見ているのに見えていないものを見えるようにする<翻訳>。プルーストが一貫して取り組んでいる作業。
「しかしながら元の本性というものは、たとえ抑えつけられても、やはりわれわれのなかに棲みついている。そんなわけでわれわれは、だれか天才の書いた新たな傑作を読んで、そこに自分が軽蔑していた考えや押し殺していた上機嫌や悲哀などと同じものを見出すと、つい嬉しくなってしまう。自分が見向きもせずにいたありとあらゆる感情がその傑作のなかに描かれているのを知って、突然そうした感情の価値を教えられるのである」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.231」岩波文庫 二〇一七年)
作家たちの手から手へ速やかに渡っていくような価値の高い作品であってもなお「見出すと、つい嬉しくなってしまう」くらいハイレベルなものはそうない。プルーストは次のように書いている。「傑作というものは、特殊なもの、予想外のもので、既存のすべての傑作の総和でつくられるものではなく、この総和を完全に自家薬籠中のものにしてもなお決して見出すことのできないものなのだ。ほかでもない、傑作はこの総和の外に存在する」と。ただし条件付き。
「普段われわれは美と幸福とが個性的なものであることを忘れてしまい、かわりに因習的な類型を頭に想いうかべている。この類型は、われわれが気に入った相手のさまざまな顔や味わったいろいろな喜びをいわば平均してつくりあげたもので、それゆえわれわれが手にするのは抽象的で活気に欠ける無味乾燥なイメージにすぎない。そこには美と幸福に固有の、既知のものとは異なる新たなものに備わる性格が欠けているからである。われわれは人生を厭世的に見てそれで正しいと考えているが、そのじつ幸福と美を考慮に入れたつもりでそれを排除し、幸福と美のかけらもない合成物に置き換えている。そのようなわけで、文学通の人にいくらか新しい『傑作』について話しても、読む前からあくびが出るほど退屈しそうな顔を見せられるのは、自分が読んだ傑作をすべて合成したものを想像するからである。ところが傑作というものは、特殊なもの、予想外のもので、既存のすべての傑作の総和でつくられるものではなく、この総和を完全に自家薬籠中のものにしてもなお決して見出すことのできないものなのだ。ほかでもない、傑作はこの総和の外に存在するからである。さっきは飽き飽きした顔を見せていた文学通も、この新しい作品を読んだとたん、そこに描かれた現実に興味を覚えはじめる。これと同様に、私の思考がひとりきりで描きだす美の典型とはまるで異質なこの美しい娘のおかげで、たちまち私はある種の幸福、娘のそばで暮らしたら実現すると思える幸福を味わいたくなった(われわれが幸福を味わえるのは、つねに特殊なこのような形態だけである)。ところがここでもやはり、『習慣』の一時的停止が大きな役割を果たしていた」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.56~57」岩波文庫 二〇一二年)
この、「『習慣』の一時的停止」という条件。或る種の態度を差す。フッサールは、極めて多くの人々が<習慣・因習>について、信じ込んで疑わないどころか逆にまったく当然のこととして安易この上なく受け入れている態度を取り上げ、差し当たり「自然的態度」と言って批判しその対処法を提案している。「括弧入れ」して問いへと変換してみる重要な態度。「エポケー」と呼ばれる。
「生活世界があらかじめ与えられているという事態は、どうすれば固有の普遍的な主題になりうるであろうか。それは、言うまでもなく、自然的態度を《全面的に変更すること》によってのみ可能なのである。それは、われわれがもはや、いままでのように自然的に現存する人間として、あらかじめ与えられている世界の恒常的な妥当を遂行することのうちに生きるのをやめ、むしろこの妥当の遂行をたえずさし控えるといった変更である。そのようにしてのみ、われわれは、『世界それ自体の先所与性』という、変更された新たな種類の主題に到達することができる。換言すれば、世界が純粋にもっぱら《世界》として、また、われわれの意識生活において意味と存在妥当をもち、しかも、たえず新たな形態の意味と存在妥当を得てくるそのままの《姿》で主題となるのである。こうしてのみわれわれは、自然的生活においてものを企てたり所有したりするさいの基盤として妥当する世界がなんであるのか、またそれと相関的に、自然的生活とその主観性とは《究極的には》なんであるのかーーーその主観性はそこでは妥当を遂行するものとして作動しているのであるがーーーを研究することができる。自然的な世界生活は世界を妥当させているが、そのような能作をしている生活は、自然的な世界生活の態度では研究されえない。それゆえにこそ、《全面的な》態度変更が、すなわち《まったく他に類のない普遍的な判断中止》が必要となるのである」(フッサール「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学・第三部・第三十九節・P.266〜267」中公文庫 一九九五年)
それが不可能な場合とかまるで知らないような場合、例えば「カルト」という問題は、ともすれば平然と検問を突破し諸国家の政治経済の中枢をも狙い撃ち巣食うようになる。一度政治経済の中枢の中枢へ巣食うようになると、検問というものは上からの圧力として作用するため検問の意味をなさなくなる。遅々として進めないような困難ばかりの只中を、それでもなお市民レベルでの取り組みはずっと以前からなされてきたにもかかわらず。以下、減少するどころか逆に増殖していた社会問題として、二〇〇八年にようやく提出された本文から引用。九十一箇所。
1「大学キャンパスは、渡辺(渡辺浪二『大学とカルト』)によると『カルトのスーパーマーケット』(ゴールドバーグ)と呼ばれるほど、カルトの温床になっている」(内野悌司「キャンパス(学生相談)において」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.3』至文堂 二〇〇八年)
2「<カルトの共通した特徴>(Zimbardo,『What messages are behind today’cults?』)1人々は、差し迫った必要性を満たしてくれる興味ある集団に参加するのであって、最初から『カルト』に参加するのではない。2カルトは、社会で『失われた価値』を与えるという幻想を抱かせる。3不満をもっているために、現実的な妥当性を確認せずに幻想を簡単に信じ込んでしまう。4マインド・コントロールによって、人々はたとえ不法な、非理性的な、攻撃的な、そして自己破壊的な行動をもするように導かれ得る。5カルトの用いるマインド・コントロールは、特別の方法ではなくて説得のプロや組織が日頃使っているありきたりの戦術を強力かつ徹底的に応用したものにすぎない」(内野悌司「キャンパス(学生相談)において」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.36』至文堂 二〇〇八年)
