白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

微視的細部48

2020年07月10日 | 日記・エッセイ・コラム
ネルヴァルは「女の叫び声」を聞く。「オーレリアの声であり響」に違いないと確信する。

「周囲では皆が私の無力を笑っているようだった。ーーーその時私は、名状し難い誇りに意気軒昂として王座のところまで退き、そして魔力を持つものと思えた呪文を唱えようとして腕を挙げた。胸を裂くような苦痛の響を帯びた、顫える明瞭な女の叫び声が、突然私をはっとさせた!將に発しようとしていた知られざる一語の音綴(シラブル)は、私の口唇に消え失せたーーー。私はがばと床に伏して、潸然と涙を流しつつ、熱心に祈り始めた。ーーーだが、今闇の裡にかくも痛ましく響いたあの声は、一体何であろう?その声は夢のものではなかった。生きている人の声であった。だがしかし、私にとってはそれはオーレリアの声であり響であったーーー。私は窓を開けた。一切は森閑としていて、叫び声はもはや二度と戻らなかった。ーーー戸外の者にも訊ねてみたが、誰も何も聞かなかった。ーーーしかしながら、その叫び声が現実のものであり、此の世の空気にけたたましく響いたことを、私は未だに確信している」(ネルヴァル「オーレリア・P.47~48」岩波文庫)

というのは次のような考え方が身に付いていたからである。

「私は、人間の想像は嘗て此の世界に於いても他の諸世界に於いても、一つとして真ならざるものを考え出したことはないと信ずるのであり、そして自分がかくも明瞭に《見た》ものを、疑うことはできぬ」(ネルヴァル「オーレリア・P.41」岩波文庫)

そしてどの人間も、たとえそれが「狂気の産物」であったとしても、まさしく「狂気の産物」であるという資格においてそれは《現実》であるということを否定することはできないからである。詩人としての子供はどうか。フロイトはいう。

「遊ぶ子供はこの世界を真剣に受け取ってはいないなどと思ったら、それは誤りである。どうしてどうして子供は自分の遊びを非常に真剣に考えている。遊びというものにたいへんな情動量をそそいでいるのである。そして遊びの反対は真剣ではない。ーーー現実である」(フロイト「詩人と空想すること」『フロイト著作集3・P.82』人文書院)

さらにネルヴァルは述べる。

「魂が、生と夢との間、精神の混乱と冷静な反省の復帰との間を、定まらず漂っている時、宗教的思想の中にこそ救いを求むべきである。われわれに利己主義的及至精々互恵主義的訓言と、空しい経験とか、苦々しい疑惑しか提供して居らぬこの哲学の中に、私は嘗て救いを見出し得なかった。ーーー之は感受性を削減することによって、精神的苦痛と闘うのだ。外科と同じで、苦しみを与える器官を除去してしまうことしかできないのである。ーーーしかし、われわれ、あらゆる信仰が破壊され尽した改革と暴風雨の時代に生まれた者、ーーーそんな掟に無頓着に同意することは恐らく不信や異端よりも罪悪なのであるが、単に何等かの外的実行に甘んずる漠とした掟の裡に育つのが精々だったわれわれにとって、ーーー要求を感じたからと言って、素朴単純な輩が全く示された通りの形で心に受け容れる神秘な殿堂を、直ちに再建することは極めて困難なのである。『智恵の木は生の木ではない!』。とは言え、幾代も幾代もの聡明な人々がそこに注ぎ込んだ善きもの及至不幸なものをば、己が精神から投げ棄てることがわれわれにできようか?無知は学ばれるものではない。私は『神』の慈悲に希望を懐いている。或いはわれわれは、智慧がその総合分析、信仰否定の全循環を成就し了って、己れ自らを浄化し、混乱と廃墟より未来の絢爛たる都を迸り出させることのできるような、予言せられたる時代に、接近しているのかも知れぬ」(ネルヴァル「オーレリア・P.52~53」岩波文庫)

