ソドム(男性同性愛)の住人として社交界に知れ渡っているシャルリュス。しかし知られていない身振りをどこまでも貫き通す。しかしその言葉はいつもシャルリュス特有の嘘として、発言されるやすぐさま逆方向へ作用する。次もそうだ。
「『とんでもない!それが目的で友だちになってるわけじゃありませんぞ!そのうちのふたりの男は完全に女相手、もうひとりはまあその口だが、その男もリーダー格の友人については確信が持てないんです、いずれにせよふたりの男はたがいに隠しあっていますから。こう言うと驚かれるでしょうが、そうした不当な評判にかぎって、一般の人の目にはいちばん確かなものに見えるんです。ねえ、ブリショ、あなた自身が、このサロンに出入りするだれかれを悪癖とは無縁の男だと天地神明にかけて誓ったとしても、事情通にはその男は間違いなくそれと知られている場合もあれば、また大衆のあいだではその趣味の持主として通っているさる有名人についての悪評を、あなたもきっと世間の人と同じように信用なさるだろうが、あにはからんや二スーごときでそんなことなどありえない。私が二スーごときでと言うのは、もし二十五ルイも出せば、かわいい聖人の数はほとんど減ってゼロになりかねんからだ。そんな事情でなければ聖人の割合は、そんなことで聖人と言えるとしての話だが、まあ一般的に十人に三人か四人というのが相場でしょう』。ブリショは話題になった悪評を男性に当てはめたのであるが、私のほうはアルベルチーヌを想いうかべながら、このシャルリュス氏のことばを逆に女性に当てはめた。私は氏の挙げた統計に唖然とした」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.245~246」岩波文庫 二〇一七年)
この種の「悪評」は限度を知らない。といっても、<私>はアルベルチーヌを念頭に置いている。ゆえに一度、ソドムに関する言葉の連結を、ゴモラ(女性同性愛)の世界、<私>にとっては<未知の地帯>へ置き換えてみて始めて戦慄する。記号論的コノテーションはたちまち<私>を高速記録機械へ変える。その記録はすべて読者へ提供される。読者は提供された種々の情報をゆっくり味わうための時間へ取り組む。シャルシュスが懇切丁寧に犯してしまう言説の逆説についてはもう与えられている。
「氏は、みずから巧妙と信じるこんなことばで、うわさが流れているとはつゆ知らぬ人たちにはそのうわさを否定し(というか、本当らしく見せたいという嗜好や措置や配慮ゆえに、些細なことにすぎないとみずから判断して真実の一端をつい漏らしてしまい)、一部の人たちからは最後の疑念をとりのぞき、いまだなんの疑念もいだいていない人たちには最初の疑念を植えつけたのである。というのも、あらゆる隠匿でいちばん危険なのは、過ちを犯した当人が自分の心中でその過ち自体を隠匿しようとすることである。当人がその過ちをたえず意識するせいで、ふつう他人はそんな過ちには気づかず真っ赤な嘘のほうをたやすく信じてしまうことにはもはや想い至らず、それどころか、自分ではなんの危険もないと信じることばのなかにどの程度の真実をこめれば他人には告白と受けとられるのか見当もつかないのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.264」岩波文庫 二〇一五年)
前回、「ことばのひとつひとつ」が<力>として作用しないわけにはいかない、と述べたのもそういうことだ。極めて繊細慎重な手つきで取り扱わないと、ともすれば発作的に<現代の神話>が捏造される。「ユリイカ」二月号で赤坂憲雄は書いている。「食べない女の神話学よ、さらば」『ユリイカ・2023・02・P.31』(青土社 二〇二三年)。
特集は「エゴン・シーレ」。プルーストが絵画や音楽の言語への<翻訳>を試みたように、ここではシーレの絵画について批評という形態を取りつつ言語への様々な<翻訳>が置かれている。例えば村山悟朗の場合、何げなくベイトソンを引きつつ、というふうに。
「二匹の犬が近寄って、『闘わない』というメッセージを交換する必要にせまられたとする。ところが、イコンによって『闘い』に言及するには、牙を見せるほかない。このとき彼らは、提示された『闘い』が単に《模索》段階のものであることを了解する必要がある。そこで彼らは、牙を見せられたことの意味を探っていくことを始める。一応けんかを始めてみて、その上でどちらも相手を殺傷する意志のないことを知り、その後に、親しくなるのであれば親しくなるというやり方である」(ベイトソン「プリミティブな芸術の様式と優美と情報」『精神の生態学・・P.215』新思索社 二〇〇〇年)
逆に動植物の知恵一つ持とうとしないような人間。ニーチェのいう「猿」。人間自身を映し出す鏡として機能する「猿」とその<猿芝居>。<現代の神話>をばんばん捏造しまくって恥一つ感じていないその種の人間。赤坂憲雄は「神話学」の中でバルトを引用しているが、引用するだけして、いらなくなればもう捨てる。それはそれでいい。だがニーチェのいう「猿-人間」という皮肉に満ちた問いはすっかり残ったままだ。バルトはこうもいう。
