白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・<私>を最速で脱領土化させるアルベルチーヌの<笑い・侮辱>

2023年01月10日 | 日記・エッセイ・コラム

愛することを停止している時期。プルーストはアルベルチーヌ独特の<笑い・侮辱>について語る。ただし<笑い・侮辱>といっても次の文章には二つある。第一に「私がまだアルベルチーヌと面識がなかったころ浜辺で、私とは犬猿の仲であったある婦人、いまの私にはアルベルチーヌと関係をもっていたことがほとんど確実に思われるその婦人のそばにいたアルベルチーヌが、私を横柄に見つめながらはじけるように笑った」こと。第二に「アルベルチーヌにたいする憎悪も同様であったが、こちらの憎悪には、ちやほやされた美しい娘、すばらしい髪を備え、浜辺で大笑いして私を侮辱した娘への賞賛の気持も混じっていた。このような侮辱、嫉妬、当初の欲望や輝かしい背景の想い出が、アルベルチーヌにふたたび昔の美しさと価値を付与した」こと。

 

「アルベルチーヌが私にとってなんの興味も惹かなくなってからでも、ときにふと昔のひとときの想い出がよみがえることがあった。それは私がまだアルベルチーヌと面識がなかったころ浜辺で、私とは犬猿の仲であったある婦人、いまの私にはアルベルチーヌと関係をもっていたことがほとんど確実に思われるその婦人のそばにいたアルベルチーヌが、私を横柄に見つめながらはじけるように笑ったことだ。まわりには滑らかな青い海がさざめいていた。浜辺の日射しのなかで、友人の娘たちに囲まれたアルベルチーヌはとび抜けて美しかった。くだんの婦人が心酔しているかけがえのない出色の娘が、あのいつもの大海原を背景に、私をそんなふうに侮辱したのだ。その侮辱がとり消せなくなったのは、当の婦人がもしかするとバルベックへ戻ってきて、光あふれ波音さざめく浜辺にアルベルチーヌがいないことに気づいたかもしれないが、その娘がいまや私と暮らしていて私だけのものになっていることは知らなかったからだ。広く青い大海原、その娘へと向かいつぎにべつの娘たちへと向かった婦人の愛情の忘却、それらはアルベルチーヌから受けた侮辱を前に崩れ去って、まばゆく壊れない宝石箱のなかにいその侮辱だけが閉じこめられた。すると私の心は、その婦人にたいする憎悪に駆られた。アルベルチーヌにたいする憎悪も同様であったが、こちらの憎悪には、ちやほやされた美しい娘、すばらしい髪を備え、浜辺で大笑いして私を侮辱した娘への賞賛の気持も混じっていた。このような侮辱、嫉妬、当初の欲望や輝かしい背景の想い出が、アルベルチーヌにふたたび昔の美しさと価値を付与したのである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.388~389」岩波文庫 二〇一六年)

 

第一の<笑い・侮辱>はただ単に個別的な状況の中では生じない。バルベックというリゾート地特有の価値転換が成立しているという条件のもとに限り、始めて生じてくる。その意味で複数の社会的な価値体系の広がりが不可欠なエピソードである。プルーストから二箇所引くことができる。

 

(1)「発見したばかりのこの残酷な事実は、おそらくわが書物の素材そのものにならないかぎり私の役に立つことはないだろう。なぜなら、その書物の素材は時間の埒外にある真に充実した印象だけで構成するわけにはゆかないので、さまざまな周辺の真実のあいだに印象をはめこむつもりであったが、そのなかでも、私は人間や社会や国家がそこに浸され変化してゆく時間にかかわる真実にとりわけ重要な位置を占めさせようと決めていたからである」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.51」岩波文庫 二〇一九年)

 

(2)「じつに多様な女性のイメージが心のなかに入りこんでくるたびに、忘却がそれを消し去るか競合するほかのイメージがそれを追い出すかしない場合、この未知の女たちを自分と同質のものに変えるまで心の安らぎは得られない。この点、われわれの心には生まれつき、肉体組織と同様の反応をしたり活動をしたりする機能が備わるらしい。体内に異物が入ってきたとき、肉体組織がただちに闖入者を消化吸収する作用を発動せずにいられないのと同じである」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.354」岩波文庫 二〇一二年)

 

