アルベルチーヌを常に<幽閉・覗き見・監視>すること。アルベルチーヌの欲望の対象となりうるすべての女性たちをアルベルチーヌから切り離しておくこと。すると「女たちを、私は思うがままに賛美し、まなざしで愛撫しているわけで、いつかもっと親密に愛撫することもできるかもしれない。アルベルチーヌを閉じこめると同時に、私はさまざまな散歩道や舞踏会や劇場で羽ばたくこれら玉虫色の翼をことごとく世界へ返したわけで、アルベルチーヌがもはやその誘惑に屈するはずがない以上、そうした翼がふたたび私の心を誘発するのだ」。なるほどその通りだ。しかしなぜそうなるのか。「それらの翼こそ世界の美をつくっているのだ。それはかつてアルベルチーヌの美をつくり出していたものである」からだ。
「アルベルチーヌの隷属状態のおかげで、私はそんな女たちから苦しめられることがなくなり、女たちは美の世界へ復帰したのだ。心に嫉妬を突きさす毒針を失って無害になったその女たちを、私は思うがままに賛美し、まなざしで愛撫しているわけで、いつかもっと親密に愛撫することもできるかもしれない。アルベルチーヌを閉じこめると同時に、私はさまざまな散歩道や舞踏会や劇場で羽ばたくこれら玉虫色の翼をことごとく世界へ返したわけで、アルベルチーヌがもはやその誘惑に屈するはずがない以上、そうした翼がふたたび私の心を誘発するのだ。それらの翼こそ世界の美をつくっているのだ。それはかつてアルベルチーヌの美をつくり出していたものである。私がかつてアルベルチーヌに目を奪われたのは、相手を神秘の鳥とみなしたからで、ついで皆の欲望をそそって誰かのものになっているやもしれぬ浜辺の大女優とみなしたからにほかならない。ある夕方、どこから来たのかも定かでないカモメの群れのような娘の一団にとり巻かれて堤防のうえをゆっくり歩いてくるのを見かけた、そんな鳥であったアルベルチーヌも、ひとたびわが家の籠の鳥と化すと、ほかの人のものになる可能性をいっさい喪失するとともに、あらゆる生彩を喪失してしまった。かくしてアルベルチーヌはすこしずつその美しさを失ったのである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.386~387」岩波文庫 二〇一六年)
<未知の土地>としてのアルベルチーヌはなぜ可能だったのか。「私がかつてアルベルチーヌに目を奪われたのは、相手を神秘の鳥とみなしたからで、ついで皆の欲望をそそって誰かのものになっているやもしれぬ浜辺の大女優とみなしたからにほかならない」。逆に<監禁・監視>の下に置かれたアルベルチーヌはどうか。「ある夕方、どこから来たのかも定かでないカモメの群れのような娘の一団にとり巻かれて堤防のうえをゆっくり歩いてくるのを見かけた、そんな鳥であったアルベルチーヌも、ひとたびわが家の籠の鳥と化すと、ほかの人のものになる可能性をいっさい喪失するとともに、あらゆる生彩を喪失してしまった。かくしてアルベルチーヌはすこしずつその美しさを失ったのである」。
アルベルチーヌからありとあらゆる欲望を奪い去ってしまって始めて、安心して他の女性たちを相手に次々と恋愛することができる。<私>は手前勝手だ。ということは程度の違いこそあれ、ほとんどすべての人間は、生きている限り、自分のことは棚に上げて、手前勝手、好き放題、傍若無人に振る舞っていると言えるだろう。しかしプルーストが示唆しているのは道徳的な観点からの考えではまるでなく、まったく別次元において、そのような行為がどんどん増殖するのはなぜかという問いだ。道徳的な意味づけならそれこそ世界の人口と同じくらい様々あるだろう。プルーストが言っているのはそういう意味では全然なく、ありとあらゆるどんな事柄も或る身振り(言語・振る舞い)から突然立ち上がる記号の系列を通してしか成立しないという事情である。
試しに道徳的な善悪という価値感情はどこから来るのか考えてみよう。その根拠となると実は極めていかがわしい。ニーチェから二箇所。
