白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

微視的細部52

2020年07月14日 | 日記・エッセイ・コラム
オーレリアの死によって呼び覚まされた「濫費した生活」。ネルヴァルは大学医学部に入りはしたものの文学を志して結果的に学業を放棄している。ところが十八歳のとき発表したゲーテ「ファウスト」(第一部)のフランス語翻訳版がかなりの好評を得た。フランスの文芸評論家の多くが好意的だったことは思いも寄らぬ反響であり、大いに自信を得たことは間違いない。それから本格的な創作活動に入るわけだが十代終わりから二十代始め頃には誰しもありがちなように、ネルヴァルも学問の傍ら同時に遊び暮らしている。金に困ることもたびたびあった。書籍購入費は当然のごとく馬鹿にならないほどかさんでいくが、その一方、遊びに費やす金額も馬鹿にならないほどかさんでいった。当時の遊びの中には恋愛も含まれるわけだが、しかしネルヴァルの場合、恋愛はその都度大いに真面目なものだ。ところが恋愛がその都度大いに真面目であればあるほど正確に何人の女性と恋愛関係を持ったかは問題でなくなり、オーレリアでない他の女性と恋愛関係を持ったこと自体が問題になる。というのも、人間がどの恋愛も真面目だったと主張するとき、この場合はネルヴァルだが、真面目であればあるほどかえってオーレリアのことをすっかり忘れ果てて全身全霊で他の女性に打ち込んでいたということを意味するからである。

「当時の私の精神状態が単に恋の思い出のみによって生じたと称するのは、余りに驕慢である。寧ろこう言うべきだ、極めて縷々悪が勝を制し、不幸の打撃を感じて始めてその過ちを覚った愚かに濫費した生活に対する一層甚だしい悔恨を、私は無意識に恋の思い出をもって紛らしていたと」(ネルヴァル「オーレリア・P.62」岩波文庫)

自己反省というより遥かに自己批判に接近している。オーレリアの思い出ばかりで自分の世界を覆い尽くしてしまうのはむしろ偽善だと。オーレリアの思い出だけで覆い尽くされてしまうのは逆に遊び惚けていた頃の自分自身の歴史なのだと。ネルヴァルはオーレリアに対する悲嘆を前面に置き換えることでオーレリアを貨幣化し、貨幣化したオーレリアを用いて「濫費した生活」を覆い隠そうとしている自分の自己欺瞞に気づく。

「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠す」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫)

という作業を無意識的にやってしまっていると。極めて冷静な態度に見える。この冷静さが持続する場合、その人間の精神状態はほぼニュートラルだと言える。だがネルヴァルの特徴の一つなのだが、いったん自己反省を始めると途中で止めることができないという底無しの反省地獄へ自分で自分自身を叩き込んでしまう点が上げられる。そしていつものように疲れ果てて朦朧とし、倒れて眠ってしまうまで自己反省をやめない。

「最後の赦しの眼差しはただただ彼女の優しく聖い憐憫に俟ったのであってみれば、生きて之を悲しませ死して之を苦しめた女を、もう考える資格すら自分にはないものと思った」(ネルヴァル「オーレリア・P.62」岩波文庫)

このような精神的態度は夢というよりも死を目指していると考えたほうが理解しやすいだろう。ただ、創作過程が順調に続くかぎり本当に自殺することはない。冥府下りのエピソードで埋め尽くされた作品「オーレリア」は生と死との《あいだ》の身体の状態、夢という形で擬似的な死の世界を演じることをメインとしている。その意味では十分成功している。また、一度興奮状態に陥った後の自己反省の時間ではいつものようにポスト・フェストゥム(あとの祭り)的な鬱状態を呈することはこの箇所でも規則的といっていいほど律儀に起きている。

「事前的(アンテ・フェストゥム)存在構造とは、来るべき事態を予感的に先取りしつつ、自己実現の場をつねに自己の前方に見ているような『前夜祭』(ante=前、festum=祭)的な情態性を表わしている。これに対して事後的(ポスト・フェストゥム)存在構造というのは、すでに決定的に完了した事態を反芻しながら、そこにもはや手遅れで回復不可能な未済の確定を見てとる『あとのまつり』的な情態性をさす」(木村敏「時間と自己・差異と同一性」『木村敏著作集2・P.43』弘文堂)

