NOTEBOOK

なにも ほしがならなぁい なにも きたいしなぁい

勝手にふるえてろ

2018-01-18 | 休み
『勝手にふるえてろ』(公式サイト
勝手にふるえてろ

昨今、売り出し中の女優さんたちは少女マンガ原作などのの恋愛映画に出ることが多かった。実力派の高畑充希さんも『植物図鑑 運命の恋、ひろいました』にて岩田剛典と共に主演を務めてる。だが勝手に実力派若手女優と目していた門脇麦と松岡茉優はとんと出演することは無かったが、門脇麦は『ブラックプレジデント』の脚本を務めた尾崎将也初監督作品『世界は今日から君のもの』で恋愛映画で初主演したとして捉えている。そして松岡茉優が初主演したのが『勝手にふるえてろ』だった。こじつけだけれども実力派の2人が演じたのが、引きこもりだったオタクの女の子とこじらせまくった女の子というのが適材適所、さすがだと思う。

松岡茉優は本当にお芝居が上手い。『コウノドリ』の責任感に熱く、まっすぐな若手医師の下屋役は記憶に新しく、『桐島、部活やめるってよ』のスクールカースト上位の嫌味な女子高生役は鮮烈だった。だが、僕が一番はっとさせられたのは『問題のあるレストラン』での金髪で常に下を向いている対人恐怖症の天才シェフ、雨木役だった。金髪であることや下を向くことが多いということを差し引いても松岡茉優と一致がしない熱演だった。これこそが松岡茉優のパーソナリティに近しいのではないかと思わずには居られないほどの切実さであり、雨木が画面に現れるとそのひりひりした存在感に背筋を伸ばされた思いがあった。※ちなみに本作には男に媚びるぶりっ子女子役で高畑充希も強烈な演技力を見せつけていてる。そして二階堂ふみや菅田将暉迄出演し今見返すと旬間近な俳優たちの見本市の様相だ。

そんな松岡茉優が個人的には『問題のあるレストラン』の雨木役以来の当たり役だと感じたのが本作の主人公の良香だ。年齢=男性経験ゼロの恋愛経験の無い妄想女子との触れ込みだが、実際の映画での良香を目の当たりにした感想としては、それは恋愛に限らず社会との対峙の仕方が不自由な女子の話だと感じた。本作の良香は周囲とのコミュニケーションが苦手で、付き合いも上手くない。小さなエピソードを脳内の中で肥大化させて、喋ったことも無いお店の店員やバスで乗り合わせるおばさん、日がな一日釣りをしているおじさんとの会話を妄想している。もちろん彼らの名前も知らない。とは言え、そこに興味があるとも思えない。そしてそれは恋愛に関しても同様であり、学生時代ろくに話もしていないのに片思いをしていた一を今でも恋をしていて、一との些細な会話を自身の脳内で大切に育て肥大化させていた。

そんなコミュにーショん不全の中で、現れた良香の同僚で二とあだ名した男性社員の良香への告白から話が転がっていくのだけれど。

良香の独りよがりさは特に文科系の人間にとってはほぼほぼ通ってきた道だと断言しても差支えが無いだろう。放課後、罰として黒板に同じ文章を書かされ続けていた一に対して、良香が「『シンプソンズ』のバートみたいだね。」と話しかけ、劇中バートが文章の一部をふざけた言葉に変えるいたずらのことを教え、その後一がその悪ふざけを続けたことに一人悦に入る。相手にとっては大したことでもない些細な会話ややり取りを、コミュニケーションが取れないからこそ自分の中で育んで肥大化させてしまう。その痛々しさと切なさは、恐らくは観客たち(少なくともぼくは)の過去の姿の映し鏡であり、その純情と惨めさと傲慢さに居たたまれない。気分になる。松岡茉優はそれを全力で観る人に叩きつけてくる。

