ウィル・フェレルが主演した『主人公は僕だった』の逆というか、『カイロの紫のバラ』というか、『ドラえもん』というか、ウディ・アレンの映画というか。
配給がFOXサーチライトだからか宣伝で『(500)日のサマー』との対比がされていた。あちらはサマー自体の小悪魔さにどんなに頑張っても変えられようの無い恋愛の不条理性が体現されていたように思うけれど、同類の映画みたいに宣伝されている『ルビースパーク』は恋愛の不条理性という男女両方に当てはまるようなことではなく、「どうしてお前はモテないのか」ということをモテない男に強烈に突きつけてきやがる、くれるゾーイ・カザンからのモテない男たちへの教育映画になっている。なので、カップルとかはポカンだったのではないだろうか。
デビュー作が批評的にも商業的にも成功した作家のカルヴィンは2作目が書けない長いスランプに陥っている。そんな中友達代わりの兄の勧めで、女の話を書けとそそのかされる。そのそそそのかしに乗ったカルヴィンは夢で見た女の子のことを小説に書き始める。するとある日、小説の女の子、ルビーの小説を書いている間に寝落ちしてしまう。そして朝起きると、夢で見たまんまの女の子、ルビーが実際に現れてしまうというファンタジックラブコメディーとして宣伝されている、が。これはラブの話はまぁあるけれど、コメディ要素ってほとんどない気がする。あるのはモテない男の醜悪さ。
劇中のカルヴィンとルビーのじゃれあいの中でカルヴィンが、モテない男が、そしてぼくが何故モテないかを端的に示す台詞があった。ルビーは「強引なのが好き」というと、アルヴィンはとある行動をして「強引だろ」と返す。するとルビーは「あなたは頑固なだけ。強引じゃないわ」と反論する。このシーンは別に二人が喧嘩しているシーンではなくカップルの間のイチャイチャの中の台詞なのに、ずしんと身に摘まされる台詞。カルヴィンは彼女どころか友達も居ない。そこに『サマー』のトムと本作のカルヴィンとの差異が見受けられる気がする。
カルヴィンは頑固なのだ。自分自身を変えられないし、変える気も無い。周囲に合わせる気も無い。だからカルヴィンは独りなんだと。カルヴィンが犬を飼っていることも、劇中でルビーにも指摘されていたが、カルヴィンの頑固さの象徴のように描かれる。つまるところ、カルヴィンがモテないのはブサイクだからではなく、自分にしか興味が無い、自分しか愛せない自己中心的な野郎だからなんだと。同様なことを『ソーシャルネットワーク』で主人公のマーク・ザッカーバーグが彼女に言われて速攻で振られていた。「アンタがモテないのはオタクだからじゃない。アンタが最低なやつだからよ」と。
宣伝のチラシに漫画家の花くまゆうさくさんがカルヴィンを評して「日本よ、これが実写版のび太」だと表現していたけれど、まさに後半の展開で見せるカルヴィンの行動は黒い時ののび太のそれであって、そしてその行動はとてつもない暴力でありウルトラヴァイオレンス的に不快な暴力性を見せ付ける、どうしようもない。この描写こそが本作の肝であり、ぼくたちモテない人間がどうしてモテないかということをルビーであり、脚本のゾーイ・カザンが叩きつけてくる。
ただ全体としてのコメディに振り切れない感じはどうなのかと。前作の『リトルミスサンシャイン』もコメディ的な雰囲気とは裏腹に、内実は不快な登場人物たちが織り成す不協和音が主なストーリーラインだった。今作もカルヴィンの兄とか灰汁が強くて不快な登場人物がいっぱい。主人公のカルヴィンにも微妙に共感を抱きづらい。コメディっぽいシーンもコメディにはなりきらない。唯一フランス語を話すシーンは面白かったけれど、基本的にはドラマでありコメディではない。こんなウディ・アレンが書きそうな奇想天外なあらすじなのにもったいない。この筋でウディ・アレンが脚本・監督したらもっと面白かったろうにと思ってしまうです。
ちなみに『ルビースパーク』でルビー役を演じ、脚本も書いたのはゾーイ・カザンで、『(500)日のサマー』のサマー役を演じたのはズーイ・デシャネル。ぼくはゾーイよりズーイが良いです。