次の言葉は、ネルヴァルにとってだけは、或る老婆の口から放たれたもののように聞こえてくる。

「『お前は自分の年老った身内の死を、あの女の死を悲しんだほど深く悲しみはしなかった。それでどうして赦しを望むことなどできようぞ?』」(ネルヴァル「オーレリア・P.63」岩波文庫)

ネルヴァルはもう逃げようのないほど責め立てられているように感じる。だが精神的混乱は増大していない。ただ単に自己批判を継続させているに過ぎないように見える。むしろ意外なほど丁寧に書き留められている。そう整理して読んでみると、この箇所でネルヴァルは責め立てられることを《欲している》ことがわかるかと思う。ニーチェはいう。

「残忍とは《他人の》苦悩を眺める際に生じるものだとのみ教えなければならなかった以前の愚鈍な心理学を追い払わなければならない。自分自身の苦悩、自分自らを苦しめるということにも夥(おびただ)しい、有り余るほどの享楽があるのだ。ーーー人間は密(ひそ)かに自己の残忍さによって誘われているのであり、《自己自身に対して》向けられた残忍のあの危険な戦慄によって突き進められている」(ニーチェ「善悪の彼岸・二二九・P.212~213」岩波文庫)

また、多少違った議論になるかもしれないが、ここに出てきた「或る老婆」はネルヴァルにとって見覚えのある女性だ。最後に見た頃よりも「遙かに老けて見えた」と言っていて、マナーの点で失礼に当たるが、事実の申告としては女性本人にとって有難い二重の意味を持つ言葉である。そしてもしネルヴァルが統合失調者であればかつての知人がそれなりの年齢を経て登場することはまずあり得ない。統合失調者の場合、眼前に登場する人物は、最後に見た頃と同じ年齢の人物として出現するのが通例とされる。そうでなければまったく別のもの、かつての知人が公園のベンチに化けてこちらの様子をじっとうかがっているといった病的妄想として現われる。「或る老婆」の言葉に戻ろう。その言葉はネルヴァルがこれまでの生涯で対面し通過してきた様々な人物や人物像の系列をただちに出現させる。

「様々の時に識った人々の顔が、眼の前を速かに通り過ぎた。糸の切れた数珠の玉のように、照らし出され、薄れ、そして闇に紛れつつ、並び過ぎた。続いて私は色々な古代の彫像が朧ろげに形づくられて行くのを見た。それ等は次第に形を成し、定着し、そして私には容易に意の掴めぬ象徴を示すもののように見えた」(ネルヴァル「オーレリア・P.63」岩波文庫)

諸商品の無限の系列に等しい。しかしなぜいつもそうなのか。脱中心化しているからである。こんなふうに。

「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)

ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.118~120」国民文庫)

ところで「私には容易に意の掴めぬ象徴を示す」というのはどういうことか。特権的位置を獲得した貨幣はもはやどこにもないということだ。脱中心化というのは人間の記憶でいうと、その分類や区別がばらばらに解体された状態を指すのであって、何も今に始まったことではまるでない。マルクスが指摘しているように古代ギリシアのオウィディウス「変身物語」の昔からあった。また、脱中心化した意識状態というのは夢を見ているときには誰にでも起こっていることなので特に説明を要しない。むしろその「意を掴もう」とすればするほどますます混乱するばかりである。ただ、ネルヴァルが「掴もう」としているのはその「意味」であって、そうである限り逆に、ありとあらゆる人物像が脱中心化し乱舞している真っ只中でその「意味」を「掴む」のは不可能になる。このような時の精神状態の特徴はあらゆるものがシニフィエ(意味されるもの)を喪失してただひたすらシニフィアン(意味するもの)だけが大乱舞を演じているばかりである。ヘーゲルは止揚とか揚棄とか言っているのだが、それが実行不可能な状態に陥っているわけだ。ずっとこのままだとネルヴァルはシニフィアン(意味するもの)の洪水の中で消滅してしまうだろう。ところがそうならない。というのは意識的に無理に止揚あるいは揚棄しなくても、ネルヴァルの意識混乱状態は常時接続的ではなく《あいだ》の空いた間歇的なものであって、しばしば通常の自分が戻ってくる。回帰してくる。自分が戻り回帰してきたときに改めて原稿用紙に向かい、意識混乱状態の中で見たことをそのまま記述すればそれでよいからである。