劇中、良香は職場の友人の不用意な、そして自分の恥部(と本人が信じてやまない)をふとした切っ掛けで二に暴露されたことで友人への怒りを露にする。『スカーフェイス』のアル・パチーノを彷彿とさせるファック、ファック、ファック、ファック、ファック、ファックの嵐を画面上で松岡茉優叩きつける。だがその真に迫った松岡茉優の渾身のファックはある種の言霊を感じさせるほどの実感を伴ったものに感じさせるものの自ら逆境に対してFuckを連呼したトニーの持つある種の格好良さは無く、怒りをコントロールできず、友人に対しての負の感情を処理しきれない未熟な人間の醜い姿をこれまた観客にこれでもかと見せ付ける。松岡茉優の演技が上手ければ上手いほど、この映画を観ようとするぼくのような人間に「これがお前のしてきた、していることなんだよ!」と断罪されているかのようだ。

未熟な人間の自己愛と未熟な感情、そしてそれを誤魔化すための傲慢な社会との対峙の仕方。ある種、本作もセカイ系と言えなくも無い。それだけに松岡茉優の演技はすざまじい。撮影中を振り返って「とても辛い」とこぼしていたというのもさもありなん。それほどまでにどのシーンをとってもある種自己中心的で、コミュニケーション不全で、傲慢な良香という存在に実感を与えていたのだと思う。そして大人になって現実で対峙した一は周囲を見下し、傲慢極まりない肥大した自意識の化身である良香の写し鏡のような存在だった。だからこそ良香は絶望する。そして観客も突きつけられる。



ただ、ただ、ただ、この映画を手放しでほめられるかと言えば、ぼくは違う。松岡茉優の演技と比べると全体的に映画としてバランスが悪く感じる部分が多々ある。例えば、片桐はいりを中心とした個性派脇役の多様だ。趣里はまだ良いとして、片桐はいりや古舘寛治、池田鉄洋、前野朋哉といった個性的な面々が続々登場する。特に片桐はいりはリアリティラインをその存在だけでぐら付かせる。会社での現実的なレイヤーと妄想のレイヤーでの分化ということなのかもしれないのだけれど、それにしても映像の質としては同質で、テンションやリアリティの線だけが入ったりきたりをする。それが意図的に延長線上で描かれているのだろうけれども、個人的にはそこは違和感にしか感じられなかった。

それともうこれは完全に好みの問題なのだけれど、二だ。良香に告白をして付き合うが、それは強引そのもの。無理やり写真を取って、無理やりLINEを交換して、無理やりデートに誘ったのに、良香が行きたかったという店に対して酒が不味いと文句を言い、一人で酔っ払った挙句、これまた良香をホテル街に連れて行き告白をするが、その後嘔吐する。良香にしてもそういった二に対して好意を見出せないまま、同僚との衝突から引きこもり、その延長線上で二と向き合うことになるが、そこで二を受け入れえるという選択をする。あのデリカシーの無い、強引な二をどうして良香が受け入れる結論に至ったのか。


二役の黒猫のチェルシーのボーカル、渡辺大知が歌う「ベイビーユー」が流れるエンドロールを観ながら考え、帰り道考えながら帰ったけれど、結論には至らなかった。


華麗なるギャツビーを観て、今更思うこと。

2014-03-15 | 休み
old sport
Old Sport.



バズ・ラーマン監督はあんまり好きじゃない。本作にしても原作の舞台であったJAZZ AGE(本作に宝飾品で協力をしたティファニーは『華麗なるギャツビー』とのコラボ商品で「JAZZ AGE」という表現を使っていた。)を今の時代用にと、JAY-Zに依頼しHIP-HOPに変えてしまった。しかも文芸作品の映画化作品なのに何故か3D映画というまがまがしさ。ことほど作用に強烈なアレンジをするという前評判を聞いて、正直期待していなかったのだけれっど。

