白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・シャルリュスは知っていた時間トリック/並走するギリシア悲劇「メデイア」

2023年01月30日 | 日記・エッセイ・コラム

シャルリュスは「無」について語るわけではなく「無とは何か」について語る。ずいぶん前に「ヴィルパリジ夫人の地位」について<暴露>するという悪趣味で応じた。しかし次の箇所でプルーストが述べるのは「ヴィルパリジ夫人の地位」はなぜ「後世には偉大なものに見える」のかという時間への問いである。

 

「そこで私は、ヴィルパリジ夫人の地位なるものは、後世には偉大なものに見えるが、いや無知な庶民にとっては公爵夫人の生前でさえ偉大なものに見えていたが、じつは対極の社交界にとっても、つまりヴィルパリジ夫人の関係するゲルマント家にとっても、やはり偉大なものであったことを悟った」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.236~237」岩波文庫 二〇一七年)

 

そのようなケースの<暴露>に当たってシャルリュスは得意の欺瞞を用いない。二種類の欺瞞について。

 

(1)「第一の理由は、ジュピアンよりもすぐへそを曲げがちなシャルリュス氏が、周囲の者にはなぜかわからないものの、友人として最もふさわしい人たちと仲違いすることだった。そんな人たちに科すことのできる最初の懲罰は、もちろんシャルリュス氏がヴェルデュラン家で催すパーティーにその人たちを招待させないことである。ところが往々にしてこの除外者は、最も高い地位を占めるとされる人たちで、とはいえシャルリュス氏からすれば仲違いした日からそうとはみなされなくなった連中なのだ。というのも氏の想像力は、仲違いをするためにその人たちの欠点を巧みに探したときと同様、友人でなくなっったとたんその連中からいっさいの重要性を巧みにはぎ取ってしまうからである。けしからん相手が極めつきの旧家の出身ではあるが、その公爵位はたとえばモンテスキウ家のように十九世紀からのものにすぎないとなると、たちまちシャルリュス氏にとって重要なのは公爵位の古さになり、家系それ自体は問題ではなくなる」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.99~100」岩波文庫 二〇一七年)

 

(2)「これとは逆にシャルリュス氏の仲違いの相手が、古い公爵位をもつ貴族のひとりで、類を見ない立派な姻戚関係があり、さまざまな王家とも血のつながりがあっても、そのような栄華がとんとん拍子に転がりこんできたもので家系はさほど古くない場合、たとえば相手がリュイーヌ家の一員だった場合、すべては一変して、こんどは家系のみが重要となる」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.100」岩波文庫 二〇一七年)

 

だからといって、シャルリュスが<猿芝居>の名人であることには何一つ影響しない。ニーチェのいう意味での「猿」を大勢の前で今なお演じて見せている人々のことだが。

 

「人間にとって猿(さる)とは何か。哄笑(こうしょう)の種(たね)、または苦痛にみちた恥辱である。超人にとって、人間とはまさにこういうものであらねばならぬ。哄笑の種、または苦痛にみちた恥辱でなければならぬ。あなたがたは虫から人間への道をたどってきた。だがあなたがたの内部にはまだ多量の虫がうごめいている。またかつてあなたがたは猿であった。しかも、いまも人間は、どんな猿にくらべてもそれ以上に猿である」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・ツァラトゥストラの序説・P.16」中公文庫 一九七三年)

 

この種の「猿」は当時の比喩でいう「俳優」に通じる。

 

「俳優も精神のはたらきをもっている。しかしそれに伴う良心は、ほとんどもっていない。かれがつねに信ずるものは、人をして最も強く信じさせることに役立つものーーー《かれ自身》を信じさせることに役立つものである。明日、その俳優は新しい信仰をもつだろう。そして明後日は、いっそう新しい信仰を。かれがすばやい感覚をもっていることは、民衆と同じだ。そして変わりやすい天気のような気分をもっていることも。ショックを与えて驚かすことーーーかれにとっては、それが証明である。熱狂させることーーーかれにとっては、これが説得である。そしてかれにとって、血はあらゆる論拠のうちの最上のものである」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・市場の蠅・P.80」中公文庫 一九七三年)

 

読み違えた人々がいた。ファシズムを作り上げた人間たちとその系譜。

 

「進歩派の綱領が、その額面どおりのものは期していないのに対し、ファシストの綱領の中身はまったく空虚で、わずかに、もっといいものの代用品として、欺かれた者たちの絶望的努力をつうじて、辛うじて保持されうるにすぎない。ファシズムのスローガンの怖さは、まやかしであることが歴然としているのに、なおかつ存続し続ける欺瞞の怖さである」(ホルクハイマー=アドルノ「啓蒙の弁証法・P.422~423」岩波文庫 二〇〇七年)

 

ホルクハイマー=アドルノのいう「まやかしであることが歴然としているのに、なおかつ存続し続ける欺瞞」。この事情は第二次世界大戦後へも受け継がれた。<現代の神話>という形で。

 

「今日において、神話とは何か?直ちに極めて簡単な答えを出そう。それは語源と完全に一致している。すなわち、《神話とは、ことばである》(『神話』という単語について千もの違う意味を挙げての反論があるに違いない。だがわたしは単語ではなく事柄を定義しようとしたのだ)。

 

もちろん、それはどんなことばでもいいというのではない。言語にとって神話になるためには特殊な条件が必要だ。そのことはすぐあとにわかる。だが最初から強く提示する必要があるのは、神話が伝達の体系であることだ。それは話しかけなのである。そのことによって、神話が、客体、概念または観念ではありえないのがわかる。それは意味作用の様式だ。一つの形式なのである。あとで、この形式に、歴史的限界、使用条件を課し、また、その中に、社会を再現することになろう。それだからといって、まず初めに、神話を形式として記述しなければならないのには、変わりがない。

 

神話の様々な対象のあいだに内容上の区別を立てようとするのが間違いであるのは明らかだ。というのは、神話はことばであり、話すことに属するものならすべてが神話でありうるからだ。神話は、その話しかけの対象によってではなく、それを表現するやり方によって、定義されるのだ。神話には形式的な限界があるが、内容的な限界はない。では、すべてが神話でありうるのか?そうだとわたしは思う。宇宙は無限に暗示的だからだ。世界のどの物体も閉ざされた沈黙の存在から、社会的馴化に開かれた言語的状態に移りうるのだ。というのは、いかなる法則も、自然のであれ人間のであれ、物事について話すのを禁じていないからだ。木は木である。たしかにそうだ。だがミヌウ・ドゥルエによっていわれた木はすでにもう完全な木ではない。それは飾られた木であり、或る種の消費に適応し、文学的楽しみ、反抗、映像を付与され、つまり、純粋な材質につけくわわる社会的《用途》を与えられているのだ」(バルト「神話作用・P.139~140」現代思潮社 一九六七年)

 

全体主義とも違いファシズムともまた違う政治形態が出現したこともあった。フーコーはいう。

 

「ナチズムは、おそらく、血の幻想と規律的権力の激発との最も素朴にして最も狡猾なーーーそしてこの二つの様相は相関的だったがーーー結合であった。社会の優生学的再編成は、無際限な国家管理の名にかくれてそれがもたらす<極小権力>の拡張・強化と相まって、至高の血の夢幻的昂揚を伴っていた、それが内包していたものは、民族的規模での他者のシステマティックな絶滅であると同時に、自らを全的な生贄に捧げる危険でもあった。そして歴史の望んだところは、ヒットラーの性政策は全く愚劣な実践に終わったが、血の神話のほうは、さし当たり人間が記憶し得る最大の虐殺に変貌した、ということであった」(フーコー「知への意志・第五章・P.188~189」新潮社 一九八六年)

 

さらにこうも言える。

 

「奇妙なことに、自分たちが何をもたらすのか、ナチスは最初からドイツ国民に告げていた。祝宴と死をもたらすというのだ。しかもこの死には、ナチス自身の死も、国民の死も含まれている。ナチスは、自分たちは滅びるだろうと考えていた。しかし、どのみち自分たちの企てはくりかえされ、全ヨーロッパ、全世界、全惑星におよぶだろうとも考えていた。人々は歓呼の声をあげた。理解できなかったからではなく、他人の死をともなうこの死を欲していたからである。これは、一回ごとにすべてを疑問に付し、自分の死とひきかえに他人の死に賭ける、そしてすべてを『破壊測定器』によって計測しようとする意志である」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・中・P.141~142」河出文庫 二〇一〇年)

 

そうなることが兆候として予告されていた時代はまだよかった。一旦停止することができた。「エポケー」と言っていい。一旦停止(エポケー)した人々はした。ところが、しない人々の側が多数派を占めた瞬間、何かが生じた。

 

(1)「百人がいっしょにいると、各人はおのれの悟性を失って、或る別の悟性を手に入れる」(ニーチェ「生成の無垢・上・八二五・P.470」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

(2)「神は神学で窒息した。そして道徳は道徳性で窒息した」(ニーチェ「生成の無垢・下・九四八」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

あるいはもっと前。ヘーゲルは啓蒙の逆説について述べたが、一方、常に運動状態にある<啓蒙活動>を否定しているわけではまるでない。

 

「両者が本質的には同じものであり、純粋透見の信仰に対する関係も同じ場〔境位〕によって、同じ場〔境位〕において起る、というこの側面から言えば、透見の伝達は《直接的》なものであり、透見が与えたり受けとったりすることも、邪魔されずに流入し合うことになる。さらにそのほか、意識のなかにどんな杙(くい)が打ちこまれようとも、意識は《自体的》には単一なものであり、ここではすべてのものが解体され、忘れられ、拘束されないので、概念が端的に受けとられうるわけである。それゆえ純粋透見の伝達は、抵抗のない雰囲気のなかで、靄が静かに拡がり《流れて行く》のと比較できよう。この伝達は、伝染が侵入して行くようなもので、この無関心な場〔境位〕にこっそりと伝染して行っても、これまでは、反対のものだとは気づかれなかったので、防ぐこともできなかったのである。伝染が拡まったときになって初めて、それを気にも止めないで放っておいた《意識》は、それと《気がつく》ようになる。というのは、意識が自分に受けいれたものは、なるほどそれ自身でも意識にとっても、同一な単一なものであったけれども、同時に、自己に帰った《否定性》のもつ単一態であった。これは、後になると、その本性から言って、自分の反対としても展開し、そのため意識に、以前の姿を想い起させる。この単一態は、単一な知であるような概念であるが、この知は自己自身と自分の反対とを、同時に、知っている、けれどもこの反対が、自分のなかで廃棄されたものであることも、知っている。それゆえ、意識が純粋透見に気づいたときには、もう透見はひろまってしまっている。だから、透見と戦うことは、伝染がすでに起ってしまっていることを、もらしていることになる。戦いは遅すぎるのだ。どんな薬もこの病気を悪くするだけである。というのも、この病気は、精神的生命の骨の髄を、つまりその概念における意識を、その純粋本質そのものを、犯してしまっているからである。だからまた意識には、病気に打ち克つ力が何もないわけである。病気は、本質自身のなかに在るのだから、病気が一つ一つばらばらに現われてくるのは、圧えられるし、表に出た徴候はぼかされもする。これは、純粋透見から見れば一番都合のいいことである。なぜならば、そのとき透見は、必要もないのに力を浪費するわけでもないし、自分の本質にふさわしくない態度を、とることもないからである。つまりそれは、透見が徴候の形で、個々の発疹の形で、信仰の内容にさからい、信仰の外面的現実の連関にさからって、噴き出てくる場合のことである。ところが、透見は、眼には見えないし、気もつかれない精神であるから、意識されていない偶像の急所、急所をことごとくそっと通りぬけ、やがて内蔵や四肢のどれもこれもを、すっかり占領してしまう。そして『《ある晴れた朝》、透見はその仲間を肱でおしのける、するとがらがらと音をたてて、偶像は地に倒れてしまう』。ーーー《よく晴れた朝》というのは、昼になれば、伝染が精神的生命の全器官にしみ通ってしまうので、血は流れないからである。そのときには、思い出だけが、どういうふうにしてかはわからないが、消え去った歴史として、精神のかつての形態の、死んでしまった姿を、記憶に止めるわけである。こういうふうに、皺のよった皮を、痛みを感じもしないでぬぎ捨てて、知恵の蛇が新しい崇拝の対象に昇せられることになる。