だが第二の<笑い・侮辱>はやや難解だろう。というのも、この種の<笑い・侮辱>は<私>が<私>自身に向けられていることを十分承知した上でなおかつ、自らに狙いを付けられた<笑い・侮辱>を快楽するという転倒だからである。プルーストが属した上流社交界の<暴露・覗き見・冒瀆>という三大テーマを俎上に乗せるためには、プルーストがプルースト自身へ向けた残忍な暴力によって生じる快感の<暴露>を避けて通るわけにはいかない。「浜辺で大笑いして私を侮辱した娘への賞賛の気持」。それを気持ちよく受け止め消化する作業。プルーストにとってはわけない作業の一つである。

 

「異他を同化する精神の力は、新しいものを古いものと相似にし、多様を単純にし、全く矛盾するものを看過し、または押し除(の)ける強い傾向のうちに現われる。同様にまた、精神は異他的なもの、『外界』のあらゆるものの特定の画線を勝手に強調したり、際立(きわだ)たせたり、適当に変造したりする。その際に精神の意図するところは、新しい『経験』を消化し、新しい事物を古い系列に編入すること、ーーー従って成長することにある。更に明確に言えば、成長の《感情》、増大した力の感情にある。この同じ意志に、精神の一見して反対の衝動も奉仕する。無知を求め、勝手に閉じ籠(こ)もろうとする突然に勃発する決意とか、自己の窓の閉鎖とか、この或いはあの事物に対する内的な否定的発言とか、近寄ることの禁止とか、多くの知りうるものに対する一種の防御状態とか、暗黒や閉ざされた地平に対する満足とか、無知に対する肯定と是認など、すべて同然である。これらすべては、精神の同化力の程度に応じて、具象的に言えば、精神の『消化力』の度合いに応じて、それぞれ必要なのである。ーーーそれで、実際『精神』は最もよく胃に似たものなのだ」(ニーチェ「善悪の彼岸・二三〇・P.213~214」岩波文庫 一九七〇年)

 

そして「このような侮辱、嫉妬、当初の欲望や輝かしい背景の想い出が、アルベルチーヌにふたたび昔の美しさと価値を付与した」こと。ニーチェはいう。「残忍とは《他人の》苦悩を眺める際に生じるものだとのみ教えなければならなかった以前の愚鈍な心理学を追い払わなければならない。自分自身の苦悩、自分自らを苦しめるということにも夥(おびただ)しい、有り余るほどの享楽があるのだ」。

 

「残忍とは《他人の》苦悩を眺める際に生じるものだとのみ教えなければならなかった以前の愚鈍な心理学を追い払わなければならない。自分自身の苦悩、自分自らを苦しめるということにも夥(おびただ)しい、有り余るほどの享楽があるのだ。ーーー人間は密(ひそ)かに自己の残忍さによって誘われているのであり、《自己自身に対して》向けられた残忍のあの危険な戦慄によって突き進められている」(ニーチェ「善悪の彼岸・二二九・P.212~213」岩波文庫 一九七〇年)

 

ところで「《自己自身に対して》向けられた残忍のあの危険な戦慄によって突き進められている」ことは確かだが、事情次第で別の価値体系へ「突き進められ」ることもできる。例えばカフカ「審判」でKは判事の愛読書が三流ポルノ雑誌であり法律は欲望に他ならないと教わる。教えるのはただ単なる洗濯女である。

 

「『なんて汚いんだここじゃ何も彼(か)も』、とKは頭をふりふり言った、女はKが本に手を出すまえに、前掛けで、少くとも上っつらの埃(ほこり)だけははらいのけた。Kが一番上の本を開くと一枚のいかがわしい絵があらわれた。男と女が裸で寝椅子(ねいす)に腰をおろしている絵で、絵描(えか)きの卑(いや)しい意図ははっきりと見てとれたが、絵があまりにも拙劣なので、結局は要するに一人の男と一人の女がーーーあまりにもからだばかり画面からとび出していて、極度にしゃっちょこばって坐(すわ)っていて、誤った遠近法のためにやっとのことで並んで向きあっている男と女が、見てとれるというだけのものであった。Kはそれ以上めくるのをやめて、二冊目の本は扉(とびら)だけ開けてみた、それは『グレーテが夫ハンスより受けし苦しみ』という題名の小説だった。『これがここで学ばれる法律書というわけだ』、とKは言った、『そんな人間どもにぼくは裁かれるってわけだ』」(カフカ「審判・人気のない法廷で・大学生・裁判所事務室・P.84」新潮文庫 一九九二年)

 

