NOTEBOOK

なにも ほしがならなぁい なにも きたいしなぁい

ルビースパーク

2012-12-23 | 授業
ウィル・フェレルが主演した『主人公は僕だった』の逆というか、『カイロの紫のバラ』というか、『ドラえもん』というか、ウディ・アレンの映画というか。


ruby spark


配給がFOXサーチライトだからか宣伝で『(500)日のサマー』との対比がされていた。あちらはサマー自体の小悪魔さにどんなに頑張っても変えられようの無い恋愛の不条理性が体現されていたように思うけれど、同類の映画みたいに宣伝されている『ルビースパーク』は恋愛の不条理性という男女両方に当てはまるようなことではなく、「どうしてお前はモテないのか」ということをモテない男に強烈に突きつけてきやがる、くれるゾーイ・カザンからのモテない男たちへの教育映画になっている。なので、カップルとかはポカンだったのではないだろうか。

デビュー作が批評的にも商業的にも成功した作家のカルヴィンは2作目が書けない長いスランプに陥っている。そんな中友達代わりの兄の勧めで、女の話を書けとそそのかされる。そのそそそのかしに乗ったカルヴィンは夢で見た女の子のことを小説に書き始める。するとある日、小説の女の子、ルビーの小説を書いている間に寝落ちしてしまう。そして朝起きると、夢で見たまんまの女の子、ルビーが実際に現れてしまうというファンタジックラブコメディーとして宣伝されている、が。これはラブの話はまぁあるけれど、コメディ要素ってほとんどない気がする。あるのはモテない男の醜悪さ。



劇中のカルヴィンとルビーのじゃれあいの中でカルヴィンが、モテない男が、そしてぼくが何故モテないかを端的に示す台詞があった。ルビーは「強引なのが好き」というと、アルヴィンはとある行動をして「強引だろ」と返す。するとルビーは「あなたは頑固なだけ。強引じゃないわ」と反論する。このシーンは別に二人が喧嘩しているシーンではなくカップルの間のイチャイチャの中の台詞なのに、ずしんと身に摘まされる台詞。カルヴィンは彼女どころか友達も居ない。そこに『サマー』のトムと本作のカルヴィンとの差異が見受けられる気がする。

カルヴィンは頑固なのだ。自分自身を変えられないし、変える気も無い。周囲に合わせる気も無い。だからカルヴィンは独りなんだと。カルヴィンが犬を飼っていることも、劇中でルビーにも指摘されていたが、カルヴィンの頑固さの象徴のように描かれる。つまるところ、カルヴィンがモテないのはブサイクだからではなく、自分にしか興味が無い、自分しか愛せない自己中心的な野郎だからなんだと。同様なことを『ソーシャルネットワーク』で主人公のマーク・ザッカーバーグが彼女に言われて速攻で振られていた。「アンタがモテないのはオタクだからじゃない。アンタが最低なやつだからよ」と。

宣伝のチラシに漫画家の花くまゆうさくさんがカルヴィンを評して「日本よ、これが実写版のび太」だと表現していたけれど、まさに後半の展開で見せるカルヴィンの行動は黒い時ののび太のそれであって、そしてその行動はとてつもない暴力でありウルトラヴァイオレンス的に不快な暴力性を見せ付ける、どうしようもない。この描写こそが本作の肝であり、ぼくたちモテない人間がどうしてモテないかということをルビーであり、脚本のゾーイ・カザンが叩きつけてくる。


ただ全体としてのコメディに振り切れない感じはどうなのかと。前作の『リトルミスサンシャイン』もコメディ的な雰囲気とは裏腹に、内実は不快な登場人物たちが織り成す不協和音が主なストーリーラインだった。今作もカルヴィンの兄とか灰汁が強くて不快な登場人物がいっぱい。主人公のカルヴィンにも微妙に共感を抱きづらい。コメディっぽいシーンもコメディにはなりきらない。唯一フランス語を話すシーンは面白かったけれど、基本的にはドラマでありコメディではない。こんなウディ・アレンが書きそうな奇想天外なあらすじなのにもったいない。この筋でウディ・アレンが脚本・監督したらもっと面白かったろうにと思ってしまうです。


ちなみに『ルビースパーク』でルビー役を演じ、脚本も書いたのはゾーイ・カザンで、『(500)日のサマー』のサマー役を演じたのはズーイ・デシャネル。ぼくはゾーイよりズーイが良いです。

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』は『ダークナイト ライジング』か

2012-12-15 | 授業
なんだかオタクとかではない、ライトな方々が盛り上がっていたので嫌な予感はしていたのだけれど…ようやくブームが落ち着いた頃合だろうと思い、劇場へ。


