十九世紀前半のヨーロッパで多くの知識人が多少なりとも精神的不調を訴え、あるいは錯乱のうちに自殺するといったことがなぜ起きたか。ネルヴァル作品をその代表的なものとして取り上げ述べてきた。さてそこで、いったんヨーロッパの混乱から少し離れてスラヴ地域に目を移してみたいと思う。というのは、スラヴ地域の場合、ヨーロッパの真ん中で起こったことが地理的な広がりの制約のために約三十年ほど後に起こっていることと、混乱の様相がヨーロッパとはまた違った形式を取って起こっている点でたいへん関心をそそるものがあるからである。西欧で起こったことがロシアあるいは東欧で起きるとどのように違ったものに変容するかとともにどれほど違ったものに映って見えるか。その点で差し当たり近代化以前のスラヴ地域の社会的特色に触れておかねばならない。とはいえ、キリスト教はすでに導入されていて、広大なロシア各地にキリスト教会が設けられていた。しかしスラヴの様々な土着の信仰を同時に吸収した教会なのか、逆にもともとあった土着の信仰がキリスト教を部分的に取り入れる形で混交がなされキリスト教会とはいっても少なくとも土着的な信仰と無理やり接合され二重化された状態の教会なのか、この二種類に大別可能であったことは重要な違いとして見ておく必要性があるだろう。エリアーデから。
「スラヴ全域に見られ、かつインド・ヨーロッパ諸民族には知られていない風習として、再葬制がある。埋葬後三年、五年、または七年後に遺骨を掘り出し、洗浄して白布(ウブルス)にくるむ。そしてその布を家に持ち帰って、イコンの掛けてある『聖なる隅』に一時安置しておくという風習である。この白布は、死者の遺骨や頭蓋骨に接触したことによって呪術-宗教的価値をもつものとなっている。元来は、掘り出された遺骨そのものの一部を『聖なる隅』に安置していた。このきわめてアルカイックな風習は(これはアジアやアフリカにも見られる)、フィン人のあいだでも行われていた」(エリアーデ「世界宗教史5・第三十一章・P.69~70」ちくま学芸文庫)
キリスト教会があちこちに設立されている時期になおスラヴ地域では歴史以前的アニミズムの世界観が根付いており近代以後もずっと一般市民の生活の中に息づいていたことがわかる。次の報告は近代以前の古風な風習に従っているように見えるけれども実は少し違っている。どこの世界でも近代以前あるいは近代以後もなお土地の風習によりけりで残されていた風習である。日本では南方熊楠が紹介している世界各地の「処女権」に関するものだが、そのようなただ単なる男性原理に基づく暴力的権力の濫用があった一方、そうでない面が一般性を得ていたことはスラヴ地域では人間の性に関する考え方が根本的に異なっていたことを物語っている。
「インド・ヨーロッパ諸民族には知られていないスラヴ人のいまひとつの習慣に、スノハチェストヴォ、すなわち父親が息子の婚約者と寝る権利がある。父親は息子の結婚後も、夫婦が長いあいだ離れているときなどには、嫁と寝る権利をもつとされる。オットー・シュラーダーはこのスノハチェストヴォを、インド・ヨーロッパ諸民族のアディゥトル・マトリモニイ〔結婚介添え人〕の習慣と比較している。しかしインド・ヨーロッパ諸民族においては、娘または花嫁の一時的譲渡はその父親または花婿の手で行われるのであり、これは彼らの父としての、あるいは夫としての権威の行使にほかならない、譲渡が夫の知らないうちに、あるいは意に反してなされるようなことはない」(エリアーデ「世界宗教史5・第三十一章・P.70」ちくま学芸文庫)
一見すればスラヴ地域の側が他の地域においてよりも女性に対して酷い扱いが行使されているかのように見える。だが単純にそうとは言えない理由がある。まず「インド・ヨーロッパ諸民族のアディゥトル・マトリモニイ〔結婚介添え人〕の習慣」を読み返してみよう。以下のような場合はそのヴァリエーションと言える。仲介者あるいは婿の父(婚姻を認めるか認めないかの決定権を持つ人物)が婿の嫁を婿より先に性的に自分の所有物にしてしまう場合である。南方熊楠はその博物学的知識を動員して「処女権あるいは股権」が世界中にあったことを暴露している。
「大将これを愍(あわれ)み、そこに新城を築き諸人を集め住ませ廣野城と名づけた。城民規則を設け、婚礼の度(たび)ごとにこの大将を馳走し、次に自分らを飲歓するとした。時に極めて貧しい者あって、妻を娶るに大将を招待すべき資力なし。種々思案の末、酒肴の代りにわがいまだ触れざる新妻を大将の御慰みに供え、その後始めて自宅へ引き取った。爾後、恒例となって諸人妻を迎うるごとに大将に手折(たお)らせたとあるが、これは事の起源を説かんためかかる噺をこじ付けたので、拙文『千人切りの話』に論じた通り、一八八一年フライブルヒ・イム・ブラウスガウ板、カール・シュミット著『初婚夜権』等を参するに、インド、クルジスタン、アンダマン島、カンボジヤ、チャンパ、マラッカ、マリヤナ島、アフリカおよび南北米のある部に、もとよりかかる風習があったので、インドで西暦紀元頃ヴァチ梵士作『愛天教』七篇二章は全く王者が臣民の妻娘を懐柔する方法を説く。その末段にいわく、アンドラの王は臣民の新婦を最初に賞翫(しょうがん)する権力あり。ヴァツアグルマ民の俗、大臣の妻、夜間、王に奉仕す。ヴァイダルブハ民は王に忠誠を表せんとて一月間その子婦を王の閨房に納(い)る。スラシュトラ民の妻は王の御意に随い、独りまた伴うてその内宮に詣(いた)るを常とすと」(南方熊楠「十二支考・下・鶏に関する伝説・P.186~187」岩波文庫)
「諸国の王侯に処女権あり。人が新婦を迎うれば初めの一夜、また数夜、その領主に侍(はべ)らしめねば夫の手に入らぬのだ。例せばスコットランドでは十一世紀に、マルクコルム三世、この風を発せしが、仏国などでは股権とて十七世紀までは幾分存した」(南方熊楠「十二支考・下・鶏に関する伝説・P.187~188」岩波文庫)