長い文章だが、述べられていることはすでに何度か引用していることと違わない。

「すべてを否定した大革命と、キリスト教信仰をまるごと取り戻そうとする反動の世の中と、二つの時代の相反する教育のあいだで迷う、不信心というよりは懐疑的な世紀の子である私」(ネルヴァル「イシス」『火の娘たち・P.380』岩波文庫)

また、「われわれは、智慧がその総合分析、信仰否定の全循環を成就し了って」とある。この「智慧」とはどのような知恵なのか。作品「シルヴィ」では「アドリエンヌ=ベアトリーチェ=シルヴィ=オーレリー」の系列が出現する。その中でシルヴィだけは特権的に「『知恵』の神殿に置」かれる。

「これからは彼女を、微笑する彫像として『知恵』の神殿に置くことにしよう」(ネルヴァル「シルヴィ」『火の娘たち・P.267』岩波文庫)

知恵の神。ギリシア=ローマ神話では「パラス=ミネルウァ=アテーナー」と呼ばれている。知恵というのは今なおそうであるように様々な仮面を持つ。ヘシオドスは「思慮分別」と書いている。

「女神のなかの女神エウリュビアは クレイオスと情愛の共寝して 大いなるアストライオスとパラスと ペルセスを生まれたが この者は 思慮分別にかけて すべての者に抜きんでていた」(ヘシオドス「神統記・P.49~50」岩波文庫)

アテーナーはまた軍神でもある。

「パラースの皮を剥ぎとって、それで以て戦闘の際自分の身を鎧(よろ)った」(アポロドーロス「ギリシア神話・第一巻・P.38」岩波文庫)

船の建造術を知ってもいる。それをダナオスに教えてやる。

「多くの女の腹からアイギュプトスには五十人の男の子が、ダナオスには五十人の女の子が生れた。王権に関して彼らは後になって争った結果、ダナオスはアイギュプトスの子供たちを恐れ、アテーナーの忠告に従って船の最初の建造者となり、娘たちを乗せて遁(のが)れた」(アポロドーロス「ギリシア神話・第二巻・P.73~74」岩波文庫)

或る時は神官として儀式を執り行う。

「彼らが結婚の相手を引きあてた時に、ダナオスは饗宴を催して娘たちに短刀を与えた。娘たちはヒュペルムネーストラーを除いて、花婿を眠っている間に殺した。彼女はリュンケウスがその処女性を守ってくれたために、彼を助けたのである。それゆえにダナオスは彼女を閉じこめて見張りをした。他のダナオスの娘たちは花婿の首をレルネーに葬り、身体は市の前で葬礼に付した。そしてゼウスの命によってアテーナーとヘルメースとが彼女たちを潔めた」(アポロドーロス「ギリシア神話・第二巻・P.76」岩波文庫)

軍神としての活躍は有名だ。

「戦神(いくさがみ)ミネルウァは、鋭いまなざしをアグラウロスに向けると、胸底から溜息を吐いたが、その勢いがあまりにもはげしかったので、胸も、そのたくましい胸につけた神盾(アイギス)も、ともに震え動くほどだった」(オウィディウス「変身物語・上・巻二・P.88」岩波文庫)

軍神であるだけでは国を豊かにすることはもちろん出来ない。アテーナー=ミネルウァにはそれがよくわかっている。

「ミネルウァの丘を望むあたりまでやって来た。学才と富と楽しげな平和で栄えているこの都ーーー悲しい情景がどこにも見られなかった」(オウィディウス「変身物語・上・巻二・P.90」岩波文庫)

有名なエピソードに「メドゥーサの首」がある。対抗手段をペルセウスに教えてやる。

「ゴルゴーンたちは竜の鱗(うろこ)でとり巻かれた頭を持ち、歯は猪のごとく大きく、手は青銅、翼は黄金で、その翼で彼女らは飛んだ。そして彼女たちを見た者を石に変じた。ペルセウスは彼女らが眠っている上に立ちふさがって、アテーナーに手を導かれ、面をそむけつつ、それによってゴルゴーンの姿を眺める青銅の楯の中を眺めながら、彼女の首を切った」(アポロドーロス「ギリシア神話・第二巻・P.81」岩波文庫)