さらに画家ティトレリは自分のアトリエのドアを開けてKが一刻も速く次に赴くべき場所へ導いてやる。

 

「『全部つつんでください!』、と彼は叫んで画家のおしゃべりを遮(さえぎ)った、『あした小使にとりに来させます』。『その必要はありません』、と画家は言った、『いますぐあなたと行ける運び手を見つけられるでしょう』。そしてようやく彼はベッドの上にかがみこみ、ドアの鍵を開けた。『遠慮なくベッドに上ってください』と画家は言った、『ここに来る人はみんなそうするんですから』。そうすすめてくれなくてもKは遠慮なぞしなかっただろう。それどころか彼はすでに片足を羽根ぶとんにのせてさえいたのだが、開いたドアから外を見て、またその足をひっこめてしまった。『あれはなんです?』、と彼は画家にきいた。『何を驚いてるんです?』、と画家のほうでも驚いてきき返した、『裁判所事務局ですよ。裁判所事務局がここにあるのをご存じなかったんですか?ほとんどこの屋根裏にだって裁判所事務局があるのに、ここにあっていけないわけがないでしょう?わたしのアトリエも本来裁判所事務局の一部なんですが、裁判所がわたしに使わしてくれてるんですよ』。Kはこんなところにまで裁判所事務局を見出(みいだ)したことにそれほど驚いたのではなかった。それより彼は自分にたいし、自分の裁判所に関する無知にぞっとしたのだった」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.228~229」新潮文庫 一九九二年)

 

いずれの場合も目指されているのはKを瞬時に脱領土化させることだ。資本主義は絶えざる脱領土化と再領土化とを同時に押し進める諸力の運動だが、Kは再領土化(資本主義への回収)寸前で、どこにでもごろごろいそうな登場人物たち(洗濯女・画家)によって脱領土化の線へ脱節させられ生き延びる。或る価値体系によって占められた場所から別の価値体系によって占められた場所へたちまち移動する。目に見えない形で張り巡らされた政治・経済・官僚機構の網目をすり抜けるよう最速で脱領土化される。

 

そこで見るべき事案が提出されている。<私>にとってアルベルチーヌ独特の<笑い・侮辱>の二重化が生じた余地は、アルベルチーヌが<未知の女>である限りで始めて生じてくることができるものだと。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて179

2023年01月10日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。午後の部。時折小雨がぱらつく曇りがちな午後でした。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.10)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.10)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.10)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.10)

 

小雨がぱらついたり止んだりします。しばらくJRの高架下で雨宿り。

 

「名称:“高峯遺跡”」(2023.1.10)

 

古墳群へのぼってみましょう。分厚い雲が横切っていきます。

 

「名称:“日の入”」(2023.1.10)

 

「名称:“日の入”」(2023.1.10)

 

「名称:“日の入”」(2023.1.10)

 

湖畔近くへ降りてきました。

 

「名称:“日の入”」(2023.1.10)

 

「名称:“日の入”」(2023.1.10)

 

湖畔へ出ました。何事もなかったかのような夕暮れです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.10)

 

二〇二三年一月十日撮影。

 

参考になれば幸いです。

 


Blog21・愛することを停止してみる/分割可能なアルベルチーヌ

2023年01月10日 | 日記・エッセイ・コラム

愛することを停止している時期。<私>はこれまでのアルベルチーヌのイメージを振り返って見ている。差し当たり第一の時期と第二の時期とに分割する。重要なのは、人間の生涯は切れ目なく飴のようにびよ~んと延びている一幕劇ではまるでなく、逆にあちこち分節され切断面を剥き出しにした断層だらけのモザイクであり、どこまでも細分化可能な<諸断片>のパッチワークであり「分割可能」だという認識にある。(1)「日増しに衰えてゆくとはいえいまだに浜辺の玉虫色にかがやく女優であった最初の時期」。(2)「灰色の囚われの女となり、冴えない自分自身と化して、生彩をとり戻してやるには私が過去を想い出すときの稲妻のような光が必要になった第二の時期」。

 

