なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

サッカーについての思い出

2010-04-05 05:15:01 | Weblog
 私の囲碁との繋がりは小1の頃から新聞の囲碁欄で棋譜の中の数字を追いかけることから始まりましたが、初対局は中1の時でした。
 サッカーについて記憶に残る事はその中1の時からです。
  小学校当時は私は野球少年でしたから、晴れていれば野球をやらない日は無いくらいで、放課後に学校を一旦下校したらバットとグローブを持って自転車に乗って校庭に戻ったものです。
 当時は「校庭開放」だとかそういう言葉すら聞いたことが無い時代で、グランドは早いもの順みたいなもので、野球に関してはグランドでは2箇所で同時に出来た。
 仮に運悪く他のグループに先に占領されてしまった場合は、練習試合を申し込むか、近所の企業グランドに移動するか・・・いずれにせよ日が暮れるまでは走りまわっていました。
 この小学校の当時の同じ学年は1クラス56人で5クラスありましたが、市内のもう一つの小学校と一緒になってマンモス中学になりました。
 1学年13クラス・・・全校生徒約2000人!。
  この中学校時代に「サッカー」というものの記憶の始まりがある。
 クラスメイトの会話からサッカーという単語を聞いた憶えがあります・・・それは彼らの小学校当時の恩師の話らしい。
 当時の先生で、確か女性教師ですが子供たちにサッカーの楽しさを教えたくて自らがサッカーを勉強して子供たちの間に広めて行った先生がいたそうです。
 確かH田先生という名前だったような・・・
  今でこそサッカーの町と言われていますが、県下では中西部のF枝市の次だったと思うし、始まりにはこういう人がいたんだと言うことですね。
 
 中学校にはサッカー部がありましたが、私の従兄弟が同じ学年で入部していましたて、その関係からか彼の弟がサッカー部に入っていました。
  兄は勉強というより喧嘩っ早い性格でしたが、弟の方はおとなしくて控えめな子供で小さな頃の思い出は殆どない・・・のですが、彼が大学を出て教師として赴任した高校でサッカー部の監督になり、有名になるとは想像もつかない事でした。
 
 高校時代は私は4つの部活動を掛け持ちしていまして・・・マア都合のよい時にその日やりたい部活動に参加していただけみたいなところがありますが、そのうちの一つが応援団。
 1年生の5月頃には1年生は私一人でしたので、マアしごかれると言うよりは大事にして貰っていました。
 普通応援団と言うと夏の甲子園大会の県予選などの応援が中心ですが、何故かこの頃は「本来の応援を」みたいに、全ての運動部の試合を応援しようとシフトチェンジしていました。
 こういうことは顧問の先生は殆ど関与せず、部員の話し合いで決まります。
  5月GW辺りには殆どの種目で県大会が開かれますが、これらの試合に部員が手分けして応援に行こうと言うことになりまして、私と1年上の先輩で受け持ちの会場を回りました。
 木の箱に入ったあの大きな団旗を私がかついで、先輩は小ぶりの校旗のレプリカみたいなものを持って行きました。
 まず市内の高校グランドでハンドボールの応援、次に隣の市との境にある企業体育館でバスケットボールの試合に旗を出し、ついでお城跡の公園の体育館で柔道の応援、と隣のコートでテニスの応援。
 翌日は電車に乗って当時のサッカーどころの高校グランドで準決勝の応援に行きました。
  この時のことははっきりと憶えている。
 この市は二つの強豪校が合って私の出身校と併せて3強だったと思います。
  トーナメントではくじ引きの筈ですが何故か向うの市の高校は別の山になることが多くて、こちらは優勝するためには準決勝、決勝と続けて強豪校に勝たなくてはいけなかった。
 そう言う準決勝で、会場はあちらの高校のグランド。
  会場について驚きましたね・・・流石にサッカーどころ。
 高校の県内のサッカー大会の準決勝に過ぎないのに、生徒だけでなく市民の方たちの応援が大勢いるのです・・・数えたわけではないけれど、記憶では数百人はいた筈です。
 土のグランドですが、そこを挟んで向うは数百人でこちらは私が大きな団旗を持っているものの・・・二人。
 応援で勝敗が左右されるとは思いませんが、気分としては二人で向うの大応援と戦っている気分だった筈です(向う側から見れば、二人が何かしている程度だったでしょう)・・・この試合は大激戦で3-2の逆転勝ちだったと記憶しています。

 話は変わって、Jリーグが発足した当時、スタジアムのチケットは「プラチナペーパー」と呼ばれる時代がありましたね。
 同様に各地にJリーググッズを販売する店がオープンしました。
  (その殆どが今はありませんが)
 そのJリーグが始まるずっと前に、故郷ではサッカー用品専門店がオープンしていました。
  オーナーは小・中・高の同窓生のY間君で、彼は繁華街で洋品店を営む家の息子だったがサッカーは自分ではやっていなかった筈・・・しかし目の付けどころが違う。
 相当に流行っていた筈で、何店舗か増えて行ったと思います(尤も現在の状況は知りませんが)。
 全てのスポーツの用品を扱うのではなく、サッカーに限定していて商売になると言うのが、その当時としては珍しいですね・・・つまりこの時代にはサッカーどころになって行ったということでしょう。

 この時代兄の子供・私の甥っ子が小学校3年でサッカー部に入ったとか。
  今では塾に行かないと友達と会えないみたいな事を言われますが、その当時は男の子でサッカーをやらないと放課後一人遊びになるような時代だったらしい・・・この土地では。
 校舎の壁には投光機がつけられて、暗くなっても練習が出来るようなところですから。

 さて従兄弟ですが、私の一族では彼だけが全国的な有名人。
  彼が私の父の葬儀に参列してくれまして、火葬場にも来てくれました。
 ここで小1時間待ち時間があるので、お茶とかお菓子などが出るのですが、甥に数枚色紙を用意させて従兄弟に書かせました・・・その場での思いつきなので彼も困ったかもしれませんがマア書いてくれました。
 これを後日息子がクラスメイトに自慢したようですが「嘘だ」とあっさり片付けられたようで悔しがっていました。
 「信じても信じられなくてもいいじゃない」と言った事を憶えています。

 そうそう父が亡くなったという知らせで、お通夜に合わせて家族で帰郷したのですが、田舎の駅に着くと駅前の店で「H池選手サイン会」をやっていました。
 当するにビデオを買うとサインが貰えて、彼の話が聞けて握手が出来る・・・マアそういう催しです。
 我が家族は即全員一致で通夜に行く前にサイン会に参加し、普段はシブイ女房殿がビデオを買うのですからおかしな家族です。
 この事を通夜の席で話しても「不謹慎」という受け取り方は無くて「そう、それは良かったね」となりますからそういう土地。

 葬儀の時に僧侶の長いお経が終わって(本来仏教徒でも檀家でもないので、お経にありがたみを感じる気持ちが薄いかも)食事が出る時に、甥が私の娘と息子を小ドライブに誘ってくれました・・・行き先は市内の贔屓チームの練習場でそこにはクラブハウスがあります。
 たまたま選手の一人と出会うことが出来たそうで、急遽甥がレプリカユニを買ってくれてサインを貰うことが出来ました。
 その選手はのちに大学の監督になり、今ではユースの指導者。
  そのユニは一度も袖を通さず、今でも息子のタンスの中にある筈です。
 
 さてさてサッカー関連の記憶のかけらも一杯ある。
  ここれで止めておかないときりが無くなりそうです。