白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

仮面等価性2

2020年07月27日 | 日記・エッセイ・コラム
等価性の観念は古代ギリシア=ローマの至るところで出現していた。「死体を安置している間に生じた損傷部分」=「見張人の顔から同じだけそっくり切りとってつくろうこと」。

「もし朝になってその死屍(しかばね)が無事そっくりとつつがなく渡しかえされなかった場合は、何によらず切り取られたり減ったりしたところを、自分の顔から同じだけそっくり切りとってつくろわなきゃならん、という約束」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の2・P.74~75」岩波文庫)

その保証のために「七人の証人」が死者の顔について詳細に観察し述べ上げる。

「七人の証人を呼び入れ、てずから顔の覆いを取り去って長いことむくろの上で涙を流したのち、居合わせる人たちの堅い真実を願いもとめて、いちいちの顔の様子をくわしくさし示し、いった言葉を一人の者に委細に書板へ記しつけさせる。ーーーその書状にみなみな印をおしてから、出てゆきました」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の2・P.76~77」岩波文庫)

証人が七人なのはキリスト教の聖数が七だからでありキリスト教の影響が広範囲に及んでいたことを物語る。アープレーイユス「黄金の驢馬」執筆は二世紀。とはいえ、百五十五年頃すでにプラトンの翻訳も行っており、以前から古代ギリシア哲学に多大な関心を寄せていた。さらに紀元前一世紀頃に成立したとされるアポロドーロス「ギリシア神話」やヘシオドス「神統記」などのギリシア神話はもとより、もっと古い紀元前五世紀頃を全盛期とするギリシア悲劇作家(アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデス)の影響。ホメロス「オデュッセウス」などのギリシア叙事詩を大いに吸収した後に創作に打ち込める環境にいたことは「黄金の驢馬」執筆にあたってたいへん有利な立場にあった。

ところで主人公ルキウスのもとへ、このような一夜の死者の見張人として特別な依頼が回ってくるのはどうしてか。ルキウスはエクスタシーを伴うイニシエーションの儀式を小婢(こしもと)フォーティスとのあいだで演じられた毎夜の性行為で果たしているからである。

「等しく寝台に上がって私の上にきっちり乗り込み、たびたび前へのり出しながらしなやかにからだを動かし、ぴちぴちした背中をゆすぶり、揺れ動くウェヌスのたのしみで私を満ち飽かせてくれましたが、しまいには心も疲れ手肢(てあし)もいたみ、すっかりくたびれはてて、二人とも一緒に息をあえぎあえぎ、お互いの胸の中へくずれおちるという始末でした。こんなふうに何度となく手合わせをしつづけて一晩じゅう朝の光のさかいまで、やすみやすみは盃につかれを和(なご)めながらもまたすき心を煽(あお)りたてつ、かつはたのしさの思いをたかめつ、時を過ごしました。その夜の先例にならってそれからもまた幾夜さを、こうして同じように重ねていった」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の2・P.68~68」岩波文庫)

フォーティスはルキウスが手紙を届ける旅の途中で寄った家の「小婢(こしもと)、侍女、女中」である。古代からヨーロッパは階級社会だった。ところがルキウス(客人)とフォーティス(下女)のあいだで繰り返し反復される性行為は夜闇にまぎれて実行された階級間の境界線をぶち抜き無効化してしまう脱社会的作業であり、だからこそ特権的イニシエーションの意味を帯びるのである。夜ごとに二人に降り注ぐ悦楽に満ちたエクスタシーの乱舞はルキウスに或る特別な力を与える儀式として描かれている点に注目したい。ルキウスはフォーティスと性行為に及ぶまでしばらくのあいだ焦(じ)らされる。フォーティスはなるほど「小婢(こしもと)、侍女、女中」だが同時に恋愛の様々な技巧に熟達した女性として登場する。

近代以前、貴族階級の家で育つ娘らは伝統的に行儀よくしつけられるため、家事労働のために肉体を用いて動き回るということはない。さらに顔を除いて身体のすべての部分を特定の衣装で覆い隠しており言葉遣いも清潔過ぎるあまり、男性の性的関心をほとんど引かない。貴族階級の家の娘はどれもこれも多くは政略結婚のための飾りでしかなく肉体的にはマネキンに等しい。危険な行動を極端に制限されているため身体のどこをどう探しても日焼けや傷がなく肉感を喪失している。だが逆にその「小婢(こしもと)、侍女、女中」は違っている。もっと身軽な衣装であちこち動き回らねばならないので普段は隠れている肉体の奥深くまで不意に露出する。日々の労働で鍛えられた無駄のない腹部と筋肉質な足腰は性行為の時の野獣性を思わせる。動けば動くほど肉体も陰影深く時々刻々と色合いを変化させるために異性から見ていて目が離せない。そんなフォーティスの躍動する肉体に惹かれたルキウスは、得意の想像力の力を借りて古代神話に登場する美しい女神のイメージを重ね合わせる。さらにフォーティスは毎日のように幾つかの髪型を使い分ける器用な女性である。神話に出てくる女神の姿と重ね合わせてルキウスの想像力が爆発寸前にまで高揚してくることを見抜いている。だが一見知らぬ顔を装いながら、ルキウスの性欲が最高潮に高まってくる時期を上手く計算していた。ちなみに、この場合の男女を置き換えればたちまちD.H.ロレンス「チャタレイ夫人の恋人」になるのはもはやわかりきったことだ。