3「<カルト・マインド・コントロールの特徴>(西田公昭『マインド・コントロールとは何か』)a本人には本当の目的を知らせずに、受け手が考えているのとは違う方向に誘導する。受け手が『知らない』のは、勧誘する側の積極的な情報コントロールの結果である。b集団にひきつける技法だけではなく、勧誘したメンバーをその集団に留まらせておく技法を含む。集団の魅力によってよりも、離脱することに伴う不安、恐怖感、罪悪感など否定的感情を生み出すことによって行なわれている。c成長動機づけを操作する。『困っている人の役に立つ仕事がしたい』『宇宙の心理について知りたい』『自分の性格を変えたい』『理想的な社会を作りたい』などの欲求をもつ人を選び、そうした欲求をさらに喚起した上で、その充足を約束する。勧誘される側にもその『原因』の一部があることになる。ただし原因は必ずしも『責任』と重なるものではない。d受け手の防衛を積極的に妨害する。新しい信者を一人にせず、自分で考える余裕を与えず、疑問を口に出させず、外部の人との接触を禁じる。教義に疑問が生じた場合でも、それはまだ教義を理解していないからと説明し、それがサタンの声であると信じ込ませて自ら疑念を抑え込むようにさせる。e手続きに虚偽が含まれる。勧誘の初期に自分たちの所属する組織の名を明かさない」(内野悌司「キャンパス(学生相談)において」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.38」』至文堂 二〇〇八年)
4「<カルト・マインド・コントロールについての社会心理学的説明>(西田公昭『マインド・コントロールとは何か』)a好意性、返報性。勧誘に際して、好意的な接近を試み、親身になって相手によくすることで断わりにくくするというテクニックである。b一貫した行動を引き出す行動の原理。勧誘を受け入れるまでしつこくつきまとい、いったん受け入れると次回の約束を守らないと矛盾や罪悪感を感じさせるように行動の一貫性について働きかけるものである。c多数者の影響力。勧誘に際して、1対1ではなく、多対1で行ない、多数者の影響力を駆使して断わりにくくしたり、自分の言い分が間違っているような錯覚を与えたりするテクニックである。d自己否定。勧誘を受けた人が教義に対して疑問に思ったり批判的に考えたりしても、それはその人の方が間違っていると勧誘者が多数の影響力などを利用して否定し、勧誘を受けた人自身も自分が間違っていると思うように自己否定に導くものである。e信念体系の攻撃。勧誘を受けた人がもっている信念や価値観等を攻撃し混乱させ、勧誘者の信念こそ正しいものだと説いて、その信念体系を吹入しようとするものである。f脅しや呪縛。勧誘されていったん会に関わると、そこから抜け出そうとすると、自分自身や家族に悪いことが起こるとか、呪われるといった脅しや呪縛をかけて、抜けることに恐怖を植え込むテクニックである。g自尊感情の操作。それまでもっていた自尊感情は否定され、会の信念体系や教義に沿った思考や行動を行なうと肯定し、自尊感情を操作するテクニックである。h情報コントロール。教義等を吸入するために、会の信念体系や考え方に関する一方的な情報のみを与え、それに批判的な情報にはふれさせないようにさせ、合理的・批判的な思考を停止させようとするものである。i活動の実践の優先。人の信念は、自分のとった行動を正当であったと説明するように変化する傾向があるので、教義等に違和感をもっていたとしても、その活動を実践させることで、それが正当なものであると錯覚を与えるテクニックである。j行動管理。食事や睡眠といった生理的なレベルから日常生活の行動的なレベルまで管理することによって、会の在り方に批判的な考えや行動が入り込む余地をなくして、教義に従うことが自然に感じられるようにするものである」(内野悌司「キャンパス(学生相談)において」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.39』至文堂 二〇〇八年)
5「<援助の方略>1相談以前の取り組み。カルトの実態についての情報収集と理解。マインド・コントロールについての理解。カルトに対する自分の先入観の自覚。2押し付けにならない態度。強引にやめさせようとしない。入信することを合意できないと伝えつつ、本人の意思をなるべく尊重した話し合いをもつようにする。話が通じなくても、それはカルトの人格になっているからであることを理解する。説得しようとせず、自ら教団や教義の矛盾を論理的に検討できるよう話し合っていく。3信頼関係の構築。カルトの体験を否定しない。カルトに入っている思いをとにかく傾聴する。お互いに率直に話し合えるようコミュニケーションを図る」(内野悌司「キャンパス(学生相談)において」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.41』至文堂 二〇〇八年)
6「トビアスとラオレッジ(Tobias&Lalich,『Captive heart,Captive mind』)は、カルトを離れることは強烈な体験から離れることでもあり、カルトから脱会することは、入信することよりもはるかに困難であると述べている。何年も信じてきたこと、また命をかけて多くの人々に伝えてきたことを否定するのは、並大抵のことではない。家族のように思っていた仲間を失い、心の支えになっていた希望を失い、自尊心を失い、生きがいを失う。カルト体験はよく魂のレイプと表現され、シンガー(Singer,『Coming out of the cults』Psychology Today)もまた、カルト体験の数年間、当てもなく漂流生活を続け、自分をまとめることができなくなる者もいると述べている。このように、入信前から心の安定や魂の平安を望んでいた人が、最後の望みの綱であろう宗教に失望する経験は、絶望以外のなにものでもなく、魂までも深い傷を負ってしまうと考えられる。また、脱会者たちは本来の自分を取り戻し、社会復帰をするために、多くの難関を乗り越えていかなければならない。自分のアイデンティティの問題、職業の問題、思考力の回復、情緒的問題、人間関係の問題等、カルトを離れた日から直面しなければならない難問が、実に多種多様にある(Wood,『エホバの証人』)」(黒田文月「脱会後のカウンセリング」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.45~46』至文堂 二〇〇八年)
