90歳を過ぎても昔の恋人の死に、女として泣くことが出来る。業の深さは生きる力なんだと思ったり。木曜日のこの回はすごいなと思ったり。
木曜日放送の149話では危篤に陥った糸子の元に三姉妹が終結するが、最後に駆けつけた聡子が病室の前にたどり着くと。中から笑い声が。病室の戸を開けると、先に到着していた直子と優子が、意識不明の糸子の傍らでパジャマ姿で互いのすっぴんの酷さを大きな声で笑いあっているという描写。唖然とする聡子。でも結局は姉妹三人で朗らかに談笑。が、聡子の一言で皆が糸子を思って、堰を切ったように泣き始める。
昨年、祖母が糸子と同じくらいの年齢で亡くなったのですが、まさにこのような状況でした。死の淵にあったとしても、必ずしもすべての時間が悲しみに包まれているわけではないのだと実感しました。久しぶりに集まったもの同士が近況を話し合ったり、心配する相手の昔話や失敗話いろいろな話をするのです。その空間には悲しいことばかりではない朗らかな時間もあったりする。それが老人ならなおのこと。
おそらく渡辺あやさん自身に近親者を亡くされた経験が、それも年配の方を亡くされた経験が反映されているのだろうかと、想像を豊かにしてしまいます。ドラマでは糸子が意識を回復した後のモノローグで家族や仕事仲間たちに礼を言うというシーンがありました。祖母の場合は、意識が回復した後にしきりにみんなに感謝の言葉を尽くして、数時間後に亡くなりました。
どうして渡辺あやさんの脚本はこうもリアルなんでしょうか。普通だったら、危篤のシーンなら皆が急いで駆けつけて泣き合戦になりそうなところなのに一見不釣合いなユーモアを入れる。でも現実はステレオタイプな悲しみばかりじゃないことをちゃんと知ってる。眉をひそめる様な人も居そうなシーンですが、個人的にはこれこそがリアルなんじゃないのかと思えてくるのです。
あと2日で「カーネーション」も終わりです。個人的には夏木マリさん演じる老年編は『ゴッドファーザー』における『ゴッドファーザー3』なのではないかと思っています。多くの人にとっての傑作である『ゴッドファーザー』に付け足された蛇足。監督のコッポラ自身も最近そういった意見に沿うような発言をしています。
でもぼくには『ゴッドファーザーⅢ』あってこそ、トリロジーとしてあってこそ、繁栄を極めたマイケルの惨めな晩年があってこそ、『ゴッドファーザー』は完結したと考える『ゴッドファーザーⅢ』肯定派なので、あまり評判の良くない『カーネーション』老年編にあっても体が弱り、昔ほどの活躍を得られない中でもそれでも生きてゆこうとする糸子像があって初めて『カーネーション』が完結するのだと思います。
残すところあと2回。おそらくラストシーンは3人の糸子による歌で締められるのでしょうが、晩年をどう締めくくるのか、土曜日まで目が話せません。