今日(木曜日)は午後に少し余裕が出来たので、関連の業界から送られてくる雑誌を読んでいて驚きました。
世の中で大変なことが起きていると言うような事では無いので安心して下さい・・・尤も、何時何処で何が起こるか油断できないご時世ですけれど。
さて、記事は研修+行楽旅行のレポート記事。
寄稿者は多分・・・私よりは10才、いや20才は先輩でしょうね。
読み始めて、表現に「逆旅(げきりょ)」と言う言葉が出てくるのです(仮名は寄稿者による)。
意味はかろうじて記憶の隅の方に漂っている程度でしたので、折角なのでネットで言葉の意味を確認しました。
唐の詩人李白で「天地は万物の逆旅・光陰は百年の過客」から来ていて意味は「天地は人生においては旅籠」くらいの意味?・・・マア、あまり深みのない解釈ですが。
ともかく芭蕉の奥の細道にも繋がるフレーズと言う事です。
こういう文章を寄稿して来るのですから・・・普段からこういう感覚で物事を感じ・見ている人なんでしょうね。
あるいは・・・決して悪口ではありませんが、文章を書くとなるとこういう表現になってしまう人のような。
現代の生活では使う事のない表現が出てくる人?
何と言っても出典が唐の李白、奈良時代の阿部仲麻呂と同世代。
流石に正しい読みは「げきりょ」のようらしいのですが、ネットでの検索は「ギャクリョ」でないと検索できない・・・その辺り現代を感じます。
寄稿者の文章で「○○温泉の△△ホテル・・・逆旅」と言う表現でした。
と言う事は宿泊施設を逆旅と難しく言っただけ!なんだとチョット興ざめ。
しかし、この人はかなり高い教養を示したいのか、読者を試したいのかと邪推・・・次に出てきた表現は「曾遊」。
文字からして概ね意味は察せられますが念のために検索すると「嘗て行ったことがある」と言う意味で、一応正解でした。
但し普段目にしない表現。
私が話し言葉の延長みたいな文章を読んだり、書いたりしているだけで、もう少し表現に教養のかけらを盛り込まなくてはいけないのかもしれないと、ふと不安になったり。
とどめは「神韻縹渺」(しんいんびょうびょう)。
ある古い街並みを歩いた時の感想だそうで・・・。
『何だか変』だと思うのだけれど本人がそう感じたのでしょう。
ここへ立ち寄る前にかなり古い神社に寄っているので、そちらの方がよほど「神韻・・・」な筈なんですが。
私みたいに好きな事をブログに書き散らしているのと違い、任意団体とは言え業界の刊行物。
表現の自由と言ってしまえばそれまでなんですが、余りにもレトロな表現。
しかも少しハズレタところも感じる。
しかし本人としては、こういう表現でなくては自分の感じ方を表わせないのかもしれないし、あるいは、こういう表現をするように教育で刷り込まれているのかも知れない。
少し「現代」から、浮世離れしているみたいな。
いやいやそういう意味ではなく、今日の午後は十分にネット検索で勉強させて頂きました。
もしかしたら、筆者はそれが狙いだったのかも。
印象としては戦前の老人会?の挨拶みたい・・・イヤそう感じる私の方がファッショ的なのかも知れない。
しかし一度お顔を拝見したいような、話は聞きたくないような・・・。
もしかしたら、私も20才くらい若い人たちから見たら、似たようなものなのかも知れないと言う警鐘を感じますね。
そこで私の最後のフレーズは「五十歩百歩」、出典が孫子なら古さでは負けていないデス。
世の中で大変なことが起きていると言うような事では無いので安心して下さい・・・尤も、何時何処で何が起こるか油断できないご時世ですけれど。
さて、記事は研修+行楽旅行のレポート記事。
寄稿者は多分・・・私よりは10才、いや20才は先輩でしょうね。
読み始めて、表現に「逆旅(げきりょ)」と言う言葉が出てくるのです(仮名は寄稿者による)。
意味はかろうじて記憶の隅の方に漂っている程度でしたので、折角なのでネットで言葉の意味を確認しました。
唐の詩人李白で「天地は万物の逆旅・光陰は百年の過客」から来ていて意味は「天地は人生においては旅籠」くらいの意味?・・・マア、あまり深みのない解釈ですが。
ともかく芭蕉の奥の細道にも繋がるフレーズと言う事です。
こういう文章を寄稿して来るのですから・・・普段からこういう感覚で物事を感じ・見ている人なんでしょうね。
あるいは・・・決して悪口ではありませんが、文章を書くとなるとこういう表現になってしまう人のような。
現代の生活では使う事のない表現が出てくる人?
何と言っても出典が唐の李白、奈良時代の阿部仲麻呂と同世代。
流石に正しい読みは「げきりょ」のようらしいのですが、ネットでの検索は「ギャクリョ」でないと検索できない・・・その辺り現代を感じます。
寄稿者の文章で「○○温泉の△△ホテル・・・逆旅」と言う表現でした。
と言う事は宿泊施設を逆旅と難しく言っただけ!なんだとチョット興ざめ。
しかし、この人はかなり高い教養を示したいのか、読者を試したいのかと邪推・・・次に出てきた表現は「曾遊」。
文字からして概ね意味は察せられますが念のために検索すると「嘗て行ったことがある」と言う意味で、一応正解でした。
但し普段目にしない表現。
私が話し言葉の延長みたいな文章を読んだり、書いたりしているだけで、もう少し表現に教養のかけらを盛り込まなくてはいけないのかもしれないと、ふと不安になったり。
とどめは「神韻縹渺」(しんいんびょうびょう)。
ある古い街並みを歩いた時の感想だそうで・・・。
『何だか変』だと思うのだけれど本人がそう感じたのでしょう。
ここへ立ち寄る前にかなり古い神社に寄っているので、そちらの方がよほど「神韻・・・」な筈なんですが。
私みたいに好きな事をブログに書き散らしているのと違い、任意団体とは言え業界の刊行物。
表現の自由と言ってしまえばそれまでなんですが、余りにもレトロな表現。
しかも少しハズレタところも感じる。
しかし本人としては、こういう表現でなくては自分の感じ方を表わせないのかもしれないし、あるいは、こういう表現をするように教育で刷り込まれているのかも知れない。
少し「現代」から、浮世離れしているみたいな。
いやいやそういう意味ではなく、今日の午後は十分にネット検索で勉強させて頂きました。
もしかしたら、筆者はそれが狙いだったのかも。
印象としては戦前の老人会?の挨拶みたい・・・イヤそう感じる私の方がファッショ的なのかも知れない。
しかし一度お顔を拝見したいような、話は聞きたくないような・・・。
もしかしたら、私も20才くらい若い人たちから見たら、似たようなものなのかも知れないと言う警鐘を感じますね。
そこで私の最後のフレーズは「五十歩百歩」、出典が孫子なら古さでは負けていないデス。