「『後漢書』南蛮伝に交趾の西に人を噉(くら)う国あり云々、妻を娶って美なる時はその兄に譲る」(南方熊楠「十二支考・下・鶏に関する伝説・P.188」岩波文庫)
「『当世傾城気質』四に、藤屋伊左衛門諸国で見た奇俗を述べる内に『振舞膳(ふるまいぜん)の後(のち)我女房を客人と云々』これらは新婦と限らぬようだが、余ら幼き頃まで紀州の一向宗の有難屋(ありがたや)連、厚く財を献じてお抱寝(だきね)と称し、門跡の寝室近く妙齢の生娘(きむすめ)を臥せさせもらい、以て光彩門戸(もんこ)に生ずと大悦びした」(南方熊楠「十二支考・下・鶏に関する伝説・P.188~189」岩波文庫)
「勝浦港では年頃に及んだ処女を老爺に托して破素してもらい、米、酒、および桃紅色の褌(ふんどし)を礼に遣わした」(南方熊楠「十二支考・下・鶏に関する伝説・P.189」岩波文庫)
「『中陵漫録』十一にいわく、羽州米沢の荻村では媒人が女の方に行きてその女を受け取り、わが家に置く事三夜にして、餅を円く作って百八個、媒が負うて女を連れ往き婚礼を整(ととの)うと」(南方熊楠「十二支考・下・鶏に関する伝説・P.189」岩波文庫)
「スコットランドでは中古牛を以て処女権を償うに、女の門地の高下に従うて相場異なり、民の娘は二牛、士の娘は三牛、太夫の娘は十二牛などだ。イングランドはこれに異なり民の娘のみこの恥を受けた(ブラットンの『ノート・ブック』巻二六)」(南方熊楠「十二支考・下・鶏に関する伝説・P.189」岩波文庫)
また折口信夫は、古代日本研究の中で、神の名において地元の有力者である神社の神主や富裕な家の家長らが処女権を行使していたと報告している。
「こうした神女が、一群として宮廷に入ったのが、丹波道主貴の家の女であった。此七処女はは、何の為に召されたか。言うまでもなく《みづのをひも》を解き奉る為である。だが、紐と言えば、すぐに連想せられるのは、性的生活である。先輩諸家の解説にも、此先入が主となって、古代生活の大切な一面を見落されて了うた。事は、一続きの事実であった。『ひも』の神秘をとり扱う神女は、条件的に神の嫁の資格を持たねばならなかったのである。《みづのをひも》を解く事が直に、紐主にまかれる事ではない。一番親しく、神の身に近づく聖職に備るのは、最高の神女である。而も尊体の深い秘密に触れる役目である。《みづのをひも》を解き、又結ぶ神事があったのである。七処女の真名井の天女・八処女の系統の東遊(アヅマアソビ)天人も、飛行の力は、天の羽衣に繋がっていた。だが私は、神女の身に、羽衣を被るとするのは、伝承の推移だと思う。神女の手で、天の羽衣を著せ、脱がせられる神があった。其神の力を蒙って、神女自身も神と見なされる。そうして神・神女を同格に観じて、神を稍忘れる様になる。そうなると、神女の、神に奉仕した為事も、神女自身の行為になる。天の羽衣の如きは、神の身についたものである。神自身と見なし奉った宮廷の主の、常も用いられるはずの湯具を、古例に則る大嘗祭の時に限って、天の羽衣と申し上げる。後世は『衣』と言う名に拘って、上体をも掩うものとなったらしいが、古くはもっと《小さきもの》ではなかったか。ともかく禊ぎ・湯沐みの時、湯や水で解きさける物忌みの布と思われる。誰一人解き方知らぬ神秘の結び方で、其布を結び固め、神となる御体の霊結びを奉仕する巫女があった」(折口信夫「水の女」『折口信夫全集2・P.97~98』中公文庫)
「神としての生活に入ると、常人以上に欲望を満たした。《みづのをひも》を解いた女は、神秘に触れたのだから『神の嫁』となる」(折口信夫「水の女」『折口信夫全集2・P.102』中公文庫)
「宮廷の采女は、郡領の娘を徴して、ある期間宮廷に立ち廻らせられたものである。采女は単に召使のように考えて居るのは誤りで、実は国造に於ける采女同様、宮廷神に仕え、兼ねて其象徴なる顕神(アキツカミ)の天子に仕えるのである。采女として天子の倖寵を蒙ったものもある。此は神としての資格に於てあった事である。采女は、神以外には触れる事を禁ぜられて居たものである。同じ組織の国造の采女の存在、其貞操問題が、平安朝の初めになると、宮廷から否定せられて居る。此は、元来なかった制度を、模倣したと言わぬばかりの論達であるが、実は宮廷の権威に拘ると見た見た為であろう。此事は、日本古代に初夜権の実在した証拠になるのである。村々の君主の家として祀る神の外にも、村人が一家の間で祀らねばならぬ神があった。庶物にくっついて常在する神、時を定めて来臨する神などは、家々の女性が祀ることになって居た。此等の女性が、処女である事を原則とするのは勿論であるが、其は早く破れて、現に夫のない女は、処女と同格と見た。而も其は二人以上の夫には會はなかったものと言う条件があった様である。其が頽れて、現に妻として夫を持って居る者にも、巫女の資格は認められて居たと見える。『神の嫁』として、神に出来るだけ接近して行くのが、此人々の為事であるのだから、処女は神も好むものと見るのは、当然である」(折口信夫「最古日本の女性生活の根底」『折口信夫全集2・P.148~149』中公文庫)