ところが異説も多い。

「ヘルメースは上述の品々をまたニムフたちにかえし、アテーナーはその楯の中央にゴンゴーンの首を挿入した。しかし一部の人々はメドゥーサはアテーナーに頭を断たれたと言っている。彼らはまたゴルゴーンが女神と美をも競わんと欲したのであると主張している」(アポロドーロス「ギリシア神話・第二巻・P.82」岩波文庫)

おそらく次のようにオウィディウスがまとめている辺りが間違いないものと思われる。「ゴルゴーンが女神と美をも競わん」としたためアテーナーはゴルゴーンの首を斬り落としたというところなどは相当嫉妬深いタイプだったこともうかがわせる。

「メドゥーサは、もとはすばらしい美女だったのです。たくさんの求婚者たちにとって、羨望をまじえたあこがれのまとでもありました。しかし、とりわけ、彼女の髪の美しさが人目を引いていました。わたしは、その頃の彼女を見たという人に会ったことがあります。その彼女を、海神ネプトゥーヌスが、メネルウァの神殿で辱(はずか)しめたというのです。ミネルウァ女神は、顔をそむけ、純潔な頬を神盾(アイギス)で隠しました。そして、この罪を罰するために、メドゥーサの髪を醜い蛇に変えられたのです。女神は、今も、敵をびっくりさせ、恐怖でおびえさせるために、自分が作り出したこの蛇髪を、胸にかざした神盾(アイギス)につけていらっしゃるのです」(オウィディウス「変身物語・上・巻四・P.176」岩波文庫)

また、アテーナーは武器を調達してきたのかそれとも軍事産業家を兼ねていたのか、どちらなのか判断しにくい面がある。おそらく両方だろう。逆にアポロンに頼んで或る種の薬物をもらっているエピソードもあることから、他の分野に関しては仲介者としての役割がウエイトを占めていたと考えられる。

「ヘーラクレースはアテーナーから武器を得て軍の将となり、エルギーノスをば殺し、ミニュアース人を敗走せしめ、二倍の貢物をテーバイ人に払うように強いた」(アポロドーロス「ギリシア神話・第二巻・P.88」岩波文庫)

機織りの技術にも長けていた。

「ヘーラクレースは最初にエウリュトスより弓術を習って、ヘルメースからは剣を、アポローンからは弓と矢を、ヘーパイストスからは黄金の胸当てを、アテーナーからは長衣(ペプロス)を得た」(アポロドーロス「ギリシア神話・第二巻・P.89」岩波文庫)

ゆえに機織り技術のライバルである女性アラクネの作品を見て嫉妬心を隠せず、神ゆえの技法を用いてアラクネを蜘蛛に変えてしまう。オウィディウス「変身物語」では有名なエピソードだ。

「ミネルウァ女神も、『悪意』の神も、この作品に難癖(なんくせ)をつけることはできなかったろう。男まさりの、金髪の女神には、その出来ばえが癪(しゃく)にさわった。神々の非行を描いたこの織物を引きちぎると、手にしていたキュトロス産の黄楊(つげ)の梭(ひ)で、三度、四度と、アラクネの額(ひたい)を打った。かわいそうなアラクネは、こらえきれないで、ひと思いに首をくくった。哀れを催したミネルウァは、ぶらさがっている彼女を抱き上げて、こういった。『腹ぐろい娘さん、生きてだけはおいで!でも、ぶらさがったままでいるのよ!先のことも、心配してはならないね。おまえさんの一族には、末ながく、同じ懲罰を残しておくのだから』。こういって、立ち去ろうとしながら、魔法の草の汁を彼女にふりかけた。と、たちまちに、不吉な毒薬に触れた髪の毛が、抜け落ちた。それとともに、鼻も、両耳も落ちる。そして、頭がたいそう小さくなる。からだ全体も、ちっぽけなものとなった。脇腹に、やせこけ指がついていて、脚の代りをする。あとは、腹ばかりだが、今もその腹から糸を吐いて、むかしどおり機織りに励んでいる。彼女は蜘蛛(くも)になった」(オウィディウス「変身物語・上・巻六・P.227~228」岩波文庫)