『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』(公式サイト)
リトルランボーズ


いつの間にか時は過ぎ、『破』のラストで綾波を助けるべく初号機と一体化しサードインパクトが結局引き起こされてしまった。そして『Q』ではサードインパクトから14年の年月が経てしまっていた。おなじみのキャラクターたちはそれぞれ14年のときを経て、内面も見た目も変化していたが、アスカ曰く「ヱヴァの呪い」とのことでパイロットたちは14年前の姿。これは特にシンジに対しての設定のように感じられる。14年たっても見た目も中身も子供のままの24歳の碇シンジって、「気持ち悪い」のあのころと同じことを言っているように思えてくるのは被害妄想だろうか。そして『Q』のシンジは自称シンジなぼくですらイライラするほどにガキであり、感情移入がまったく出来ない。

そして碇ゲンドウとネルフの目的を知り、袂を分かったミサトたちはシンジじゃなくても観客すら置いてけぼりなほどに変化しているのに比べ、ネルフの施設や人々(とは言っても、ゲンドウと冬月、綾波クローンしか出てこないが)はホッとするほどほとんど変わっていない。ゲンドウが『X-Men』のサイクロップスのようにはなっているが基本は変わっていない。ゼーレもモノリスのまま。綾波の家は『三丁目の夕日』の如く、奇妙な形でネルフの中に再現されている。とっても不自然。物語上で善とされる人々は変わっていき、悪とされる人々は変わることを拒んでいる。そしてシンジもまた変化を拒んでいる。劇中何度かカヲル君はシンジに対して、変わること、新しいことにチャレンジすることを促す。

お決まりのDATプレイヤーは序盤には壊れていて物語が進まないことを暗示する。中盤、カヲルに修理を依頼したところから、物語が動き出すかのように思えたが、結局シンジが駄々をこねた挙句にまたしても壊してしまう。それにしても、それにしてもだ。なんだろうか、この脚本は。結局終盤の展開はすべてカヲルくんの思い違いだったという落ち。罠に嵌められたと好意的に言っても良いが、シンジに行動を促したカヲルは結局のところ無駄足に終わり、それを無効化するために自刃するという何とも報われない落ちになる。

それにリアリティーラインの変更が個人的にはとっても痛い。これまで絶妙なリアリティラインがあったからこそ『ヱヴァ』の世界観が現実と地続きに感じられたのに(ましてや『破』以降は現実の昭和歌謡などを取り入れますます現実を取り込んでいるというのに。)突然の時間経過と共に『ヱヴァ』のリアリティラインは大きく踏み越えられてしまった。現実との地続きであったからこそリアリティがあり、おそらくはテーマであったろう自己承認欲求が描けていたのに、唐突に他のアニメと同じようなSFを超えたファンタジー的な描写に心底がっかりさせられた。


本当にがっかり。予告編も微妙すぎるし。まったくサービス、サービスじゃない。何あのヱヴァ。何というか『グレンラガン』に悪い方向に引っ張られたみたいな感じ。特撮展で上映していた『巨神兵東京に現わる』って一見関係ないけれど、『破』と『Q』をつなぐ映像にも見える。『Q』で語られる「サードインパクト」の描写が『巨神兵』に酷似していたし。でもそれってどうなの?特撮映像は確かにすごかったけど、短編映画としてみるとあの一人称の気持ち悪い語りはなんなのと(しかもあの語りは本編のカヲルの語りと呼応している。)。

もう『ヱヴァ』作るのやめて、『ウルトラマン』のリブートを作ればいいと思うよ。リブート流行っているし。『ダークナイト』、『Man of the steal』みたいな。『Gaiant of the light』とかどうだろう。

ブライズメイズ

2012-12-02 | 授業
安心のジャド・アパトー印かと思いきやあんまり評判が芳しくなかったけれど、観たら理由が分かった気がする。


リトルランボーズ


主人公のアニーは30代後半でケーキ屋の経営に失敗し、母親のコネで気の進まない仕事に就き、お金が無いから変なイギリス人兄妹とルームシェアをする冴えない生活。恋人はイケメンで金持ちだけれど、セックスが終わるととっとと帰れと促す最低男。そんな時に小学校からの親友が結婚することなり、親友であるリリアンが結婚することなり、親友のアニーが親友として花嫁のさまざまな世話をするブライズメイズ(花嫁付添い人)に成ることに。

