NOTEBOOK

なにも ほしがならなぁい なにも きたいしなぁい

PS4の最後の大傑作、『The Last of Us PARTⅡ』

2020-07-26 | 備忘録
-『THE LAST OF US PART Ⅱ』(公式)
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前作、『The Last of Us Remastered』をプレイしそびれていたので、発売直前に前作を『Left Behind』を含めてクリアして『PART Ⅱ』に挑み、24時間ほどで怯えつつ、叫びながらクリアした。巷では評価がざっくり分かれているが(Amazonレビューは荒れすぎて今やレビューは投稿出来なくなっている。)、私個人としては、とてつもない労力をかけられて作られた信じられない大傑作だったと感じた。

ゲームとしても、物語としても、強烈な体験をもたらすエンターテイメントだったと信じている。また、一部で"鬱な展開"と評されているが、私は辛い展開は多いものの、"鬱な展開"とは感じなかった。

■参照すべき対象としての『The Last of Us』と『Left Behind ‐残されたもの‐』
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『The Last of Us』の主人公ジョエルは仕事として抗体を持つエリーを反政府組織、ファイアフライへ送り届ける旅路に赴く。しかし送り届けた結果、ジョエルはエリーの命と引き換えにワクチンを開発することを知り、ファイアフライからエリーを奪還し、その帰路で物語を終える。

『Left Behind ‐残されたもの‐』は、『The Last of Us』の中で瀕死の状態に陥ったジョエルがどのように復活したのか、本編で描かれなかった背景を描いたダウンロードコンテンツ。『The Last of Us Remastered』では標準搭載されている。

このDLCでは、エリーがジョエルを助ける為に医療器具を探しに行く過程を、現在の状況と関連したエリーの過去のフラッシュバックと行き来する構成で作られている。『The Last of Us』が基本的に時系列で語られていたことと比べると、ナラティブの複雑化と物語的な深度を増したと感じた。

『The Last of Us PART Ⅱ』は、『The Last of Us』のような単純な時系列ではなく『Left Behind ‐残されたもの‐』同様エリーの現在と過去を都度都度フラッシュバックしていく形で物語が構成されて行く。

そして本作では更に一歩進め、エリーに加えて対立する存在、発売まで明らかにされなかったが本作ではジョエルとエリー以外もう1人の新たなプレイヤーキャラクターがおり、その人物のナラティブもエリーと同様に、現在と過去を都度都度フラッシュバックしていく形で物語が構成されて行く。

■『The Last of Us PART Ⅱ』のもう1人の主人公、アビゲイル
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プレイ開始して、数時間してエリーが友達以上恋人未満であるディーナとハッパを決めて、セックスをした後で、突然カットが変わる。

プレイヤーキャラはエリーではない、体格の良い女性キャラクター、アビゲイルに切り替わる。プレイヤーは何も情報与えられず、アビゲイルを操作することになる。直ぐに明かされることになる彼女の正体は、前作の終盤でジョエルがエリーを助けるために手にかけたファイアフライ所属の医師の娘だった。彼女は父親を殺したジョエルを敵(かたき)として探しており、シーンの終盤、彼女はその仇討ちを果たす。それもエリーの眼前で。父のような存在であるジョエルを目の前で殺害されたエリーは復讐の鬼と化し、アビゲイルを殺すために彼女が所属する組織があるシアトルを目指す。それが本作の全体のストリーラインとなっている。

■エリー≒アビゲイル
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前作からのメインキャラクター、エリーと本作からのキャラクター、アビゲイルは双方の仇討ちと言う関係の中で対立する。ただし、それぞれの事情はそれぞれ知らない。

もちろん意図的であると思うが、エリーとアビゲイルは見た目こそ異なるものの、彼らが持つ人間関係は極めて似ている。エリーは父親のような存在であるジョエルを殺害された。幼馴染のジェシーの元カノであるディーナと恋人関係になる。ディーナはジェシーと分かれる直前にジェシーの子供を妊娠している。