このような微妙な部分でスラヴ社会は異なってくる。日本では明治近代に入ると表向きだけでも廃絶された処女権と入れ換わるかのように、あたかも奪われた権利に対する親の敵討ちででもあるかのような様相を呈して過激極まりない男尊女卑的傾向が労働現場で大々的に顕在化した。近代化を急ぐ都会の大工場で多数の女性労働者が結核をはじめとする感染症に冒され死んでいった事実は日本近代史の序章を華々しく飾っている。さらに戦後になっても地方へ行くと、村落共同体丸ごとではなくなったものの、一時的かつ隠密理に初夜権を復活させる家の主人は後を絶っていない。もはや犯罪だというのに。また、昭和初頭には「不義、密通」行為の結果、堕胎や間引きを行う風習は農山村だけでなく日本全国どこにでもあった。生活の知恵といえば言える。しかし日本の場合、大陸進出と並行して戦争が激化するとともに特に貧困率の高い農山村では必然的に男性が激減する。となると女性らが幾ら不倫したくても生き生きした男性の数はほんの数えるほどに限られてくる。それが爆発するべくして爆発した事件の一つとして捉えることで始めて、あの「津山三十人殺し」は考えられなくてはならないし、そうでなくてはけっして腑に落ちる事件として分析することはできないだろう。それはそれとして。日本の歴史では近代以前も以後もけっして出現しない土壌がスラヴ地域にはそもそもの昔からあった。
「これに劣らず特徴的なのは、古代スラヴ社会の法的平等性である。共同体全員に完全な権利が認められており、したがって決定はすべて満場一致でなければならなかった。もともとミールという語は、共同体の《集会》とそこでの決定の《全員一致》とを同時にさす言葉であり、これが、ミールが現在では《平和》と《世界》という二つの意味をもつにいたった理由である。ガスパリーニによれば、ミールという言葉は、共同体のひとりひとりがーーー《男性だけでなく女性も》ーーー同一の権利を有していた時代を反映している」(エリアーデ「世界宗教史5・第三十一章・P.70~71」ちくま学芸文庫)
こうした指向性は古代ギリシアのディオゲネスが思い描いていた思想に近い。
「彼は、高貴な生まれとか、名声とか、すべてそのようなものは、悪徳を目立たせる飾りであると言って、冷笑していた。また、唯一の正しい国家は世界的な規模のものであると。さらにまた、婦人は共有であるべきだと言い、そして結婚という言葉も使わないで、口説き落した男が口説かれた女と一緒になればいいのだと語っていた。そしてそれゆえに、子供もまた共有であるべきだと」(「ディオゲネス」『ギリシア哲学者列伝・中・第六巻第二章・P.170』岩波文庫)
また、今なおウクライナを始めとしてロシア各地には「森の聖霊」という信仰が根強く残っている。
「ヨーロッパの他の民族同様、スラヴ諸民族の宗教民俗、信仰、風習は、多かれ少なかれキリスト教化された形で、異教時代の遺産の大きな部分を今に保っている。なかでもとくに興味深いのは、スラヴ全域に見られる森の霊(ロシア語でレシィ、白ロシア語でレシェクなど)の観念である。この森の霊は、狩人たちが必要なだけの獲物の量を保証してくれる。つまりこれは、あのアルカイックな型の神格のひとつ、動物主なのである。同様に古い、次のような信仰もある。人々が家を建てていると、ある種の森の精霊たち(ドモヴォイ)が家の中に入りこんでしまう」(エリアーデ「世界宗教史5・第三十一章・P.71」ちくま学芸文庫)
博学の小説家として有名なザッヘル=マゾッホ。マゾッホはまさに十九世紀後半のロシアで苦悩する代表的知識人の一人だった。クラフト=エビングが「マゾヒズム」と名付けたことで肝心の作者の思想が不明瞭になったという経緯はあるものの、それは個人的嗜好の次元の問題であって無視してよい。それより、実際にマゾヒストであったことは確かだが、マゾヒストとしては同類だった日本の谷崎潤一郎とは違い、ザッヘル=マゾッホは、当時のスラヴ地域の土着の民衆の生活についてかなり深い造詣を持っていた。「森の聖霊」という面を見てみよう。小説作品の主人公ドラゴミラは特権的美貌の持ち主として描かれているが、容姿だけでいうとすればロシアのスラヴ地域では別段探さなくてもごく普通に道端で時おりすれ違うような女性の一人である。今で言う東欧の「バルカン美人」のカテゴリーに入る。
「ドラゴミラは、両腕を胸で十字に交差させて窓辺に立ち、じっと中庭に目をやっていた。霧は煮えたぎる魔女の釜のようだった経帷子(きょうかたびら)を引きずる夜の化け物たちやら、巨大なコウモリの翼を生やした悪霊(デーモン)やら、あるいは長い白髭の侏儒(こびと)などが、つぎつぎと姿をあらわした。垂れ込めたその靄のなかから、不意に小ロシアの百姓が出てきた。人並はずれた巨体とサムソンのようなブロンドの頭髪の持ち主で、ドラゴミラの前に来ると深々とお辞儀をした」(マゾッホ「魂を漁る女・第一部・4・P.36~37」中公文庫)
このときすでにドラゴミラの信仰は変容している。キエフ近郊の村が舞台として設定されていて、キエフで人気の若い男性でありなおかつ幼なじみでもあるツェジムに向かってこういう。
「私もかつては生きていることを喜び、魔法の黄金の国をのぞき見るように未来をのぞき見ていたわ。でもある日、私は悟ったの、自分が盲目だったということを。そして、私の目から覆いが取り去られ、あるがままの物事が見えるようになったとき、私は自分自身にたいして深い憐れみと静かなおののきをおぼえたのよ。そのときの気持ちは、まるで太陽が輝きを失ってしまい、大地が氷となって、私の心も凍てついてしまったみたいだったわ。あなたは幸せね、まだ喜びを感じることができるんですもの。私にとっては、喜びも希望も今はもう過去のものです。私はもはや人生の価値について自分を欺くことはできません。今の私は知っているのよ、この世に生きていることは一種の贖罪だということ、浄化する煉獄(れんごく)の炎に焼かれることであり、幸福なんかではなく、むしろ永遠の苦しみだということを」(マゾッホ「魂を漁る女・第一部・3・P.29」中公文庫)
またお喋りのツェジムがドラゴミラを褒めて言い寄るつもりで「ロシアの女には気品がある」と言うのだがドラゴミラはこう切り返す。