ところが、アニーのほかに選ばれたブライズメイズの中の一人、へレンがリリアンのもう一人の親友として花嫁付添い人を仕切り始める。美人で、お金持ちで、センスの良が良く、しかも自分の知らないリリアンとのエピソードを嬉々として語るヘレンに対して、アニーは対抗心をみなぎらせ、結婚式の準備は徐々に混乱へと陥っていく。

何で評判が悪いのか。予告編でも散々取り上げられた序盤の食中毒のシーン。もう下ネタを越えた地獄絵図。これはもはやホラー映画。『スペル』のホラー描写が過激すぎてコメディーに転化してしまっていたのとは逆に、『ブライズメイズ』のお下劣描写は過剰すぎてホラー映画のゴア表現並みに観る人にとっては不快なものになりかねない表現になっているように感じる。もちろんぼくも不快。

でもこの映画の中で描かれているテーマはとっても魅力的。例えば主人公のアニーとヘレン。アニーのヘレンへの対抗意識は表面的には親友の自分以外の親友に対する嫉妬として描かれているけれど、そこに内在している問題として社会の成功への階段を登れなかった人と登れなかった人との間の関係性が描かれている。ブライズメイズの揃いの服を巡って、アニーは安い物をヘレンは高い物を、飛行機はエコノミーとビジネスを選ぶ。

アニーの30台女子の恋愛事情(イケメン金持ち自己中と優しく誠実な普通の男との間で揺れる)とかも面白い部分が結構ある。この映画で面白かったのはシリアスになる部分。アニー役を務めたクリステン・ウィグが共同脚本としてクレジットされているけど、この映画、コメディ映画にするよりももう少しドラマよりにした方が面白かったんじゃないだろうか。ドラマ部分が優れている、その点ではきちんとジャド・アパトー映画だったと思う。

ワンデイ

2012-12-02 | 授業
劇場公開時に観に行こうと思っていたら、いつの間にか終わってた。


リトルランボーズ


まごうことなきアン・ハサウェイ映画。大学時代に憧れていた男子、デクスターとセックスする機会を得るも、ちょっとした偶然でその機会を不意にしてしまったエマ。セックスしなかったことで二人の間に友情が芽生えていくという筋書き。親友と言いつつ、セックス以外はするという関係性が最近はやりの『ステイフレンズ』や『抱きたい関係』、それに同じアン・ハサウェイ主演の『ラブ&ドラッグ』といったセックスから純愛が始まる映画とは真逆でちょっと新鮮。

23年間の7月15日という1日のみを描くという構成も斬新。だから、例え二人の間の何か重大な出来事があったとしても、7月15日じゃなければ映画の中では直接には描かれない。その日の後にその大きな出来事について触れられる。23年の間の恋愛というか関係性を描くなら、23年間の間イベントごとに切り出していきそうなものの、それを1日だけに絞ったのは大正解。ばっさばっさと切り落としさっぱりとした印象に。あっけないとも言えるけど。もちろん原作小説があるので、元からなんだろうけれど。

というか、単純に甘酸っぱい関係性を描く『ラブ&ドラッグ』のような恋愛ドラマで、アン・ハサウェイが主演なんだと思っていたけど、観てみると違った。甘い関係性ばかりではなく、互いに必要としあう関係性で人間ドラマとして面白かった。イケメンでお坊ちゃまでテレビの司会者で女遊びばかりしている野郎だからまったく感情移入できなかったけど、エマが好きでもないのに付き合うイアンがまったく魅了的でなく描かれるので、どうしてもイケメン自己中野郎のデクスターに肩入れせざるを得ないように作られてるのがなんとも。彼の挫折から物語が単に恋愛だけではなくなってくる。

そして後半のある事件で、ぼくは思わず声を上げてしまった。この事件を後半に入れたことで単純な恋愛映画になることを拒否しているよう。ラストに時間軸を入れ替えたことで後味を損なわずに、恋愛からそれ以上の話に成れていたように思う。


それでも今作で注目すべきはやっぱりアン・ハサウェイの凄さ。大学時代の野暮ったい丸めがね姿に、メキシコ料理店での働いている姿、好きでもない男と成り行きで同棲しているころのさえない姿と自らの夢を叶えたときなどのエマの時々の姿がきちんとビジュアルで表現されているところ。野暮ったくてもアン・ハサウェイが可愛いという。またこの人は露出狂なんじゃないかと疑うほどにいい脱ぎっぷり。前述のセックスからの純愛モノの中でバストトップまでさらしているのは『ラブ&ドラッグ』のアン・ハサウェイのみ。あんなにあけすけで面白い『ステイフレンズ』のミラ・クニスもそこは守ってる。なんだかいつも脱いでる気がするアン・ハサウェイ。