「私の嫉妬はたしかに想像上の楽しみの減退とはべつの道をたどりはしたが、それでも浜辺の輝きにつつまれたアルベルチーヌをふたたび目にするためには、アルベルチーヌが私を抜きにしてほかの女性や青年から話しかけられているすがたが想像される昔日のような散歩を必要とした。しかし、そんなふうにほかの人たちの欲望の対象となってアルベルチーヌが私の目にふたたび不意に美しさをとりもどす飛躍がこれまで何度もあったとはいえ、私はアルベルチーヌがわが家に滞在していた時期をふたつに分けることができた。アルベルチーヌが日増しに衰えてゆくとはいえいまだに浜辺の玉虫色にかがやく女優であった最初の時期と、灰色の囚われの女となり、冴えない自分自身と化して、生彩をとり戻してやるには私が過去を想い出すときの稲妻のような光が必要になった第二の時期である」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.387」岩波文庫 二〇一六年)

 

しかしそもそも<私>はなぜアルベルチーヌにばかりこだわっているのか。<他者の欲望>というテーマが横たわっている。この一節の中だけでも二箇所見られる。

 

(1)「浜辺の輝きにつつまれたアルベルチーヌをふたたび目にするためには、アルベルチーヌが私を抜きにしてほかの女性や青年から話しかけられているすがたが想像される昔日のような散歩を必要とした」。

 

(2)「ほかの人たちの欲望の対象となってアルベルチーヌが私の目にふたたび不意に美しさをとりもどす飛躍がこれまで何度もあった」。

 

<他者の欲望>とは欲望であると同時に欲望の抑制でもある。欲望の加工=変造過程としての<他者の欲望>が考えられなければならない。ラカンから二箇所。

 

(1)「いかなる場においても、人間の欲求は、その意味を他者の欲求のうちに見いだすものであるということをこれ以上に明瞭に現わしはしないし、それは、前者が欲求の鍵となっているものを保持しているからというよりも、むしろ、彼の最初の対象が他者によって認められるものに属しているからなのである」(ラカン「精神分析における言葉と言語活動の機能と領野」『エクリ1・P.268』弘文堂 一九七二年)

 

(2)「鏡像段階というのは、精神分析がこの用語にあたえる全き意味で《同一化のひとつとして》理解するだけで十分です。すなわち、主体が或る像〔を自分のものとして〕引き受ける時みずからに生ずる変形ということで、ーーーそれがこの時相の作用として予定されていることは、精神分析における《イマーゴ》という古い用語の慣用によって十分に示されています。

 

この、自由に動くこともできなければ、栄養も人に頼っているような、まだ《口のきけない》状態にある小さな子供が、自分の鏡像をこおどりしながらそれとして引き受けるということは、《わたし》というものが原初的な形態へと急転換していくあの象徴的母体を範例的な状況のなかで明らかにするようにみえるのですが、その後になって初めて《わたし》は他者との同一化の弁証法のなかで自分を客観化したり、言語活動が《わたし》にその主体的機能を普遍性のなかでとりもどさせたりします。

 

重要な点は、この形態が《自我》という審級を、社会的に決定される以前から、単なる個人にとってはいつまでも還元できないような虚像の系列のなかへ位置づけるということであり、ーーーあるいはむしろそれは、主体が《わたし》として自分自身の現実との不調和を解消しなければならないための弁証法的総合がうまく成功していようとも、主体の生成に漸近的にしか合致しないのです。

 

このように、主体が幻影のなかでその能力を先取りするのは身体の全体的形態によってなのですが、この形態は《ゲシュタルト》としてのみ、すなわち、外在性においてのみ主体に与えられるものであって、そこではたしかにこの形態は構成されるものというより構成するものではありながら、とりわけこの形態は、主体が自分でそれを生気づけていると体験するところの騒々しい動きとは反対に、それを凝固させるような等身の浮彫りとしてまたそれを逆転させる対称性のもとであらわれるのです。したがって、この《ゲシュタルト》について言えば、そのプレグナンツは、たとえその運動様式が無視できるにしても、種に関連していると考えなければならないわけで、ーーーその出現のこれら二つの局面によってこのゲシュタルトは、《わたし》の精神的恒常性を象徴すると同時にそれがのちに自己疎外する運命をも予示するものです。さらにその《ゲシュタルト》はさまざまの対応をはらんでいますが、これによって、《わたし》は、いわば人間が彼を支配する幻影にみずからを投影する立像と一体化するわけであり、結局は、曖昧な関係のなかで世界がみずからを完成させようとする自動人形と一体化するわけなのです。

 