とはいえ重要なのは、第一に異種の階級に属する人間同士の性的同一化という点であり、第二に二人の性行為の繰り返しによるルキウスの死と再生の反復という点である。第一の階級間境界線の性的無効化は同時に国家的背任行為であり犯罪であるが、まさしくそのことによって神にも似た超人的行為であり特権性の付与を示唆する。この直後に死者の見張人という特別な仕事が突然舞い込んでくるのは理由として十分なのだ。さらに第二の性行為の反復による死と再生はルキウスの小さな死(自傷行為)によって顕著に見られる。ルキウスは性行為の直前に「すっかり酒浸(さけびた)し」になる。そこでフォーティスは全裸になってルキウスに向かい、堂々たる肉体を見せつけながら「息が絶えようと打ってかかる」ことを約束させる。性行為が繰り返されるたびに疲れを払い除けるため再び「盃」を傾ける。ここで酒が登場するのは明らかにディオニュソス=バッコス祭の反復として考えられる。というのも、もう一つの理由があり、それは何かというと最初に男性が上に乗って女性を組み敷くのでなく、「小婢(こしもと)、侍女、女中」でなおかつ女性のフォーティスの側から逆にルキウスの身体を下に敷いて上に馬乗りになり、「たびたび前へのり出しながらしなやかにからだを動かし」、あれよという間もなくイニシエーションにおける導師のごとくルキウスをエクスタシーへと導くからである。このパターンの変化型としてルネサンスの口火を切ったダンテ「新曲」のベアトリーチェを上げることができる。ダンテを天上の詩の世界へ導くのは女神ベアトリーチェだが、煉獄篇後半で始めて登場するベアトリーチェは他でもない戦車に乗って降臨する。

ちなみにローマ第四皇帝クラウディウス帝は、「死と再生」、「オルギア」(熱狂的舞踏)、「生贄(牡牛・牡羊)殺害」、「自傷行為」、を含むイニシエーション的儀礼色の強いアッティスとキュベレーの密儀を公式行事として採用した。アープレーイユス「黄金の驢馬」執筆の百年ほど前のことだ。春分の種まきの季節を起点とした宗教行事である。

「祭りは春分の時期、三月十五日から二十八日にかけて行なわれた。初日(カンナ・イントラット、『葦の持ちこみ』)に、葦を背負った同信者集団が、切った葦を寺院へ運びこんだ(伝説によるとキュベレーは幼児アッティカが、サンガリオス川の川辺に捨てられているのを見つけた)。七日後、木を背負った同信者集団が、森から切った松の木を運びこむ(アルボル・イントラット)。幹は死体のように幅のせまい帯でくるまれ、アッティスの像がその真ん中に結びつけられる。その木は死んだ神をあらわしていた。『血の日』(デイエス・サングイニス)である三月二十四日に、司祭と新たな入信者は笛とシンバルとタンバリンの音にあわせて野蛮な踊りを踊り、血が出るまで自分たちの身体を鞭打ち、ナイフで腕を深く傷つける。興奮が最高潮に達すると、生殖器を切りとって供物として女神に捧げる入信者もいる」(エリアーデ「世界宗教史4・第二十六章・P.117」ちくま学芸文庫)

男根の切断は宦官の行う単なる自傷行為に思えるかもしれないが、それ以上に遥かに不死と再生への願いが込められている。一年間で蓄積したマイナス要素の破棄とそれに伴う新生への希求がある。アッティスとキュベレーの神話を形式化すると、大地を母とし太陽を父とした太陽信仰として整えることができる。だから切断した男根は母なる大地に捧げられ、豊穣祈願の儀礼とされるとともに、毎年々々新しく蘇る不死性を象徴するわけである。