次のエピソードもアテーナーが実際の製造者なのかそれともその仲介者なのか迷うところである。しかし自分の見込んだ相手にはともかく援助の手を差しのべる。

「ヘーラクレースはどうして森から鳥を追い出すべきか途方にくれている時に、アテーナーが青銅のガラガラをヘーパイストスから得て彼に与えた。これを湖水の近くのとある山の上で打ち鳴らして鳥を驚かした。鳥はその物音に堪(た)えず、恐れて飛び上り、ヘーラクレースはこのようにして鳥を射た」(アポロドーロス「ギリシア神話・第二巻・P.94」岩波文庫)

今度は明らかに仲介者として登場している。他の土地はアテーナーの所有でなく、そう簡単に自由になるものではない。

「〔ヘーラクレースは〕コースを破壊してから、アテーナーの仲介でプレグライに来(きた)り、神々とともに巨人(ギガース)たちを打ち破った」(アポロドーロス「ギリシア神話・第二巻・P.106」岩波文庫)

ヘラクレスはアテーナーのお気に入りである。気前よく対抗手段を提供する。

「ヘーラクレースはアテーナーから青銅製の壺に入っているゴルゴーンの毛髪を得て、もし軍勢が攻め寄せて来たならば、その髪を三度城壁から差し上げ、前を見ないでいるならば、敵は敗走するであろうと言って、ケーペウスの娘ステロペーに与えた」(アポロドーロス「ギリシア神話・第二巻・P.107」岩波文庫)

テイレシアスはテーバイの予言者として有名だが、なぜ盲目になったかは判然としない。オウィディウスはまた別のエピソードを上げているが、そちらはテイレシアスの変身が眼目になっているので、よりアテーナーに近いと思われる部分を上げる。この部分は「見る=認識」に関わる。他にもカッサンドラなど様々な予言者が登場するわけだが、「知ること=認識すること」がいかに重要な意味を持っていたか。そしてそれを言語化することは容易に許されることではなかった点に注目すべきだろう。言語の獲得、貨幣の獲得、さらにそれらの去勢、というテーマ系について述べることができる。「山茱萸(さんしゅゆ)の木の枝」は要するに、盲目にする代わりに「鳥の声」に導かれるほど鋭い聴覚と歩行のための杖とを与えたというわけである。なお、山茱萸(さんしゅゆ)は日本では俳句の季語(春)。朝鮮半島や中国を原産とする滋養強壮剤であり男根の勃起力を高めると言われる。去勢の代わりに「山茱萸(さんしゅゆ)の木の枝」が選ばれたのにはそのような意味もあるかもしれない。

「テーバイ人にはエウエーレースとニムフのカリクローとの子なる、スパルトスの後裔、ウーダイオス家に属する盲目の予言者テイレシアースがあった。彼の不具となった事情と予言の力に関しては、種々の説が行なわれている。ある者は彼が神々によって、彼らが人間に隠そうと欲するところを明かしたために盲いにされたといい、一方ペレキューデースはアテーナーによって盲いにされたという。というのは、カリクローはアテーナーと親しい間柄にあったが、彼は女神の全裸の姿を見た。女神は彼の眼を両手で蔽(おお)って肩輪にした。カリクローが視力をまた元通りにするように頼んだが、これをなし得なかったので、彼の耳を清めて鳥のあらゆる鳴声を理解し得るようにし、それを持っていると目あきと同じに歩ける山茱萸(さんしゅゆ)の木の枝を彼に与えた」(アポロドーロス「ギリシア神話・第三巻・P.135」岩波文庫)

