愛することを停止している時期。プルーストはアルベルチーヌ独特の<笑い・侮辱>について語る。ただし<笑い・侮辱>といっても次の文章には二つある。第一に「私がまだアルベルチーヌと面識がなかったころ浜辺で、私とは犬猿の仲であったある婦人、いまの私にはアルベルチーヌと関係をもっていたことがほとんど確実に思われるその婦人のそばにいたアルベルチーヌが、私を横柄に見つめながらはじけるように笑った」こと。第二に「アルベルチーヌにたいする憎悪も同様であったが、こちらの憎悪には、ちやほやされた美しい娘、すばらしい髪を備え、浜辺で大笑いして私を侮辱した娘への賞賛の気持も混じっていた。このような侮辱、嫉妬、当初の欲望や輝かしい背景の想い出が、アルベルチーヌにふたたび昔の美しさと価値を付与した」こと。
「アルベルチーヌが私にとってなんの興味も惹かなくなってからでも、ときにふと昔のひとときの想い出がよみがえることがあった。それは私がまだアルベルチーヌと面識がなかったころ浜辺で、私とは犬猿の仲であったある婦人、いまの私にはアルベルチーヌと関係をもっていたことがほとんど確実に思われるその婦人のそばにいたアルベルチーヌが、私を横柄に見つめながらはじけるように笑ったことだ。まわりには滑らかな青い海がさざめいていた。浜辺の日射しのなかで、友人の娘たちに囲まれたアルベルチーヌはとび抜けて美しかった。くだんの婦人が心酔しているかけがえのない出色の娘が、あのいつもの大海原を背景に、私をそんなふうに侮辱したのだ。その侮辱がとり消せなくなったのは、当の婦人がもしかするとバルベックへ戻ってきて、光あふれ波音さざめく浜辺にアルベルチーヌがいないことに気づいたかもしれないが、その娘がいまや私と暮らしていて私だけのものになっていることは知らなかったからだ。広く青い大海原、その娘へと向かいつぎにべつの娘たちへと向かった婦人の愛情の忘却、それらはアルベルチーヌから受けた侮辱を前に崩れ去って、まばゆく壊れない宝石箱のなかにいその侮辱だけが閉じこめられた。すると私の心は、その婦人にたいする憎悪に駆られた。アルベルチーヌにたいする憎悪も同様であったが、こちらの憎悪には、ちやほやされた美しい娘、すばらしい髪を備え、浜辺で大笑いして私を侮辱した娘への賞賛の気持も混じっていた。このような侮辱、嫉妬、当初の欲望や輝かしい背景の想い出が、アルベルチーヌにふたたび昔の美しさと価値を付与したのである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.388~389」岩波文庫 二〇一六年)
第一の<笑い・侮辱>はただ単に個別的な状況の中では生じない。バルベックというリゾート地特有の価値転換が成立しているという条件のもとに限り、始めて生じてくる。その意味で複数の社会的な価値体系の広がりが不可欠なエピソードである。プルーストから二箇所引くことができる。
(1)「発見したばかりのこの残酷な事実は、おそらくわが書物の素材そのものにならないかぎり私の役に立つことはないだろう。なぜなら、その書物の素材は時間の埒外にある真に充実した印象だけで構成するわけにはゆかないので、さまざまな周辺の真実のあいだに印象をはめこむつもりであったが、そのなかでも、私は人間や社会や国家がそこに浸され変化してゆく時間にかかわる真実にとりわけ重要な位置を占めさせようと決めていたからである」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.51」岩波文庫 二〇一九年)
(2)「じつに多様な女性のイメージが心のなかに入りこんでくるたびに、忘却がそれを消し去るか競合するほかのイメージがそれを追い出すかしない場合、この未知の女たちを自分と同質のものに変えるまで心の安らぎは得られない。この点、われわれの心には生まれつき、肉体組織と同様の反応をしたり活動をしたりする機能が備わるらしい。体内に異物が入ってきたとき、肉体組織がただちに闖入者を消化吸収する作用を発動せずにいられないのと同じである」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.354」岩波文庫 二〇一二年)
だが第二の<笑い・侮辱>はやや難解だろう。というのも、この種の<笑い・侮辱>は<私>が<私>自身に向けられていることを十分承知した上でなおかつ、自らに狙いを付けられた<笑い・侮辱>を快楽するという転倒だからである。プルーストが属した上流社交界の<暴露・覗き見・冒瀆>という三大テーマを俎上に乗せるためには、プルーストがプルースト自身へ向けた残忍な暴力によって生じる快感の<暴露>を避けて通るわけにはいかない。「浜辺で大笑いして私を侮辱した娘への賞賛の気持」。それを気持ちよく受け止め消化する作業。プルーストにとってはわけない作業の一つである。