「ロシアの女性は、最初一目見たときには奴隷だけれど、本質は今なおスキタイの女戦士(アマゾーン)で、恐れを知らず、必要とあらば憐れみも知らないのよ」(マゾッホ「魂を漁る女・第一部・23・P.243」中公文庫)
自分で自分自身のことを古代ギリシアの「スキタイ人」に喩える。少なくともそうであろうと《欲する》。ドラゴミラが思い描いている「スキタイ人」とはどのような意志に燃える人々だったか。
「スキュタイ人は最初に倒した敵の血を飲む。また戦闘で殺した敵兵は、ことごとくその首級を王の許へ持参する。首級を持参すれば鹵獲物の分配に与ることができるが、さもなくば分配に与れぬからである。スキュタイ人は首級の皮を次のようにして剥ぎとる。耳のあたりで丸く刃物を入れ、首級をつかんでゆすぶり、頭皮と頭蓋骨を離す。それから牛の肋骨を用いて皮から肉をそぎ落し、手で揉んで柔軟にすると一種の手巾ができる。それを自分の乗馬の馬勒にかけて誇るのである。この手巾を一番多く所有する者が、最大の勇士と判定されるからである。またスキュタイの人の中には、剥いだ皮を羊飼の着る皮衣のように縫い合せ、自分の身につける上衣まで作るものも少なくない。さらにまた、敵の死体の右腕の皮を爪ごと剥いで、矢筒の被いを作るものも多い。人間の皮というものは実際厚くもあり艶もよく、ほとんど他のどの皮よりも白く光沢がある」(ヘロドトス「歴史・中・巻四・六四・P.45~46」岩波文庫)
ドラゴミラがそのような異端信仰へ身を捧げるようになったのはなぜか。ドラゴミラに言い寄る男性の一人ソルテュク伯爵にこういう。
「考えてみてください。一方にあるのは、何も考えず、もはや何の意味もない形式にしがみついている教会の死んだ信仰で、聞く人もいない祈りの文句をつぶやき、誰も神父に魂をゆだねようとはせず、神父の方は肉体の快楽にのみ腐心しているのです。もう片方にあるのは、もはや神聖なものを認めない無信仰です。こちらは天体やら動物や人間の頭蓋骨やらを中心に据えてすべてを考えており、秤(はかり)にかけ、計算し、元素に分解しています。また植物の成長を観察し、石や惑星を観察していますが、神については何も知りません、望遠鏡をのぞいても発見できないからなのです」(マゾッホ「魂を漁る女・第二部・7・P.344」中公文庫)
何が起こっているのか。十九世紀前半にネルヴァルを精神錯乱に陥れたダブルバインド状況がここではスラヴ地域一帯で発生したということだ。
「すべてを否定した大革命と、キリスト教信仰をまるごと取り戻そうとする反動の世の中と、二つの時代の相反する教育のあいだで迷う、不信心というよりは懐疑的な世紀の子である私」(ネルヴァル「イシス」『火の娘たち・P.380』岩波文庫)
一方に腐敗堕落を極める教会権力があり、他方に怒涛の如く押し寄せる近代資本主義がある。近代とは言い換えれば「合理主義」ということだ。ではロシア各地の村落共同体にまだ多く残されていた古来からの伝統はキリスト教に期待できず、かといって一夜にしてすんなりと近代資本主義社会を出現させることもできない。まだまだ農民ばかりの小さな教会、ほとんど手作りといっていいような小さな集会所めいたものがあるばかりだ。行き場を失くした彼らにとって残された場所は究極的異端というべき世界を見出しのめり込んでいく。マゾッホがモデルとしたのはガリーシャ(今のウクライナ地域からハンガリーの東端部分)で発生した神秘主義教団である。この種の教団は一つでなくこの時期に次々に出来上がり次々と自滅していった。しかし最初から異端派を目指したわけではない。急速な近代化に伴い、つい最近までは農村ばかりだった村落共同体全体へ、個人的な力ではとてもたちうちできない大規模な新世界秩序が一度に押し付けられることになった。そういう環境へ放り込まれると多くの人間はとつぜんアニミズム的な世界観へ退行する。それが異端であろうとなかろうとアニミズムへ回帰しようとする本能が内部から湧き起こってくる。人間はそういうふうにできている。すでに落ち着きを取り戻しつつ帝国主義戦争への準備に取り掛かっていた西欧と比較すればドラゴミラに代表される態度の取り方はなるほど遅れているように見える。しかし何千年ものあいだ信仰されてきた「森の精霊」の国にとってむき出しの資本主義化は余りにも過酷過ぎた。ちなみに中沢新一は「南方熊楠コレクション」の解題で、日本の近代化のケースを例に上げて次のように述べている。
「この世に自分の力のおよばない聖域が残されていることを嫌うことにかけては、近代の資本主義は、国家にまさるともおとらない嫉妬深さを示す。それは、貨幣に計量化できないもの、自由な交換に投げ入れることのできないもの、資本として増殖していく価値に自分を譲り渡していかないものなどが、この世に存在していることが許せないのだ。その資本主義は、長いこと森に立ち入ることができなかった。そこが日本人の精神にとって、きわめて重要な『聖域』として、慎重に守られてきたからだ。森の神聖の根源は、そこが秘密儀にみちたマンダラであったためである。ところがいまや、国家が神道の名において、その森の内部空間のマンダラの解体を、推し進めようとしているのである。かつては、森そのものが神社だった。だが、これからは神社のまわりに森が残るだけなのだ。明治の資本主義は、舌なめずりをした。神々の守護を失ったはずの森の樹木は、ただの商品と化していくだろう、と彼らは見越した。日本の森には、野放図な伐採の危機が、迫っていた。森は精神的であると同時に、生態学的な危機にも、直面しようとしていたのである」(中沢新一「森の思想」『南方熊楠コレクション5・P.102~103』河出文庫)