一方で、アビゲイルは父親を殺害された。幼馴染であるオーウェンと付き合ったものの現在は別れて、オーウェンは所属組織の女性医師メルと恋愛関係にある。そしてメルはオーウェンの子供を妊娠している。にも関わらず、アビゲイルもオーウェンもお互いに対して気がある。物語中盤、ジェシーとオーウェンはそれぞれアビゲイルとエリーによって、劇的ではなく淡々と山場でも無い場面でサクッと無残に殺害される。

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もちろんこれは意図的であろう。エリーとその敵(かたき)であるアビゲイルを相似形として描くことで、双方それぞれの事情・背景を描きつつ、それぞれの復讐を描こうと意図しているのだろう。

■愛はどこまで人を駆り立てるのか
本作のテーマに関して、ノーティドッグのニール・ドラッグマンはファミ通紙上のインタビューで以下のように語っている。

「つまり、愛はどこまで人を駆り立てるのか。それをテーマにストーリーを考えています。ただ、今回違うのは、”あなたの愛する人がひどく傷付けられた場合”という条件がつきます。これによってエリーは、愛が大きいぶんだけ、愛する人を傷つけた者に対して、復讐したい気持ちに駆り立てられて旅をすることになります。」(週刊ファミ通2020年7月2日号32ページより一部引用)

そう、本作のエリーもアビゲイルも”あなたの愛する人がひどく傷付けられた場合、愛はどこまで人を駆り立てるのか”と言うテーマを描くためのキャラクターとして立ち現れている。

正直、特にアビゲイルは、テーマにキャラクターが殉じさせられていると感じた。映画の批判でよくあるアレだ。キャラクターが物語の語りのためだけに、駒のように配置されると批判される。アビゲイルのキャラクター設定も、エリーのドッペルゲンガーのように創作されたキャラクターと言う認識が強く、その物語に入り難かった。またアビゲイルのキャラクターも魅力的に感じることが出来なかった。

ところが、アビゲイルの事情を追体験させられて行く過程で、彼女の複雑な人間像が丁寧に描かれ、且つプレイヤーとして生死に関わる体験を通じて彼女に登場人物としての親近感を抱き、感情移入するようになってしまった。確かにそもそもは製作者たちのテーマを体現するために作られたキャラクターであったのだと思う。アビゲイルにしろ、オーウェンにしろ、ジェシーにしろ、だ。

だが、その過程で彼らの感情を丁寧に描写することで彼らそれぞれの喜怒哀楽や悩みを目の当たりにするにつれ、テーマを伝播するための”機能”としてのキャラクターではなく、実際に存在する”登場人物"として存在し始めるになった。少なくとも私の中では。

アビゲイルは十分に複雑で、一筋縄ではいかなくて、魅力的なキャラクターだ。完全に余談だが、アビゲイルとオーウェンのセックスシーンが存在するが日本版ではカットされている。北米版だと二人のリアルなセックスシーンがカットされていない。これはカットは止むを得ないが、アビゲイルのキャラクターを掘り下げるには必要な描写だと思う。

■進化したグラフィックとゲームメカニズム
本作のグラフィックは、AAAタイトルに相応しい隙のない美麗なグラフィックに進化している。

スーパーフォトリアリスティックなビジュアルでありながら、輪郭にコミック雰囲気を宿していて、グラフィックにしても本作がゲームであることの意味を表現しているように思う。

またゲームメカニズムもスーパーフォトリアルなグラフィックに相応しいリアリスティック、且つゲームとして更に面白いシステムに進化している。

加えて、キャラクターの描写がリアルになり、残虐度が増している。人間をステルスキルする場合、ナイフで喉を掻っ切った場合、血が喉に詰まって苦しそうに絶命する。感染者の髪の毛は抜け落ちている。

ブローターの様なより異質な感染者は更にグロテクスな姿形をしている。それがゲームの没入を更に高めている。

本作で新たに導入された犬はステルスを更に難しくするアクセントになっている。アクションは更にスムーズになり、挙動もリアル。それぞれのモーションがゲーム的な嘘はありつつも、一々細かく描写される。特に武器の強化シーンは、そこまでするのか?と思うほど解体・組み立てを描写している。