じじつ、《イマーゴ》についていえば、そのヴェールに覆われた顔がわれわれの日常経験や象徴的有効性の半影のなかで輪郭をあらわすのを見てとるというのはわれわれの特権ですし、ーーー個人的特徴であれさらには弱点とか対象的投影であれ、要するに《自己身体のイマーゴ》が幻覚や夢のなかで呈する鏡像的配置をわれわれが信用している以上、あるいは、鏡という装置の役割を心的現実、しかも異質なそれの現われる《分身》の出現に認めている以上、鏡像は可視的世界への戸口であるようにみえます。

 

鏡像段階の明らかにする空間的な騙取のなかに、人間の自然的現実が有機体として不十分であることの結果を認めさせますーーー。けれども自然とのこうした関係は人間では生体内部の或る種の裂開によって、つまり生まれてから数ヶ月の違和感の徴候と共働運動の不能があわらにする<原初的不調和>によって変化させられます。

 

《鏡像段階》はその内的進行が不十分さから先取りへと急転するドラマなのですがーーーこのドラマは空間的同一化の罠にとらえられた主体にとってはさまざまの幻像を道具立てに使い、これら幻像はばらばらに寸断された身体像から整形外科的とでも呼びたいその全体性の形態へとつぎつぎに現われ、ーーーそしてついに自己疎外する同一性という鎧をつけるにいたり、これは精神発達の全体に硬直した構造を押しつけることになります」(ラカン「<わたし>の機能を形成するものとしての鏡像段階」『エクリ1・P.126~129』弘文堂 一九七二年)

 

人間は生まれ落ちるやいきなり<他者の欲望>という生産過程へ放り込まれる。<他者の欲望>という欲望の加工=変造過程があらかじめ準備されており、そこへ配置されて始めて人間への生産過程へ乗ることになる。身体的加工の進展度合いに合わせて精神的加工=変造が徐々に施されていく。例えば<良心>について。

 

(1)「《良心の中味》。ーーーわれわれの良心の中味は、幼少時代のわれわれに、われわれのかつて尊敬しあるいは恐れた人びとが理由なく規則的に《要求》したものの一切である。したがってこの良心からあの義務の感情(「これを私はなさねばならない、これをやめねばならない」という)がひき起されたのであるが、しかしこの感情は、《なぜ》私はなさねばならぬのか?を問わない。ーーーしたがって、或ることが『ーーーだから』とか『なぜーーー』という理由づけや理由の詮索とともになされる場合にはすべて、人間は良心《なしに》行動するわけである。しかしだからこそまだ良心に反してではない。ーーーさまざまな権威に対する信仰が良心の源泉である。したがって良心は人間の胸中の神の声ではなく、人間の内部にいる何人かの人間の声である」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第二部・五二・P.315~316」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

(2)「《幼年時代の悲劇》。ーーー貴い高いものを追求する人々がもっとも烈しい闘いを幼年時代に切り抜けなくてはならないということは、おそらくまれではあるまい、たとえば彼らは考えの卑しい、みかけや虚偽におぼれている父親にさからって自分の意向を貫き徹さなくてはならない、またはバイロン卿のように、子どもっぽい起りっぽい母親とたえず闘って生きるとかいうぐあいにして。そういう体験をしてしまうと、彼にとって一体もっとも大きな、もっとも危険な敵はだれであったか、を思い知るという痛手は、その生涯を通じて忘れることがないであろう」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・四二二・P.367」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

(3)「《死刑》。ーーーどんな死刑も殺人よりもっとわれわれの感情を傷つけるのはどういうわけであろうか?それは裁判官の冷酷さ、たえがたい準備、その他の人をおどろかすためにここでひとりの人間が手段として利用されるのだという洞察、である。なぜなら、かりに或る罪が存在するにしても、その罪が罰せられるのではないからである。罪は教育者・両親・環境に、われわれにあって、殺人者にはないからであるーーーわたしのいうのはそうさせる事情のことである」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・七〇・P.100~101」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

