最後に残ったのはひとり芝居部分で、どうフレディ・マーキュリーと宮沢賢治を結びつけるかという問題。それをどうこじつけたか! ちょっと長いのだが、全文引用してみよう。
帽子を目深にかぶり、賢治立像のようなポーズで立つ男が1人。
客席を振り向き、語り始める。
男 賢治立像として有名なこのポーズの写真、何気なく撮られた写真のように見えますが、違います。写真家を呼び、ポーズを取って撮影された写真です。そのポーズのもとになったのは、かのベートーヴェンの姿だったと言われています。
賢治は1926年3月24日に花巻農学校で「ベートーヴェン百年祭レコードコンサート」を開催します。ベートーヴェンが亡くなったのは1827年3月26日。
ベートーヴェン百年祭が執り行われたのは、没後99年と言うことになります。百年祭なのになぜ99年後なのか? 大体百年だから99年でもいいやってことなのか? そうではありません。没後99年は百回忌なのです。
皆さんは、没後1年目は一周忌なのに、2年目は三回忌になる、と言うことに疑問を持ったことはありませんか? わたしは物心ついた頃から、と言っては大げさですが、その事実を知ったときには「なぜ?」という疑問が頭の中で大きく膨らみました。
周忌と回忌はどう違うのか? なぜ2年目が三回忌になってしまっているのか? つまり周忌は、周って言うくらいなので、1年経ちましたよと言うことで1周年と同じ意味なのです。それと比べて回忌は、亡くなったときが1度目、一回忌になります。つまり一周忌=二回忌となるわけです。
というわけでベートーヴェン百年祭は百回忌に合わせて執り行ったと考えることが出来ます。さて、では、なぜ周忌と回忌を使い分けるのか? これについてはよくわかりません。
おっと、話は随分それてしまいました。そうそう、宮沢賢治です。
賢治は1896年、明治三陸大津波の年に生まれ、1933年昭和三陸大津波の年に37歳で没しています。
花巻に生まれ、盛岡で青春時代を過ごし、妹トシの看病や家出などでしばらく東京にも滞在しますが、父政次郎と関西方面へ和解の旅をし、最終的には花巻に戻っています。
花巻農学校で教鞭をとり、東北採石工場の技師として働いた時期もあり、晩年には本当の百姓になると言って農業に従事しましたが、その生涯は、ほぼ創作などの芸術に費やされたと言っても過言ではないでしょう。
当時の東北地方の人々にとっては、恐らく理解しがたいユニークな生き方だったと考えられます。生前ほとんど評価されなかった作品群は、難解にして哲学的です。
死後、これほどまでに様々な角度、学術分野から分析されたり、評価されたのは、まさに多面体、宮沢賢治ならではのことでしょう。
一方、ボヘミアン・ラプソディーのヒットにより、スターダムにのし上がった、フレディマーキュリーは、クイーンのボーカリストとしてロックスターの地位を不動のものにします。
1946年、第二次世界大戦終戦の翌年、現在のアフリカ、タンザニアのザンジバル島に生まれ、1991年、湾岸戦争の翌年、45歳で没しています。
実はこのザンジバル島では、宮沢賢治の生まれたまさにその日、戦争が起こっています。ザンジバル島は、当時イギリスの保護国という名の植民地でした。親イギリス派の支配者が死去し、代替わりのタイミングで起こった、イギリス・ザンジバル戦争。
この戦争は始まってからわずか45分、イギリスの勝利で終了します。世界で最も短い期間で終わった戦争として、なんとギネス認定までされているということです。
おっと、また話がそれてしまいました。とはいえ、この戦争から68年後の1964年に起こる、ザンジバル革命によって、フレディの一家はザンジバル島を追われることになるので、その遠い引き金になった可能性を考えれば、あながち関係ないとも言えないでしょう。
宮沢賢治とフレディ・マーキュリー、一見なんの関係もない、関係づけようもない詩人、童話作家とロックスターですが、ある言葉が表す意味の、表と裏で奇妙な符合を見せます。
その言葉こそ「ボヘミアン」です。ボヘミアンそのものの意味は、かなり幅が広く、捉えるのが容易ではありません。しかし、この2人の共通項である芸術を仲立ちとすると、「ボヘミアン」の何を捉えれば良いのか、おぼろげながら見えてきます。
それは、ボヘミアン・アーティスト、ボヘミアニズムです。15世紀にフランスに流入していたジプシー、現在はロマと呼ばれることもありますが、彼らは主にボヘミア地方、現在のチェコからの民であったため、ボヘミアンはボヘミア人からジプシーの意味に変化しました。
そんなボヘミアンたちが都市の一角に多く居住したことによってコミュニティーが成立し、芸術や文化の発信地となった例が世界各地に多く存在します。
そのような背景から「ボヘミアン」とは定職を持たない芸術家や作家、または世間に背を向けた者のことであると認識されるようになります。
そのニュアンスとして、良い意味、つまり表向きは「他人に使われることなく質素に暮らし、高尚な哲学を生活の主体とし、奔放で不可解」という、まさに賢治のことを示しているような定義になっています。
また、悪い意味、つまり裏を返すと「定職がなく貧しい暮らしで、アルコールやドラッグを生活の主体とし、セックスや身だしなみにだらしない」となり、これもまさにフレディのことを示しているような定義になります。
まあ、身だしなみは、だらしないというより、ファッションとして独特、ということになるのでしょうが。
このように、「ボヘミアン」という言葉を通して、賢治とフレディが結びつきました。
となると、「ボヘミアン・ラプソディ」という曲は、賢治とフレディの真ん中にあると言っても過言ではないでしょう。ライブツアーだけでなく、プライベートでも訪れるほど日本びいきだったフレディ・マーキュリー。
哲学的で幻想的、また不可思議でもある2人の世界をつなぐ「ボヘミアン・ラプソディ」を日本語で歌ってみたい。気持ちよく歌ってみたい。そんな思いを込めて、足かけ4年、そのくらいの歳月をかけて適当に翻訳してみました。
ここからはプレゼンテーションアプリを使って、どのような翻訳をしたのか、ご覧いただきましょう。
帽子とコートを脱ぐと、メガネをかける。ジーンズにタートルネックとなる。
最後にメガネをかけてジーンズとタートルネックになるのは、PowerPoint的なものでプレゼンテーションっぽくなるので、スティーブ・ジョブズみたいに扮装をなきゃいかんだろうということで、そうしたのである。
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