本作では遂にホフク前進がアクションとして追加されたことで、ステルスが更に深度が増した。印象としては、『メタルギアソリッド3 SNAKE EATER』を髣髴とさせる。ホフクが加わったことで、草むらに隠れることが可能になり、更に浅い水辺では潜ることが可能になり、ステルスの幅が増している。それだけゲームの幅が広がり、ユーザーの自由度が増している。

個人的に一番の衝撃は殆どのガラスが割れるようになったことと縄状のものを投げるアクションが加わったことで探索の自由度が上がった(と感じさせる)ことが感動的だった。これまでの色んなゲームではガラスは存在しても割ることは出来なかった。

だが、本作ではガラスを割ることでルートを開くことが出来る。さらにはガラスを割った上で、そのガラスが設置されていた骨組みに縄状のものをかけることで縄状のものを上ることが出来る。アクション映画などでは良くある(と思われる)シーンをゲームのムービーではなく、ユーザーが介在できるゲームプレイの中で再現出来るのだ。

また、QTEは前作よりも、もっと言うと『アンチャーテッド 海賊王と最後の秘宝』以上にゲームプレイ上で自然に導入され、且つゲームプレイとして面白く、驚くべき演出が施されている。感染者の恐怖と相まって、大声を上げながらプレイし続けて、面白かったが心底疲れた。でも、本作は物語に注目が集まりがちだが、ゲームプレイ自体が操作していて楽しい。それが本作が一番優れた点であると私は思う。

■映画的演出
エリーはアビゲイルの元恋人オーウェンと彼の今の彼女であり、彼の子供を身篭っていたメルを殺害。アビゲイルもエリーの幼馴染であるジェシーを殺害、ジョエルの弟トミーの目をつぶした。エリーを倒したアビゲイルは、葛藤の末エリーとディーナを開放する。そこで物語は一旦の終局に至る。農場でディーナとその子供、J.Jと共に暮らすエリーだったが、ジョエルの死に様がフラッシュバックするエリーは、復讐に取り付かれたトミーの誘いに乗る形でディーナの制止を振り切り再び復讐へ向かうエリー。

終局、エリーはアビゲイルへの復讐を果たそうとするもののジョエルの穏やかな表情を思い出し、復讐の最後を思いとどまる。その戦いの過程で、エリーはアビゲイルに左手の薬指と小指を噛み千切られていた。農場に戻ったものの、ディーナもJ.Jもそこには待っていなかった。

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左手の薬指はナディーン、小指はJ.Jの暗喩であり、それらを復讐に赴いたことで永遠に失ってしまったことを示しているのだと私は解釈する。ゲームとしては珍しい、とても映画的な演出だと感じた。この映画的な演出は本作に通底している。例えば、アビゲイルも父親が殺害されるシーンをフラッシュバックしてしまっており、繰り返される当時記憶ではジョエルがアビゲイルの父親を殺した手術室への道順が悪夢的に描かれるが、彼女が希望を見出した後そのフラッシュバックは光に向かって進む希望の象徴として描かれる。本作は単なるゲームであることを拒否している。感情を描くことに腐心している。私はその企みは大成功したと感じている。

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また、雪のとき以外はお気に入りのオールスターのハイカットを履いていたエリーだが、農場に帰ってきた際には、ブーツを履いていた。これは完全に私の憶測だけれども、スニーカーではなくブーツを常用することになった=エリーの成長を現しているのではないか。

■鬼子としてのアビゲイルと『メタルギアソリッド2 SONS OF LIBERTY』の雷電
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PS2用ソフトとしてリリースされた『メタルギアソリッド2 SONS OF LIBERTY』発売直前まで、主人公は前作同様スネークとされていたが、実際のところ本当の主人公は雷電という新しいキャラクターだった。当時、雷電の存在は『The Last of Us PART Ⅱ』のアビゲイルと同じような反応だったと記憶している。プレイヤーは従来の主人公である、スネークを操ることを期待していたのに、全く見ず知らずのキャラクターだったため、近年再評価されるまで評価は芳しくなかった。