7「自己啓発セミナーと呼ばれる研修が日本に輸入されたのは、一九七〇年代後半である(小久保2003年)。その源流は、心理学におけるエンカウンターグループ、Tグループなどと称されるグループワークにある(渡辺2003年)。自己啓発セミナーは人格的な変革をもたらすことを目的としたトレーニングであり、個人もそれを自覚して参加するのだが、やがて、そこに強い心理操作性や虐待性が指摘されるようになった。これらは、先の宗教タイプの団体と同じ視点で語られることは長らくなかった。しかし、二沢雅喜(「人格改造!」JICC出版局1990年)が出版されたあたりから社会に問題性が共有されはじめ、洗脳概念と絡めて認識されるようになった。宗教タイプの団体にも、それ以前から洗脳を行っているとの評価は存在した。双方は接点を持たないままだったが、やがて洗脳やマインド・コントロールという概念を通して、宗教タイプの団体と自己啓発セミナーの類似性や共通性が指摘されるようになった。自己啓発セミナーの問題性が共有されるようになった大きなきっかけは、急激な勢いで普及したインターネット媒体と言えよう。匿名性の高いこの媒体は、自己啓発セミナーによる個人の傷や汚点を露呈するには適当であった。おな、櫻井義秀(「自己啓発セミナーとカルトの間」北海道大学新聞2000年)は宗教社会学の視点から、自己啓発セミナーとカルトの距離の近さを指摘している」(戸田京子「カルト問題を巡ってーーー臨床心理学的視点から見た援助と関わりの可能性」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.59』至文堂 二〇〇八年)
8「このように考えると、カルトと見なせそうな現象はとうに宗教の枠組を超えている。実際、海外の専門家らはカルトの類型として宗教、オカルト、ニューエイジ、心理療法、教育、政治、商業など様々な種類を挙げている(マーガレット・シンガー「カルト」飛鳥新社1995年/マデリン・ランドー・トバイアス、ジャンジャ・ラリック「自由への脱出」中央アート出版社1998年)。日本でもオウム事件以降、何らかの誘導性や拘束力を見出した宗教や宗教的雰囲気を持つ集団に対し、カルトやマインド・コントロールではないかと指摘する認識が誕生した。人々は、何か共通したものを嗅ぎ取り始めたのである」(戸田京子「カルト問題を巡ってーーー臨床心理学的視点から見た援助と関わりの可能性」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.59』至文堂 二〇〇八年)
9「心理学では、人を誘導する概念として洗脳とマインド・コントロールを挙げてきた。歴史の古いのは洗脳で、これはあからさまな説得方法の一種である(ロバート.J.リフトン「思想改造の心理」)。これは説得者が暴力を含む強制力を伴わせながら相手の意に反して特定の考え、思想を叩き込むと、相手が回心してしまうというものである。これに対し、マインド・コントロールは一九八〇年代後半に出てきた概念である。これも説得方法の一種だが、洗脳に比べて相当マイルドなものである。基本的に説得者は、相手に説得の意図を見せぬよう努力を払う。まず、心地よい人関係や信頼関係を築いた後、説得したい内容を段階を踏んで伝えていく。このため、被説得者は、説得の意図よりは《よい関係を築きたい》《良いものを勧めたい》というメッセージを受け取ることになる。そこでは、説得に対する抵抗は起きにくい。そして、カルトと呼ばれる組織は、マインド・コントロール的手法を用いることが多い。その一部は法廷でも言及されている(「青春を返せ」裁判情報)」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.60』至文堂 二〇〇八年)
10「それでは、マインド・コントロールのどのような点が問題なのだろうか。マインド・コントロール概念が焦点化しているのは、事前に説得者が説得の意図を十分に説明せず、気づかれにくい誘導方法を用いてそれを行なうという点である。その結果、被説得者は説得者の誘導に気づかずに判断を下すことになる。ここに十分な選択の自由が保証されないという人道上、人権上の問題が見いだされる。そして、既に述べたように、それらの現象は宗教に限定されない。心理学の視点からは、これらの誘導はあらゆる目的性を孕んだ対人状況で起こりうると捉えられる。また、カルト経験者の多くは、悪意からではなく正しいことと信じて誘導する側に回ったと言う。つまり、人は良かれと思って人を搾取することができ、コミュニケーションは変質するのである。従って、これらをまとめると『悪意の有無を問わずに起こる、誘導的コミュニケーションにおける倫理的問題』となるであろう」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.60』至文堂 二〇〇八年)
11「信じている当事者への援助。A信念を再検討するための援助。(1)テキストの比較。(2)組織の問題点の検討。(3)組織運営上の問題点の検討」(戸田京子「カルト問題を巡って」現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.62』至文堂 二〇〇八年)
12「(1)『テキストの検討』は、従来宗教者が行ってきた、組織で教えられた教理と一般的なそれとを比較検討する方法である。これは宗教者に期待できる役割である。また、宗教以外では、自己啓発セミナーと一般的なエンカウンターグループ、カルト的セラピーと倫理的配慮の行き届いたセラピーなとを比較することも可能であろう」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.63』至文堂 二〇〇八年)
「(2)『組織の問題点の検討』は、組織に法的、社会的な問題が指摘される場合に、それを話し合うものである。これも、臨床心理学の専門家というよりは、情報に詳しい人が役割を担うことができる。ただ、組織の悪事を見せつける方法は、一般的には説得力があるように思われがちであるが、組織に入り込んだ当事者は常識的判断を見下しているため、その論理が通用しないこともしばしばある。従って、有効性には限界がある」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.63』至文堂 二〇〇八年)
13「(3)『組織運営上の問題点の検討』とは、マインド・コントロールのような誘導方法に関して検討することで、自分の経験を別の視点で再解釈する作業である。これは心理学の専門家が力を発揮できる部分であろう。当事者は、自分で選択したと思っていたものが別の角度から見るとそうではなかったと気づけば、信念のループから脱することができる。しかし、これを受け入れるのは困難なことである。人は誰しも、自分が騙されていたとは考えたくはない。一般的な詐欺を考えて欲しい。詐欺が詐欺として認識されるのは、騙しに気づいたからである。結婚詐欺の真っ最中にある人は、幸せの絶頂にいる。その人は、そう簡単に実感した幸せを手放そうとはしないだろう。基本的に、カルトと詐欺の構図は共通する。マインド・コントロールのような状況は、それが騙しと判明するまでの時間がやたらに長いのである」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.63』至文堂 二〇〇八年)