主人公は、”傍観者”であり”プレイヤー”に成れないトム。トムは原作者、スコット・フィッツ・ジェラルド自身がモデル。そんな傍観者であるトムのいとこ、既婚者デイジーの暮らす豪邸の湖をはさんだ対岸の大豪邸では謎の人物が毎夜招かれてもいないのに明りに吸い寄せられて大勢の人々がパーティーを繰り広げている。そんな中トムにその謎のパーティーの主催者から正式な招待を受ける。その主催者こそがギャッツビーだった。彼はデイジーの昔の恋人だという。

ギャツビーがトムを呼び出したのには訳があった。トムのいとこであり、ギャツビーの忘れがたい昔の恋人であるデイジーとの中を取りもって欲しい。それがギャツビーのトムへの願いだった。トムはギャツビーの願いを受け入れ、デイジーとの邂逅をかなえる。しかしバズ・ラーマン監督がインタビューで散々語っているように、ギャツビーはイギリスにとって変わって世界の領主となったアメリカであり、デイジーはそのアメリカが追い求めた富の象徴。つまるところ、デイジーはファムファタールであり、決して手には入らない、欲望の象徴でしかない。


欲望の象徴だからこそ、手に入らない。デイジーを手にいれるには彼女が欲する富が必要だ。そのためにはギャツビーは何だってした。でも結局、ギャツビーはデイジーを手にはいられなかった。本当に欲しいものは手に入らない。そういうことなのかもしれない。



と、公開当時ここまで書いては見たものの、ちょっと別のことを考えてみてしまう。バズ・ラーマン監督の見解でも原作の文学的な評価においても、ギャツビーが追い求めるデイジーはアメリカが追い求めた富の象徴、手に入れられないものとして描かれる。でも、仮にそうではなかったとしたら、どうなんだろうかと考える。ギャツビーは以前にデイジーに振られた。ギャツビーはその理由が自分に金が無いからだと考え、違法な手段を用いても金を稼いだ。その金でデイジーの頬を叩いてなびかせてみたものの結局デイジーはギャツビーの元を離れていく。

でもそれって本当にデイジーのせいなのか?デイジーはアメリカの傲慢さの行き着くところまで言った欲望の象徴だからなのか?それって男性的な解釈でしかないんじゃないのかって考える。ギャッツビーは確かに以前の自分を捨て、新たな自分となった。でもそれって本当に変わったということなのか。巨万の富を得ただけなのでは?劇中で描かれるギャツビーは単純に金に飽かせてデイジーを手に入れようとしただけなんじゃないだろうか。二村ヒトシが言うところのインチキ自己肯定なのではないかと思う。

だからこそ結局ギャツビーはデイジーに振られたときと変わっていなかった。だからこそ巨万の富を得たところで再びデイジーに振られてしまったんじゃなかろうか。

カリフォルニア・ドールズ

2012-11-26 | 休み
シアターNのクロージング作品として上映されていたので、前知識がほぼ無い状態で鑑賞。


リトルランボーズ


場末の、美貌の女子プロレスラーのサクセスストーリー。女子プロのドサ周りがロードムービーとして描かれる。無名のタッグはいくら実力と美貌を兼ね備えていても各地の興行師に安く叩かれる。ピーター・フォーク演じるマネージャー、ハリーは悪いやつじゃないが良いやつでもない。興行師にギャラを値切られ、キレてとんでもないことをしでかす。マネージメントする女子プロコンビ、カリフォルニアドールズたちにも理不尽な怒りをぶちまける。しかもドールズの一人、アイリスとは恋人関係ながら浮気までする駄目男。

ハリーを嫌いながらも学歴も経験もこねも無い二人は他に出来ることも見出せず、ドールズの二人は満足な収入も名声も得られないままに、なし崩し的にハリーとドサ周る。アングルを無視しガチンコで試合をしてチャンピオンを倒してしまったり、怪我したり、はたまた真剣にプロレスに打ち込んでいるにもかかわらずだまし討ちで田舎の祭りの余興、泥レスに出されたりもしてしまう。果てにはハリーのせいで、大きな試合に出られなくなり、見かねた恋人のアイリスが文字通り人肌脱ぐことになってしまう。