 

だがこうして精神は、その実体の単一な内面において、その活動を隠したままで、沈黙のうちに機(はた)を織り続けるが、これは、純粋透見を実現する一つの側面にすぎないのである。透見の普及は、等しいものが等しいものと一緒になる点にだけ、在るのではない。それを実現することは、ただ単に対立もなしに拡げて行くことだけではない。そうではなく、否定的存在の行為も、やはり本質的には、自らのなかで自分を区別する運動が、展開したものであり、この運動は、意識的な行為であるから、そのいくつかの契機を、あらわれた一定の定在の形で掲げ、かしましい音をたて、対立したものそのものと、暴力的な戦いを挑まざるをえないのである。

 

それゆえ、《純粋透見》と《意図》とが、自分の前にあって自分に対立する他者に対し、どういう《否定的な》態度をとるかを、見なければならない。ーーーだが純粋透見と意図は、その概念が全実在であり、その外には何もないのであるから、否定的な態度をとるにしても、自己自身を否定するものでしかありえない。だからそれは透見として、純粋透見を否定するものとなる。純粋透見は非真理となり非理性となる。透見が意図となるときには、純粋意図を否定することになり、いつわりとなり、不純な目的となるわけである」(ヘーゲル「精神現象学・下・P.133~136」平凡社ライブラリー 一九九七年)

 

回り道を経てきた。再び、なぜ「後世には偉大なものに見える」のか。シャルリュスは自分で言っている。

 

「『おわかりですか』と氏はことばをついだ、『あの手合いがまず手をつけたのは、ル・ノートルの庭園の破壊です。プッサンの画をひき裂くにも等しい犯罪行為じゃありませんか。これだけでも、あのイスラエル一族は監獄にぶちこまれて然るべきでしょう』。シャルリュス氏は、しばし口をつぐむと、にやりとしてつけ加えた、『じつのところ、連中が牢屋入りとなるべき原因はほかにいくらでもあるんです!いずれにしてもあの建物の前にイギリス式庭園をつくったりすればどんな結果になるかは皆さんにもおわかりでしょう』。『でもあのお屋敷はプチ・トリアノンと同じ様式ですよ』とヴィルパリジ夫人は言った、『マリー・アントワネットだってそこにイギリス式庭園をつくらせましたわ』。『それがガブリエル設計のファサードの美観をそこねているのです』とシャルリュス氏は答えた、『もちろん今じゃル・アモーを壊そうとすれば野蛮な行為とみなされるでしょう。しかしこんにちの風潮がどうであれ、こんなイスラエル夫人の気まぐれが<王妃>の想い出の庭園と同じ威光をまとうとは思えません』」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.273~275」岩波文庫 二〇一二年)

 

ヘーゲルをドゥルーズ=ガタリたちと一緒に述べるのは乱暴なのだろうか。そんなことは全然ない。<リゾーム=世界>と化し、いつも現在進行形としてしか語ることが許されない窮屈な世界。意味不明な情報が飛び交い呼び合い呼び集め合わずにはいられない過剰接続の世界。混み入りすぎていて困り果てさせる。エウリピデスのギリシア悲劇「メデイア」のように今や「自称-メディア」はどこの誰を指し示しているのかさっぱりなのだが、ともかく、かたくなに挑発的な<大文字言語>をこれでもかと連発することでますます暴力的になり、なおかつ殺人的言葉遣いの乱用によって、とてもではないが「マス-コミ」とはまるで無関係な市民を自殺へ自殺へ追い込み過ぎではないかという不穏な憂いを感じる。というのにまだ血に飢えているらしい。大多数の人々にとってみれば「巻き込まれるのはごめんだ」と思っているに違いない。外出してみると大変多くの人々が自分の時間の大切さに気づいている手ごたえを感じる。

 

何がなんだかもう「マス-コミ」内部の人間については余りにも気の毒で仕方がない。憐憫さえ感じさせる。だから何年も前から新聞へ回帰して久しい。そもそも八十歳を越えた高齢者のために購読し出したのだが、とりわけ文化面とか地域情報とかは落ち着いて読むことができるし切り抜きもできるので体のためにも遥かにいい。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて219

2023年01月30日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。午後の部。晴れたり曇ったり。穏やかな風が吹いていました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.30)

 

 

午後四時を回りました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.30)

 

午後四時五十分頃。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.30)

 

日の入のようです。

 

「名称:“日の入”」(2023.1.30)

 

「名称:“日の入”」(2023.1.30)

 

「名称:“日の入”」(2023.1.30)

 

「名称:“日の入”」(2023.1.30)

 

「名称:“日の入”」(2023.1.30)

 

「名称:“日の入”」(2023.1.30)

 

何事もなかったかのような夕暮れです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.30)

 

二〇二三年一月三十日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。

 


Blog21・作品への<翻訳>という芸術的作業/プルーストの取り組みとその周辺2

2023年01月30日 | 日記・エッセイ・コラム

61「八十年代に入信した信者たちは、九十年代に至って、こころを病み始めた。バブルによって人間の欲望のたがが外れ、その崩壊によって資金繰りに困ったカルトは、信者からの資金獲得と奉仕活動を強制し、抑圧が強くなった時期でもある。カルトでは、カルト人格と本来の人格の落差が大きい。信者は落ち込みを堕落と勘違いし、自責の念に駆られる。また、カルト人格を演じ続けていると、自己を見失ってしまう。カルトの中では、どんな信者でも、カルトが要求する模範的な信者像を演じる。いずれも明るく、行動的で、絶対服従が共通している。それは、カルトの指導者にとって都合のよい人物像である。カルトの兵士を増産しやすい。しかし、信者が高い緊張状態を長く維持できるわけがない」(村上密「脱会カウンセラーから」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.93~94』至文堂 二〇〇八年)

 

62「カルトは、人間の異常行動をしばしば悪魔の仕業と決めつける。そして、対処の仕方は悪魔祓いである。大声で追い出す。身体を棒で叩く。行き過ぎは、信者を死に至らしめる。西洋では、中世から近世初期にかけて、精神病者が魔女狩りの対象として殺されていった。カルトでも、精神病者に対する対応は最悪で、死者が出ている。安静と節制、対人関係の改善、向精神薬による回復の道が、カルトの中では阻まれ、対決と攻撃の方法で信者の病症を悪化させている。また、場合によっては、突然集団から外に放置されたり、劣悪な環境に監禁されたりすることもある。家族や精神科医、時には弁護士、警察の協力も必要になる」(村上密「脱会カウンセラーから」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.95』至文堂 二〇〇八年)

 

63「統合失調症の幻聴幻視の症状は、悪魔や悪霊が乗り移っていると誤解されやすく、適切な対応がとられていない。私が扱った事例では長年、悪霊に憑かれていると言われ、際限なく悪霊祓いをされ、本人もそのように思い込んでいた。悩み苦しみで痩せていた。よく話を聞き、状態を聞くと、それは統合失調症であった。精神科医を勧め、ほどなく症状は改善された。家族は地獄のような日々を過ごしていた。対応を誤れば、家族をも苦しめる」(村上密「脱会カウンセラーから」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.95』至文堂 二〇〇八年)

 

64「またある事例は、色情の霊が憑いていると言われ悪霊祓いを長年受け続け、なかなか出ないために煩わしがられていた。これも、統合失調症であった。精神科医の処方する薬を飲めば、症状が回復する旨を伝えた。ほどなく改善がみられた。カルトは、自分たちにとって不都合なこと、事故、病気等を簡単に悪霊の働きと結び付ける。宗教的な対応が最善と信じ込み医療否定に走ることもある。そのために、脱会者からの聞き取り調査をして、家族に状態を知らせ、強制的にもカルトから引き離し、適切な医療を施す必要がある」(村上密「脱会カウンセラーから」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.95』至文堂 二〇〇八年)

 

65「カルトの被害相談は、本人からよりも親からの方が多い。子どもがカルトに入信したことを知った親は、至る所に助けを求めて電話をかける。多いのは大学の学生相談窓口、新聞社、テレビ局である。最近はインターネットである。回り回って脱会カウンセラーのところへ相談が行き着く。依頼は何とか脱会させてほしい。子どもの人格が変わった。何とか治していただけないだろうか。どれも切実な要望である」(村上密「脱会カウンセラーから」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.95~96』至文堂 二〇〇八年)

 

66「私は子どもを変えてほしいと依頼する親に対しては、まず親から変わるように勧めている。重要なのは言葉である。親は子育ての段階で、躾けのために命令と否定を繰り返している。中学生頃から友だちとの交際が多くなり、親との会話が減少する。高校、大学、社会人と成長していく段階で、親子の対話が十分育たずにあるのに、真剣な対話が必要になるのが、子どもの入信に伴う説得である。親から出てくる言葉は、成人に対するような言葉ではない。本来ならば、成長過程の中で親もコミュニケーション能力を上げていなければならないのに、そのようなことを教えてくれるところはない。つい感情的な話し方になったり、世間体を気にする言葉が出たりで、子どもから会話を拒絶されることがある」(村上密「脱会カウンセラーから」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.96』至文堂 二〇〇八年)

 

67「子どもは人格の完成、悟りを求めてカルトに入信しているために、子どもの使用する用語が理解できない。頭がおかしくなったのでは。だれだれが子どもを入信させたからと、子どもを責めたり、自分を責めたり、他人を責めたり、落ち着きを失うのは親である。子どもだけを変えるのは高ぶりであり、親から変わるように提案している。命令と否定が多いことを指摘し、肯定と疑問の使い方を教える。言葉使いは上から下へではなく、また一直線でもなく、弓形に語りかけるように勧めている。親の口癖の変化に気づくのは子どもである。子どもは自ら会話を変えざるをえない。親の自責の念を解き、対話能力を向上させることは、脱会だけでなく、その後の生活にも必要なことである。そして、親子関係だけでなく、対人関係にも大いに役立つものである」(村上密「脱会カウンセラーから」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.96』至文堂 二〇〇八年)

