―『愛のむきだし』(公式)
死んだ母親の影に束縛され、母の教えに呪縛されキリスト教の聖母、マリアのような女性の登場まで性欲を禁じられてしまったユウ。母の死により父親は信仰に逃げ神父となるが、悪い女に引っかかり神父という立場にありながら肉欲に溺れてしまう。しかしほどなくその女に振られてしまう。このことが契機となって、父は自分の罪が許せず、かといって神父という立場上罪を告白することも出来ず、代償行為としてユウに罪の告白を執拗に求めはじめる。だがユウはキリスト教的な道徳教育の賜物で純真無垢で告白する罪が無い。そこでユウは父への贖罪を満たす為に父に、告白する罪を作るために自身は性欲を抱けない、比較的害の無い罪であると考え、パンチラ盗撮を開始する。
そんな時、ユウがたまたま女装して街を歩いていると、街で不良グループに取り囲まれている謎の美少女に遭遇。この美少女こそユウが長年待ち焦がれていたマリアであり、ユウは生まれて初めて勃起をもよおし一目惚れをしてしまう。一方で彼女も不幸な生い立ちだった。ユウが一目惚れした美少女、ヨーコも母親とは死別し実の父に性的虐待を受けかけていた。そんな時、気があった父の彼女を慕ってこの街に来たのだった。しかしこの偶然にも見える二人の出会いはある宗教団体の女、コイケ(そしてコイケもまた父親しか知らずその愛も受けられなかった)によって仕組まれたものだった。しかもヨーコが慕った女はユウの父を誑かした女であり、その後二人が復縁したことでユウとヨーコは図らずも兄妹になってしまう。
汎用ヒト型決戦兵器の起動実験中の事故により妻を失った父親は、妻を今一度甦らせることに固執し、妻を甦らせるために必要な汎用ヒト型決戦兵器とクローン人間を作ることに奔走する。妻を甦らせることに躍起になった父親にシンジは捨てられ、親戚の家に預けられてしまう。シンジが14歳になったある日、自分を捨てた父親から突然汎用ヒト型決戦兵器に乗り使徒と呼ばれるなぞの敵と戦うことを求められる。一時の苦悩の末、汎用ヒト型決戦兵器に乗ることを決意したシンジはそれ以降、自らの存在意義を見出せないまま父親に気に入られがたいがために汎用ヒト型決戦兵器に乗り使徒と戦っていく。
ヱヴァンゲリヲンを前にしたシンジ。シンジをヱヴァに乗らせたのは父親への思慕からだけではなかった。搭乗を拒否したシンジの元に担架で運ばれてくる美少女、レイ。大怪我を追いながらも父の命に従ってヱヴァに搭乗しようとするレイの姿に心を打たれたシンジは搭乗を決意したのだった。しかしこの出会いは偶然ではなく、シンジの父らに仕組まれたものだった。謎の美少女、レイの正体は人間ではなくシンジの母親を蘇らせるために使徒から造られた存在だった。しかもレイという名前はシンジがが女の子であれば付けられるはずのもう一つの名前だった。そしてシンジは父たちのシナリオ通り、レイとの交流を深めて行く。
ラストシーン。パトカーで警察に連行されるヨーコに追ってきたユウは自ら手を伸ばす。「ヨーコッ!」と強く言いつつ。そして終劇。
ラストシーン。使徒に取り込まれたレイにシンジは自ら手を伸ばす。「来いっ!」と強く言いつつ。そして終劇。
もちろん仔細はまったく異なるけど、ぼくにとっては『ヱヴァンゲリヲン:破』は『愛のむきだし』だ。ユウはシンジであり、ヨーコはレイでありアスカであり、コイケはそのネガである。パクリとかそういうことじゃなくて、本質的なところが同じなんだ。親に放棄されながらも、親や愛を欲している子供たち。彼らは無償の愛は得られなかったが、それでも自分の力で自分の愛を得ようとする物語。特に『破』はうるさ方には嫌われるかもしれないが、こんなにうれしい作品はそうはない。旧エヴァ・旧劇を観てきた人へのボーナスという側面は無くも無いが、だとしても旧エヴァ・旧劇とこの『破』をはじめ、新ヱヴァがともにネガ・ポジの関係であり、互いの存在を必然にしあっている。旧エヴァ・旧劇のネガがあったからこそ、新劇のポジが違和感無く受け止められる。
もう『破』のラストのこのシーンで新ヱヴァ終了で良いような気がしてきた。愛への希求が明確に示され、なおかつそれがポジティブに描かれている。それならばその先を見なくてもおのずとハッピーエンドと捉え得る。そして映像のクオリティ。最低限ブルーレイ再生機とHDTVは必須。可能なら24p対応の再生機、例えばPS3と24p対応のフルHDモニタ、DOLBY TRUE HD対応アンプとスピーカもしくはヘッドフォンがあると幸せになれる。部屋のテレビはハーフHDでしかないのに、BD版が如何に奇麗かが凄く良くわかるってのが凄いや。『Q』は一体どうなるのか。そして『破』のゲームは出るのか出ないのか。『愛のむきだし』のBDは出ないのか。