14「この三点のうち、どれがインパクトをもたらしたり接点を見出させたりするかは、当事者の状態や状況によって異なる。ただ、重要なのは、いずれを介入ポイントとみなすにしても、当事者の認識とのズレや温度差をなるべく小さくすることである。臨床心理学は、この点について相当の配慮を払っている。臨床心理学的介入は、クライアントとの信頼関係を基に行われるからである。これは臨床心理学の専門家には常識的なことだが、従来の介入現場では、さほど注目されてこなかった点である。なぜなら、親や家族からの本人を脱会させて欲しいという要望に応じ、組織が社会悪を働いているという認識に動機づけられて介入を行うため、信念に異論を唱え、脱会させる方向へ結論を急ぎがちだったからである。しかし、臨床心理学では、当事者の気持ちに寄り添って初めて関係が構築されると考える。だから、関係を構築するまでは、たとえ介入が同感しない論理であろうとも耳を傾け、根気よく付き合い続ける必要があるであろう」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.63~64』至文堂 二〇〇八年)
15「B信念は保っているが、それに関連して負った苦悩への援助。(1)組織内のでのトラブル、虐待等への対処。(2)組織外(家族、友人等)との関係上の問題への対処。(3)心理的混乱、精神疾患等への対処。(4)テキストに関する疑問への対処」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.64』至文堂 二〇〇八年)
16「(1)『組織内のでのトラブル、虐待』は、一般的には表面化しやすいと思われるかもしれない。例えば、教祖が信徒に暴行を加えれば、信徒は助けを求めると考えられがちである。しかし、実際には、カルト的環境で当事者がこのような行動を起こすことは極めて稀である。一般社会が暴行と考えるものが、メンバーにとっては甘受すべき訓練であったり、リーダーからの愛情であると捉えられる可能性が高いからである」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.64』至文堂 二〇〇八年)
17「(2)『家族や友人等との関係上の問題』や『心理的混乱、精神疾患』についても同様である。それらが起こったとしても、組織から然るべき対応方法が示され、内部で解決しようと試みられる。組織にとっては、外部社会に否定的と映るような出来事はあってはならないのである。出来事は教祖や理念にとって意味付けられ、組織だけではなく個人の責任に帰されるため、外に訴えることは少なくなる。しかし、稀にでも助けを求めた場合は対応が必要となる。また、これらメンバーの心理的特徴を踏まえ、予防的対処や敷居の低い窓口を用意する配慮も必要であろう」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.64至文堂 二〇〇八年)
18「信じることを辞めた・辞めることを考え始めた当事者への援助。(1)感情的混乱の受容。(2)自身に起こったことを理解するための心理教育。(3)組織内で起こったトラブル、虐待等への対処。(4)家族、友人等との関係上の問題への対処。(5)信念を持つ以前から持っていた個人的課題への対処。(6)信念によって習慣化された反応への対処。(7)精神疾患等への対処。(8)実存的苦悩への対処」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.64~65』至文堂 二〇〇八年)
19「この時点の当事者は、様々な強い感情に揺り動かされていることが多い。まずは、それを受け止め、整理していく作業が必要である(1)。そして、なぜ、そのような状況に陥っているかを、心理学の知識などを通して理解する必要がある(2)。組織内で起こったトラブルや虐待等が本人の苦悩となっていれば、それへの対処も行う(3)。組織と関わることで家族、友人等との関係をこじらせていれば、修復が必要である(4)。組織に入る前から持っていた個人的な課題に再度、取り組まなくてはならなくもなるだろう(5)。また、信念によって特定の発想や行動が習慣化されてしまっていることは非常に多い。その場合、認知や行動への直接的介入が必要であろう(6)。精神症状が見られれば、医療レベルを含めた対処が求められる(7)。ここまでは比較的、具体的な手法が役立つ」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.65』至文堂 二〇〇八年)
20「他方、この段階では、実存的苦悩が焦点化されることが少なくない(8)。そもそも本人が組織に入ったのは、哲学的・宗教的問いに対する絶対的な答えが与えられたからである。しかし、それを喪失した今となっては、強烈な問いだけが残され、空っぽになった自分に答えを迫ってくる。また、なぜ自分がこんな目にあわなければならなかったのか、問いの出ない苦悩も生まれる。以前からの個人的問題が、解決場所を失って再浮上することもある。組織に関わる中で恥や罪責感を経験し、苛まれることもある。これらは比較的、長期的な課題として捉える必要があるかもしれない」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.65』至文堂 二〇〇八年)
21「周囲(家族やパートナー、友人など)に対する援助。1状況を理解するための援助。(1)感情的混乱の受容。(2)組織についての情報収集に対する援助と情報の提供。(3)カルトに関する心理学習。2本人と関係を作るための援助。(1)カルト・メンバーとの関係の作り方に関する心理教育。(2)ストレス・マネージメント。3本人への再検討を促すための援助。4本人との関係を再生するための援助」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.65~66』至文堂 二〇〇八年)
22「家族やパートナー、友人など周囲が相談する事例は、当然のことながら今後も続くであろう。『信じている当事者への援助』でメンバーの一般的なメンタリティを述べたが、これらを鑑みれば、周囲が反対したところで、すぐにメンバーが考えを変えることなど至難の業であることが理解される。従って、周囲の心理的苦痛はすぐに解決されることはない。この間、彼らには援助の必要が生じる。ここでは、それを四点に整理して提示した」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.66』至文堂 二〇〇八年)