 

68「転機は思わぬところからやってきた。故郷にいる私の父がアルコール依存症で入院治療するようになり、私が準備の指揮をとることになったのだ。事柄を理解するため私は書店に行き、『こころの科学』(91号特別企画・アルコール依存症)という本をたまたま購入した。そして読み進めていくうち、『家族をどう支えていくべきか』(安田美弥子)という所にきて、目からウロコが落ちるような思いを体験した。内容があまりにもカルト問題と似ているのだ。それから約一年に及ぶ父の入院治療の期間中、家族としてカウンセリングを受けるという貴重な体験もさせていただきながら、私はアルコール依存症に関する本を読みあさった」(日本基督教団吹田教会牧師・日本基督教団統一原理問題全国連絡会世話人・全国統一教会被害者家族の会アドバイザー・豊田通信「『カウンセリング』を探して」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.108』至文堂 二〇〇八年)

 

69「その後、私の関心は脱会カウンセリングの様々な断面である事柄について、心理臨床の専門家はどう扱っているのかということに広がっていった。他の依存症の問題との類似点はあるのか。親子や夫婦の関係の問題に、どういうアプローチをしているのか。子どもの問題行動についてはどうか。カウンセリングはどのように進めていくべきか。そもそもカウンセリングとは何なのか。書店の心理のコーナーは脱会カウンセリングのリソースの宝庫だった」(日本基督教団吹田教会牧師・日本基督教団統一原理問題全国連絡会世話人・全国統一教会被害者家族の会アドバイザー・豊田通信「『カウンセリング』を探して」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.108』至文堂 二〇〇八年)

 

70「ラポールという言葉さえ知らなかった状態からの出発だから、理解の程度は怪しいものだと思う。また、理論上は納得していても、それを実践できるかどうかは別問題で、自己嫌悪を常とする状態に私は今もある。特に、『脱会説得』手法を引きずっているせいなのか、逆転移に陥りやすい傾向があるようで、何とかそれを克服しなければならない。背負う責任の重さや失敗の結果を考えると怖くてたまらないから、いつも追い詰められた受験生のように勉強している。それでも、強引に押し込んで完成させていたパズルの一つひとつのピースを吟味することや、経験と勘頼みでしかなかったものに理屈を見いだすことは、この上なく楽しい。そして、たぶん私はカルト問題の相談に来る家族の向こうに、崩壊してしまった私の家族の姿を探しているのだと思う」(日本基督教団吹田教会牧師・日本基督教団統一原理問題全国連絡会世話人・全国統一教会被害者家族の会アドバイザー・豊田通信「『カウンセリング』を探して」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.108』至文堂 二〇〇八年)

 

71「メンバーになった者は、拉致され連れ去られて、強制的に洗脳されたのではない。勧誘者との相互作用において巧みに騙されてメンバーになることで、それまで未解決なまま抱えていた人生の問題が解消するかのように思わせられたのである。つまり破壊的カルトは、メンバーに一時の癒しや幸福感をもたらすことがあるかもしれない。しかし実際には、そのメンバーとして過ごすほとんどの時間は、厳しい課題達成の活動にあけくれる連続であり、非常に苛酷なものである。俗に言われるマインド・コントロールとは、通常では受け入れがたき非常識な集団活動を受け入れさせるための、手段を選ばぬ体系的な心理操作なのである」(西田公昭「本格カウンセリング効果への期待」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.138~139』至文堂 二〇〇八年)

 

72「いうなれば、破壊的カルトの集団管理手法にはメンバーに対する心理的虐待が多く含まれている。すでに臨床心理士は、ドメスティック・バイオレンスや児童虐待などの心理的虐待を扱ってきた。したがって破壊的カルトの被害者である元メンバーの抱える問題もそのような経験からアプローチしていくことができると思われる」(西田公昭「本格カウンセリング効果への期待」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.139』至文堂 二〇〇八年)

 

73「西田・黒田(2003年)、黒田(2007年)は、破壊的カルト脱会後の心理状態やカウンセリングの効果について検討を行っている。その研究では、T教団とオウム真理教の元メンバー157名に質問紙調査を実施した。その結果、以下のような11の苦悩が明らかとなった」(西田公昭「本格カウンセリング効果への期待」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.139』至文堂 二〇〇八年)

 

74「1抑うつ・不安傾向ーーー脱会するということは、自己観、理想や目標、善悪の基準、世界観や歴史観といった個人的に重要なビリーフ群を一気に失うということであり、アイデンティティの崩壊の危機であるといえる。よって、脱会後のメンバーは、入会以前の自分の意思に再び焦点をあて、使わなくなっていた古い元のビリーフ・システムを再構築しなければならなくなる。そのことには、やり直そうとする強い動機づけが必要であり、認知処理的にも困難があるため、抑うつ性や不安を高め、情緒的消耗感、無気力、孤独感、絶望感などを引き起こしていると思われる」(西田公昭「本格カウンセリング効果への期待」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.140』至文堂 二〇〇八年)

 

75「2自信喪失ーーー教団では、メンバーの行動を毎日の生活全般にわたって監督し、メンバーは自己決定を放棄して、何事も報告、連絡、相談して従順に指示に従うことを習慣としていた。こうしたコントロールが集団への依存を促進し、個人の自主的判断や決断力の障壁となっていると思われる。また本質的には正しく望ましい集団だと信じて入会したのに、それが誤りであることを確認する事態となったことが、脱会後、自己評価を下げる結果となり、このような思考の混乱をもたらしていると推測される」(西田公昭「本格カウンセリング効果への期待」・「現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.140」至文堂)

 

76「3自責・後悔ーーー脱会者には、反社会的な集団に関与したことへの罪悪感や、家族に与えた心労や心痛、知人や親類を強く勧めて入会させたことへの良心の呵責がある。また後悔については、集団への関与を深めるためには辞職や退学を望ましいことと判断して『将来の夢』をあきらめたり、長い時間、多額の財産ならびに社会的支持者を失ってしまったりしたことが原因となって生じると推測できる」(西田公昭「本格カウンセリング効果への期待」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.140』至文堂 二〇〇八年)

 

77「4社会化・親密化の困難ーーーカルトのメンバーになるということは、それまで暮してきた社会を劣っている存在、望ましくない存在として否定し、あらゆる対人関係との決別を意味する。よって、再び元の社会集団のメンバーに戻るということは、否定的に評価していた異文化に対する適応がせまられることを意味するために、社会常識に馴染めず、居心地の悪さを経験する」(西田公昭「本格カウンセリング効果への期待」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.140』至文堂 二〇〇八年)

 

78「5家族関係の不和ーーー脱会者の家族は、脱会した当人の混乱した精神的状態を無視した言動や行動をとることがある。また所属していた集団に戻ってしまうのではないかといった懸念がある。そのために、家族はとりざたする必要のないささいな行動にも不信感を抱いたり、見張ったり、『腫れ物に触るような』接し方をする。こうした対応が当人の精神的苦痛を高めてしまうことになる。また、なかには、入会以前から家族関係に不穏な問題を抱えていた場合も多く、その問題が再現されて不和になることもある」(西田公昭「本格カウンセリング効果への期待」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.140~141』至文堂 二〇〇八年)

 

79「6フローティングーーーいわゆるフラッシュバックである。破壊的カルトのメンバー時のアイデンティティに突然戻ったり、一時的に変化したりすることをそのように呼ぶ。教団にいたとき、長期に反復される詠唱、催眠やイメージ誘導、瞑想などの状況におかれていたため、何らかの関連する経験や引き金になる言葉を聞いたりすると、その状態に反射的に戻ってしまうことがある」(西田公昭「本格カウンセリング効果への期待」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.141』至文堂 二〇〇八年)

 

80「7異性との接触恐怖ーーー破壊的カルトでは、異性との親密な関係を持つことに対して厳しい禁欲制度や罰則制度がしかれ、結婚や出産がリーダーに決められることがある。また教団に入る前にほとんど異性交際の経験がなかったことや性的虐待が行なわれていた環境にいたこと、などが原因となり異性との身体的な接触に際して、極端に否定的感情がつきあげてくる場合がある。特に女性に見られやすい」(西田公昭「本格カウンセリング効果への期待」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.141』至文堂 二〇〇八年)

 

81「8情緒不安定ーーーこれは、他のさまざまな心理的苦悩が関連して生じていると思われる。また加えて、彼らはメンバー時には、否定的な感情を抑圧するように求められる傾向にあり、そのことが、脱会した後に、対処しにくいさまざまな感情となって溢れ出すことになるという」(西田公昭「本格カウンセリング効果への期待」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.141』至文堂 二〇〇八年)

 

82「9心身症傾向ーーー脱会後の社会復帰過程は、上記のような直接的な側面のみならず、経済的側面も影響して、ストレスや不安を高め、このような心身症状の原因になると思われる。また、脱会過程それ自体も、極めて高いストレス事態であり、その影響が生じる結果ともみなしうる」(西田公昭「本格カウンセリング効果への期待」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.141』至文堂 二〇〇八年)

 

83「10隠匿傾向ーーー脱会者は、破壊的カルトに所属していたことを知られると、その集団に対する他者の否定的評価が自分に向けられることを懸念する。また彼らには、一般に他者は元メンバーを社会的に受容しないという認知であり、場合によっては、再就職に不利に作用すると認知しているということが背景にあると思われる」(西田公昭「本格カウンセリング効果への期待」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.141』至文堂 二〇〇八年)

 

84「11教団に対する怒りーーーメンバー時には、教団や教祖は絶対的に正しいという思考システムのため、怒りの感情が教団内部のメンバーやそのリーダーに向けられることはない。しかし脱会時には、所属していた集団の欺瞞や破壊性を知り、この因子で示唆されたような怒りの感情が、自己の現在の心理的問題や苦境を引き起こした原因を教団やそのリーダーに帰属することによって生じていると推測されている」(西田公昭「本格カウンセリング効果への期待」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.142』至文堂 二〇〇八年)

 

85「臨床心理士による自立の支援が必要なもうひとつは、いわゆる《二世問題》ではないかと思われる。すなわち、長引く破壊的カルト問題は、その集団文化の中で生まれて育った子らの苦悩と自立というテーマを生じさせているのである。十二年前、オウム真理教の強制調査のおりに保護された子どもたちが、愛着に欠け、善悪の判断が逆であり、生活の基本的な社会的ルールが身についていないなどの、さまざまな不適応が見られた。また未だ親が信者でありながら自分だけ脱会を果たした子どもたちが、カルト支配の影響と自立との間で揺さぶられ、不安を訴える人も見かける。また、子ども時代におけるカルトでの親への不安定な愛着スタイルは、他の人との対人関係においても安定性を長期に欠くものとさせるのかもしれない。しかし実のところは、まだはっきりしない。このような破壊的カルトで育った子どもたちがいかなる心理的問題を抱えているのかについて、いまだ経験的な心理学的研究はほとんど見られないのだ。このように臨床心理学および臨床心理士に期待することとして、カルト脱会後の特有の症状に対する新たな臨床的アプローチを、今まで積み上げられてきた非専門家のカウンセリングと提携して模索し、脱会時ないし脱会後のカウンセリングがいかに発展すべきかを科学的に検討し、その方法について理論化していくコラボレーションが期待されているのである」(西田公昭「本格カウンセリング効果への期待」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.148』至文堂 二〇〇八年)

