目指せ! 標高1122メートル

山の神にお供して歩きつづける、ある山のぼら~の記録。ネイチャー、冒険の本もとりあげるよ。

三内丸山遺跡で考えたこと

2019-09-15 | まち歩き

2019年8月13日(火) 晴れ

前日岩手から青森入り。宿は青森国際ホテルだった。近ツリの早割り予約で素泊まり3000円台だったので、てっきり安いビジネスホテルと思い込んでいたが、いざ到着してみると、結構ゴージャスで結婚式場まであるホテル。チェックインした部屋は予想外に広く快適で、こんな宿代でいいのかと恐縮してしまうほどだった。

シャワーを浴びてから一杯やろうと青森駅の方面に山の神と繰り出した。しかし、めぼしい店はすべて満席で参った。チェーン店の居酒屋で妥協するかといくつか入ったがいずれも満席なのには驚いた。1時間近くぐるぐる街の中を巡って、ホテル近くのジモティだらけの小さな居酒屋でやっと席を確保できたのだった。恐るべし連休。

 
左:復元された竪穴式住居 右:同大型竪穴建物

それはさておき、翌13日はホテル近くの市場で有名なのっけ丼を食してから三内丸山遺跡を訪ねた。いつも駐車場が気になるけれども、朝イチということもあってなんなく停められて拍子抜けする。  

この遺跡の目玉は復元された竪穴式住居や大型竪穴建物(巨大家屋)、倉庫、用途不明(見張り台、神殿、モニュメントなど諸説あり)の大型掘立柱建物だ。大型掘立柱建物と称されているものは、パッと見やぐらで高さ14.7mもあり、ほんとうに縄文時代に造られたのかというほど巨大だ。何よりも発掘によって縄文時代にこの集落が営まれていたことが判明し(約5900年前から4200年前)、歴史を塗りかえていることは特筆に値する。

まずはこの遺跡の概要がわかる案内映像を縄文時遊館で見る。この地では長野や北陸の物産が出土していて、交易が広範に行われていた事実が明らかになっており、当時の繁栄ぶりがわかると強調していた。

 復元された大型掘立柱建物。屋根は構造不明でついていない

それからお待ちかねの復元集落へ向かう。かんかん照りのなか屋外に出て汗を拭き拭き集落のなかを巡る。

この集落ができた当時は、陸地が現在のものとは異なっていたし、気候も温暖だったと推測されている。当時は住みやすい場所だったことは間違いない。裏を返せば、その後の気候変動で住みにくくなり、この土地を捨てたのだ。それを考えると、今われわれが住んでいる場所も、いつこのように住みにくい場所に変わってしまうかわからない。たかだか4200年前の寒冷化という気候変動でこの始末なのだから。


大型竪穴建物と大型掘立柱建物の位置関係

これから三内丸山遺跡の気候変動どころではない厳しい環境の月に人類は宇宙ステーションを設けようとしている。住みやすいもなにも、そもそも人が住める環境ではない場所だ。そんな時代を私たちは迎えるわけだけれども、それとは対照的に縄文時代よろしく気候の大変動で私たちは住みなれた土地を捨て、新天地へ移動していくことになるのだろう。科学の進歩があるとはいえ、気候の大変動に現在の人類は太刀打ちできない。


大型竪穴建物の内部。異様な臭いがたちこめていた

東京は数千年後に三内丸山遺跡のように発掘される日が来るのかもしれない。な~んてことを考えてしまったのは、この遺跡のスケールの大きさのせいなのだろう。

 

わだば日本のゴッホになるの棟方志功へつづく
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