お金のありそうな中年カップルである。私を取り囲んでいた男たちが店の奥に消えた。最初に私を案内した男は、チッと舌打ちして私から米ドルをむしり取った。「ユー・アー・ラッキー」
何が、幸運だ。このぼったくり屋め! いずれにしても、私は無事に解放された。「もう一杯」と思ったことで、とんだトラブルに巻き込まれたというわけだ。それにしても、高くついたビールである。あの3000円がいまでも悔やまれる。ま、命が助かっただけでも有難く思うしかないか。