 

86「保守派のバックラッシュであれ、インターネット上のプチ・ナショナリズムであれ、根っこは同じである。自分が選び取った物語に安心できない。だから、その語りを聴いてくれる人々を強く求め、応じないものを非難するという態度にでる。ネット社会におけるフレーミング戦略(非難に値するとういう烙印を押した上で非難をさらに煽る)とその心理も同様だろうし、現在のカルトの行動様式に通じるものがある」(櫻井義秀「若者とカルト~書き換えられる記憶のゆくえ~」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.154~155』至文堂 二〇〇八年)

 

87「1癒し系・霊感商法カルト。二〇〇七年十二月、S世界と称する新興グループが数系列の版社組織を抱え、版社ごとにヒーリングサロンを開店し、占い、癒しに始まり、慢性疾患に悩む人達の体質改善や家族・職場トラブルの解決等をうたって、神霊治療後に百数十万円のカミサマの書『力』や、各種ヒーリング・グッズを販売していたことが報道された。スピリチュアル・カウンセリングと称して霊能師(といっても資格があるわけではない)が一時間5000円相当で電話相談を行なうサイトは相当数あり、スピリチュアルなセミナーやグッズの見本市である『すぴこん』等ふくめればヒーリング産業は無視できない市場規模を持つ。この系列のモデル・ストーリーに従えば、あなたの抱えている問題は通常の教育・医療・生活・法律等では解決できないほど《大変な問題なのだ》と不安を煽り、特別な解決法を求める心境に至らしめるということに尽きる。そして、今までのやり方では《何の効果も得られなかった》という記憶と、だからこそ《新しく始めなければならない》という動機が作られる。占いや癒しの技法が問題解決の主たる方法に変わり、際限のない金銭負担が発生するが、問題解決の糸口に留められるべき占いや癒しの術を濫用したものといえる。金のない若者は客になれないが、ローン返済のために従業員として働かざるを得ないものも出てくる」(櫻井義秀「若者とカルト~書き換えられる記憶のゆくえ~」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.155~156』至文堂 二〇〇八年)

 

88「2覚醒系・自己実現型カルト。オウム真理教や自己啓発セミナーに典型的である。《今の自分に満足していてよいのか、本当の自分と向き合おう》と若者達の変身願望をくすぐり、肉体を酷使する行で変性意識を生じさせたり、セミナーで精神的な限界状況を生じさせたりする。日常生活より遥かに強烈な情動を伴う体験に、信者はこれこそ本物と思い、《今までの人生は虚しく、偽りの人間関係であった》という記憶が作られ、《真実の自己、本当の人間関係》を目指して指導者の教えに従うよう動機づけられる。もちろん、経験を積んだ修行者や心理療法家であれば、特殊な意識や治療空間に人を留めおくことの弊害を認識し、日常生活における実践を説くのだが、カリスマは取り巻きを必要とするし、カルトは信者を囲っておきたいのである。人生模索中で意欲と体力に恵まれた青年層にアピールするモデル・ストーリーであり、打ち込む対象と指導者を選び損ねる不幸がなければ、何事かをなした人達であろう」(櫻井義秀「若者とカルト~書き換えられる記憶のゆくえ~」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.156』至文堂 二〇〇八年)

 

89「3使命感系・世界変革型カルト。T教団の教祖は再臨のメシアを称し、神の王国(地上天国)実現の企画を次々に打ち出すが、そのための人的資源と資金調達の方法が必要になる。正体を隠した伝道や霊感商法、献金強要が違法行為とされた。伝道には二種類ある。学生や独身の勤労者の場合、《今までの家族や男女関係は偽り》のものであるという記憶が作られ、《真の父母》(D教祖夫妻)と《神の子》となる祝福(合同結婚式)を志向するよう動機づけられる。中高年の主婦に対しては、姓名判断や家系図診断を通して《家族問題や病気等は先祖の悪行による家系の因縁であった》という記憶が作られる。そして、霊石の壷購入や献金により運勢転換が図られることが強調され、自分が《氏族(家系図上の親族)メシアとしてたち、献身していくべき》ことが使命感として植え付けられる。教会組織は信者の使命感を持続させることに腐心し、巡回師と称するお目付役兼カウンセラーを派遣したり、意識の低下した信者には修練会参加を呼びかけたりする。カリスマ的な教祖による小規模教団がカルト運動に転換するには、信者の強烈な使命感と旺盛な宣教活動と資金集めが必要になるが、T教団に限らず、仏教系の新興宗教でもこのような事例が散見される。使命感を打ち出すのは昨今のしらけ・脱力世代にはうけないのだが、熱い生き方を模索する一途な青年も一定数いるので、その層が引き込まれていく」(櫻井義秀「若者とカルト~書き換えられる記憶のゆくえ~」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.156~157』至文堂 二〇〇八年)

 

90「4救済系・ファンダメンタル型教団。S中央教会をはじめ、福音系キリスト教会において主管牧師の強力なカリスマ・指導性が発揮され、教勢拡大を遂げることがある。宗教指導者の神格化と信者の無批判的従順が過ぎると、時に信者への性的虐待を含む暴力的支配が生じる。このような教会へ足を運ぶ人々は、かつて日本の新宗教に入信した人々と同様に、貧病争に悩み苦しみ、行政の相談や教会の牧会では満足できずに、強力な道徳・規律、霊的癒し、共同体による救済を求めている。その意味で入信の動機づけは必要ないが、この種の教団になじむためには、《二元論的な価値観(世界は善霊と悪霊との戦い)》を内面化し、《神──代理者──教会という指導の階梯》に従順に従う信仰が形成される必要がある。従わなければ、《地獄行き、滅びの道しかない》ということが様々な指導の場面で説かれ、宗教的現実感を体得したものだけが残る教会は相当に集団的凝集性が高く、内部告発や批判が起こりにくい体質になる。カルト運動化する前の新宗教にも同様の特徴が認められよう(櫻井義秀『「カルト」を問い直す』)」(櫻井義秀「若者とカルト~書き換えられる記憶のゆくえ~」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.157~158』至文堂 二〇〇八年)

 

91「現在の若者が自らこのような教会の門を叩く可能性は低い。しかし、両親がメンバーであり、子どもがこのような環境で成長し、後に教団を離れた時に困る事態となる。自由、自己決定の経験がないため、自分では何もできない。価値の相対性や妥協といった観念が分らないので他人とコミュニケーションできないのである」(櫻井義秀「若者とカルト~書き換えられる記憶のゆくえ~」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.158』至文堂 二〇〇八年)

 

種も仕掛けもある稀に見る重大未解決問題。もっとも、「東京五輪汚職事件」(誘致に関係したオリンピアン含む)は改めて厳重に取り調べ直されなくてはならないだろう。でないと次の五輪出場選手たちに支障が出るかもしれない。それとともに「カルト」問題一つ解決できていない、では済まされなくなってきた。フッサールからもう一箇所引く。

 

「物理学の、したがってまた物理学的自然の発見者ガリレイ、彼の先駆者たちを無視したくないというのなら、彼らの仕事を完成した発見者と言ってもよいガリレイは、《発見する天才》であると同時に《隠蔽する》天才でもあるのだ」(フッサール「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学・第二部・第九節・P.95」中公文庫 一九九五年)

 

《隠蔽》しにやって来るのは一体どんな報道なのかもまた同時に問われている。なおカルト問題に関する引用では多くの場合アメリカでの取り組みが参照されている。アメリカに軸足を置く弁護士とかカウンセラーとかの立場から述べられた大変貴重な報告ではと考えられる。

 


Blog21・作品への<翻訳>という芸術的作業/プルーストの取り組みとその周辺1

2023年01月30日 | 日記・エッセイ・コラム

見ているのに見えていないものを見えるようにする<翻訳>。プルーストが一貫して取り組んでいる作業。

 

「しかしながら元の本性というものは、たとえ抑えつけられても、やはりわれわれのなかに棲みついている。そんなわけでわれわれは、だれか天才の書いた新たな傑作を読んで、そこに自分が軽蔑していた考えや押し殺していた上機嫌や悲哀などと同じものを見出すと、つい嬉しくなってしまう。自分が見向きもせずにいたありとあらゆる感情がその傑作のなかに描かれているのを知って、突然そうした感情の価値を教えられるのである」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.231」岩波文庫 二〇一七年)

 

作家たちの手から手へ速やかに渡っていくような価値の高い作品であってもなお「見出すと、つい嬉しくなってしまう」くらいハイレベルなものはそうない。プルーストは次のように書いている。「傑作というものは、特殊なもの、予想外のもので、既存のすべての傑作の総和でつくられるものではなく、この総和を完全に自家薬籠中のものにしてもなお決して見出すことのできないものなのだ。ほかでもない、傑作はこの総和の外に存在する」と。ただし条件付き。

 

「普段われわれは美と幸福とが個性的なものであることを忘れてしまい、かわりに因習的な類型を頭に想いうかべている。この類型は、われわれが気に入った相手のさまざまな顔や味わったいろいろな喜びをいわば平均してつくりあげたもので、それゆえわれわれが手にするのは抽象的で活気に欠ける無味乾燥なイメージにすぎない。そこには美と幸福に固有の、既知のものとは異なる新たなものに備わる性格が欠けているからである。われわれは人生を厭世的に見てそれで正しいと考えているが、そのじつ幸福と美を考慮に入れたつもりでそれを排除し、幸福と美のかけらもない合成物に置き換えている。そのようなわけで、文学通の人にいくらか新しい『傑作』について話しても、読む前からあくびが出るほど退屈しそうな顔を見せられるのは、自分が読んだ傑作をすべて合成したものを想像するからである。ところが傑作というものは、特殊なもの、予想外のもので、既存のすべての傑作の総和でつくられるものではなく、この総和を完全に自家薬籠中のものにしてもなお決して見出すことのできないものなのだ。ほかでもない、傑作はこの総和の外に存在するからである。さっきは飽き飽きした顔を見せていた文学通も、この新しい作品を読んだとたん、そこに描かれた現実に興味を覚えはじめる。これと同様に、私の思考がひとりきりで描きだす美の典型とはまるで異質なこの美しい娘のおかげで、たちまち私はある種の幸福、娘のそばで暮らしたら実現すると思える幸福を味わいたくなった(われわれが幸福を味わえるのは、つねに特殊なこのような形態だけである)。ところがここでもやはり、『習慣』の一時的停止が大きな役割を果たしていた」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.56~57」岩波文庫 二〇一二年)

 

この、「『習慣』の一時的停止」という条件。或る種の態度を差す。フッサールは、極めて多くの人々が<習慣・因習>について、信じ込んで疑わないどころか逆にまったく当然のこととして安易この上なく受け入れている態度を取り上げ、差し当たり「自然的態度」と言って批判しその対処法を提案している。「括弧入れ」して問いへと変換してみる重要な態度。「エポケー」と呼ばれる。