アテーナーは判断(=判決)の神でもある。古代の神にしては珍しく今の人間に近いヒューマニスト的思考回路も持つ。

「アスタコスの今一人の子メラニッポスはテューデウスの腹部に傷つけた。彼が半死のありさまで横たわっている時、アテーナーはゼウスより乞うて薬をもたらし、これによって彼を不死にせんものと考えていた。しかしアムピアラーオスがこれを見てとって、テューデウスが彼の意見に反してテーバイに遠征すべくアルゴス人らを説き伏せたので彼を憎み、メラニッポスの首を切り取り、彼に与えた。〔テューデウスは傷つきながらも彼を殺した〕。テューデウスは彼の頭を割って脳を啖(くら)った。これを見てアテーナーは嫌悪し、前の恩恵を中止し、与えることを惜しんだ」(アポロドーロス「ギリシア神話・第三巻・P.136~137」岩波文庫)

医学の神アスクレピオス誕生にも関わる。

「アポローンはこれを告げた鴉(からす)を呪って、それまで白かったのを黒くし、女をば殺した。彼女が焼かれている時に火葬台より嬰児をひき掠(さら)って、ケンタウロスのケイローンの所に連れて行き、子供は彼の所で育てられる間に医術と狩猟の技とを教えられた。そして彼は外科医となり、その術を非常に研鑽(けんさん)進歩させて、ある者の死を妨げたのみならず、死者をもよみがえらせた。アテーナーよりゴルゴーンの血管から流出した血を得て、左側の血管より流出せる血を人間の破滅に、右側よりのを救済に用い、これによって死者を蘇生させた」(アポロドーロス「ギリシア神話・第三巻・P.147」岩波文庫)

カール・ケレーニイは次のように述べている。

「ケンタウロイのなかでもっとも正義の人、ケイロンがいる。ペリオン山上の洞窟で、彼は神々の息子たち、英雄たち、とりわけ医神アスクレピオスを教育した。というのも、彼自身が医学や薬草について最初に知識をもったからである」(ケレーニイ「ギリシアの神話 神々の時代・第九章・P.196~197」中公文庫)

ところが「ケンタウロスのケイローン」の父イクシオンには謎が多い。

「イクシーオーンはヘーラーに恋して、彼女を犯さんとした。ヘーラーがこれを告げた時、ゼウスは事の真相を知らんと欲して、雲をヘーラーの姿に似せて彼の横に寝かせた。そしてヘーラーと交わったと誇っているイクシーオーンを車輪に縛りつけ、彼は空中に風によって引き廻され、かくてかかる罰を彼はうけている。そして『雲』はイクシーオーンによってケンタウロスを生んだ」(アポロドーロス「ギリシア神話・摘要・P.176~177」岩波文庫)

ケレーニイはいう。

「イクシオンの地上における妻の名はディアといったが、この名はヘラの娘ヘベの異名にすぎない。ひょっとすると、『ゼウスに従う女』『天女』ーーーというのは、これがディーアという語の意味であるからーーーであるヘラ自身の異名であるかもしれない。イクシオンは義父のデイオネウス(『荒廃させる者』)にたくさんの結婚の贈物を約束した。デイオネウスが約束の品を受け取りにやってきたとき、婿(むこ)は細い木とごみでおおった火の入ったおとし穴をこしらえて、その中に花嫁の父をつき落とした。イクシオンは、こうして人間のなかで最初の近親殺人を犯した」(ケレーニイ「ギリシアの神話 神々の時代・第九章・P.195~196」中公文庫)

イクシオンにはどこか「過剰=逸脱」がある。神々にも少なくないが、神として畏怖される条件はこの「過剰=逸脱」である。テセウスによる大量殺害などはその典型例の一つだと言える。アテーナーに戻ろう。ポセイドンとの違いに注目したい。

「ポセイドーンが先ずアッティカに来て、その三叉(さんさ)の戟(ほこ)を以てアクロポリスの中央をうち、今日エレクテーイスと呼ばれている海を出現せしめた。彼の後でアテーナーが来て、ケクロプスを彼女の獲得の証人とし、今日パンドロセイオンにおいて示されているオリーヴの木を植えた」(アポロドーロス「ギリシア神話・第三巻・P.160」岩波文庫)