作品が後半に入りドラゴミラの行為はほとんど狂気の領域に達する。マゾッホはドラゴミラに何をやらせるのか。というより、何をやらせることで当時の迷える子羊たちが何を言わんとしていたか、それをあぶり出そうとする。その意味で、センセーショナルなスペクタクルものという形式を取りつつ、行き場を失くしてダブルバインド状況に叩き込まれたスラヴの村落共同体がどのような運命を選択したか。見直す余地はあるだろう。マゾッホの同時代人はマルクス、ニーチェ、ドストエフスキーらである。その後しばらくして日本は明確に帝国主義戦争を選択した。ヒロシマの原爆投下を見るまで長い思考停止状態に入ってしまう。ところがロシアはひょんなことからロシア革命を成立させている。この屈折、その分かれ目、その岐路で、一体何があったのか。マゾッホがドラゴミラに言わせている言葉に注目したい。
BGM
「スラヴ全域に見られ、かつインド・ヨーロッパ諸民族には知られていない風習として、再葬制がある。埋葬後三年、五年、または七年後に遺骨を掘り出し、洗浄して白布(ウブルス)にくるむ。そしてその布を家に持ち帰って、イコンの掛けてある『聖なる隅』に一時安置しておくという風習である。この白布は、死者の遺骨や頭蓋骨に接触したことによって呪術-宗教的価値をもつものとなっている。元来は、掘り出された遺骨そのものの一部を『聖なる隅』に安置していた。このきわめてアルカイックな風習は(これはアジアやアフリカにも見られる)、フィン人のあいだでも行われていた」(エリアーデ「世界宗教史5・第三十一章・P.69~70」ちくま学芸文庫)
キリスト教会があちこちに設立されている時期になおスラヴ地域では歴史以前的アニミズムの世界観が根付いており近代以後もずっと一般市民の生活の中に息づいていたことがわかる。次の報告は近代以前の古風な風習に従っているように見えるけれども実は少し違っている。どこの世界でも近代以前あるいは近代以後もなお土地の風習によりけりで残されていた風習である。日本では南方熊楠が紹介している世界各地の「処女権」に関するものだが、そのようなただ単なる男性原理に基づく暴力的権力の濫用があった一方、そうでない面が一般性を得ていたことはスラヴ地域では人間の性に関する考え方が根本的に異なっていたことを物語っている。
「インド・ヨーロッパ諸民族には知られていないスラヴ人のいまひとつの習慣に、スノハチェストヴォ、すなわち父親が息子の婚約者と寝る権利がある。父親は息子の結婚後も、夫婦が長いあいだ離れているときなどには、嫁と寝る権利をもつとされる。オットー・シュラーダーはこのスノハチェストヴォを、インド・ヨーロッパ諸民族のアディゥトル・マトリモニイ〔結婚介添え人〕の習慣と比較している。しかしインド・ヨーロッパ諸民族においては、娘または花嫁の一時的譲渡はその父親または花婿の手で行われるのであり、これは彼らの父としての、あるいは夫としての権威の行使にほかならない、譲渡が夫の知らないうちに、あるいは意に反してなされるようなことはない」(エリアーデ「世界宗教史5・第三十一章・P.70」ちくま学芸文庫)
一見すればスラヴ地域の側が他の地域においてよりも女性に対して酷い扱いが行使されているかのように見える。だが単純にそうとは言えない理由がある。まず「インド・ヨーロッパ諸民族のアディゥトル・マトリモニイ〔結婚介添え人〕の習慣」を読み返してみよう。以下のような場合はそのヴァリエーションと言える。仲介者あるいは婿の父(婚姻を認めるか認めないかの決定権を持つ人物)が婿の嫁を婿より先に性的に自分の所有物にしてしまう場合である。南方熊楠はその博物学的知識を動員して「処女権あるいは股権」が世界中にあったことを暴露している。
「大将これを愍(あわれ)み、そこに新城を築き諸人を集め住ませ廣野城と名づけた。城民規則を設け、婚礼の度(たび)ごとにこの大将を馳走し、次に自分らを飲歓するとした。時に極めて貧しい者あって、妻を娶るに大将を招待すべき資力なし。種々思案の末、酒肴の代りにわがいまだ触れざる新妻を大将の御慰みに供え、その後始めて自宅へ引き取った。爾後、恒例となって諸人妻を迎うるごとに大将に手折(たお)らせたとあるが、これは事の起源を説かんためかかる噺をこじ付けたので、拙文『千人切りの話』に論じた通り、一八八一年フライブルヒ・イム・ブラウスガウ板、カール・シュミット著『初婚夜権』等を参するに、インド、クルジスタン、アンダマン島、カンボジヤ、チャンパ、マラッカ、マリヤナ島、アフリカおよび南北米のある部に、もとよりかかる風習があったので、インドで西暦紀元頃ヴァチ梵士作『愛天教』七篇二章は全く王者が臣民の妻娘を懐柔する方法を説く。その末段にいわく、アンドラの王は臣民の新婦を最初に賞翫(しょうがん)する権力あり。ヴァツアグルマ民の俗、大臣の妻、夜間、王に奉仕す。ヴァイダルブハ民は王に忠誠を表せんとて一月間その子婦を王の閨房に納(い)る。スラシュトラ民の妻は王の御意に随い、独りまた伴うてその内宮に詣(いた)るを常とすと」(南方熊楠「十二支考・下・鶏に関する伝説・P.186~187」岩波文庫)
「諸国の王侯に処女権あり。人が新婦を迎うれば初めの一夜、また数夜、その領主に侍(はべ)らしめねば夫の手に入らぬのだ。例せばスコットランドでは十一世紀に、マルクコルム三世、この風を発せしが、仏国などでは股権とて十七世紀までは幾分存した」(南方熊楠「十二支考・下・鶏に関する伝説・P.187~188」岩波文庫)
「『後漢書』南蛮伝に交趾の西に人を噉(くら)う国あり云々、妻を娶って美なる時はその兄に譲る」(南方熊楠「十二支考・下・鶏に関する伝説・P.188」岩波文庫)
「『当世傾城気質』四に、藤屋伊左衛門諸国で見た奇俗を述べる内に『振舞膳(ふるまいぜん)の後(のち)我女房を客人と云々』これらは新婦と限らぬようだが、余ら幼き頃まで紀州の一向宗の有難屋(ありがたや)連、厚く財を献じてお抱寝(だきね)と称し、門跡の寝室近く妙齢の生娘(きむすめ)を臥せさせもらい、以て光彩門戸(もんこ)に生ずと大悦びした」(南方熊楠「十二支考・下・鶏に関する伝説・P.188~189」岩波文庫)