 

「生活世界があらかじめ与えられているという事態は、どうすれば固有の普遍的な主題になりうるであろうか。それは、言うまでもなく、自然的態度を《全面的に変更すること》によってのみ可能なのである。それは、われわれがもはや、いままでのように自然的に現存する人間として、あらかじめ与えられている世界の恒常的な妥当を遂行することのうちに生きるのをやめ、むしろこの妥当の遂行をたえずさし控えるといった変更である。そのようにしてのみ、われわれは、『世界それ自体の先所与性』という、変更された新たな種類の主題に到達することができる。換言すれば、世界が純粋にもっぱら《世界》として、また、われわれの意識生活において意味と存在妥当をもち、しかも、たえず新たな形態の意味と存在妥当を得てくるそのままの《姿》で主題となるのである。こうしてのみわれわれは、自然的生活においてものを企てたり所有したりするさいの基盤として妥当する世界がなんであるのか、またそれと相関的に、自然的生活とその主観性とは《究極的には》なんであるのかーーーその主観性はそこでは妥当を遂行するものとして作動しているのであるがーーーを研究することができる。自然的な世界生活は世界を妥当させているが、そのような能作をしている生活は、自然的な世界生活の態度では研究されえない。それゆえにこそ、《全面的な》態度変更が、すなわち《まったく他に類のない普遍的な判断中止》が必要となるのである」(フッサール「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学・第三部・第三十九節・P.266〜267」中公文庫 一九九五年)

 

それが不可能な場合とかまるで知らないような場合、例えば「カルト」という問題は、ともすれば平然と検問を突破し諸国家の政治経済の中枢をも狙い撃ち巣食うようになる。一度政治経済の中枢の中枢へ巣食うようになると、検問というものは上からの圧力として作用するため検問の意味をなさなくなる。遅々として進めないような困難ばかりの只中を、それでもなお市民レベルでの取り組みはずっと以前からなされてきたにもかかわらず。以下、減少するどころか逆に増殖していた社会問題として、二〇〇八年にようやく提出された本文から引用。九十一箇所。

 

1「大学キャンパスは、渡辺(渡辺浪二『大学とカルト』)によると『カルトのスーパーマーケット』(ゴールドバーグ)と呼ばれるほど、カルトの温床になっている」(内野悌司「キャンパス(学生相談)において」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.3』至文堂 二〇〇八年)

 

2「<カルトの共通した特徴>(Zimbardo,『What messages are behind today’cults?』)1人々は、差し迫った必要性を満たしてくれる興味ある集団に参加するのであって、最初から『カルト』に参加するのではない。2カルトは、社会で『失われた価値』を与えるという幻想を抱かせる。3不満をもっているために、現実的な妥当性を確認せずに幻想を簡単に信じ込んでしまう。4マインド・コントロールによって、人々はたとえ不法な、非理性的な、攻撃的な、そして自己破壊的な行動をもするように導かれ得る。5カルトの用いるマインド・コントロールは、特別の方法ではなくて説得のプロや組織が日頃使っているありきたりの戦術を強力かつ徹底的に応用したものにすぎない」(内野悌司「キャンパス(学生相談)において」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.36』至文堂 二〇〇八年)

 

3「<カルト・マインド・コントロールの特徴>(西田公昭『マインド・コントロールとは何か』)a本人には本当の目的を知らせずに、受け手が考えているのとは違う方向に誘導する。受け手が『知らない』のは、勧誘する側の積極的な情報コントロールの結果である。b集団にひきつける技法だけではなく、勧誘したメンバーをその集団に留まらせておく技法を含む。集団の魅力によってよりも、離脱することに伴う不安、恐怖感、罪悪感など否定的感情を生み出すことによって行なわれている。c成長動機づけを操作する。『困っている人の役に立つ仕事がしたい』『宇宙の心理について知りたい』『自分の性格を変えたい』『理想的な社会を作りたい』などの欲求をもつ人を選び、そうした欲求をさらに喚起した上で、その充足を約束する。勧誘される側にもその『原因』の一部があることになる。ただし原因は必ずしも『責任』と重なるものではない。d受け手の防衛を積極的に妨害する。新しい信者を一人にせず、自分で考える余裕を与えず、疑問を口に出させず、外部の人との接触を禁じる。教義に疑問が生じた場合でも、それはまだ教義を理解していないからと説明し、それがサタンの声であると信じ込ませて自ら疑念を抑え込むようにさせる。e手続きに虚偽が含まれる。勧誘の初期に自分たちの所属する組織の名を明かさない」(内野悌司「キャンパス(学生相談)において」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.38」』至文堂 二〇〇八年)

 

4「<カルト・マインド・コントロールについての社会心理学的説明>(西田公昭『マインド・コントロールとは何か』)a好意性、返報性。勧誘に際して、好意的な接近を試み、親身になって相手によくすることで断わりにくくするというテクニックである。b一貫した行動を引き出す行動の原理。勧誘を受け入れるまでしつこくつきまとい、いったん受け入れると次回の約束を守らないと矛盾や罪悪感を感じさせるように行動の一貫性について働きかけるものである。c多数者の影響力。勧誘に際して、1対1ではなく、多対1で行ない、多数者の影響力を駆使して断わりにくくしたり、自分の言い分が間違っているような錯覚を与えたりするテクニックである。d自己否定。勧誘を受けた人が教義に対して疑問に思ったり批判的に考えたりしても、それはその人の方が間違っていると勧誘者が多数の影響力などを利用して否定し、勧誘を受けた人自身も自分が間違っていると思うように自己否定に導くものである。e信念体系の攻撃。勧誘を受けた人がもっている信念や価値観等を攻撃し混乱させ、勧誘者の信念こそ正しいものだと説いて、その信念体系を吹入しようとするものである。f脅しや呪縛。勧誘されていったん会に関わると、そこから抜け出そうとすると、自分自身や家族に悪いことが起こるとか、呪われるといった脅しや呪縛をかけて、抜けることに恐怖を植え込むテクニックである。g自尊感情の操作。それまでもっていた自尊感情は否定され、会の信念体系や教義に沿った思考や行動を行なうと肯定し、自尊感情を操作するテクニックである。h情報コントロール。教義等を吸入するために、会の信念体系や考え方に関する一方的な情報のみを与え、それに批判的な情報にはふれさせないようにさせ、合理的・批判的な思考を停止させようとするものである。i活動の実践の優先。人の信念は、自分のとった行動を正当であったと説明するように変化する傾向があるので、教義等に違和感をもっていたとしても、その活動を実践させることで、それが正当なものであると錯覚を与えるテクニックである。j行動管理。食事や睡眠といった生理的なレベルから日常生活の行動的なレベルまで管理することによって、会の在り方に批判的な考えや行動が入り込む余地をなくして、教義に従うことが自然に感じられるようにするものである」(内野悌司「キャンパス(学生相談)において」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.39』至文堂 二〇〇八年)

 

5「<援助の方略>1相談以前の取り組み。カルトの実態についての情報収集と理解。マインド・コントロールについての理解。カルトに対する自分の先入観の自覚。2押し付けにならない態度。強引にやめさせようとしない。入信することを合意できないと伝えつつ、本人の意思をなるべく尊重した話し合いをもつようにする。話が通じなくても、それはカルトの人格になっているからであることを理解する。説得しようとせず、自ら教団や教義の矛盾を論理的に検討できるよう話し合っていく。3信頼関係の構築。カルトの体験を否定しない。カルトに入っている思いをとにかく傾聴する。お互いに率直に話し合えるようコミュニケーションを図る」(内野悌司「キャンパス(学生相談)において」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.41』至文堂 二〇〇八年)

 

6「トビアスとラオレッジ(Tobias&Lalich,『Captive heart,Captive mind』)は、カルトを離れることは強烈な体験から離れることでもあり、カルトから脱会することは、入信することよりもはるかに困難であると述べている。何年も信じてきたこと、また命をかけて多くの人々に伝えてきたことを否定するのは、並大抵のことではない。家族のように思っていた仲間を失い、心の支えになっていた希望を失い、自尊心を失い、生きがいを失う。カルト体験はよく魂のレイプと表現され、シンガー(Singer,『Coming out of the cults』Psychology Today)もまた、カルト体験の数年間、当てもなく漂流生活を続け、自分をまとめることができなくなる者もいると述べている。このように、入信前から心の安定や魂の平安を望んでいた人が、最後の望みの綱であろう宗教に失望する経験は、絶望以外のなにものでもなく、魂までも深い傷を負ってしまうと考えられる。また、脱会者たちは本来の自分を取り戻し、社会復帰をするために、多くの難関を乗り越えていかなければならない。自分のアイデンティティの問題、職業の問題、思考力の回復、情緒的問題、人間関係の問題等、カルトを離れた日から直面しなければならない難問が、実に多種多様にある(Wood,『エホバの証人』)」(黒田文月「脱会後のカウンセリング」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.45~46』至文堂 二〇〇八年)

 

7「自己啓発セミナーと呼ばれる研修が日本に輸入されたのは、一九七〇年代後半である(小久保2003年)。その源流は、心理学におけるエンカウンターグループ、Tグループなどと称されるグループワークにある(渡辺2003年)。自己啓発セミナーは人格的な変革をもたらすことを目的としたトレーニングであり、個人もそれを自覚して参加するのだが、やがて、そこに強い心理操作性や虐待性が指摘されるようになった。これらは、先の宗教タイプの団体と同じ視点で語られることは長らくなかった。しかし、二沢雅喜(「人格改造!」JICC出版局1990年)が出版されたあたりから社会に問題性が共有されはじめ、洗脳概念と絡めて認識されるようになった。宗教タイプの団体にも、それ以前から洗脳を行っているとの評価は存在した。双方は接点を持たないままだったが、やがて洗脳やマインド・コントロールという概念を通して、宗教タイプの団体と自己啓発セミナーの類似性や共通性が指摘されるようになった。自己啓発セミナーの問題性が共有されるようになった大きなきっかけは、急激な勢いで普及したインターネット媒体と言えよう。匿名性の高いこの媒体は、自己啓発セミナーによる個人の傷や汚点を露呈するには適当であった。おな、櫻井義秀(「自己啓発セミナーとカルトの間」北海道大学新聞2000年)は宗教社会学の視点から、自己啓発セミナーとカルトの距離の近さを指摘している」(戸田京子「カルト問題を巡ってーーー臨床心理学的視点から見た援助と関わりの可能性」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.59』至文堂 二〇〇八年)

 

8「このように考えると、カルトと見なせそうな現象はとうに宗教の枠組を超えている。実際、海外の専門家らはカルトの類型として宗教、オカルト、ニューエイジ、心理療法、教育、政治、商業など様々な種類を挙げている(マーガレット・シンガー「カルト」飛鳥新社1995年/マデリン・ランドー・トバイアス、ジャンジャ・ラリック「自由への脱出」中央アート出版社1998年)。日本でもオウム事件以降、何らかの誘導性や拘束力を見出した宗教や宗教的雰囲気を持つ集団に対し、カルトやマインド・コントロールではないかと指摘する認識が誕生した。人々は、何か共通したものを嗅ぎ取り始めたのである」(戸田京子「カルト問題を巡ってーーー臨床心理学的視点から見た援助と関わりの可能性」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.59』至文堂 二〇〇八年)