ちなみにニーチェは「《いくつかの創造的衝動の衝突》」といっている。

「私は、偶然的なもののただ中にも、《能動的な力》を、創造作用をいとなむものを、みとめた。ーーーすなわち、偶然とは、それ自身、《いくつかの創造的衝動の衝突》にすぎない」(ニーチェ「権力への意志・下巻・六七三・P194」ちくま学芸文庫)

次のエピソードはまさしくニーチェのいう「《いくつかの創造的衝動の衝突》」を思わせる。

「アテーナーが武器を造る目的でヘーパイストスの所に赴いた。ところが彼はアプロディーテーに棄てられていたので、アテーナーへの欲情の虜(とりこ)となり、女神を追いかけ始めた。女神は逃げた。非常な苦労の後にーーーというのは彼は跛であったからであるーーー女神に近づき、交わらんとした。しかし彼女は慎(つつま)しやかな処女であるからーーー、彼に応ぜず、彼は女神の脚に静液をまいた。彼女は憤って、毛でこれを拭きとり、地に投げた。彼女が遁れ、精種が大地に落ちた時に、エリクトニオスが生れた。彼をアテーナーは不死にせんものと神々に秘して育てた。そして彼を箱に入れて、ケクロプスの娘パンドロソスに、箱を開くことを禁じた後、あずけた。しかしパンドロソスの姉妹らは好奇心に駆られて箱を開き、赤児を巻いている大蛇を見た。一説によれば彼女らはその大蛇によって滅ぼされたとも言い、また一説によればアテーナーの怒りのために気が狂い、アクロポリスより投身したとも言う。アテーナー自身によってこの境内で育てあげられて、アムピクテュオーンを追放し、アテーナイの王となり、アクロポリスにあるアテーナーの木像を立て、パンアテーナイア祭を創設し、水のニムフなるプラークシテアーを娶り、彼女の腹より一子パンディーオーンが生れた」(アポロドーロス「ギリシア神話・第三巻・P.163」岩波文庫)

アテーナーの狂気が存分に発揮されているエピソードが続く。この狂気もまた「過剰=逸脱」であって神の条件に含まれるだろう。

「アイアースとオデュセウスとが競いに出た。(トロイアー人たち、また一説には同盟軍の人々の審判によって)オデュセウスが選ばれた。アイアースは無念のあまり取り乱して、夜間に軍を襲わんとした。アテーナーが彼を狂わしめ、彼をして刀を手に家畜の群にむかわしめた。彼は狂って牧者とともに家畜をアカイア人と思って殺した。後で正気にかえって、自らをも害して死んだ」(アポロドーロス「ギリシア神話・摘要・P.192」岩波文庫)

ソポクレスは悲劇を通して書いている。

「アテナ それはこのわたしがしたこと、破滅を喜ぶその思いを阻んだのは。容易に振り払うことのできない妄想をその眼に投げ込んで、羊の群れの方に、そしてまたまだ分配のすまぬままに番人たちが見張りをしている家畜の群れに向かうように、わたしが彼をそらせてしまったのです。するとあの男はその中に踊り込み、角もつ獣に斬りかかり、手当り次第に裂き殺す。しかもある時は、わが手に捕え殺したのは、獣ではなくアトレウスの子の二人の王であると信じ、またある時は他の将を襲って殺したつもりでいた。そこでこの狂気に苦しむ男を駆りたてて、わたしは運命の網の中に投げこんでいった。その後、この仕事にひと息ついたあとで、あの男はまた生き残った牛や羊を一匹残らずしばり合わせ、自分の家の方に連れて行く、それも自分では立派な角のある動物ではなく、人間を駆りたてているつもりで。そして今、家の中でこれらをしばったまま傷めつけているのです。さあお前にも、この狂乱の有様をはっきりと見せてあげよう。これを見てアルゴスの皆の人に告げるがよい。しっかりして、そのままじっとしていることです。この男からの危害をおそれることもない。わたしがその眼差をそらして、お前を見えないようにしてあげようから」(ソポクレス「アイアス」『ギリシア悲劇2・P.12~13』ちくま文庫)