「十年を距てて、この話の第一部に述べたと同じ考えが、一層積極的に一層脅迫的に立ち帰ってきた。『神』は私に後悔させるためにこれだけの時間を与えたのに、私はそれを少しも利用しなかった。《石像の会食者》の訪れた後、私は再び饗宴に坐ったのであった!」(ネルヴァル「オーレリア・P.63」岩波文庫)

この「《石像の会食者》」はモリエール「ドンジュアン」に出てくる石像のことで、さんざん痛めつけた宿敵はもはや石像になっているのだが、後になって石像が動き出して復讐されるというモリエール得意の悲喜劇に出てくる石像だとされている。「一層積極的に一層脅迫的に立ち帰ってきた」ゆえに「ドンジュアン」で間違いないのだろう。ところで、モリエールの戯曲解釈では「一層積極的に一層脅迫的に立ち帰ってきた」というような悲喜劇的な面ばかりが強調されており、珍妙な復讐劇でありながら、なぜ宿敵が現われ復讐がなされねばならなかったかという債権債務関係が曖昧にされる嫌いがなくもない。演劇以前は見知らぬ者同士であるにもかかわらず、どこかで、なぜ宿敵同士にならねばならず復讐がなされねば終わることができないか。この種の債権債務関係というのは、二人の男性が一人の女性を巡って闘争を始めるやいきなり出現するし出現しないわけにはいかない弁証法的過程である。

言うまでもなく当時の知識人の常識としてネルヴァルはヘーゲル読者の一人だった。そして一七八九年フランス革命前後から十九世紀前半の文学芸術世界では、モリエールのような《欲望》の自由闊達さを取り扱った文学に目を通すとき、とりわけネルヴァルのようなダブルバインド状況をまともにかぶった人々は、転倒に継ぐ転倒という不可避的なダブルバインド状況を描き切ったヘーゲルに寄りかかり、モリエールの戯曲の中に、矢も盾もたまらず無意識的にヘーゲル化されたモリエール作品を読み込んでしまうのである。もはや時代はヨーロッパを制覇した近代であり、資本主義なのであって、問われているのは《欲望》とは何かでなくてはまるで話にならない。一人の女性を巡って二人の男性が争う場合、どちらか一方の言葉を他方の言葉が全否定してしまうことは今でもよくある。一方の言い放つ言葉が実際に的を得ていようがいまいが関係なく。モリエールの他の作品にはこの傾向がよりいっそう顕著なものが見られる。かつて「人間ぎらい」というタイトルで有名だった作品は特にそうだ。

「オロント のぞみこそ心の揺(ゆ)り籠(かご) 束(つか)の間(ま)の苦をあやなせど のぞみに続くよろこびの 絶えてしなくば憂(う)からまし/フィラント その一節だけで、もうすっかり好(い)い気持になりますね。/アルセスト (低声でフィラントをたしなめて)何を?臆面もなく、こんなものを褒めるのか?/オロント 過ぎし日の君がなさけも 今は将(は)た恨みわびつれ 実(みの)らぬ恋のすさびには 花ののぞみも甲斐(かい)なしや/フィラント いや、どうも!粋(いき)な詞(ことば)で味な《いきさつ》を言ってのけましたなあ!/アルセスト (低声で)けしからん!さもしい《おべんちゃら》は止(よ)せ。こんな愚作を褒めるのか?/オロント 待つ恋の久しかりせば 死の影のしのびよる日は 胸の火もやがて消(け)ぬらめ はなかしや君がなさけも 美(うま)しフィリスよ幸うすき我(われ) 永久(とわ)にのぞみのいや募るとも/フィラント その結句(おち)がまた見事ですなあ、恋々(れんれん)の情を湛(たた)えて、あっぱれあっぱれ!/アルセスト (低声で)結句(おち)も糞もあるかい!鼻持ちならぬ巧言者奴(おせじものめ)、結句(おち)て転んで鼻柱でも折るがいい!/フィラント これほど、措辞(そじ)の巧みな詩はかつて聴いたことがありませんな。/アルセスト (フィラントに)けしからん!ーーー/オロント それはお世辞でしょう、おそらく内心ではーーーフィラント いや、お世辞どころか。/アルセスト (フィラントに低声で)いったい、何を言ってるんだ、不届きな!」(モリエール「孤客・P.26~28」岩波文庫)