 

9「心理学では、人を誘導する概念として洗脳とマインド・コントロールを挙げてきた。歴史の古いのは洗脳で、これはあからさまな説得方法の一種である(ロバート.J.リフトン「思想改造の心理」)。これは説得者が暴力を含む強制力を伴わせながら相手の意に反して特定の考え、思想を叩き込むと、相手が回心してしまうというものである。これに対し、マインド・コントロールは一九八〇年代後半に出てきた概念である。これも説得方法の一種だが、洗脳に比べて相当マイルドなものである。基本的に説得者は、相手に説得の意図を見せぬよう努力を払う。まず、心地よい人関係や信頼関係を築いた後、説得したい内容を段階を踏んで伝えていく。このため、被説得者は、説得の意図よりは《よい関係を築きたい》《良いものを勧めたい》というメッセージを受け取ることになる。そこでは、説得に対する抵抗は起きにくい。そして、カルトと呼ばれる組織は、マインド・コントロール的手法を用いることが多い。その一部は法廷でも言及されている(「青春を返せ」裁判情報)」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.60』至文堂 二〇〇八年)

 

10「それでは、マインド・コントロールのどのような点が問題なのだろうか。マインド・コントロール概念が焦点化しているのは、事前に説得者が説得の意図を十分に説明せず、気づかれにくい誘導方法を用いてそれを行なうという点である。その結果、被説得者は説得者の誘導に気づかずに判断を下すことになる。ここに十分な選択の自由が保証されないという人道上、人権上の問題が見いだされる。そして、既に述べたように、それらの現象は宗教に限定されない。心理学の視点からは、これらの誘導はあらゆる目的性を孕んだ対人状況で起こりうると捉えられる。また、カルト経験者の多くは、悪意からではなく正しいことと信じて誘導する側に回ったと言う。つまり、人は良かれと思って人を搾取することができ、コミュニケーションは変質するのである。従って、これらをまとめると『悪意の有無を問わずに起こる、誘導的コミュニケーションにおける倫理的問題』となるであろう」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.60』至文堂 二〇〇八年)

 

11「信じている当事者への援助。A信念を再検討するための援助。(1)テキストの比較。(2)組織の問題点の検討。(3)組織運営上の問題点の検討」(戸田京子「カルト問題を巡って」現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.62』至文堂 二〇〇八年)

 

12「(1)『テキストの検討』は、従来宗教者が行ってきた、組織で教えられた教理と一般的なそれとを比較検討する方法である。これは宗教者に期待できる役割である。また、宗教以外では、自己啓発セミナーと一般的なエンカウンターグループ、カルト的セラピーと倫理的配慮の行き届いたセラピーなとを比較することも可能であろう」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.63』至文堂 二〇〇八年)

 

「(2)『組織の問題点の検討』は、組織に法的、社会的な問題が指摘される場合に、それを話し合うものである。これも、臨床心理学の専門家というよりは、情報に詳しい人が役割を担うことができる。ただ、組織の悪事を見せつける方法は、一般的には説得力があるように思われがちであるが、組織に入り込んだ当事者は常識的判断を見下しているため、その論理が通用しないこともしばしばある。従って、有効性には限界がある」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.63』至文堂 二〇〇八年)

 

13「(3)『組織運営上の問題点の検討』とは、マインド・コントロールのような誘導方法に関して検討することで、自分の経験を別の視点で再解釈する作業である。これは心理学の専門家が力を発揮できる部分であろう。当事者は、自分で選択したと思っていたものが別の角度から見るとそうではなかったと気づけば、信念のループから脱することができる。しかし、これを受け入れるのは困難なことである。人は誰しも、自分が騙されていたとは考えたくはない。一般的な詐欺を考えて欲しい。詐欺が詐欺として認識されるのは、騙しに気づいたからである。結婚詐欺の真っ最中にある人は、幸せの絶頂にいる。その人は、そう簡単に実感した幸せを手放そうとはしないだろう。基本的に、カルトと詐欺の構図は共通する。マインド・コントロールのような状況は、それが騙しと判明するまでの時間がやたらに長いのである」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.63』至文堂 二〇〇八年)

 

14「この三点のうち、どれがインパクトをもたらしたり接点を見出させたりするかは、当事者の状態や状況によって異なる。ただ、重要なのは、いずれを介入ポイントとみなすにしても、当事者の認識とのズレや温度差をなるべく小さくすることである。臨床心理学は、この点について相当の配慮を払っている。臨床心理学的介入は、クライアントとの信頼関係を基に行われるからである。これは臨床心理学の専門家には常識的なことだが、従来の介入現場では、さほど注目されてこなかった点である。なぜなら、親や家族からの本人を脱会させて欲しいという要望に応じ、組織が社会悪を働いているという認識に動機づけられて介入を行うため、信念に異論を唱え、脱会させる方向へ結論を急ぎがちだったからである。しかし、臨床心理学では、当事者の気持ちに寄り添って初めて関係が構築されると考える。だから、関係を構築するまでは、たとえ介入が同感しない論理であろうとも耳を傾け、根気よく付き合い続ける必要があるであろう」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.63~64』至文堂 二〇〇八年)

 

15「B信念は保っているが、それに関連して負った苦悩への援助。(1)組織内のでのトラブル、虐待等への対処。(2)組織外(家族、友人等)との関係上の問題への対処。(3)心理的混乱、精神疾患等への対処。(4)テキストに関する疑問への対処」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.64』至文堂 二〇〇八年)

 

16「(1)『組織内のでのトラブル、虐待』は、一般的には表面化しやすいと思われるかもしれない。例えば、教祖が信徒に暴行を加えれば、信徒は助けを求めると考えられがちである。しかし、実際には、カルト的環境で当事者がこのような行動を起こすことは極めて稀である。一般社会が暴行と考えるものが、メンバーにとっては甘受すべき訓練であったり、リーダーからの愛情であると捉えられる可能性が高いからである」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.64』至文堂 二〇〇八年)

 

17「(2)『家族や友人等との関係上の問題』や『心理的混乱、精神疾患』についても同様である。それらが起こったとしても、組織から然るべき対応方法が示され、内部で解決しようと試みられる。組織にとっては、外部社会に否定的と映るような出来事はあってはならないのである。出来事は教祖や理念にとって意味付けられ、組織だけではなく個人の責任に帰されるため、外に訴えることは少なくなる。しかし、稀にでも助けを求めた場合は対応が必要となる。また、これらメンバーの心理的特徴を踏まえ、予防的対処や敷居の低い窓口を用意する配慮も必要であろう」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.64至文堂 二〇〇八年)

 

18「信じることを辞めた・辞めることを考え始めた当事者への援助。(1)感情的混乱の受容。(2)自身に起こったことを理解するための心理教育。(3)組織内で起こったトラブル、虐待等への対処。(4)家族、友人等との関係上の問題への対処。(5)信念を持つ以前から持っていた個人的課題への対処。(6)信念によって習慣化された反応への対処。(7)精神疾患等への対処。(8)実存的苦悩への対処」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.64~65』至文堂 二〇〇八年)

 

19「この時点の当事者は、様々な強い感情に揺り動かされていることが多い。まずは、それを受け止め、整理していく作業が必要である(1)。そして、なぜ、そのような状況に陥っているかを、心理学の知識などを通して理解する必要がある(2)。組織内で起こったトラブルや虐待等が本人の苦悩となっていれば、それへの対処も行う(3)。組織と関わることで家族、友人等との関係をこじらせていれば、修復が必要である(4)。組織に入る前から持っていた個人的な課題に再度、取り組まなくてはならなくもなるだろう(5)。また、信念によって特定の発想や行動が習慣化されてしまっていることは非常に多い。その場合、認知や行動への直接的介入が必要であろう(6)。精神症状が見られれば、医療レベルを含めた対処が求められる(7)。ここまでは比較的、具体的な手法が役立つ」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.65』至文堂 二〇〇八年)

 

20「他方、この段階では、実存的苦悩が焦点化されることが少なくない(8)。そもそも本人が組織に入ったのは、哲学的・宗教的問いに対する絶対的な答えが与えられたからである。しかし、それを喪失した今となっては、強烈な問いだけが残され、空っぽになった自分に答えを迫ってくる。また、なぜ自分がこんな目にあわなければならなかったのか、問いの出ない苦悩も生まれる。以前からの個人的問題が、解決場所を失って再浮上することもある。組織に関わる中で恥や罪責感を経験し、苛まれることもある。これらは比較的、長期的な課題として捉える必要があるかもしれない」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.65』至文堂 二〇〇八年)

 

21「周囲(家族やパートナー、友人など)に対する援助。1状況を理解するための援助。(1)感情的混乱の受容。(2)組織についての情報収集に対する援助と情報の提供。(3)カルトに関する心理学習。2本人と関係を作るための援助。(1)カルト・メンバーとの関係の作り方に関する心理教育。(2)ストレス・マネージメント。3本人への再検討を促すための援助。4本人との関係を再生するための援助」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.65~66』至文堂 二〇〇八年)

 

22「家族やパートナー、友人など周囲が相談する事例は、当然のことながら今後も続くであろう。『信じている当事者への援助』でメンバーの一般的なメンタリティを述べたが、これらを鑑みれば、周囲が反対したところで、すぐにメンバーが考えを変えることなど至難の業であることが理解される。従って、周囲の心理的苦痛はすぐに解決されることはない。この間、彼らには援助の必要が生じる。ここでは、それを四点に整理して提示した」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.66』至文堂 二〇〇八年)

 

23「まず、周囲は、なぜ本人がそれを信じてしまったのか理解に苦しむ。親しい間柄であったからこそ、その変容は心理的に衝撃をもたらす。相手を理解できなくなってしまった悲しみや怒りなど、強い感情に揺さぶられる。そこで、このような感情を受け止める場が必要となる(1-(1))」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.66』至文堂 二〇〇八年)

 

24「周囲は本人の所属した組織やその理念、実感の生活について知りたいと考える。既に問題視されている組織であれば、ある程度の情報を得ることができる。他方、情報源を探し出せない場合や、無名の組織である場合もある。そのため、この作業には一定の限界がある(1-(2))」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.66』至文堂 二〇〇八年)

 

25「さらに、なぜ本人が変容し、現在はどのような心理状態にあるかを理解する必要がある。ここでは、マインド・コントロールなどの心理学的知識を得ることが役に立つ(1-(3))」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.66』至文堂 二〇〇八年)

 