23「まず、周囲は、なぜ本人がそれを信じてしまったのか理解に苦しむ。親しい間柄であったからこそ、その変容は心理的に衝撃をもたらす。相手を理解できなくなってしまった悲しみや怒りなど、強い感情に揺さぶられる。そこで、このような感情を受け止める場が必要となる(1-(1))」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.66』至文堂 二〇〇八年)
24「周囲は本人の所属した組織やその理念、実感の生活について知りたいと考える。既に問題視されている組織であれば、ある程度の情報を得ることができる。他方、情報源を探し出せない場合や、無名の組織である場合もある。そのため、この作業には一定の限界がある(1-(2))」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.66』至文堂 二〇〇八年)
25「さらに、なぜ本人が変容し、現在はどのような心理状態にあるかを理解する必要がある。ここでは、マインド・コントロールなどの心理学的知識を得ることが役に立つ(1-(3))」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.66』至文堂 二〇〇八年)
26「次に、関係を破綻させにくいコミュニケーションを学ぶ必要がある(2-(1))。メンバーは排他的で極度の選民意識を抱いている。自分たちは究極の理想を手に入れた特別な人間であり、周囲は自分たちより下等だと考える。従って、周囲が信念に反対したり批判したりしようものなら激しく論駁し、見下す態度を取りがちである。対照的に、周囲は本人が明らかに間違っており、考えを正すべきと考える。従って、互いに自分の正しさを言い争う事態に発展しやすい。コミュニケーションは不安定で決裂しやすく、思うように変わってくれないメンバーに付き合うのは大きなストレスでもある。しかも、コミュニケーションの結果が出にくいため、問題解決までは長期にわたる。この間のストレス・マネージメントについても、援助が必要となる(2-(2))」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.66~67』至文堂 二〇〇八年)
27「本人が組織について再検討を行う動機を持った場合、周囲がどう見守るかも重要である(3)。本人の動機を阻害せず、抵抗や感情的な齟齬をきたさず、確実に作業を進められるよう周囲はサポートしたい」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.67』至文堂 二〇〇八年)
28「もし本人が組織から距離を置く判断を下したら、関係性の修復や再建が課題となる。本人が選民として振舞ったため、関係が損われていることがあるからである。また、組織を離れることは本人には挫折に類した経験であり、デリケートな対応が必要とされる時期でもある。この間のコミュニケーション・スキルと周囲の者のストレス・マネージメントも、また大きな課題となる(4)」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.67』至文堂 二〇〇八年)
29「これまでの宗教者への相談事例から見ても、カルトに入って困るのは、いつも周囲の人間であり、入ったメンバー自身は困らないことが多い。そして、困る側のほとんどは親である。他方、二世の場合、親自身がメンバーであるため、周囲では誰も困らない。祖父母や親類が問題視する場合はあるが、実子ではない二世に注目が注がれることは稀である。では、二世には何も問題がないのだろうか。これについては相談の蓄積が少ないため、情報が不足している。しかし近年、匿名性の高いインターネットが普及することにより、二世がしばしば発言するようになった。そこで垣間見られた二世の本音と数少ない文献から、二世への援助の可能性を考えたい」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.67』至文堂 二〇〇八年)
30「二世(以降)の当事者への援助。(1)一般社会との摩擦への対処。(2)親や組織メンバーとの葛藤への対処。(3)組織や自身を理解するための心理教育。(4)自身の選択を行うための援助。(5)自身の生活を築くための援助。(6)実存的苦悩への対処。(7)心理的混乱、精神疾患等への対処」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.68』至文堂 二〇〇八年)
31「二世は組織に従う環境で育つが、組織や親に不満を持つことも少なくない。組織以外の友人と自分を比較し、違いに気づいたり、幼少時から厳しい躾や我慢を強いられ、苦しんだりする。社会では周囲と齟齬をきたしても組織の理念に従わねばならず、孤軍奮闘を強いられる。経済的困難に苦しんだり、教育機会や将来への選択肢が狭められることもある。親も組織の酷使ゆえにストレスを溜めており、二世はより一般的な虐待に近い苦痛を報告することが多い。組織や親に強い否定的感情を持つにもかかわらず、そこから距離を置くのが難しいのも虐待経験者と似ている」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.68』至文堂 二〇〇八年)
32「組織に見切りをつけ、自分の人生を歩もうとしても、社会のしきたりや多数派の考え、振舞いを知らなかったり馴染めなかったりして苦しむことも多い」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.68』至文堂 二〇〇八年)
33「相談には、家族の一員が何か団体入って、冠婚葬祭などの儀礼や、日常生活において何かとやりにくいという事態が生じるという苦情がある。葬儀の仕方を喪主の意向とは違った形式でしようとしたり、特定の肉は食べなくなるとか一定の時間に必ず礼拝をするなどである。それまでの葬儀の方式では『それでは地獄に行ってしまう』とか『私と同じことをしないからこんなに早く死んだ』などと言い出しもし、まさに『困った』というほかない。が、その多くは『信教の自由』の範囲内のことである。家族内に宗教の違いがあればもともと生じていたはずのトラブルであり、原則としては『違法』というものではない。これは信教の自由それ自体であって、もっぱら宗教団体と宗教人自身が調整すべきことである」(滝本太郎「弁護士の立場から」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.122~123』至文堂 二〇〇八年)
34「大日本国憲法では『日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ゲズ及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス』ともあったが、日本国憲法では『信教の自由は、何人に対してもこれを保障する』としている。これは、国家神道を精神的な支柱の一つにして、多くの宗教団体をまさに弾圧し、あの無謀な戦争に突き進んだという日本の歴史を反省して、規定されたのである」(滝本太郎「弁護士の立場から」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.123』至文堂 二〇〇八年)