(4)「《刑量の決定における恣意性》。ーーーたいていの犯罪者には、ちょうど女たちに子供が与えられるような仕方で刑が与えられる。彼らは、それが悪い結果を招くなどとは夢おもずに、何十回、何百回と同じ行為をつづけてきたのであり、そして突然露顕のときがやってきて、そのあとに罰がくるというわけだ。しかし習慣性というものは、犯罪者が処罰される原因となる行為の罰を、それが習慣的でなかった場合よりも容赦できるものに思わせるはずのものだろう。そこには、抵抗しがたい性癖というものができてしまっているからである。しかし実際には反対に、犯罪者が常習犯の嫌疑をかけられるときは、そうでないときよりも過酷な刑を科せられ、習慣性は一切の情状酌量に対する反対事由と見なされてしまう。これとは逆に、ふだんは模範的な生活を送っている者が、それだけいっそうこれとおそろしい対照をなす犯罪を行なったときには、彼の有罪性はいっそう顕著に見えるはずであろう!しかし実際には、この場合かえって刑が緩和されるのが普通である。かくして、すべては犯罪者を基準に量られるのではなく、社会と社会のうける危害を基準に計られるのだ。そして、或る人間の過去における有益な行状が彼の一回の有害な行状とひきかえに計算され、過去の有害な行状が現在露顕した有害な行状に加算され、これによって計量は最高に計算されるのである。しかし、こうして或る人間の過去が同時に罰せられたりあるいは同時に報いられ(報いられる、といってもこれは罰せられるときのことで、つまり刑の軽減が報償となる場合である)たりするのであれば、もっとさかのぼって、あれやこれやの過去の原因を罰したり報いたりすべきではなかろうか。わたしが考えているのは、両親や教育者や社会などである。そうすれば、多くの場合《裁判官》自身も何らかの仕方で罪にあずかっているさまが見られることだろう。過去を罰すると言いながら犯罪者の過去だけしか問題にしないのは、恣意的である」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第二部・二八・P.292~293」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

そしてフロイトはいう。

 

「自我に拘束されない荒々しい欲動の動きを満足させたことから生まれる幸福感は、飼い馴らされた欲動を堪能させた場合の幸福感とは比較にならぬほど強烈である」(フロイト「文化への不満」『フロイト著作集3・P.443』人文書院 一九六九年)

 

ゆえに欲望はあらかじめ欲望の抑制的使用の流れへ注ぎ込むように操作されている。<公理系>と呼ばれるものがそうだ。

 

「資本主義は、自分が一方の手で脱コード化するものを、他方の手で公理系化する。相反傾向をもったマルクス主義の法則は、こうした仕方であらためて解釈し直されなければならない。したがって、分裂症は資本主義の全分野の端から端にまで浸透している。しかし、この資本主義の全分野にとって問題であるのは、ひとつの世界的公理系の中でこの分裂症の電荷とエネルギーとを連結しておくことである。この世界的公理系は、新たなる内なる極限を、脱コード化した種々の流れの革命的な力にたえず対立させているものであるからである。こうした体制においては、脱コード化と、公理系化とを(つまり、消滅したコードに代わって到来してくる公理系化とを)区別することは、(たとえ二つの時期に区別することでしかないとしても)不可能なことである。種々の流れが資本主義によって脱コード化され、《そして》公理系化されるのは、同時なのである。だから、分裂症は資本主義との同一性を示すものではなくして、逆にそれとの相異、それとの隔たり、その死を示すものなのである。通貨の種々の流れは、完全に分裂症的な実在であるが、しかし、これらの実在が現実に存在して働くことになるのは、この実在を追いはらい押しのける内在的な公理系の中においてでしかない。銀行家、将軍、産業家、中級上級幹部、大臣といった人々の言語活動は、完全に分裂症的な言語活動であるが、この言語活動が作動するのは、ただ統計的に、つながりが平板単調なる公理系の中においてでしかない。つまり、この言語活動を資本主義の秩序の維持に役立てる、あの公理系の中においてでしかない」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第三章・P.295」河出書房新社 一九八六年)

 

さらに<私>は考えてみる。けれどもここで一度休憩を挟まなければいけない。アルベルチーヌの二つの時期だけではなく<私>の価値観が二分割されているからだ。快楽に対する<私>の価値観の両極への分裂について、珍しくプルーストは改行さえ演じて見せているわけであるから。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて178

2023年01月10日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。今日の大津市の日の出前と日の出後の気象予報は曇り。湿度は6時で58パーセント、9時で56パーセントの予想。湖東方面も曇り。鈴鹿峠は晴れのようです。

 

午前五時三十分頃の空です。

 

「名称:“月”」(2023.1.10)

 

午前六時三十分頃に湖畔へ出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.10)

 

北方向を見てみましょう。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.10)

 

今度は南方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.10)

 

西方向。

 

「名称:“山並み”」(2023.1.10)

 

再び湖東方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.10)

 

日の出時刻を過ぎました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.10)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.10)

 

今朝は再チャレンジもなさそうです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.10)

 

二〇二三年一月十日撮影。

 

参考になれば幸いです。