死んだ母親の影に束縛され、母の教えに呪縛されキリスト教の聖母、マリアのような女性の登場まで性欲を禁じられてしまったユウ。母の死により父親は信仰に逃げ神父となるが、悪い女に引っかかり神父という立場にありながら肉欲に溺れてしまう。しかしほどなくその女に振られてしまう。このことが契機となって、父は自分の罪が許せず、かといって神父という立場上罪を告白することも出来ず、代償行為としてユウに罪の告白を執拗に求めはじめる。だがユウはキリスト教的な道徳教育の賜物で純真無垢で告白する罪が無い。そこでユウは父への贖罪を満たす為に父に、告白する罪を作るために自身は性欲を抱けない、比較的害の無い罪であると考え、パンチラ盗撮を開始する。
そんな時、ユウがたまたま女装して街を歩いていると、街で不良グループに取り囲まれている謎の美少女に遭遇。この美少女こそユウが長年待ち焦がれていたマリアであり、ユウは生まれて初めて勃起をもよおし一目惚れをしてしまう。一方で彼女も不幸な生い立ちだった。ユウが一目惚れした美少女、ヨーコも母親とは死別し実の父に性的虐待を受けかけていた。そんな時、気があった父の彼女を慕ってこの街に来たのだった。しかしこの偶然にも見える二人の出会いはある宗教団体の女、コイケ(そしてコイケもまた父親しか知らずその愛も受けられなかった)によって仕組まれたものだった。しかもヨーコが慕った女はユウの父を誑かした女であり、その後二人が復縁したことでユウとヨーコは図らずも兄妹になってしまう。
汎用ヒト型決戦兵器の起動実験中の事故により妻を失った父親は、妻を今一度甦らせることに固執し、妻を甦らせるために必要な汎用ヒト型決戦兵器とクローン人間を作ることに奔走する。妻を甦らせることに躍起になった父親にシンジは捨てられ、親戚の家に預けられてしまう。シンジが14歳になったある日、自分を捨てた父親から突然汎用ヒト型決戦兵器に乗り使徒と呼ばれるなぞの敵と戦うことを求められる。一時の苦悩の末、汎用ヒト型決戦兵器に乗ることを決意したシンジはそれ以降、自らの存在意義を見出せないまま父親に気に入られがたいがために汎用ヒト型決戦兵器に乗り使徒と戦っていく。
ヱヴァンゲリヲンを前にしたシンジ。シンジをヱヴァに乗らせたのは父親への思慕からだけではなかった。搭乗を拒否したシンジの元に担架で運ばれてくる美少女、レイ。大怪我を追いながらも父の命に従ってヱヴァに搭乗しようとするレイの姿に心を打たれたシンジは搭乗を決意したのだった。しかしこの出会いは偶然ではなく、シンジの父らに仕組まれたものだった。謎の美少女、レイの正体は人間ではなくシンジの母親を蘇らせるために使徒から造られた存在だった。しかもレイという名前はシンジがが女の子であれば付けられるはずのもう一つの名前だった。そしてシンジは父たちのシナリオ通り、レイとの交流を深めて行く。
ラストシーン。パトカーで警察に連行されるヨーコに追ってきたユウは自ら手を伸ばす。「ヨーコッ!」と強く言いつつ。そして終劇。
ラストシーン。使徒に取り込まれたレイにシンジは自ら手を伸ばす。「来いっ!」と強く言いつつ。そして終劇。
もちろん仔細はまったく異なるけど、ぼくにとっては『ヱヴァンゲリヲン:破』は『愛のむきだし』だ。ユウはシンジであり、ヨーコはレイでありアスカであり、コイケはそのネガである。パクリとかそういうことじゃなくて、本質的なところが同じなんだ。親に放棄されながらも、親や愛を欲している子供たち。彼らは無償の愛は得られなかったが、それでも自分の力で自分の愛を得ようとする物語。特に『破』はうるさ方には嫌われるかもしれないが、こんなにうれしい作品はそうはない。旧エヴァ・旧劇を観てきた人へのボーナスという側面は無くも無いが、だとしても旧エヴァ・旧劇とこの『破』をはじめ、新ヱヴァがともにネガ・ポジの関係であり、互いの存在を必然にしあっている。旧エヴァ・旧劇のネガがあったからこそ、新劇のポジが違和感無く受け止められる。
もう『破』のラストのこのシーンで新ヱヴァ終了で良いような気がしてきた。愛への希求が明確に示され、なおかつそれがポジティブに描かれている。それならばその先を見なくてもおのずとハッピーエンドと捉え得る。そして映像のクオリティ。最低限ブルーレイ再生機とHDTVは必須。可能なら24p対応の再生機、例えばPS3と24p対応のフルHDモニタ、DOLBY TRUE HD対応アンプとスピーカもしくはヘッドフォンがあると幸せになれる。部屋のテレビはハーフHDでしかないのに、BD版が如何に奇麗かが凄く良くわかるってのが凄いや。『Q』は一体どうなるのか。そして『破』のゲームは出るのか出ないのか。『愛のむきだし』のBDは出ないのか。