(1)「何か未知のものを何か既知のものへと還元することは、気楽にさせ、安心させ、満足させ、しかのみならず或る権力の感情をあたえる。未知のものとともに、危険、不安、憂慮があたえられるが、ーーー最初の本能は、こうした苦しい状態を《除去する》ことにつとめる。なんらかの説明は説明しないよりもましである、これが第一原則にほかならない。根本において、問題はただ圧迫する想念から脱れたいということのみにあるのだから、それから脱れる手段のことは、まともに厳密にはとらない。未知のものを既知のものとして説明してくれる最初の思いつきは、それを『真なりとみなす』ほど気持ちよいのである。真理の標識としての《快感》(「力」の証明)。ーーーそれゆえ、原因をもとめる衝動は恐怖の感情によって制約されひきおこされる。『なぜ?』という問いは、できさえすれば、原因自身のために原因をあたえるというよりは、むしろ《一種の原因》をーーー一つの安心させ、満足させ、気楽にさせる原因をあたえるであろう。何かすでに《既知のもの》、体験されたもの、回想のうちへと書きこまれているものが原因として措定されるということは、この欲求の第一の結果である。新しいもの、体験されていないもの、見知らぬものは、原因としては閉めだされる。ーーーそれゆえ、原因として探しもとめられるのは、一種の説明であるのみならず、《選りぬきの優先的な》種類の説明であり、見知らぬもの、新しいもの、体験されていないものの感情が、そこでは最も急速に最も頻繁に除去されてしまっている説明、ーーー《最も習慣的な》説明である。その結果は、一種の原因定立が、ますます優勢となり、体系へと集中化され、最後には、《支配的となりつつ》、言いかえれば、《他の》原因や説明を簡単に閉めだしつつ、立ちあらわれるということになる」(ニーチェ「偶像の黄昏」『偶像の黄昏/反キリスト者・P.62~63』ちくま学芸文庫 一九九四年)
(2)「私は、戸外へ歩み出て、どんなすばらしい明確さをそなえて一切のものが私たちに作用をおよぼすか、たとえば森がそうであり山もそうである、と考えて、また、一切の感覚に関して、私たちのうちにはまったくなんらの混乱、見誤り、躊躇もないということを考えて、いつも驚くのである。それにもかかわらず、はなはだしい不確実性と何か混沌としたものが現存していたにちがいなく、途方もなく長い時間をかけて初めてそういった一切のものはそのように《確固とした》相続物になったのである。空間的間隔、光、色等々に関して本質的に別様の感じ方をした人間たちは、排除されてしまい、うまく繁殖することができなかったのだ。こういう《別様の》感じ方は、何千年もの長い間『《狂気》』と感じられて忌避されたに《ちがいない》のだ。人々はもはや互いに理解し合わず、『例外』を排除し、破滅させたのだ。一切の有機的なものの始まり以来或る途方もない残酷さが現存してきた、つまり『《別様の感じ方をした》』一切のものが排除されてきたのだ。ーーー私たちは私たちの先祖たちの感覚の遺物のうちで、いわば感情の化石のうちで生きているのだ。先祖たちは虚構し空想した、ーーーしかし、こういう虚構され空想されたものが生きつづけて差しつかえないかどうかの決定は、そういうものによって《生きる》ことができるか、それともそういうものによって破滅するかに関する経験によって、与えられたのだ。誤謬でも真理でもよかったのだ、ーーー《もし》これらによって《生》が可能でありさえ《すれば》!」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・八九・P.63~64」ちくま学芸文庫 一九九四年)
この「誤謬でも真理でもよかったのだ、ーーー《もし》これらによって《生》が可能でありさえ《すれば》!」という言葉に注意深くありたい。「誤謬でも真理でもよかった」。たった一人になってでも自分さえ生きていければどちらでも構わない、というふうに読める。ではここで言われている「誤謬と真理と」どう違うのか。わかるだろうか。「真理」とは何かが問われねばならない。ニーチェはこう言っている。三箇所。