「アテナ 敵をあざ笑うてやるほど気持のよい笑いはありますまいに」(ソポクレス「アイアス」『ギリシア悲劇2・P.14』ちくま文庫)

次ではまた神官になる。

「ロクリス人たちはやっとのことで自分の国に帰ったが、三年後に疫病がロクリスを襲った時に、彼らはイーリオンのアテーナーを宥(なだ)め、二人の処女を千年の間嘆願者として送るべしという神託を受けた」(アポロドーロス「ギリシア神話・摘要・P.200」岩波文庫)

それにしても神官の処女信仰はいつどのように発生したのか。逆にディオニュソスは何もかも転倒させてしまう神なのだが。

「牛飼 老いも若きも、まだ嫁が娘も交えて、その規律のよさは、まったく驚くばかりでございます。まず髪をとき肩まで垂らすと、こんどは小鹿の皮の結び目の解けたところを結び直し、帯に代えて、ひらひらと舌を閃かす蛇を、その斑(まだら)の皮衣に締めたのでございます。中には仔鹿や狼の子を抱いて、雪白の乳を飲ませているものもおります。ーーー一人が杖をとって岩を打つと、その岩から清らかな水がほとばしります。また一人が杖を大地に突きさせば、神の業か、葡萄酒が泉のごとく湧いてまいります。ーーー御母上は大声に『おおわが忠実な犬たちよ、この男どもは私らを捕えようとしているのだよ。さあ、手にもつ杖を武器に、私についておいで』と申されました。私どもは逃れて、からくも信女らに八つ裂きにされる憂き目を免れましたが、女たちは草を喰(は)んでいる牛の群れに、素手のまま踊りかかってゆきました。一人が乳房豊かな牝牛の仔(こ)を、鳴き吼(ほ)えるのも構わず、引き裂いて両の手にかざすかと思えば、また他の女らは、牝牛の体をバラバラに引き裂いております。殺された牛の胴や、蹄のさけた脚などが、あちこちに散らばり、また樅の枝に懸かって、垂れ下がっている血まみれの肉片もございます。一瞬前まで傲然と、怒りを角に表わしていた牡牛ですらが、女たちの無数の手にとられ、たちまち地上に屠られてしまいます。殿様がまばたきなさる間よりも早く、女たちはその肉をちぎってしまったのでございます。それから女たちは、まるで空飛ぶ鳥のように、ほとんど足が地に触れぬほどの疾さで山を駈け下り、アソポスの流れに沿うて、テーバイ人の豊かな穀物を実らせる麓の平地に向かいました。キタイロンの山裾の村、ヒュシアイとエリュトライとを、まるで敵のように襲って、手当り次第めちゃめちゃに荒して、家々から幼な子を掠(かす)めてまいります。子供のみか、奪った銅器鉄器のたぐいを肩に載せて運んでゆくのですが、紐で結(ゆわ)えつけもせぬのに、一つとして地面に落ちることがありません。また髪の毛の上に火をかざしているのに、いっこうに火傷(やけど)をするようにも見えません。村人たちも、信女らに荒されて腹を立て、武器をとって刃向おうといたしましたがーーー殿様、このときまさに、見るも恐ろしいことが起ったのでございます。すなわち、村のものが槍で相手を突いても血が出ぬのに、女たちが振う杖は男たちを傷つけ痛めて、とうとう村人たちは背を向けて逃げ去ったのでございます」(エウリピデス「バッコスの信女たち」『ギリシア悲劇4・P.488~490』ちくま文庫)

ほとんど無敵の「過剰=逸脱」がある。さてしかし、ネルヴァルはなぜシルヴィを「知恵の神殿」に置いたのか。

「『でも、分別をもたなければね。あなたにはパリで用事があるし、わたしだって仕事がある』」(ネルヴァル「シルヴィ」『火の娘たち・P.261』岩波文庫)

そういうわけだ。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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