『メタルギアソリッド2 SONS OF LIBERTY』や雷電がそうであったように、『The Last of Us PART Ⅱ』もアビゲイルも後年評価を改められるだろうと思っている。完全に余談だが本作のラストバウトは『メタルギアソリッド4 GUNS OF PATRIOT』のそれを髣髴とさせる肉弾戦だ。そしてもっと蛇足だが、エリーがWLFの拠点に潜水して潜入するシークエンスは『メタルギアソリッド』の冒頭のシーンを彷彿とさせる。そして更に更に余談ではあるが、本作のテーマである”復讐"は『メタルギアソリッドⅤ Phantom Pain』のテーマと重なる。色々なところで『メタルギアソリッド』シリーズの影を感じるのは気のせいだろうか。

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今、『The Last of Us PART Ⅱ』も同じような状況に直面している。前述したアビゲイルやアビゲイルにまつわるシナリオがその理由であろう。また、エリーがレズビアンであることやエリーのレズビアンの恋人ディーナがユダヤ系であること、ディーナがアジア人との子供を生んだこともその中傷に近しい否定的なレビューと関係無くは無いのではないだろうか。更にアビゲイルの男性的な容姿に対するルッキズムな批判も目にした。アビゲイルがエリーの系統であれば、また反応は違ったのかもしれない。また、一部登場人物が性同一性障害を持つように描かれていることも更なる反撥を産んでいるのかもしれない。

Amazonの商品ページを見れば、その状況が端的に理解できるものになっている。そこでは本作に対する強烈な憎悪の言葉が開陳されている。期せずして、本作のテーマである”愛はどこまで人を駆り立てるのか”をユーザーが最悪の形で披露してしまっている。これは日本に限らずアメリカでも同様のようではある。ある種、多様性と呼べるような点も含めて(加えて言うと、グラフィックの進歩のためか本作では"感染者"も人間もアジア系の比率が増している)、私は本作が傑作を超えて、大傑作であることを信じて止まない。今すぐには無理でも後々評価が好転することを願って止まない。『メタルギアソリッド2 SONS OF LIBERTY』がそうであった様に。

『アルプススタンドのはしの方』は大きなスクリーンで観るべき小さな映画

2020-07-26 | 備忘録
-『アルプススタンドのはしの方』(公式)
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城定秀夫監督の久々の一般作品、しかも青春映画と言うことで期待値マックスで観てきました。城定監督作品を映画館で初めて観た。

■映画『アルプススタンドのはしの方』予告編


夏の甲子園が中止になった2020年の夏に本作を観ると、ある種のノスタルジーのような、高校野球のブラバンによるJ-POPやテレビ主題歌が演奏されると、嫌々行った高校野球の応援を思い出させられる。それすらも今観ると在りし日の存在として貴重な体験だったと思うようになる。しかも75分。今日日、75分でこんな限定環境で面白い映画監督が居るのか。

本作のパンフレットの城定組の常連、守屋文雄さんによる寄稿文を読むまで、本作の舞台は甲子園の地方予選であると信じて疑わなかった。まさか、甲子園の一回戦だとは思わなかった笑。(だから「ホテルで補習を受けていた」と言う台詞が謎だった。)そう指摘されると、地方の球場にしか見えない。でも守屋さんも書いているが、そんなことはどうでも良い、だんだんどうでも良くなってくる。焦点はそんなに応援したくない人たちが心から応援しようと気持ちが変わるまでのお話だから。それは原作の戯曲を書かれた籔博晶さんがそもそも母校の甲子園での試合に感動して書かれたのだから当然。

ある種、『桐島、部活辞めるってよ』にも似ていると言えば似ている。高校生活の周縁に居る生徒たちが、更に高校生活の花形である野球部の試合が行われる甲子園のスタンドの端っこで繰り広げられる些細な話である。でも登場人物たちにとっては重大な話が繰り広げられる。些細な人たちの些細な話は、当初は遠めの、スタティックなカメラで切り取られる。それが会話の進展、関係性の進展、感情の開放が進むにつれて、どんどんと登場人物たちに寄り添い始め、カメラも段々と感情的な揺れが出てくる。それに伴って、観客も感情移入が進み、後半の彼らの感情の変化に感情を引き寄せられて行く。そして城定監督曰く、「クソリアルな最近の若手監督の映画と演劇の中間」と言う絶妙に戯画的な世界観は『桐島』より安心して観られる。