26「次に、関係を破綻させにくいコミュニケーションを学ぶ必要がある(2-(1))。メンバーは排他的で極度の選民意識を抱いている。自分たちは究極の理想を手に入れた特別な人間であり、周囲は自分たちより下等だと考える。従って、周囲が信念に反対したり批判したりしようものなら激しく論駁し、見下す態度を取りがちである。対照的に、周囲は本人が明らかに間違っており、考えを正すべきと考える。従って、互いに自分の正しさを言い争う事態に発展しやすい。コミュニケーションは不安定で決裂しやすく、思うように変わってくれないメンバーに付き合うのは大きなストレスでもある。しかも、コミュニケーションの結果が出にくいため、問題解決までは長期にわたる。この間のストレス・マネージメントについても、援助が必要となる(2-(2))」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.66~67』至文堂 二〇〇八年)

 

27「本人が組織について再検討を行う動機を持った場合、周囲がどう見守るかも重要である(3)。本人の動機を阻害せず、抵抗や感情的な齟齬をきたさず、確実に作業を進められるよう周囲はサポートしたい」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.67』至文堂 二〇〇八年)

 

28「もし本人が組織から距離を置く判断を下したら、関係性の修復や再建が課題となる。本人が選民として振舞ったため、関係が損われていることがあるからである。また、組織を離れることは本人には挫折に類した経験であり、デリケートな対応が必要とされる時期でもある。この間のコミュニケーション・スキルと周囲の者のストレス・マネージメントも、また大きな課題となる(4)」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.67』至文堂 二〇〇八年)

 

29「これまでの宗教者への相談事例から見ても、カルトに入って困るのは、いつも周囲の人間であり、入ったメンバー自身は困らないことが多い。そして、困る側のほとんどは親である。他方、二世の場合、親自身がメンバーであるため、周囲では誰も困らない。祖父母や親類が問題視する場合はあるが、実子ではない二世に注目が注がれることは稀である。では、二世には何も問題がないのだろうか。これについては相談の蓄積が少ないため、情報が不足している。しかし近年、匿名性の高いインターネットが普及することにより、二世がしばしば発言するようになった。そこで垣間見られた二世の本音と数少ない文献から、二世への援助の可能性を考えたい」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.67』至文堂 二〇〇八年)

 

30「二世(以降)の当事者への援助。(1)一般社会との摩擦への対処。(2)親や組織メンバーとの葛藤への対処。(3)組織や自身を理解するための心理教育。(4)自身の選択を行うための援助。(5)自身の生活を築くための援助。(6)実存的苦悩への対処。(7)心理的混乱、精神疾患等への対処」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.68』至文堂 二〇〇八年)

 

31「二世は組織に従う環境で育つが、組織や親に不満を持つことも少なくない。組織以外の友人と自分を比較し、違いに気づいたり、幼少時から厳しい躾や我慢を強いられ、苦しんだりする。社会では周囲と齟齬をきたしても組織の理念に従わねばならず、孤軍奮闘を強いられる。経済的困難に苦しんだり、教育機会や将来への選択肢が狭められることもある。親も組織の酷使ゆえにストレスを溜めており、二世はより一般的な虐待に近い苦痛を報告することが多い。組織や親に強い否定的感情を持つにもかかわらず、そこから距離を置くのが難しいのも虐待経験者と似ている」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.68』至文堂 二〇〇八年)

 

32「組織に見切りをつけ、自分の人生を歩もうとしても、社会のしきたりや多数派の考え、振舞いを知らなかったり馴染めなかったりして苦しむことも多い」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.68』至文堂 二〇〇八年)

 

33「相談には、家族の一員が何か団体入って、冠婚葬祭などの儀礼や、日常生活において何かとやりにくいという事態が生じるという苦情がある。葬儀の仕方を喪主の意向とは違った形式でしようとしたり、特定の肉は食べなくなるとか一定の時間に必ず礼拝をするなどである。それまでの葬儀の方式では『それでは地獄に行ってしまう』とか『私と同じことをしないからこんなに早く死んだ』などと言い出しもし、まさに『困った』というほかない。が、その多くは『信教の自由』の範囲内のことである。家族内に宗教の違いがあればもともと生じていたはずのトラブルであり、原則としては『違法』というものではない。これは信教の自由それ自体であって、もっぱら宗教団体と宗教人自身が調整すべきことである」(滝本太郎「弁護士の立場から」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.122~123』至文堂 二〇〇八年)

 

34「大日本国憲法では『日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ゲズ及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス』ともあったが、日本国憲法では『信教の自由は、何人に対してもこれを保障する』としている。これは、国家神道を精神的な支柱の一つにして、多くの宗教団体をまさに弾圧し、あの無謀な戦争に突き進んだという日本の歴史を反省して、規定されたのである」(滝本太郎「弁護士の立場から」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.123』至文堂 二〇〇八年)

 

35「すなわち『いわしの頭』を信じているのであっても、信じること、信じるがためにする行為は、外の人の正当な利益を害さない限り自由である。関係者は、むしろ今までの宗教や人生観が、本人にとって魅力がなく、人の悩みや魂があるのだとすればそれを救えなかった宗教や価値観だったということを反省の材料にすべきだ、というほかはない」(滝本太郎「弁護士の立場から」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.123』至文堂 二〇〇八年)

 

36「ただし、それでも『地獄』などをキーワードにすれば、刑法上も違法になることがある。故人の遺族に対して『このままだと地獄に落ちる』と言って本人の自由意思を侵害するような方法で自らの集団の儀式を強要すれば強要罪になりえるし、何度も地獄云々と言って布施させれば恐喝罪になる。これらは、いかに信教の自由を主張しようにも、その限界を超えているのである」(滝本太郎「弁護士の立場から」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.123』至文堂 二〇〇八年)

 

37「ちなみに、刑法一三四条二項には『宗教、祈祷もしくは祭祀の職にある者またはこれらの職にあった者が、正当な理由がないのに、その業務上取り扱ったことについて知り得た他人の秘密を漏らしたときも、前項と同様とする』とし弁護士らと同様六ヶ月以下の懲役または十万円以下の罰金とされており、同一八八条二項には『説教、礼拝または葬式を妨害したものは、一年以下の懲役もしくは十万円以下の罰金に処する』という規定がある。宗教の側からも、一般社会の側からも、最低限この程度のことは刑事罰をつけてまで守るべきものとされている規範なのである」(滝本太郎「弁護士の立場から」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.123』至文堂 二〇〇八年)

 

38「これまでの宗教者への相談事例を見ても、カルトに入って困るのは、いつも周囲の人間であり、入ったメンバー自身は困らないことが多い。そして、困る側のほとんどは親である。他方、二世の場合、親自身がメンバーであるため、周囲では誰も困らない。祖父母や親類が問題視する場合はあるが、実子ではない二世に注目が注がれることは稀である。では、二世には何の問題もないのだろうか。これについては相談の蓄積が少ないため、情報が不足している。しかし近年、匿名性の高いインターネットが普及することにより、二世がしばしば発言するようになった。そこで垣間みられた二世の本音と数少ない文献(米本和広「カルトの子」)から、二世への援助の可能性を考えたい」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.67』至文堂 二〇〇八年)

 

39「<二世(以降)の当事者への援助>1一般社会との摩擦への対処。2親や組織メンバーとの葛藤への対処。3組織や自身を理解するための心理教育。4自身の選択を行なうための援助。5自身の生活を築くための援助。6実存的苦悩への対処。7心理的混乱、精神疾患等への対処」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.68』至文堂 二〇〇八年)

 

40「二世は組織に従う環境で育つが、組織や親に不満を持つことも少なくない。組織以外の友人と自分を比較し、違いに気づいたり、幼少時から厳しい躾や我慢を強いられ、苦しんだりする。社会では周囲と齟齬をきたしても組織の理念に従わねばならず、孤軍奮闘を強いられる。経済的困難に苦しんだり、教育機会や将来への選択肢が狭められることもある。親も組織の酷使ゆえにストレスを溜めており、二世はより一般的な虐待に近い苦痛を報告することが多い。組織や親に強い否定的感情を持つにもかかわらず、そこから距離を置くのが難しいのも虐待経験者と似ている。組織に見切りをつけ、自分の人生を歩もうとしても、社会のしきたりや多数派の考え、振る舞いを知らなかったり馴染めなかったりして苦しむことも多い」(戸田京子「カルト問題を巡って」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.68』至文堂 二〇〇八年)

 

41「そもそも、アメリカで、カルトに入会した若者を心配した親たちが、カルト脱会工作の経験者(宗教関係者、元メンバーなどさまざまな人々)に脱会を依頼して子どもたちを救い出すことが社会問題としてマスコミで取り上げられ始めたのは、一九七〇年代のことである」(才藤千津子「カルト問題に対するアメリカでの取り組み」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.72』至文堂 二〇〇八年)

 

42「このときの親たちが依頼したカルト脱会の方法を、当時はディプログラミング(Deprogramming)と呼んだ。この用語は、カルトからビリーフ(信念)を『プログラム(条件づけ)』されて急激に人格の変貌を遂げてしまったように見える子どもたち、愛する家族や友人を捨ててカルトから引き離そうとした親たちが、カルトによって『プログラムされた』子どもたちを、逆に『ディ-プログラミング』する、つまり『条件づけし直す』必要があると信じたところから命名された」(才藤千津子「カルト問題に対するアメリカでの取り組み」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.72』至文堂 二〇〇八年)

 

43「ディプログラミングは、ディプログラマーと呼ばれるカルト脱会の専門家によって行われる説得的アプローチである。この方法の大きな特徴は、そのターゲットとなったメンバーが承服していない状況の下で、しかも本人の意思に反して、強引に行われたという点である。通常カルトのメンバーは、山の中の小屋やホテルの一室などの秘密の場所に連れて行かれ、少なくとも最初のうちの一定期間、プライバシーもなく逃げ出もしないような状態に置かれた。そして、ディプログラマーから『君は《洗脳》され、いわばカルトの《ロボット》にされている』『君は自分の力ではカルトから抜け出せないから、こうやって強引に連れ出す必要があったのだ』といった形で強い圧力をかけながら説得されたのである。その際に、拉致や監禁といった法律に抵触するような方法が用いられることもあった」(才藤千津子「カルト問題に対するアメリカでの取り組み」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.72』至文堂 二〇〇八年)

 

44「このような強制的で本人の意思を軽視するような強引なやり方のゆえに、ディプログラミングの過程でしばしば激しい感情的な言葉が飛びかい、その結果、カルトのメンバーに強い恐怖感と不信感、ひいては、このような理不尽なやり方やそれを許した家族への深い怒りを植えつけるという弊害をも生んだと言われている」(才藤千津子「カルト問題に対するアメリカでの取り組み」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.73』至文堂 二〇〇八年)

 

45「またたとえ脱会に成功した場合であっても、多くのディプログラミング経験者は、見知らぬ人に連れ去られ監禁されたときに自己のアイデンティティや意思決定能力を強く脅かされる恐怖を感じることが多かった。そしてそのことのゆえに、ディプログラミング後に──たとえそれが結果として成功しても──元メンバーには深い心理的トラウマが残ったと言われる。まして、ディプログラミングが失敗したときには、メンバーは『自分は、信仰のゆえに迫害されたのだ』と深い憤りを感じ、批判されればされるほどかえって熱心に活動に傾倒するようになり、家族や友人との関係もこじれてしまう場合も多かった。このようなことから、ディプログラミングのカルト脱会法としての有効性には次第に強い疑問が投げかけられるようになった」(才藤千津子「カルト問題に対するアメリカでの取り組み」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.73』至文堂 二〇〇八年)

