なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

殴り合いの喧嘩みたいな

2010-04-21 01:20:08 | Weblog
 囲碁でくんずほぐれつの戦いを、殴り合いに例える事はありますね。
  サッカー、ボクシングでノーガードの打ち合いと言うか・・・「迫力はある」けれど、レベルとしては「?」、あるいは「野蛮」なイメージが強いような気がします。
 戦いの最中ではお互いの引くに引けない部分での競り合いでしょうから、そうならざるを得ない場合はあるでしょうしレベルなど気にしていられませんね。
 ましてやアマのザルですから他人の目など気にしていられません。
  但し、戦いが必然かどうかという部分が問題なわけで、戦わない和平の道を選んだほうがより勝利に近い場合も多いと想像は出来る。
 ここの、道を選択する能力が問題。
  戦って決着をつける方がイメージが容易だし、一方の和平の道は場合によっては問題の先延ばし状態と言えるわけです。
 問題を先延ばしにしておいて、少しでも事を有利にして行く外交能力が問題のようで、何やらどこかの国の政治能力が問われているみたいです。

 さて、殴り合いの喧嘩と言いましたが、私の経験では喧嘩は何回かしているものの、取っ組み合いの喧嘩は小学校入学式の日に1度だけ、殴り合いの喧嘩は高校の時に1回だけ。
 「だけ」と言えるのか「も」なのか分かりませんが、ともかく未経験ではありません(兄弟喧嘩は無し)、、、他の人はどうなんだろう?
  理路整然とした弁舌で他を制するような能力は自信が無いし、言い合いの喧嘩は私には断行する気力が無い、さりとて体力勝負と言うのも人生で2度の例外以外は経験が無い。
 ところがそういう現実の裏返しが「碁」でしょうか、実に戦いが多い。
  どちらかと言えば好戦派に入るかも知れません。
 K畑師範の教えでは「戦わずに勝つ」=「真の強さ」みたいな感じですが、これは実は戦い不可避的なことなのです。
 つまり、こちらの方針に相手が黙って従えば、例え僅かでも当方が有利になるわけで、普通の相手としては相手の主張を展開するわけで、戦いは不可避。
 いろんな局面で常に有利になる・勝つ確率高い手を選ぶことが出来ればスマートな感じはしますが、現実にはそういう碁では気持ちが乗らないだろうと想像出来るので、目指す気になれない。

 と言うわけで、、、相変わらずの碁を打っています。
  290手完黒2目半勝ち・・・ここだけ見ると細かな数字ですが、内容は正反対。
 私の黒番でコミ4目半貰いですから、常先と2子の間くらいの上手に挑戦して、序盤での躓きが方針の選択肢を決定。
 大模様作戦と言えば聞こえはいいけれど「大ドンデン返し」を狙った「イタチの最後っ屁作戦」
  投げる前に選択できるのはこういう作戦しかない。
 死んだ石が20子に近く、実質50目くらいの地と勢力が出来たのを、いかにして取られた石を「取らせる形」にして外を塗れるかが問題。
 当然白としては黒の野望はミエミエなわけで、第二次戦争となる、、、マアこんな経過を辿った結果が2目半。
 大碁の小碁と言うか、結果オーライ。
  いや闇試合で勝ちを拾っただけですね。
 囲碁で派手に戦っている分実生活では「眠り狂四郎」、いや「眠り猫」。