2日目のアップリンク吉祥寺の城定監督が舞台挨拶をする回で観たが、城定監督は本作を小さな映画だと評していた。アップリンク吉祥寺はミニシアターで小さな劇場であるが、小さな劇場は本作には物足りないと感じた。鳴り続けるブラスバンドの演奏が観客を甲子園のスタンドに誘う映画だからだ。本作は可能な限り大きな画面、優れた音響を持つ劇場で観ると更にスタンドに居る気持ちにさせられて、更に感動が深まるのではないかと感じた。アップリンク吉祥寺は初めて利用したが、少なくとも本作を鑑賞した印象では、俳優が叫んだりすると音がキンキンと高音で鳴ってしまって聞きづらかった。より大きなスクリーン、良い音響環境で今一度観てみたい。ちなみに、7月26日時点だと、ユナイテッドシネマ アクアシティお台場だと上映回によっては、600人収容のスクリーン1で上映されている。アップリンク吉祥寺の4倍のスクリーンサイズだ。ちょっと遠いが行ってみたくはある。

会話の中で登場するのみだったと言うブラスバンド部部長の久住さんを本作で登場させている。高校演劇版や商業演劇版は観ていないのだけれど、久住(黒木ひかり)はブラスバンド部部長、野球部のスター選手、園田と付き合っていて、校内模試でも1位になるなど才色兼備な存在として描写される。そんな完璧超人の久住は劇中で誉めそやされる中で、褒められる自身についても悩みがないわけではないと言うことを吐露する。久住の存在自体は物語の奥行きを産む良い追加要素であると感じたが、この吐露する内容が余りに直接的だったのでちょっと浮いてしまっているように感じた。後半、久住と園田のLINEのやり取りが示されるが、そのやり取りだけでも、必ずしも全てが上手く行っているわけではないと言うことが示せていたのでは?と思ってしまった。

パンフレットは1200円と一般的なパンフレットと比べて高価だが、原作の戯曲が丸々掲載されていてそれを考えれば安価だ。また、守屋さん以外にも制作会社レオーネの久保和明プロデューサーや映画評論家の町山智浩さんにそっくり(且つ出身大学と学部まで同じ)な麻木貴仁さんの本名が浅木大(※ご指摘いただいたので、×麻木→○浅木修正しました。)さんであること、且つ麻木さんのお父様が元ラジオのアナウンサーで本作にも実況アナウンサーとして登場しており、且つ麻木さんと共に本作に出資していると言うことまで知れる、城定監督ファンには堪らない内容になっております。(麻木さんは本作にも演劇部顧問役で出演されている。後姿しか映らないが。)

大きな映画館の大きなスクリーン、良い音響環境でゆったりもう一度観たくなる映画だ。

イングマール・ベルイマンへのオマージュ溢れる飛躍、犯す女~愚者の群れ~

2020-07-17 | 備忘録
-『犯す女~愚者の群れ~』(公式)
犯す女愚者の群れ



城定秀夫監督の作品はピンク映画だけれども、だからこそかもしれないけれど自立的な女性が多い。そしてとても映画的な映画が多い。そして映画的な”飛躍"が多い。そしてシネフィル的な引用がとても多い監督だと思う。



本作も所謂ピンク映画。主人公は浜崎真緒さん演じる主婦。夫が愛人と性行為をしているところを愛人ともども殺害し、逃走。逃走中に車に轢かれて、彼女を轢いた犯人となんだかんだで一緒に暮らすことになるというおかしな設定も何故か城定監督が撮ると不思議と受け入れられてしまう。しかもほのぼのトーンになってしまう。そこからラストの大どんでん返し。どんでん返しと言うか、映画的な飛躍が心地良い。「愚者の群れ」と言うサブタイトルを考えると、ラストの飛躍はフェリーニではなく、ベルイマンの『第七の封印』だろう。

古い映画を観ていると今の映画を観た時にこんなに感動するのだと。ゴダールやジャック・タチの引用と言うかパクリを繰り出す北野武より私は城定監督の引用が大変心地良くて大好きです。