パンフ代わりとして劇場で販売されていた『ロバート・オルドリッチ読本1』(内容は充実しているけど、モリー役のローレン・ランドンのインタビューなど学生バイトが訳したの?と疑うほどのぎこちない翻訳が残念…)によると、4ヶ月もの特訓の上で撮影に望んだらしく、劇中では吹き替えなしの納得の試合シーンを演じてる。また劇中だまし討ちで泥レスをさせられるシーンがあるけれど、劇中同様に二人の女優さんたちも撮影まで知らされていなかったようである意味ガチだったみたい。ただこのシーン、めちゃくちゃエロい…


なんとかかんとかで、タッグのチャンピオン決定戦へ。後半の怒涛の盛り上がりはすごい。初めてロバート・アルドリッチ映画を観たけれど、なんともすっぱり切るところは切る監督だなぁと。それはよくもあり悪くもあるような気がしないでもないかなぁ。ドールズたちのハリーへの不満が、すぱすぱと切られる演出で彼らの関係性を描いているようでもありつつ、ちょっとさっぱりしすぎじゃないか?とも。



午後のロードショー版ゴーン・ベイビー・ゴーン

2012-11-11 | 休み
『アルゴ』の公開を記念して「午後のロードショー」で『ゴーン・ベイビー・ゴーン』が放送されていました。何故評判の高い『ザ・タウン』ではなく、あまり評判を聞かない『ゴーン・ベイビー・ゴーン』なのかと思いましたが、観ると納得!個人的には『ゴーン・ベイビー・ゴーン』の方が好き!さすが「午後ロー」、ただのB級ボンクラ映画枠じゃない!



ハードボイルドであり(カップルの探偵なのに!)、社会派でありながら、ちゃんとエンターテイメント映画になっているっていうのが凄い。ハリウッドエンディングで決して無いし、後味は必ずしも良くはない(だってGone Baby goneなのだから)けれど、すべてを分かった上ですべてを引き受けようとする主人公、パトリックの姿が格好良すぎる。ある1点のみを用いた凄い正論を畳み掛けるところとか、もうねえ。

一方でなんでそこまでしたのかと思う部分も。他にもやりようがあったのじゃないかと。例えば、あの人はヤクチュウなのだから、薬の件でどうにかしてしまえば良かったんじゃ無いかとも思えるのですが、それじゃ話がってことなんだと。

惜しむらくは初監督作品だからか、『ザ・タウン』で見られた濃厚すぎるボストン描写が弱いところ。ボストンが舞台の本作でももっとボストン、ボストンしてくれていたほうが、この事件がもっと臭い立つようなリアリティが得られていたんじゃないだろうかと夢想しちゃうです。こんな傑作が劇場未公開だなんて。しかもブルーレイ版はこの好機なのに廃盤。まぁ『アルゴ』は日本ではコケたみたいだけれど。

これ、昔だったら「火曜サスペンス」で日本版を作ったんじゃないかと思うほど、日本にも通じる問題意識で描かれているじゃないかと、MXテレビの「昼のサスペンス」枠での「火サス」再放送枠での『名無しの探偵』を観ていたら、そういう思いがこみ上げてきました。志のある脚本家がテレビ化権をを買ってきて、ゴールデンタイムでやってくれよとかまたまた夢想してしまうですよ。

おひさま最終回

2011-10-02 | 休み
育子目当てで録画してましたが、内容も良かったです。でもやっぱり育子で。



「おひさま」(NHK)
リトルランボーズ

ラストの大団円は良かったと思います。少なくとも生き残った登場人物たちは皆が自分の夢や幸せをかなえられたと言うエンドは、半年間の市長で登場人物への思い入れが強くなってしまったぼくのような人間には離れがたい思いに駆られながらも「よかったね!」と心から思えるすがすがしい最終回でした。育子と茂樹が結婚してよかったね!などと思ってしまいました。でも茂樹は日向子と同じ歳に大学に合格したと言うことは、18浪したっていうことなのか…だって日向子が6歳の時点で6浪してたのだから…