「勝浦港では年頃に及んだ処女を老爺に托して破素してもらい、米、酒、および桃紅色の褌(ふんどし)を礼に遣わした」(南方熊楠「十二支考・下・鶏に関する伝説・P.189」岩波文庫)
「『中陵漫録』十一にいわく、羽州米沢の荻村では媒人が女の方に行きてその女を受け取り、わが家に置く事三夜にして、餅を円く作って百八個、媒が負うて女を連れ往き婚礼を整(ととの)うと」(南方熊楠「十二支考・下・鶏に関する伝説・P.189」岩波文庫)
「スコットランドでは中古牛を以て処女権を償うに、女の門地の高下に従うて相場異なり、民の娘は二牛、士の娘は三牛、太夫の娘は十二牛などだ。イングランドはこれに異なり民の娘のみこの恥を受けた(ブラットンの『ノート・ブック』巻二六)」(南方熊楠「十二支考・下・鶏に関する伝説・P.189」岩波文庫)
また折口信夫は、古代日本研究の中で、神の名において地元の有力者である神社の神主や富裕な家の家長らが処女権を行使していたと報告している。
「こうした神女が、一群として宮廷に入ったのが、丹波道主貴の家の女であった。此七処女はは、何の為に召されたか。言うまでもなく《みづのをひも》を解き奉る為である。だが、紐と言えば、すぐに連想せられるのは、性的生活である。先輩諸家の解説にも、此先入が主となって、古代生活の大切な一面を見落されて了うた。事は、一続きの事実であった。『ひも』の神秘をとり扱う神女は、条件的に神の嫁の資格を持たねばならなかったのである。《みづのをひも》を解く事が直に、紐主にまかれる事ではない。一番親しく、神の身に近づく聖職に備るのは、最高の神女である。而も尊体の深い秘密に触れる役目である。《みづのをひも》を解き、又結ぶ神事があったのである。七処女の真名井の天女・八処女の系統の東遊(アヅマアソビ)天人も、飛行の力は、天の羽衣に繋がっていた。だが私は、神女の身に、羽衣を被るとするのは、伝承の推移だと思う。神女の手で、天の羽衣を著せ、脱がせられる神があった。其神の力を蒙って、神女自身も神と見なされる。そうして神・神女を同格に観じて、神を稍忘れる様になる。そうなると、神女の、神に奉仕した為事も、神女自身の行為になる。天の羽衣の如きは、神の身についたものである。神自身と見なし奉った宮廷の主の、常も用いられるはずの湯具を、古例に則る大嘗祭の時に限って、天の羽衣と申し上げる。後世は『衣』と言う名に拘って、上体をも掩うものとなったらしいが、古くはもっと《小さきもの》ではなかったか。ともかく禊ぎ・湯沐みの時、湯や水で解きさける物忌みの布と思われる。誰一人解き方知らぬ神秘の結び方で、其布を結び固め、神となる御体の霊結びを奉仕する巫女があった」(折口信夫「水の女」『折口信夫全集2・P.97~98』中公文庫)
「神としての生活に入ると、常人以上に欲望を満たした。《みづのをひも》を解いた女は、神秘に触れたのだから『神の嫁』となる」(折口信夫「水の女」『折口信夫全集2・P.102』中公文庫)
「宮廷の采女は、郡領の娘を徴して、ある期間宮廷に立ち廻らせられたものである。采女は単に召使のように考えて居るのは誤りで、実は国造に於ける采女同様、宮廷神に仕え、兼ねて其象徴なる顕神(アキツカミ)の天子に仕えるのである。采女として天子の倖寵を蒙ったものもある。此は神としての資格に於てあった事である。采女は、神以外には触れる事を禁ぜられて居たものである。同じ組織の国造の采女の存在、其貞操問題が、平安朝の初めになると、宮廷から否定せられて居る。此は、元来なかった制度を、模倣したと言わぬばかりの論達であるが、実は宮廷の権威に拘ると見た見た為であろう。此事は、日本古代に初夜権の実在した証拠になるのである。村々の君主の家として祀る神の外にも、村人が一家の間で祀らねばならぬ神があった。庶物にくっついて常在する神、時を定めて来臨する神などは、家々の女性が祀ることになって居た。此等の女性が、処女である事を原則とするのは勿論であるが、其は早く破れて、現に夫のない女は、処女と同格と見た。而も其は二人以上の夫には會はなかったものと言う条件があった様である。其が頽れて、現に妻として夫を持って居る者にも、巫女の資格は認められて居たと見える。『神の嫁』として、神に出来るだけ接近して行くのが、此人々の為事であるのだから、処女は神も好むものと見るのは、当然である」(折口信夫「最古日本の女性生活の根底」『折口信夫全集2・P.148~149』中公文庫)
このような微妙な部分でスラヴ社会は異なってくる。日本では明治近代に入ると表向きだけでも廃絶された処女権と入れ換わるかのように、あたかも奪われた権利に対する親の敵討ちででもあるかのような様相を呈して過激極まりない男尊女卑的傾向が労働現場で大々的に顕在化した。近代化を急ぐ都会の大工場で多数の女性労働者が結核をはじめとする感染症に冒され死んでいった事実は日本近代史の序章を華々しく飾っている。さらに戦後になっても地方へ行くと、村落共同体丸ごとではなくなったものの、一時的かつ隠密理に初夜権を復活させる家の主人は後を絶っていない。もはや犯罪だというのに。また、昭和初頭には「不義、密通」行為の結果、堕胎や間引きを行う風習は農山村だけでなく日本全国どこにでもあった。生活の知恵といえば言える。しかし日本の場合、大陸進出と並行して戦争が激化するとともに特に貧困率の高い農山村では必然的に男性が激減する。となると女性らが幾ら不倫したくても生き生きした男性の数はほんの数えるほどに限られてくる。それが爆発するべくして爆発した事件の一つとして捉えることで始めて、あの「津山三十人殺し」は考えられなくてはならないし、そうでなくてはけっして腑に落ちる事件として分析することはできないだろう。それはそれとして。日本の歴史では近代以前も以後もけっして出現しない土壌がスラヴ地域にはそもそもの昔からあった。