レイニーデイ・イン・ニューヨークは最新のニューヨーク観光映画。それも雨映画でもある。

2020-07-04 | 備忘録
-『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』(公式)
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ウディ・アレンの50作品目、『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』を観る。

今まで私が観てきたアレン作品の中でテーマ的にも、物語的にも最も何も無い映画だと感じた。もちろん良い意味で。ヴィットリオ・ストラーロの陽光を活かした演出(そのシーンにおけるキャラクターの熱量の表現)や登場人物のキャラクターに合わせた固定カメラとステディカムとの使い分けなど、特にこの手のライトなラブコメディ映画では珍しいくらいの力の入れ様。ヴィットリオ・ストラーロが担当した過去2作、『カフェ・ソサエティ』、『男と女の観覧車』と比べると、シンプルな物語の中で用いられると更に贅沢に感じる。

この映画は「雨の降るロマンチックなニューヨークを撮りたい」アレンがインタビューで語っているように、雨が降るニューヨークの中でロマンチックな事が起きる以外何にも無い。もちろんアレン印のスノッブでハイコンテクストな会話や主人公のギャツビーと言う名前にまつわる分析は出来るのだと思うのだけれど、私としては、映画館で92分間そぼ降る雨のニューヨークとティモシー・シャラメ、エル・ファニング、セレーナ・ゴメスの恋模様を面白がるのが正解なんだと思っている。引きで撮ることが多い昨今の映画で律儀に登場人物の顔のクローズアップと多用し、且つカットバックで会話を進める。古臭いと言えば古臭いのだけれど、美男美女と雨のニューヨークがあれば、魅力的になる。

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物語は男女のすれ違いと恋愛模様以外にほぼ要素は無い。アレンはインタビューで大分昔に書いた脚本と言っている。「アラファト似の女」と言う台詞が現代の20代前半の登場人物が使うことからも90年代くらいに書かれたのかなと想像するが、主人公ギャツビーのモラトリアムや家庭の問題と言う要素はあるものの余り大きなテーマではない。主人公ギャツビーと彼女であるエル・ファニング演じるアシュレーの関係性とオチは既視感が凄い。『ミッドナイト・イン・パリ』のギル・ペンダーの物語から1920年代へのタイムスリップ要素をごっそりそぎ落としたような話だと思った。

この前に観た映画が『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』だった。オルコットの原作を読み込んで、リサーチしまくったグレタ・ガーウィグが物語的な面白さと思想性を両立させつつ、これでもかと詰め込んだ素晴らしい物語だった。それと比べると、『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』は物語的に全く中身が無い。あるのは「雨の降るロマンチックなニューヨーク」だけだ。キネマ旬報2020年7月上旬号で菊地成孔さんが本作を評して「観光映画」と評していたが、その通りだと思う。結局アマゾンから逃げられて、アメリカでは出資してもらえず、欧米からの出資で映画を作るほか無いアレンにとっては、ニューヨークでお金の掛かる雨を降らせる映画を撮るのは大変だったらしい。それでもなおニューヨークと雨に固執した本作のテーマはやはり物語には無くシチュエーションなんだと思う。(ニューヨーク以外、出資してくれるヨーロッパの街であれば、実現難易度は低かったようでもあるし)

そういう意味では、『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』は非常にポストモンダン的な映画と言えなくも無いと思っている。物語はクリシエであり、あくまで添え物でしかなく、焦点はニューヨークと雨と恋愛模様と言う極めてフェティッシュな領域に定められている。そこでは驚くべき物語は起こらないが、素晴らしく魅力的なニューヨークとティモシー・シャラメとエル・ファニングとセレーナ・ゴメスが雨のニューヨークに美しく映える。

この映画、観る人によって頗る評価が割れると思う。退屈だと言う意見に抗うことは出来ないけれど、全くダメな映画かと言えばそうとは言えなくて。映画館の大きなスクリーンと贅沢な音響の中でダラダラと観るのが適しているのだと思う。大画面で垂れ流したい、そういう映画だと思う。日本版のブルーレイが発売されたら欲しいくらいには私はこの映画が好きだ。

本作以上にクリストフ・ヴァルツが出演する新作『Rifkin's Festival』が撮影完了していると言うことを知れたのが嬉しい。そして延期されたとは言え、今夏(2020年)に新作撮影予定だったとは。次も次の次も期待します。