基本的には良く出来た連続テレビ小説であり、ホームドラマでした。陽子の母親の欠如や白紙同盟、教師と言う職業が単なる設定にとどまらず、物語の次につながるように機能していて、とても楽しめました。特に白紙同盟とオクトパスこと飯田小太郎先生とかは。ただ戦後、擁護すれば真知子の結婚まで?が精一杯と言うか、和成さんが無事に復員してきてから物語の勢いが一気にそがれてしまい、その後の物語上の起伏は単なる起伏を付ける為のエピソードでしかなかったように思えました。エピソードを無理やり作らなくても、ほのぼの日常エピソードでもあの登場人物たちなら十分に楽しめたのでは?とか思います。

特に最終週の陽子の父親が盲腸で倒れるエピソードや日向子の火傷のエピソードにはげんなりしました。特に日向子の件は。物語上の必然性が薄いので、どうにもこうにも起伏が無くなった物語に無理やり起伏を作っているだけにしか思えなかったです。70を迎えた陽子さんの断片的な思い出語りという設定なので無くはないですが、それにしても本当に必要だったのかなぁ?と思いに駆られます。特に観ていて登場人物への思い入れが強くなっていた分、ちょっとやるせない気持ちになってしまいました。(一体何故煮えたぎった出汁?が入った鍋がテーブルの上に置かれていたのか?そこらへんがまったく解せないです。)

あと違和感があったのは後半に入ってからの和成のお父さんの不自然な不在。どうやら演じた串田さんがシアターコクーンでの舞台があったらしく、その関係でやれそば粉を探しに言ったとか当初は適当な理由をつけて物語から消えていましたが、このごろは特に理由も語られずお父さんがいないのでてっきりなくなってしまったのかと思えてしまいました。

そして和成さんは本当に戦友の未亡人と何も無かったのか。長い旅路の末に安曇野に戻ってきた後も、しばしば和成さんは多治見に陶芸しにいっていたと。そして後年の時も一切和成さんは房子さんの前に姿を見せませんでした。陶芸狂いというよりも未亡人の下に走ったのでは?とゲスいぼくは勘ぐってしまいます。そしてあの清純そうな陽子さんが何故艶っぽい若尾文子さんのような女性になってしまったのか。その間には一体どんなドラマがあったのかと勘ぐってしまうのですが、それはドラマの見すぎで脳が腐ってるからそう思うのだと思います。


それにしてもNHKの朝の連続テレビ小説としては結構挑戦的なキャスティングが良かったです。育子の満島ひかりはもちろんすごい良かったですが、東京から越してきた陽子に歳をとっても変わらぬ恋心を抱くタケオに柄本時生だったし(そしてタケオの母親は柄本時生の実の母親の角替和枝!もうそれなら父親は柄本明でよかったジャンと思うけど、それはたぶんやり過ぎ。そしてタケオの後年を犬塚弘さんが演じていたけど、犬塚さんはかなり柄本さんの演技に合わせてた。でも犬塚さんの上品さが隠しきれてなかったのが逆に良かった!)、それにタケオの奥さん役が安藤サクラ!何だこのキャスティング!嬉しい!って感じでしたよ。ぼくの中で和成の愛人である戦友の未亡人は韓英恵だし。




「カーネーション」(NHK)
そんでもって次回作「カーネーション」の主演が尾野真千子さんですよ!満島ひかりの次に今期待している女優さんですよ。何というかNHK最高です。あとは二階堂ふみとかが出てくれば言うこと無いです。それにしても「カーネーション」も楽しみです!