「これに劣らず特徴的なのは、古代スラヴ社会の法的平等性である。共同体全員に完全な権利が認められており、したがって決定はすべて満場一致でなければならなかった。もともとミールという語は、共同体の《集会》とそこでの決定の《全員一致》とを同時にさす言葉であり、これが、ミールが現在では《平和》と《世界》という二つの意味をもつにいたった理由である。ガスパリーニによれば、ミールという言葉は、共同体のひとりひとりがーーー《男性だけでなく女性も》ーーー同一の権利を有していた時代を反映している」(エリアーデ「世界宗教史5・第三十一章・P.70~71」ちくま学芸文庫)
こうした指向性は古代ギリシアのディオゲネスが思い描いていた思想に近い。
「彼は、高貴な生まれとか、名声とか、すべてそのようなものは、悪徳を目立たせる飾りであると言って、冷笑していた。また、唯一の正しい国家は世界的な規模のものであると。さらにまた、婦人は共有であるべきだと言い、そして結婚という言葉も使わないで、口説き落した男が口説かれた女と一緒になればいいのだと語っていた。そしてそれゆえに、子供もまた共有であるべきだと」(「ディオゲネス」『ギリシア哲学者列伝・中・第六巻第二章・P.170』岩波文庫)
また、今なおウクライナを始めとしてロシア各地には「森の聖霊」という信仰が根強く残っている。
「ヨーロッパの他の民族同様、スラヴ諸民族の宗教民俗、信仰、風習は、多かれ少なかれキリスト教化された形で、異教時代の遺産の大きな部分を今に保っている。なかでもとくに興味深いのは、スラヴ全域に見られる森の霊(ロシア語でレシィ、白ロシア語でレシェクなど)の観念である。この森の霊は、狩人たちが必要なだけの獲物の量を保証してくれる。つまりこれは、あのアルカイックな型の神格のひとつ、動物主なのである。同様に古い、次のような信仰もある。人々が家を建てていると、ある種の森の精霊たち(ドモヴォイ)が家の中に入りこんでしまう」(エリアーデ「世界宗教史5・第三十一章・P.71」ちくま学芸文庫)
博学の小説家として有名なザッヘル=マゾッホ。マゾッホはまさに十九世紀後半のロシアで苦悩する代表的知識人の一人だった。クラフト=エビングが「マゾヒズム」と名付けたことで肝心の作者の思想が不明瞭になったという経緯はあるものの、それは個人的嗜好の次元の問題であって無視してよい。それより、実際にマゾヒストであったことは確かだが、マゾヒストとしては同類だった日本の谷崎潤一郎とは違い、ザッヘル=マゾッホは、当時のスラヴ地域の土着の民衆の生活についてかなり深い造詣を持っていた。「森の聖霊」という面を見てみよう。小説作品の主人公ドラゴミラは特権的美貌の持ち主として描かれているが、容姿だけでいうとすればロシアのスラヴ地域では別段探さなくてもごく普通に道端で時おりすれ違うような女性の一人である。今で言う東欧の「バルカン美人」のカテゴリーに入る。
「ドラゴミラは、両腕を胸で十字に交差させて窓辺に立ち、じっと中庭に目をやっていた。霧は煮えたぎる魔女の釜のようだった経帷子(きょうかたびら)を引きずる夜の化け物たちやら、巨大なコウモリの翼を生やした悪霊(デーモン)やら、あるいは長い白髭の侏儒(こびと)などが、つぎつぎと姿をあらわした。垂れ込めたその靄のなかから、不意に小ロシアの百姓が出てきた。人並はずれた巨体とサムソンのようなブロンドの頭髪の持ち主で、ドラゴミラの前に来ると深々とお辞儀をした」(マゾッホ「魂を漁る女・第一部・4・P.36~37」中公文庫)
このときすでにドラゴミラの信仰は変容している。キエフ近郊の村が舞台として設定されていて、キエフで人気の若い男性でありなおかつ幼なじみでもあるツェジムに向かってこういう。
「私もかつては生きていることを喜び、魔法の黄金の国をのぞき見るように未来をのぞき見ていたわ。でもある日、私は悟ったの、自分が盲目だったということを。そして、私の目から覆いが取り去られ、あるがままの物事が見えるようになったとき、私は自分自身にたいして深い憐れみと静かなおののきをおぼえたのよ。そのときの気持ちは、まるで太陽が輝きを失ってしまい、大地が氷となって、私の心も凍てついてしまったみたいだったわ。あなたは幸せね、まだ喜びを感じることができるんですもの。私にとっては、喜びも希望も今はもう過去のものです。私はもはや人生の価値について自分を欺くことはできません。今の私は知っているのよ、この世に生きていることは一種の贖罪だということ、浄化する煉獄(れんごく)の炎に焼かれることであり、幸福なんかではなく、むしろ永遠の苦しみだということを」(マゾッホ「魂を漁る女・第一部・3・P.29」中公文庫)
またお喋りのツェジムがドラゴミラを褒めて言い寄るつもりで「ロシアの女には気品がある」と言うのだがドラゴミラはこう切り返す。
「ロシアの女性は、最初一目見たときには奴隷だけれど、本質は今なおスキタイの女戦士(アマゾーン)で、恐れを知らず、必要とあらば憐れみも知らないのよ」(マゾッホ「魂を漁る女・第一部・23・P.243」中公文庫)
自分で自分自身のことを古代ギリシアの「スキタイ人」に喩える。少なくともそうであろうと《欲する》。ドラゴミラが思い描いている「スキタイ人」とはどのような意志に燃える人々だったか。