レイニーデイ・イン・ニューヨークは最新のニューヨーク観光映画。それも雨映画でもある。

2020-07-04 | 備忘録
-『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』(公式)
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ウディ・アレンの50作品目、『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』を観る。

今まで私が観てきたアレン作品の中でテーマ的にも、物語的にも最も何も無い映画だと感じた。もちろん良い意味で。ヴィットリオ・ストラーロの陽光を活かした演出(そのシーンにおけるキャラクターの熱量の表現)や登場人物のキャラクターに合わせた固定カメラとステディカムとの使い分けなど、特にこの手のライトなラブコメディ映画では珍しいくらいの力の入れ様。ヴィットリオ・ストラーロが担当した過去2作、『カフェ・ソサエティ』、『男と女の観覧車』と比べると、シンプルな物語の中で用いられると更に贅沢に感じる。

この映画は「雨の降るロマンチックなニューヨークを撮りたい」アレンがインタビューで語っているように、雨が降るニューヨークの中でロマンチックな事が起きる以外何にも無い。もちろんアレン印のスノッブでハイコンテクストな会話や主人公のギャツビーと言う名前にまつわる分析は出来るのだと思うのだけれど、私としては、映画館で92分間そぼ降る雨のニューヨークとティモシー・シャラメ、エル・ファニング、セレーナ・ゴメスの恋模様を面白がるのが正解なんだと思っている。引きで撮ることが多い昨今の映画で律儀に登場人物の顔のクローズアップと多用し、且つカットバックで会話を進める。古臭いと言えば古臭いのだけれど、美男美女と雨のニューヨークがあれば、魅力的になる。

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物語は男女のすれ違いと恋愛模様以外にほぼ要素は無い。アレンはインタビューで大分昔に書いた脚本と言っている。「アラファト似の女」と言う台詞が現代の20代前半の登場人物が使うことからも90年代くらいに書かれたのかなと想像するが、主人公ギャツビーのモラトリアムや家庭の問題と言う要素はあるものの余り大きなテーマではない。主人公ギャツビーと彼女であるエル・ファニング演じるアシュレーの関係性とオチは既視感が凄い。『ミッドナイト・イン・パリ』のギル・ペンダーの物語から1920年代へのタイムスリップ要素をごっそりそぎ落としたような話だと思った。

この前に観た映画が『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』だった。オルコットの原作を読み込んで、リサーチしまくったグレタ・ガーウィグが物語的な面白さと思想性を両立させつつ、これでもかと詰め込んだ素晴らしい物語だった。それと比べると、『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』は物語的に全く中身が無い。あるのは「雨の降るロマンチックなニューヨーク」だけだ。キネマ旬報2020年7月上旬号で菊地成孔さんが本作を評して「観光映画」と評していたが、その通りだと思う。結局アマゾンから逃げられて、アメリカでは出資してもらえず、欧米からの出資で映画を作るほか無いアレンにとっては、ニューヨークで雨を降らせる映画を撮るのは大変だったらしいし、やはりテーマは物語には無くシチュエーションなんだと思う。

そういう意味では、『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』は非常にポストモンダン的な映画と言えなくも無いと思っている。物語はクリシエであり、あくまで添え物でしかなく、焦点はニューヨークと雨と恋愛模様と言う極めてフェティッシュな領域に定められている。そこでは驚くべき物語は起こらないが、素晴らしく魅力的なニューヨークとティモシー・シャラメとエル・ファニングとセレーナ・ゴメスが雨のニューヨークに美しく映える。

この映画、観る人によって頗る評価が割れると思う。退屈だと言う意見に抗うことは出来ないけれど、全くダメな映画かと言えばそうとは言えなくて。日本版のブルーレイが発売されたら欲しいくらいには私はこの映画が好きだ。大画面で垂れ流したい、そういう映画だと思う。本作以上にクリストフ・ヴァルツが出演する新作『Rifkin's Festival』が撮影完了していると言うことを知れたのが嬉しい。そして延期されたとは言え、今夏(2020年)に新作撮影予定だったとは。次も次の次も期待します。