「異他を同化する精神の力は、新しいものを古いものと相似にし、多様を単純にし、全く矛盾するものを看過し、または押し除(の)ける強い傾向のうちに現われる。同様にまた、精神は異他的なもの、『外界』のあらゆるものの特定の画線を勝手に強調したり、際立(きわだ)たせたり、適当に変造したりする。その際に精神の意図するところは、新しい『経験』を消化し、新しい事物を古い系列に編入すること、ーーー従って成長することにある。更に明確に言えば、成長の《感情》、増大した力の感情にある。この同じ意志に、精神の一見して反対の衝動も奉仕する。無知を求め、勝手に閉じ籠(こ)もろうとする突然に勃発する決意とか、自己の窓の閉鎖とか、この或いはあの事物に対する内的な否定的発言とか、近寄ることの禁止とか、多くの知りうるものに対する一種の防御状態とか、暗黒や閉ざされた地平に対する満足とか、無知に対する肯定と是認など、すべて同然である。これらすべては、精神の同化力の程度に応じて、具象的に言えば、精神の『消化力』の度合いに応じて、それぞれ必要なのである。ーーーそれで、実際『精神』は最もよく胃に似たものなのだ」(ニーチェ「善悪の彼岸・二三〇・P.213~214」岩波文庫 一九七〇年)
そして「このような侮辱、嫉妬、当初の欲望や輝かしい背景の想い出が、アルベルチーヌにふたたび昔の美しさと価値を付与した」こと。ニーチェはいう。「残忍とは《他人の》苦悩を眺める際に生じるものだとのみ教えなければならなかった以前の愚鈍な心理学を追い払わなければならない。自分自身の苦悩、自分自らを苦しめるということにも夥(おびただ)しい、有り余るほどの享楽があるのだ」。
「残忍とは《他人の》苦悩を眺める際に生じるものだとのみ教えなければならなかった以前の愚鈍な心理学を追い払わなければならない。自分自身の苦悩、自分自らを苦しめるということにも夥(おびただ)しい、有り余るほどの享楽があるのだ。ーーー人間は密(ひそ)かに自己の残忍さによって誘われているのであり、《自己自身に対して》向けられた残忍のあの危険な戦慄によって突き進められている」(ニーチェ「善悪の彼岸・二二九・P.212~213」岩波文庫 一九七〇年)
ところで「《自己自身に対して》向けられた残忍のあの危険な戦慄によって突き進められている」ことは確かだが、事情次第で別の価値体系へ「突き進められ」ることもできる。例えばカフカ「審判」でKは判事の愛読書が三流ポルノ雑誌であり法律は欲望に他ならないと教わる。教えるのはただ単なる洗濯女である。
「『なんて汚いんだここじゃ何も彼(か)も』、とKは頭をふりふり言った、女はKが本に手を出すまえに、前掛けで、少くとも上っつらの埃(ほこり)だけははらいのけた。Kが一番上の本を開くと一枚のいかがわしい絵があらわれた。男と女が裸で寝椅子(ねいす)に腰をおろしている絵で、絵描(えか)きの卑(いや)しい意図ははっきりと見てとれたが、絵があまりにも拙劣なので、結局は要するに一人の男と一人の女がーーーあまりにもからだばかり画面からとび出していて、極度にしゃっちょこばって坐(すわ)っていて、誤った遠近法のためにやっとのことで並んで向きあっている男と女が、見てとれるというだけのものであった。Kはそれ以上めくるのをやめて、二冊目の本は扉(とびら)だけ開けてみた、それは『グレーテが夫ハンスより受けし苦しみ』という題名の小説だった。『これがここで学ばれる法律書というわけだ』、とKは言った、『そんな人間どもにぼくは裁かれるってわけだ』」(カフカ「審判・人気のない法廷で・大学生・裁判所事務室・P.84」新潮文庫 一九九二年)
さらに画家ティトレリは自分のアトリエのドアを開けてKが一刻も速く次に赴くべき場所へ導いてやる。
「『全部つつんでください!』、と彼は叫んで画家のおしゃべりを遮(さえぎ)った、『あした小使にとりに来させます』。『その必要はありません』、と画家は言った、『いますぐあなたと行ける運び手を見つけられるでしょう』。そしてようやく彼はベッドの上にかがみこみ、ドアの鍵を開けた。『遠慮なくベッドに上ってください』と画家は言った、『ここに来る人はみんなそうするんですから』。そうすすめてくれなくてもKは遠慮なぞしなかっただろう。それどころか彼はすでに片足を羽根ぶとんにのせてさえいたのだが、開いたドアから外を見て、またその足をひっこめてしまった。『あれはなんです?』、と彼は画家にきいた。『何を驚いてるんです?』、と画家のほうでも驚いてきき返した、『裁判所事務局ですよ。裁判所事務局がここにあるのをご存じなかったんですか?ほとんどこの屋根裏にだって裁判所事務局があるのに、ここにあっていけないわけがないでしょう?わたしのアトリエも本来裁判所事務局の一部なんですが、裁判所がわたしに使わしてくれてるんですよ』。Kはこんなところにまで裁判所事務局を見出(みいだ)したことにそれほど驚いたのではなかった。それより彼は自分にたいし、自分の裁判所に関する無知にぞっとしたのだった」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.228~229」新潮文庫 一九九二年)
いずれの場合も目指されているのはKを瞬時に脱領土化させることだ。資本主義は絶えざる脱領土化と再領土化とを同時に押し進める諸力の運動だが、Kは再領土化(資本主義への回収)寸前で、どこにでもごろごろいそうな登場人物たち(洗濯女・画家)によって脱領土化の線へ脱節させられ生き延びる。或る価値体系によって占められた場所から別の価値体系によって占められた場所へたちまち移動する。目に見えない形で張り巡らされた政治・経済・官僚機構の網目をすり抜けるよう最速で脱領土化される。
そこで見るべき事案が提出されている。<私>にとってアルベルチーヌ独特の<笑い・侮辱>の二重化が生じた余地は、アルベルチーヌが<未知の女>である限りで始めて生じてくることができるものだと。