(1)「《真理》とは、それなくしては特定種の生物が生きることができないかもしれないような《種類の誤謬》である。《生》にとっての価値が結局は決定的である」(ニーチェ「権力への意志・下・四九三・P.37」ちくま学芸文庫 一九九三年)
(2)「真理とは、何なのであろうか?それは、隠喩、換喩、擬人観などの動的な一群であり、要するに人間的諸関係の総体であって、それが、詩的、修辞的に高揚され、転用され、飾られ、そして永い間の使用の後に、一民族にとって、確固たる、規準的な、拘束力のあるものと思われるに到ったところのものである」(ニーチェ「哲学者の書・P.354」ちくま学芸文庫 一九九四年)
(3)「真理とは、錯覚なのであって、ただひとがそれの錯覚であることを忘れてしまったような錯覚である。それは、使い古されて感覚的に力がなくなってしまったような隠喩なのである。それは、肖像が消えてしまってもはや貨幣としてでなく今や金属として見なされるようになってしまったところの貨幣なのである」(ニーチェ「哲学者の書・哲学者に関する著作のための準備草案・P.354」ちくま学芸文庫 一九九四年)
なるほど或る《種類の誤謬》は「真理」とか「道徳」とかの呼び名を与えられつつ、人間が生きていくための戦略的「誤謬」である限りで、必要なものではあるのだ。ところが勘違いしてはならないことがある。というのは「真理」とか「道徳」とか、その他どんな呼び方でも構わないにせよ、それが流通していればいるほど「正しい」とはまるで限らないという事情である。流通していれば流通しているほど「正しい」というのが事実であれば、たとえ貨幣として世界的に承認されていても流通量が少なければ少ないほどそれは貨幣から遠ざかるに違いない。
「金は価値をもつから流通するのであるが、紙幣は流通するから価値をもつのである」(マルクス「経済学批判・第一部・第一篇・第二章・P.156」岩波文庫 一九五六年)
モンテーニュが法律とその信用とについて述べたことと大変似ている。
「法律が信用を保つのは、公正であるからではなくて、法律であるからである。これこそ法律の権威の不思議な根拠で、それ以外には何の根拠もない。そのことが法律に大いに役立っている。法律はしばしば愚者によって作られる。いやそれ以上にしばしば、公平を嫌って公正を欠く人間によって作られる」(モンテーニュ「エセー6・第三巻・第十三章・P.133」岩波文庫 一九六七年)
さらに法律はしばしば何をするか。
「わけても軽視してならないのは、犯罪者は裁判上および行刑上の処置そのものを見るというまさにそのことのために、自分の行為、自分の行状を《それ自体において》非難さるべきものと感じることをいかに妨げられるかということだ。というわけは、犯罪者は、それと全く同一の行状が正義のために行なわれ、そしてその場合は『よい』と呼ばれ、何らの疚(やま)しさを感じることもなく行われているのを見るからである。つまり彼は、探偵・奸策・買収・陥穽など、警官や検事側の弄する狡猾老獪な手管の全体、それからまた諸種の刑罰のうちに際立って示されているような、感情によっては恕(ゆる)されないが原則としては認められる褫奪・圧制・凌辱・監禁・拷問・殺害など、ーーーこれらすべての行為を、彼の裁判者たちは決して《それ自体において》非難され処罰さるべき行為としては行なわず、むしろ単にある種の顧慮から利用しているのを見るからである」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・十四・P.95」岩波文庫 一九四〇年)
このように読者はプルーストを通して、身振り、とりわけ大手マスコミの身振り(言語・振る舞い)をそっくりそのまま文字通り受け取るわけにはいかないという始めの一歩にたどり着くことができる。