配給がFOXサーチライトだからか宣伝で『(500)日のサマー』との対比がされていた。あちらはサマー自体の小悪魔さにどんなに頑張っても変えられようの無い恋愛の不条理性が体現されていたように思うけれど、同類の映画みたいに宣伝されている『ルビースパーク』は恋愛の不条理性という男女両方に当てはまるようなことではなく、「どうしてお前はモテないのか」ということをモテない男に強烈に突きつけてきやがる、くれるゾーイ・カザンからのモテない男たちへの教育映画になっている。なので、カップルとかはポカンだったのではないだろうか。
デビュー作が批評的にも商業的にも成功した作家のカルヴィンは2作目が書けない長いスランプに陥っている。そんな中友達代わりの兄の勧めで、女の話を書けとそそのかされる。そのそそそのかしに乗ったカルヴィンは夢で見た女の子のことを小説に書き始める。するとある日、小説の女の子、ルビーの小説を書いている間に寝落ちしてしまう。そして朝起きると、夢で見たまんまの女の子、ルビーが実際に現れてしまうというファンタジックラブコメディーとして宣伝されている、が。これはラブの話はまぁあるけれど、コメディ要素ってほとんどない気がする。あるのはモテない男の醜悪さ。
劇中のカルヴィンとルビーのじゃれあいの中でカルヴィンが、モテない男が、そしてぼくが何故モテないかを端的に示す台詞があった。ルビーは「強引なのが好き」というと、アルヴィンはとある行動をして「強引だろ」と返す。するとルビーは「あなたは頑固なだけ。強引じゃないわ」と反論する。このシーンは別に二人が喧嘩しているシーンではなくカップルの間のイチャイチャの中の台詞なのに、ずしんと身に摘まされる台詞。カルヴィンは彼女どころか友達も居ない。そこに『サマー』のトムと本作のカルヴィンとの差異が見受けられる気がする。
カルヴィンは頑固なのだ。自分自身を変えられないし、変える気も無い。周囲に合わせる気も無い。だからカルヴィンは独りなんだと。カルヴィンが犬を飼っていることも、劇中でルビーにも指摘されていたが、カルヴィンの頑固さの象徴のように描かれる。つまるところ、カルヴィンがモテないのはブサイクだからではなく、自分にしか興味が無い、自分しか愛せない自己中心的な野郎だからなんだと。同様なことを『ソーシャルネットワーク』で主人公のマーク・ザッカーバーグが彼女に言われて速攻で振られていた。「アンタがモテないのはオタクだからじゃない。アンタが最低なやつだからよ」と。
宣伝のチラシに漫画家の花くまゆうさくさんがカルヴィンを評して「日本よ、これが実写版のび太」だと表現していたけれど、まさに後半の展開で見せるカルヴィンの行動は黒い時ののび太のそれであって、そしてその行動はとてつもない暴力でありウルトラヴァイオレンス的に不快な暴力性を見せ付ける、どうしようもない。この描写こそが本作の肝であり、ぼくたちモテない人間がどうしてモテないかということをルビーであり、脚本のゾーイ・カザンが叩きつけてくる。
ただ全体としてのコメディに振り切れない感じはどうなのかと。前作の『リトルミスサンシャイン』もコメディ的な雰囲気とは裏腹に、内実は不快な登場人物たちが織り成す不協和音が主なストーリーラインだった。今作もカルヴィンの兄とか灰汁が強くて不快な登場人物がいっぱい。主人公のカルヴィンにも微妙に共感を抱きづらい。コメディっぽいシーンもコメディにはなりきらない。唯一フランス語を話すシーンは面白かったけれど、基本的にはドラマでありコメディではない。こんなウディ・アレンが書きそうな奇想天外なあらすじなのにもったいない。この筋でウディ・アレンが脚本・監督したらもっと面白かったろうにと思ってしまうです。
ちなみに『ルビースパーク』でルビー役を演じ、脚本も書いたのはゾーイ・カザンで、『(500)日のサマー』のサマー役を演じたのはズーイ・デシャネル。ぼくはゾーイよりズーイが良いです。