35「すなわち『いわしの頭』を信じているのであっても、信じること、信じるがためにする行為は、外の人の正当な利益を害さない限り自由である。関係者は、むしろ今までの宗教や人生観が、本人にとって魅力がなく、人の悩みや魂があるのだとすればそれを救えなかった宗教や価値観だったということを反省の材料にすべきだ、というほかはない」(滝本太郎「弁護士の立場から」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.123』至文堂 二〇〇八年)
36「ただし、それでも『地獄』などをキーワードにすれば、刑法上も違法になることがある。故人の遺族に対して『このままだと地獄に落ちる』と言って本人の自由意思を侵害するような方法で自らの集団の儀式を強要すれば強要罪になりえるし、何度も地獄云々と言って布施させれば恐喝罪になる。これらは、いかに信教の自由を主張しようにも、その限界を超えているのである」(滝本太郎「弁護士の立場から」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.123』至文堂 二〇〇八年)
37「ちなみに、刑法一三四条二項には『宗教、祈祷もしくは祭祀の職にある者またはこれらの職にあった者が、正当な理由がないのに、その業務上取り扱ったことについて知り得た他人の秘密を漏らしたときも、前項と同様とする』とし弁護士らと同様六ヶ月以下の懲役または十万円以下の罰金とされており、同一八八条二項には『説教、礼拝または葬式を妨害したものは、一年以下の懲役もしくは十万円以下の罰金に処する』という規定がある。宗教の側からも、一般社会の側からも、最低限この程度のことは刑事罰をつけてまで守るべきものとされている規範なのである」(滝本太郎「弁護士の立場から」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.123』至文堂 二〇〇八年)
38「これまでの宗教者への相談事例を見ても、カルトに入って困るのは、いつも周囲の人間であり、入ったメンバー自身は困らないことが多い。そして、困る側のほとんどは親である。他方、二世の場合、親自身がメンバーであるため、周囲では誰も困らない。祖父母や親類が問題視する場合はあるが、実子ではない二世に注目が注がれることは稀である。では、二世には何の問題もないのだろうか。これについては相談の蓄積が少ないため、情報が不足している。しかし近年、匿名性の高いインターネットが普及することにより、二世がしばしば発言するようになった。そこで垣間みられた二世の本音と数少ない文献(米本和広「カルトの子」)から、二世への援助の可能性を考えたい」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.67』至文堂 二〇〇八年)
39「<二世(以降)の当事者への援助>1一般社会との摩擦への対処。2親や組織メンバーとの葛藤への対処。3組織や自身を理解するための心理教育。4自身の選択を行なうための援助。5自身の生活を築くための援助。6実存的苦悩への対処。7心理的混乱、精神疾患等への対処」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.68』至文堂 二〇〇八年)
40「二世は組織に従う環境で育つが、組織や親に不満を持つことも少なくない。組織以外の友人と自分を比較し、違いに気づいたり、幼少時から厳しい躾や我慢を強いられ、苦しんだりする。社会では周囲と齟齬をきたしても組織の理念に従わねばならず、孤軍奮闘を強いられる。経済的困難に苦しんだり、教育機会や将来への選択肢が狭められることもある。親も組織の酷使ゆえにストレスを溜めており、二世はより一般的な虐待に近い苦痛を報告することが多い。組織や親に強い否定的感情を持つにもかかわらず、そこから距離を置くのが難しいのも虐待経験者と似ている。組織に見切りをつけ、自分の人生を歩もうとしても、社会のしきたりや多数派の考え、振る舞いを知らなかったり馴染めなかったりして苦しむことも多い」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.68』至文堂 二〇〇八年)
41「そもそも、アメリカで、カルトに入会した若者を心配した親たちが、カルト脱会工作の経験者(宗教関係者、元メンバーなどさまざまな人々)に脱会を依頼して子どもたちを救い出すことが社会問題としてマスコミで取り上げられ始めたのは、一九七〇年代のことである」(才藤千津子「カルト問題に対するアメリカでの取り組み」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.72』至文堂 二〇〇八年)
42「このときの親たちが依頼したカルト脱会の方法を、当時はディプログラミング(Deprogramming)と呼んだ。この用語は、カルトからビリーフ(信念)を『プログラム(条件づけ)』されて急激に人格の変貌を遂げてしまったように見える子どもたち、愛する家族や友人を捨ててカルトから引き離そうとした親たちが、カルトによって『プログラムされた』子どもたちを、逆に『ディ-プログラミング』する、つまり『条件づけし直す』必要があると信じたところから命名された」(才藤千津子「カルト問題に対するアメリカでの取り組み」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.72』至文堂 二〇〇八年)
43「ディプログラミングは、ディプログラマーと呼ばれるカルト脱会の専門家によって行われる説得的アプローチである。この方法の大きな特徴は、そのターゲットとなったメンバーが承服していない状況の下で、しかも本人の意思に反して、強引に行われたという点である。通常カルトのメンバーは、山の中の小屋やホテルの一室などの秘密の場所に連れて行かれ、少なくとも最初のうちの一定期間、プライバシーもなく逃げ出もしないような状態に置かれた。そして、ディプログラマーから『君は《洗脳》され、いわばカルトの《ロボット》にされている』『君は自分の力ではカルトから抜け出せないから、こうやって強引に連れ出す必要があったのだ』といった形で強い圧力をかけながら説得されたのである。その際に、拉致や監禁といった法律に抵触するような方法が用いられることもあった」(才藤千津子「カルト問題に対するアメリカでの取り組み」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.72』至文堂 二〇〇八年)