アルセストはオロントの詩を徹底的に殺戮してしまわねば気が済まない。アルセストとオロントとは、当時のフランス貴族階級にありがちだったセリメエヌという「尻軽美形未亡人」を欲望している。今の日本でいう「美形若後家あるいは美形若義母」のような女性だ。日本だけでなく世界的なポルノサイトでも「制服、人妻」と並んで圧倒的人気を誇る。さらにセリメエヌの年齢は二十代に設定されている。しかしそれは当時のフランス貴族階級の恋愛関係をパロディ化するためモリエールが設定した構成要素であって、それから百五十年経ち、なおかつルイ王朝そのものが打倒されてしまっていることもあって、差し当たりどうでもいい。だが今度は近代資本主義の世界化とともに《欲望》というものは具体的に一体どこでどんなふうに出現するのかという問いが出てきた。アルセストの場合、オロントがセリメエヌに向けた愛欲を語って聞かせる詩=言葉がそれに当たる。アルセストはオロントの詩=言葉をとことん否定し解体し尽くそうと身悶える。なぜなら、アルセストの欲望があろうことかオロントという別の男性の言語となってアルセストと切り離された別の場所に出現しているからである。だが言葉化されたオロントの欲望はまさしくアルセスト自身の欲望にほかならない。欲望は言語〔大文字の他者。商品の場合なら貨幣〕という形態で始めて生産される。フーコーに言わせれば、性は「最も思弁的かつ最も観念的で最も内面的ですらある要素」である(「知への意志・P.190」新潮社)。それが大規模な性的欲望になるのは性の縁において演じられる様々な衣装、動く表象、飛び交う隠語、着飾られた肉体についての種々の言説、そして《眼差し》においてである。なのでオロントの詩=言葉を全否定し滅茶苦茶に解体する行為はアルセストがアルセスト自身を徹底的に鞭打つどころかともすればアルセスト自身の両眼を破壊するところまで投げ返される。戯曲に中でもアルセストは遂に「幽寂境を探しに出かけます」と言って退場する。アルセストはアルセスト自身をあたかも死者のように「冥界下り」へ赴かせるのだ。他者の欲望の解体がただちに自己破壊になるという事例がここでは明確に見られる。「《石像の会食者》」では復讐までに時間的猶予が与えられている。そのぶん、剰余価値の増殖が見られる。債権債務関係の中で時間的猶予に則って利子が発生している。

さて、続いて笠原嘉の妄想論だが、前に上げた小出浩之による「妄想指向型統合失調症」ではなく同じ小出から「幻覚指向型統合失調症」を要約してこう述べている。身体に関わる。

「小出の考え方のおもしろいところは、幻覚型の人の《身体》こそ他者の侵入をくい止める緊張をはらんだ領域だとみることにあろう。彼は人なみに人にあわせ、文句をいわれない程度に、目立たずにやる。《このくらいが適当だろう》というのが彼のモットーである。しかし発症はこういうふうにやってくる。人にあわせてやっているつもりが、いつのまにか人の思惑にはめられる、酷使されていたと知るという状況である。うわべはもはや砦ではない。他者によっていつのまにか突き破られ、土足で人は内心まではいり込んでくる。幻覚とはすべてこの《身体》を襲う。身体が侵害の座になると、《何々させられてしまう》という完全な意味での作為体験がでる。ここから立ち直るのに、妄想型が昔とった杵柄(きねづか)で一般的他者を利用するように、幻覚型は身体の砦の再構築をする。幻覚はすべて身体で聞かれ、受けとめられ、それによって他者との言語的ならびに情緒的接触を断つ。しかし、非現実の中に幻覚としてしか《意味するもの》を見いだせない彼が自己の内に自己ならざるものを生起させる場合、幻聴といってもそれは主体的に聞くのではなく彼の聴覚的身体に押し入るものだし、作為体験も彼の性的《身体》に現われ、彼の《性的》身体を奪うものである」(笠原嘉「妄想論・4・妄想の人間学・P.129~130」みすず書房)

妄想と幻覚との違いだけでなく幻覚に特徴的な「被影響体験」、「作為体験」、「させられ体験」(誰かにあやつられている。或る宿命的ミッションによってこうさせられている。なので、こうさせられざるを得ない)に繋がる見解として振り返っておくべきだろう。なお、健常者の場合はシニフィアンとシニフィエとの混乱は見られない。人物錯誤も起こらない。むしろ命令するにせよ命令されるにせよ特定の人物を見誤ることができないからこそ、健常者は「させられてしまう」のではなく逆に「そうするほか仕方がないのでそうする」意識へ追い詰められるのである。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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