「砂糖は単に一個の、それも普及した食品というだけではない。それは、いわば一つの《態度》であって、もはや食品だけに関するのでない種々の慣用や《儀礼》と結びついているーーー。アルコールがない代わりに甘い飲み物がふんだんにある《ミルク・バー》へ規則的に通うことは、砂糖を消費するというだけでなく、砂糖を通じて一日を、休息を、旅を、余暇を、おそらく多くのアメリカ人が従っているあるやり方で生きることでもあるのだ。フランスでは、ぶどう酒はぶどう酒にすぎない、などと誰が主張できよう?砂糖にしろ、ぶどう酒にしろ、こうした過剰な物質は、また、制度でもあるのだ」(バルト「現代における食品摂取の社会心理学のために」『物語の構造分析・P.108』みすず書房 一九七九年)
<制度の力>を暴力的に流通させる。意図的にリークし垂れ流し流用し転用し借用し二重三重に<制度化>させてしまう。「それは、いわば一つの《態度》であって、もはや食品だけに関するのでない種々の慣用や《儀礼》と結びついている」。
なかでも「種々の慣用や《儀礼》と結びつ」くことの危険性。「カルト」同様、周辺に与える暴力的作用は余りにも巨大である。<日本語を用いるとはどういうことか>という困難な問いに取り組んだ作家の名を思い出さずにはいられない。単行本出版から今年の七月で十一年を迎える。
「電話の向こうの人が、なんと言ったか、今の私は知っている。おそらくは“People”とくり返したと。教えてくれたのは、こんな電話があったことを告げたときの、母だった。その自分、母はたしか、結婚前に勤めていたアメリカ大使館の仕事の手伝いをしていた。受話器の向こうで外国語を話した女性が誰だったか知らない。彼女がなぜ、どういう脈略で『人びと』などと繰り返したのかは知らない。母にもわからない。だけれどそのとき、昔の体の中にいた私の意識に、知らない響きが実体を持った。響きには意味がある。言葉が私の中に受肉された。『ピーポゥ』は、たくさんの『小さな人びと』となって、私の中に住み着いた」(赤坂真理「東京プリズン・第一章・P.12〜13」河出文庫 二〇一四年)
昨今「東京裁判」とか「戦争責任」とかいう言葉ばかりが濫用されてしまって内容の空虚さがますます増していく世相の中で、それでもなお赤坂真理「東京プリズン」は東日本大震災をも含め、改めて言葉と信仰とについて向き合う大切さが一体どれほど実り多いものをもたらすか、繰り返し問い直せるような形へ、小説の可能性を大いに拡張してみせた。例えば「明治維新」の「維新」という漢字がもたらす言語トリックあるいはブラックボックスにすっかり惑わされはめられた日本人という立場。だからといって英語は優れているといえるのか。まるでそうではない。そう言ってしまえば問いをますます混乱させるだけ。そうではなく<他者>という場所の重要性へ読者の力を向け換える。それは差し当たり、或る言語体系と別の言語体系との間に置かれて始めて可視化される。
「個々の哲学的概念は何ら任意なもの、それだけで生育したものではなく、むしろ互いに関係し類縁を持ち合って伸長するものであり、それらはどんなに唐突に、勝手次第に思惟の歴史のうちに出現するように見えても、やはり或る大きな大陸の動物のすべての成員が一つの系統に属するように、一つの系統に属している。このことは結局、極めて様々の哲学者たちもいかに確実に《可能な》諸哲学の根本図式を繰り返し充(み)たすか、という事実のうちにも窺(うかが)われる。彼らは或る眼に見えない呪縛(じゅばく)のもとに、常にまたしても新しく同一の円軌道を廻(めぐ)るのである。彼らはその批判的または体系的な意志をもって、なお互いに大いに独立的であると自ら感じているであろう。彼らのうちにある何ものかが彼らを導き、何ものかが一定の秩序において次々と彼らを駆り立てる。それはまさしく概念のあの生得的な体系性と類縁性とにほかならない。彼らの思惟は実は発見ではなく、むしろ再認であり、想起であり、かつてあの諸概念が発生して来た遥遠な大昔の魂の全世帯への還帰であり帰郷である。ーーーそのかぎりにおいて、哲学することは一種の高級な先祖返りである。すべてのインドの、ギリシアの、ドイツの哲学の不思議な家族的類縁性は、申し分なく簡単に説明される。言語上の類縁性の存するところ、まさにそこでは文法の共通な哲学のおかげでーーー思うに、同様な文法的機能による支配と指導とのおかげでーーー始めから一切が哲学大系の同種の展開と順序とに対して準備されていることは、全く避けがたいところである。同様にまた、世界解釈の或る別の可能性への道が塞(ふさ)がれていることも避けがたい。ウラル・アルタイ言語圏の哲学者たち(そこにおいては、主語概念が甚だしく発達していない)が、インド・ゲルマン族や回教徒とは異なった風に『世界を』眺め、異なった道を歩んでいることは、多分にありうべきことであろう。特定の文法的機能の呪縛は究極のところ《生理学的》価値判断と種族的条件の呪縛である」(ニーチェ「善悪の彼岸・二〇・P.38~39」岩波文庫 一九七〇年)
もっとも、読んでみると「本格ミステリ」という形式を借りてなら、カント経由で、誰か書くことができる内容ではあるのかも知れない。だがあえてそうしないという態度はたいしたものだと刊行当時すぐ感じた。かつて批評される側だった赤坂は今や批評する側を兼ねてもいるーーー。
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