44「このような強制的で本人の意思を軽視するような強引なやり方のゆえに、ディプログラミングの過程でしばしば激しい感情的な言葉が飛びかい、その結果、カルトのメンバーに強い恐怖感と不信感、ひいては、このような理不尽なやり方やそれを許した家族への深い怒りを植えつけるという弊害をも生んだと言われている」(才藤千津子「カルト問題に対するアメリカでの取り組み」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.73』至文堂 二〇〇八年)
45「またたとえ脱会に成功した場合であっても、多くのディプログラミング経験者は、見知らぬ人に連れ去られ監禁されたときに自己のアイデンティティや意思決定能力を強く脅かされる恐怖を感じることが多かった。そしてそのことのゆえに、ディプログラミング後に──たとえそれが結果として成功しても──元メンバーには深い心理的トラウマが残ったと言われる。まして、ディプログラミングが失敗したときには、メンバーは『自分は、信仰のゆえに迫害されたのだ』と深い憤りを感じ、批判されればされるほどかえって熱心に活動に傾倒するようになり、家族や友人との関係もこじれてしまう場合も多かった。このようなことから、ディプログラミングのカルト脱会法としての有効性には次第に強い疑問が投げかけられるようになった」(才藤千津子「カルト問題に対するアメリカでの取り組み」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.73』至文堂 二〇〇八年)
46「当初、破壊的カルトに入会した子どもたちを持つ親たちには、このディプログラミングという方法以外には自分の子どもたちをカルトの危険から救い出す方法の選択肢がなかったといえるだろう。その意味でディプログラミングは、絶望の中で子どもたちを救い出す方法を捜し求める親たちにとって、最後のよりどころとなった選択肢だったのである。しかし、以上に述べたような強引で時には不法なやり方のため、当然のことながら、ディプログラミングはカルト・メンバーの人権を侵害しているという批判を受けるようになった。強引なディプログラミングを行った家族やディプログラマーが訴訟問題に巻き込まれることもしばしばあった。そのため一九八〇年代にはディプログラミングが行われる件数は次第に減っていき、一九九〇年代半ば以降のアメリカではほとんど行われなくなった」(才藤千津子「カルト問題に対するアメリカでの取り組み」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.73』至文堂 二〇〇八年)
47「脱会カウンセリングがディプログラミングと大きく異なっている点は、脱会カウンセリングは、メンバーとカウンセラーとの間の自由な合意と信頼関係のもとで、しかもメンバーの自発的な参加意思に基づいて行われるということである。カウンセラーはあくまでもメンバーの人格を尊重し、ディプログラミングと違って、議論によって強引にメンバーを説き伏せるというやり方はとらない。カウンセリングのプロセスの中ではメンバーの意思は尊重され、メンバーはいつでも自分の意思でカウンセリングを離脱したり中止したりすることができる。また、メンバーがカルトへの関わり方について自分で下す最終決定は、ーーーカルトを離れるという決定であろうと、カルトに残るという決定であろうとも──尊重される。そしてこれらの理由によって、ディプログラミングの際に心配されたような形でのメンバーに心の傷が残ることはないとされる」(才藤千津子「カルト問題に対するアメリカでの取り組み」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.74』至文堂 二〇〇八年)
48「脱会カウンセリングのプロセスは、通常、以下のように進められる。最初は破壊的カルトのメンバーの家族(親や配偶者など)が脱会カウンセラーに連絡をとり、カウンセリングの契約関係を結びところから始まる。その後メンバーの状況のアセスメント(査定)が行われ、カウンセリングを始めることについてお互いに合意ができると、家族との事前面接へと進む」(才藤千津子「カルト問題に対するアメリカでの取り組み」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.74』至文堂 二〇〇八年)
49「脱会カウンセリングでは、カルトに入っているメンバーの問題を個人の問題としてだけではなく家族全体の問題としてとらえるため、家族へのサポートが重要視される。たとえば、家族がそのカルトについての十分な情報を持っていない場合には、介入が行われる前に、そのカルトについての情報、特にそのカルトの思考コントロールの方法などについての情報が家族に提供される。またカルトのメンバーと家族との間のコミュニケーションがうまくいっていない場合には、家族間のより良いコミュニケーションについてのカウンセリングが行われ、家族がメンバーに対応する際の有効なコミュニケーション・スキルについての話し合いもなされる。また、メンバーが脱会カウンセラーとの面接に自発的に応じるようになるためにはどうしたらよいかが皆で話し合って決められる。脱会カウンセラーには、常に家族と連絡をとりながら、同時にメンバーの反応や気持ちを考慮し、刻々と変わってゆく状況を考慮しつつ柔軟にカウンセリングの計画を立ててゆくことが求められる」(才藤千津子「カルト問題に対するアメリカでの取り組み」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.74~75』至文堂 二〇〇八年)
50「先に述べたように、脱会カウンセリングでは、カルトについての正しい情報をメンバーとその家族に提供することに力点が置かれている。家族の同席のもと、ビデオやさまざまなパンフレットなどを使いながら、カルトが使う論理の矛盾点を指摘し、カルトの否定的側面を明らかにしてゆく。また、マインド・コントロールとはどういうものかについての情報がメンバーと家族に提供され、それについて話し合いがもたれる」(才藤千津子「カルト問題に対するアメリカでの取り組み」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.75』至文堂 二〇〇八年)
51「ディプログラミングとは異なって自由でサポーティブな雰囲気のカウンセリングの中でカルトの心理的圧力から自由になったメンバーは、次第に自分の問題について率直に家族やカウンセラーと話ができるようになる。このように、自由で温かい人間関係のもと、適切な情報と教育が与えられることによって、メンバーが自分の属しているカルトと自分の生き方について判断し自己決定できるようになることが脱会カウンセリングの目的である」(才藤千津子「カルト問題に対するアメリカでの取り組み」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.75』至文堂 二〇〇八年)