 

46「当初、破壊的カルトに入会した子どもたちを持つ親たちには、このディプログラミングという方法以外には自分の子どもたちをカルトの危険から救い出す方法の選択肢がなかったといえるだろう。その意味でディプログラミングは、絶望の中で子どもたちを救い出す方法を捜し求める親たちにとって、最後のよりどころとなった選択肢だったのである。しかし、以上に述べたような強引で時には不法なやり方のため、当然のことながら、ディプログラミングはカルト・メンバーの人権を侵害しているという批判を受けるようになった。強引なディプログラミングを行った家族やディプログラマーが訴訟問題に巻き込まれることもしばしばあった。そのため一九八〇年代にはディプログラミングが行われる件数は次第に減っていき、一九九〇年代半ば以降のアメリカではほとんど行われなくなった」(才藤千津子「カルト問題に対するアメリカでの取り組み」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.73』至文堂 二〇〇八年)

 

47「脱会カウンセリングがディプログラミングと大きく異なっている点は、脱会カウンセリングは、メンバーとカウンセラーとの間の自由な合意と信頼関係のもとで、しかもメンバーの自発的な参加意思に基づいて行われるということである。カウンセラーはあくまでもメンバーの人格を尊重し、ディプログラミングと違って、議論によって強引にメンバーを説き伏せるというやり方はとらない。カウンセリングのプロセスの中ではメンバーの意思は尊重され、メンバーはいつでも自分の意思でカウンセリングを離脱したり中止したりすることができる。また、メンバーがカルトへの関わり方について自分で下す最終決定は、ーーーカルトを離れるという決定であろうと、カルトに残るという決定であろうとも──尊重される。そしてこれらの理由によって、ディプログラミングの際に心配されたような形でのメンバーに心の傷が残ることはないとされる」(才藤千津子「カルト問題に対するアメリカでの取り組み」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.74』至文堂 二〇〇八年)

 

48「脱会カウンセリングのプロセスは、通常、以下のように進められる。最初は破壊的カルトのメンバーの家族(親や配偶者など)が脱会カウンセラーに連絡をとり、カウンセリングの契約関係を結びところから始まる。その後メンバーの状況のアセスメント(査定)が行われ、カウンセリングを始めることについてお互いに合意ができると、家族との事前面接へと進む」(才藤千津子「カルト問題に対するアメリカでの取り組み」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.74』至文堂 二〇〇八年)

 

49「脱会カウンセリングでは、カルトに入っているメンバーの問題を個人の問題としてだけではなく家族全体の問題としてとらえるため、家族へのサポートが重要視される。たとえば、家族がそのカルトについての十分な情報を持っていない場合には、介入が行われる前に、そのカルトについての情報、特にそのカルトの思考コントロールの方法などについての情報が家族に提供される。またカルトのメンバーと家族との間のコミュニケーションがうまくいっていない場合には、家族間のより良いコミュニケーションについてのカウンセリングが行われ、家族がメンバーに対応する際の有効なコミュニケーション・スキルについての話し合いもなされる。また、メンバーが脱会カウンセラーとの面接に自発的に応じるようになるためにはどうしたらよいかが皆で話し合って決められる。脱会カウンセラーには、常に家族と連絡をとりながら、同時にメンバーの反応や気持ちを考慮し、刻々と変わってゆく状況を考慮しつつ柔軟にカウンセリングの計画を立ててゆくことが求められる」(才藤千津子「カルト問題に対するアメリカでの取り組み」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.74~75』至文堂 二〇〇八年)

 

50「先に述べたように、脱会カウンセリングでは、カルトについての正しい情報をメンバーとその家族に提供することに力点が置かれている。家族の同席のもと、ビデオやさまざまなパンフレットなどを使いながら、カルトが使う論理の矛盾点を指摘し、カルトの否定的側面を明らかにしてゆく。また、マインド・コントロールとはどういうものかについての情報がメンバーと家族に提供され、それについて話し合いがもたれる」(才藤千津子「カルト問題に対するアメリカでの取り組み」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.75』至文堂 二〇〇八年)

 

51「ディプログラミングとは異なって自由でサポーティブな雰囲気のカウンセリングの中でカルトの心理的圧力から自由になったメンバーは、次第に自分の問題について率直に家族やカウンセラーと話ができるようになる。このように、自由で温かい人間関係のもと、適切な情報と教育が与えられることによって、メンバーが自分の属しているカルトと自分の生き方について判断し自己決定できるようになることが脱会カウンセリングの目的である」(才藤千津子「カルト問題に対するアメリカでの取り組み」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.75』至文堂 二〇〇八年)

 

52「メンバーがカルトを離れることに決めた場合、カウンセラーは、元メンバーがどのような形で一般社会に復帰してゆけばよいかを家族と共に考え、加えて社会復帰のためのさまざまな情報とカルト離脱後に予測される心理的問題へのサポートについての情報を提供する。脱会後も、アフターケアのための面接が行われたり、元カルト・メンバー同士で作るサポートグループや、カルト体験からの回復のためのリハビリテーションセンターを利用することが奨励されることもある」(才藤千津子「カルト問題に対するアメリカでの取り組み」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.75』至文堂 二〇〇八年)

 

53「脱会カウンセリングへのアプローチには、情報を提供することに焦点を置くカウンセリングの方法(information-focused exit counseling、それにとどまらずメンバーの内面的な変容までを目的とするカウンセリング方法(process-focused esit counseling)など、さまざまなアプローチがある」(才藤千津子「カルト問題に対するアメリカでの取り組み」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.75~76』至文堂 二〇〇八年)

 

54「情報提供に焦点を置くアプローチでは、破壊的カルトは欺瞞的な方法で人々をカルトに勧誘するため、メンバーは自分が属するカルトについての正確な知識を持っていない、それゆえに正しい判断ができないのだと考える。そこで、適切な教育をすることを通して、メンバーが自分の属するカルトについて健全な決定を下すことができるように援助するわけである。また、メンバーが実際にカルトによってどのようにコントロールされ搾取されているかということのメカニズムをメンバーに教えることも大切である」(才藤千津子「カルト問題に対するアメリカでの取り組み」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.76』至文堂 二〇〇八年)

 

55「このように、このアプローチの目的は、あくまでもメンバーや家族と情報を分かち合い、お互いのコミュニケーションを向上させることであり、カウンセリングによってメンバーの人格に変容をもたらすことではない。むしろこの立場の人々は、メンバーの人格に変容をもたらそうとするアプローチは、そうすることによって、既にコントロールされた経験のあるメンバーを新たに『操作する』ことになるおそれがある、と批判し、警告する」(才藤千津子「カルト問題に対するアメリカでの取り組み」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.76』至文堂 二〇〇八年)

 

56「一方で、より『治療的(セラピューティック)』な傾向をもち、そのためにカウンセラーとメンバーとのラポール(治療の中での信頼関係)と戦略的方法によってメンバーの変容をもたらすことこそが最も大切だと主張する人々もいる。その中で代表的なのは、S.ハッサン(S.Hassan)によって提唱されている『戦略的アプローチ(Strategic Interaction Approach)』である」(才藤千津子「カルト問題に対するアメリカでの取り組み」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.76』至文堂 二〇〇八年)

 

57「ハッサンは、脱会カウンセリングは通常カルトを脱会した元メンバーによって行われており、その大多数は専門的なカウンセリングの訓練を受けていない人々であると言う。したがって、メンバーがカルト・グループから離脱することに介入の焦点が置かれている。また、カウンセリングのプロセスの重要性が軽視され、メンバー本人がその家族の複雑な心理的問題を取り扱うことについての専門的ケアはなされていないと批判する。ハッサンは、脱会カウンセリングはカウンセリングを専門的に学んだ有資格カウンセラーによってなされるべきだと主張する」(才藤千津子「カルト問題に対するアメリカでの取り組み」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.76~77』至文堂 二〇〇八年)

 

58「元メンバーへのカウンセリング・プロセスの中でなされなければならないことは、元メンバーが(1)自分がカルトから受けた心理的コントロールについて教育を受けること、(2)日々体験する危機への対処法を学ぶこと、(3)カルトに入る以前の生活とのつながりを回復すること、(4)貴重な時間や友人を失ったことや自分の純真な信頼が裏切られたことからくる悲しみと罪責感を癒すためのサポートを受けること、(5)元メンバーをサポートする社会的ネットワークを見出し、それを利用する方法を知ること、そして究極的には、(6)カルトでの肯定的な体験と否定的な体験とを共に、カルト脱会後の自分の新しいアイデンティティの一部として統合してゆくことである」(才藤千津子「カルト問題に対するアメリカでの取り組み」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.77』至文堂 二〇〇八年)

 

59「ジャンバルヴォー(C.Giambalvo)は、元メンバーの回復に役立つことがらとして、(1)マインド・コントロールとはどういうものか、自分はどのようにコントロールされたのかを知ること、(2)カルトでの体験から得たこと、学んだことは何か、自分がその経験を通してどのように変化したかをポジティヴに考える態度を身につけることを挙げる」(才藤千津子「カルト問題に対するアメリカでの取り組み」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.77』至文堂 二〇〇八年)

 

60「元メンバーが経験するさまざまな心理的問題には、情緒不安定、方向喪失感、抑うつ感や希死念慮、不安感、恐怖感、混乱、怒り、不信感、後悔、自責感、孤独感、自己同一性(identity)の混乱、無気力感、思考力の低下、自尊心の低下の他に、さまざまな喪失体験(帰属グループや疑似家族の喪失・心の支えや人生の目的の喪失など)とその結果としての悲嘆の問題、外傷後ストレス障害(PTSD)などがある。また、フローティング(揺れ戻し現象)といわれる、カルト入会時の人格への『揺れ戻し』が起きるフラッシュバック現象、パニック発作や不安発作、悪夢、隔離といった問題もある。これらに加えて最近では、親がカルトのメンバーであった場合の二世メンバーの問題などが取り上げられている」(才藤千津子「カルト問題に対するアメリカでの取り組み」『現代のエスプリ2008年5月号<カルト>・P.78』至文堂 二〇〇八年)


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて218

2023年01月30日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。今日の大津市の日の出前と日の出後の気象予報は晴れ。湿度は6時で74パーセントの予想。湖東方面も晴れ。鈴鹿峠も晴れのようです。

 

午前六時三十分頃に湖畔へ出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.30)

 

北方向を見てみましょう。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.30)

 

今度は南方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.30)

 

西方向。

 

「名称:“山並み”」(2023.1.30)

 

再び湖東方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.30)

 

 

そろそろのようです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.30)

 

日が出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.30)

 

二〇二三年一月三十日撮影。

 

昨年末に行われた医療機関での体重測定からほぼ一ヶ月が過ぎました。今年最初の体重測定では約2.5㎏の減量に成功しました。愛用してきたリーバイスのジーンズもようやく余裕で入るようになりました。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。