ともあれ、ルキウスとフォーティスの夜ごとの性行為の反復によって、始めて「黄金の驢馬」固有の歴史が始まる。ヘラクレイトス哲学についてニーチェが述べた通りだ。

「あるものはただ永遠なる生成のみであるということ、一切の現実的なものは、ヘラクレイトスの教えるごとく、ただ絶えまなく作用し生成するのみであって、存在することもなくあくまで無常のものであるということ、このことは、思うだに恐ろしい気も遠くなることであって、その影響の点で、誰かが地震の際に、ゆるぎなく根ざした大地にたいする信頼を失うときに覚えるあの感情に、もっとも近いものである。この影響をその反対のものへ、すなわち崇高なもの、恍惚たる驚嘆へ転ずるには、驚くべき力が必要であった。ヘラクレイトスは、あらゆる生成と消滅の過程を本来あるがままの姿で観察することによって、これを達成した。すなわち彼はこの過程を、両極性という形で、つまり一つの力が質的に異なり対立する二つの働きに分離するとともに、またこれらの質は絶えまなく自己との軋轢(あつれき)を生み、相互に対立するものへ分裂してゆく。これらの対立物は、再び相寄るべく絶えまなく努力する。大衆は、何か固定したもの、完成したもの、持続するものが認められるように考えるのであるが、実際は、いついかなる瞬間においても明暗、甘苦が、あたかも二人の格闘者が互いに上になったり下になったりして闘っているように、組んずほぐれずしているのである」(ニーチェ「ギリシア人の悲劇時代における哲学」『悲劇の誕生・P.381』ちくま学芸文庫)

また、この事情は男女の性行為のみを意味しているわけではない。同性愛関係においても同様に当てはまる。ジュネ作品の中でしばしば派手な喧嘩を演じる兄弟クレルとロベール。クレルとロベールとが直接に性行為を行うわけではない。クレルはブレストで淫売屋を切り盛りして稼いでいるリジアーヌと関係する。リジアーヌはクレルの弟ロベールと関係する。兄弟はリジアーヌの肉体を介して結びつく。リジアーヌは奇妙な疎外感を覚える。

「《たとえ離れていても、あの二人は世界の端と端から互いに呼び交わしているんだわーーー》《兄が航海をはじめれば、ロベールの顔はいつも西の方を向いていることになるだろう。あたしは日まわりの花と結婚しなければなるまいーーー》《微笑と悪罵が投げ交わされ、二人のまわりに巻きつき、二人を結びつけ縛りあげてしまう。二人のうち、どちらが強いかは誰にも分らない。そして彼らの子供は、二人のあいだを自由に通り過ぎるけれども、少しの邪魔にはならないんだわーーー》ーーー何ものも切り離すことのできない二人の恋人の秘密の物語に、彼女は立会っているのだった。彼らの喧嘩は微笑でいっぱいになり、彼らの遊びは侮辱で飾られている。微笑と侮辱はその意味を変える。彼らは笑いながら罵り合う」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.392~393」河出文庫)

「彼らの子供」というのは少年ロジェのことを指す。同性愛者だけでは子どもの生産は不可能ではないかという疑問もあろうかと思う。けれども世界中で圧倒的多数を占めるのは異性愛者であり、子どもの生産、要するに労働力商品の再生産だけなら異性愛者に任せておくだけで有り余るほど大量生産されてきたし今後もなおしばらくのあいだ、高度テクノロジーの世界的配分によって人間労働力が徐々に不必要になってくるまでは、これまでの途上国において大量生産されていく。低賃金重労働に従事する労働力商品生産地はどの多国籍企業複合体にとっても魅力的な労働力市場であり続けるからである。

だから先進諸国はどんどん生まれてくる子どもたちと彼らの生存のために最低限必要な労働環境を提供することが思うように上手くはかどっていないという自分の足元の問題に対して積極的に向き合わねばならない。そうでないと多国籍企業複合体が高度テクノロジーを次々取り入れることで正規の従業員を削減し合理化と諸商品の大量生産に成功したとしても、それら生産した大量の諸商品の消費者も同時に減少してしまえば商品は売れない。自明である。大量生産した諸商品は大量消費によって貨幣交換されない以上、どれほど知名度の高い多国籍企業の商品であっても利子を生んで手元に回帰してくることは不可能である。大量生産は大量消費を前提している。消費者(お客様)に商品を買ってもらうためには労働力商品としての労働者がいつも必ず存在しているというだけでは不十分であり、労働者自身がそれなりの労賃とその貯蓄を手にしていなければ消費は回転しない。消費行動が停滞すれば剰余価値の実現は不可能となり銀行業務はたちまち鈍化するし実際に鈍化傾向を示している。二〇二〇年のパンデミックは今の資本主義(アメリカ発ネオリベラリズム)がそのような方向へ向けて想像を絶する加速力で推し進められていたという事実を世界的規模で顕在化するのに役立ったと言える。

BGM