52「メンバーがカルトを離れることに決めた場合、カウンセラーは、元メンバーがどのような形で一般社会に復帰してゆけばよいかを家族と共に考え、加えて社会復帰のためのさまざまな情報とカルト離脱後に予測される心理的問題へのサポートについての情報を提供する。脱会後も、アフターケアのための面接が行われたり、元カルト・メンバー同士で作るサポートグループや、カルト体験からの回復のためのリハビリテーションセンターを利用することが奨励されることもある」(才藤千津子「カルト問題に対するアメリカでの取り組み」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.75』至文堂 二〇〇八年)
53「脱会カウンセリングへのアプローチには、情報を提供することに焦点を置くカウンセリングの方法(information-focused exit counseling、それにとどまらずメンバーの内面的な変容までを目的とするカウンセリング方法(process-focused esit counseling)など、さまざまなアプローチがある」(才藤千津子「カルト問題に対するアメリカでの取り組み」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.75~76』至文堂 二〇〇八年)
54「情報提供に焦点を置くアプローチでは、破壊的カルトは欺瞞的な方法で人々をカルトに勧誘するため、メンバーは自分が属するカルトについての正確な知識を持っていない、それゆえに正しい判断ができないのだと考える。そこで、適切な教育をすることを通して、メンバーが自分の属するカルトについて健全な決定を下すことができるように援助するわけである。また、メンバーが実際にカルトによってどのようにコントロールされ搾取されているかということのメカニズムをメンバーに教えることも大切である」(才藤千津子「カルト問題に対するアメリカでの取り組み」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.76』至文堂 二〇〇八年)
55「このように、このアプローチの目的は、あくまでもメンバーや家族と情報を分かち合い、お互いのコミュニケーションを向上させることであり、カウンセリングによってメンバーの人格に変容をもたらすことではない。むしろこの立場の人々は、メンバーの人格に変容をもたらそうとするアプローチは、そうすることによって、既にコントロールされた経験のあるメンバーを新たに『操作する』ことになるおそれがある、と批判し、警告する」(才藤千津子「カルト問題に対するアメリカでの取り組み」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.76』至文堂 二〇〇八年)
56「一方で、より『治療的(セラピューティック)』な傾向をもち、そのためにカウンセラーとメンバーとのラポール(治療の中での信頼関係)と戦略的方法によってメンバーの変容をもたらすことこそが最も大切だと主張する人々もいる。その中で代表的なのは、S.ハッサン(S.Hassan)によって提唱されている『戦略的アプローチ(Strategic Interaction Approach)』である」(才藤千津子「カルト問題に対するアメリカでの取り組み」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.76』至文堂 二〇〇八年)
57「ハッサンは、脱会カウンセリングは通常カルトを脱会した元メンバーによって行われており、その大多数は専門的なカウンセリングの訓練を受けていない人々であると言う。したがって、メンバーがカルト・グループから離脱することに介入の焦点が置かれている。また、カウンセリングのプロセスの重要性が軽視され、メンバー本人がその家族の複雑な心理的問題を取り扱うことについての専門的ケアはなされていないと批判する。ハッサンは、脱会カウンセリングはカウンセリングを専門的に学んだ有資格カウンセラーによってなされるべきだと主張する」(才藤千津子「カルト問題に対するアメリカでの取り組み」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.76~77』至文堂 二〇〇八年)
58「元メンバーへのカウンセリング・プロセスの中でなされなければならないことは、元メンバーが(1)自分がカルトから受けた心理的コントロールについて教育を受けること、(2)日々体験する危機への対処法を学ぶこと、(3)カルトに入る以前の生活とのつながりを回復すること、(4)貴重な時間や友人を失ったことや自分の純真な信頼が裏切られたことからくる悲しみと罪責感を癒すためのサポートを受けること、(5)元メンバーをサポートする社会的ネットワークを見出し、それを利用する方法を知ること、そして究極的には、(6)カルトでの肯定的な体験と否定的な体験とを共に、カルト脱会後の自分の新しいアイデンティティの一部として統合してゆくことである」(才藤千津子「カルト問題に対するアメリカでの取り組み」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.77』至文堂 二〇〇八年)
59「ジャンバルヴォー(C.Giambalvo)は、元メンバーの回復に役立つことがらとして、(1)マインド・コントロールとはどういうものか、自分はどのようにコントロールされたのかを知ること、(2)カルトでの体験から得たこと、学んだことは何か、自分がその経験を通してどのように変化したかをポジティヴに考える態度を身につけることを挙げる」(才藤千津子「カルト問題に対するアメリカでの取り組み」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.77』至文堂 二〇〇八年)
60「元メンバーが経験するさまざまな心理的問題には、情緒不安定、方向喪失感、抑うつ感や希死念慮、不安感、恐怖感、混乱、怒り、不信感、後悔、自責感、孤独感、自己同一性(identity)の混乱、無気力感、思考力の低下、自尊心の低下の他に、さまざまな喪失体験(帰属グループや疑似家族の喪失・心の支えや人生の目的の喪失など)とその結果としての悲嘆の問題、外傷後ストレス障害(PTSD)などがある。また、フローティング(揺れ戻し現象)といわれる、カルト入会時の人格への『揺れ戻し』が起きるフラッシュバック現象、パニック発作や不安発作、悪夢、隔離といった問題もある。これらに加えて最近では、親がカルトのメンバーであった場合の二世メンバーの問題などが取り上げられている」(才藤千津子「カルト問題に対するアメリカでの取り組み」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.78』至文堂 二〇〇八年)
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