「スキュタイ人は最初に倒した敵の血を飲む。また戦闘で殺した敵兵は、ことごとくその首級を王の許へ持参する。首級を持参すれば鹵獲物の分配に与ることができるが、さもなくば分配に与れぬからである。スキュタイ人は首級の皮を次のようにして剥ぎとる。耳のあたりで丸く刃物を入れ、首級をつかんでゆすぶり、頭皮と頭蓋骨を離す。それから牛の肋骨を用いて皮から肉をそぎ落し、手で揉んで柔軟にすると一種の手巾ができる。それを自分の乗馬の馬勒にかけて誇るのである。この手巾を一番多く所有する者が、最大の勇士と判定されるからである。またスキュタイの人の中には、剥いだ皮を羊飼の着る皮衣のように縫い合せ、自分の身につける上衣まで作るものも少なくない。さらにまた、敵の死体の右腕の皮を爪ごと剥いで、矢筒の被いを作るものも多い。人間の皮というものは実際厚くもあり艶もよく、ほとんど他のどの皮よりも白く光沢がある」(ヘロドトス「歴史・中・巻四・六四・P.45~46」岩波文庫)
ドラゴミラがそのような異端信仰へ身を捧げるようになったのはなぜか。ドラゴミラに言い寄る男性の一人ソルテュク伯爵にこういう。
「考えてみてください。一方にあるのは、何も考えず、もはや何の意味もない形式にしがみついている教会の死んだ信仰で、聞く人もいない祈りの文句をつぶやき、誰も神父に魂をゆだねようとはせず、神父の方は肉体の快楽にのみ腐心しているのです。もう片方にあるのは、もはや神聖なものを認めない無信仰です。こちらは天体やら動物や人間の頭蓋骨やらを中心に据えてすべてを考えており、秤(はかり)にかけ、計算し、元素に分解しています。また植物の成長を観察し、石や惑星を観察していますが、神については何も知りません、望遠鏡をのぞいても発見できないからなのです」(マゾッホ「魂を漁る女・第二部・7・P.344」中公文庫)
何が起こっているのか。十九世紀前半にネルヴァルを精神錯乱に陥れたダブルバインド状況がここではスラヴ地域一帯で発生したということだ。
「すべてを否定した大革命と、キリスト教信仰をまるごと取り戻そうとする反動の世の中と、二つの時代の相反する教育のあいだで迷う、不信心というよりは懐疑的な世紀の子である私」(ネルヴァル「イシス」『火の娘たち・P.380』岩波文庫)
一方に腐敗堕落を極める教会権力があり、他方に怒涛の如く押し寄せる近代資本主義がある。近代とは言い換えれば「合理主義」ということだ。ではロシア各地の村落共同体にまだ多く残されていた古来からの伝統はキリスト教に期待できず、かといって一夜にしてすんなりと近代資本主義社会を出現させることもできない。まだまだ農民ばかりの小さな教会、ほとんど手作りといっていいような小さな集会所めいたものがあるばかりだ。行き場を失くした彼らにとって残された場所は究極的異端というべき世界を見出しのめり込んでいく。マゾッホがモデルとしたのはガリーシャ(今のウクライナ地域からハンガリーの東端部分)で発生した神秘主義教団である。この種の教団は一つでなくこの時期に次々に出来上がり次々と自滅していった。しかし最初から異端派を目指したわけではない。急速な近代化に伴い、つい最近までは農村ばかりだった村落共同体全体へ、個人的な力ではとてもたちうちできない大規模な新世界秩序が一度に押し付けられることになった。そういう環境へ放り込まれると多くの人間はとつぜんアニミズム的な世界観へ退行する。それが異端であろうとなかろうとアニミズムへ回帰しようとする本能が内部から湧き起こってくる。人間はそういうふうにできている。すでに落ち着きを取り戻しつつ帝国主義戦争への準備に取り掛かっていた西欧と比較すればドラゴミラに代表される態度の取り方はなるほど遅れているように見える。しかし何千年ものあいだ信仰されてきた「森の精霊」の国にとってむき出しの資本主義化は余りにも過酷過ぎた。ちなみに中沢新一は「南方熊楠コレクション」の解題で、日本の近代化のケースを例に上げて次のように述べている。
「この世に自分の力のおよばない聖域が残されていることを嫌うことにかけては、近代の資本主義は、国家にまさるともおとらない嫉妬深さを示す。それは、貨幣に計量化できないもの、自由な交換に投げ入れることのできないもの、資本として増殖していく価値に自分を譲り渡していかないものなどが、この世に存在していることが許せないのだ。その資本主義は、長いこと森に立ち入ることができなかった。そこが日本人の精神にとって、きわめて重要な『聖域』として、慎重に守られてきたからだ。森の神聖の根源は、そこが秘密儀にみちたマンダラであったためである。ところがいまや、国家が神道の名において、その森の内部空間のマンダラの解体を、推し進めようとしているのである。かつては、森そのものが神社だった。だが、これからは神社のまわりに森が残るだけなのだ。明治の資本主義は、舌なめずりをした。神々の守護を失ったはずの森の樹木は、ただの商品と化していくだろう、と彼らは見越した。日本の森には、野放図な伐採の危機が、迫っていた。森は精神的であると同時に、生態学的な危機にも、直面しようとしていたのである」(中沢新一「森の思想」『南方熊楠コレクション5・P.102~103』河出文庫)
作品が後半に入りドラゴミラの行為はほとんど狂気の領域に達する。マゾッホはドラゴミラに何をやらせるのか。というより、何をやらせることで当時の迷える子羊たちが何を言わんとしていたか、それをあぶり出そうとする。その意味で、センセーショナルなスペクタクルものという形式を取りつつ、行き場を失くしてダブルバインド状況に叩き込まれたスラヴの村落共同体がどのような運命を選択したか。見直す余地はあるだろう。マゾッホの同時代人はマルクス、ニーチェ、ドストエフスキーらである。その後しばらくして日本は明確に帝国主義戦争を選択した。ヒロシマの原爆投下を見るまで長い思考停止状態に入ってしまう。ところがロシアはひょんなことからロシア革命を成立させている。この屈折、その分かれ目、その岐路で、一体何があったのか。マゾッホがドラゴミラに言わせている言葉に注目したい。
BGM
