寒い時季だった。
各駅停車を乗り継いでこの古墳見たさに東京から信州・千曲市まで行った。
千曲川沿いに列車は走ったはずだが、その時の光景は今となってはあまり
覚えていない。
寒かったので、ろくすっぽ周りの景色を見ていなかったのかもしれない。
途中軽井沢からバスを使わなければならないこともその時に知った。
屋代(やしろ)の駅で降り立つと、右も左もどちらへ向かって歩けばよいのか、分からな
かった。駅員に尋ね、タクシーにせず、歩くことにした。
中学生くらいの女の子と歩く方向が一緒になり、道すがら、道を尋ね、
あれこれと話しつつ歩いた。塾へ行く途中だと言っていた。
こんな田舎でも塾へ行かすのかと思ったが、むしろこういうところほど
教育熱心なのかもしれなかった。
古墳山にさしかかると人はほとんどおらず、近所の人が犬を連れて散歩をする脇を古墳の頂上まで登った。
なまった身体には丁度良い高さのように思った。
心臓が強く打ったが、うっすらと汗をかき、身体が温まった。
1時間ほど上でウロウロとし、過した。
その間、人は誰も来なかった。
土器を廻りに置いてあるのは、何のためだろうかと思った。知識はない。
デザインする者としては、そこはあまり理由は無くても、そこに何か少し違うものが欲しい、という理由だけで、
そして理由なき強い理由によってそこに、ある形のものを並べる、ということは大いにある。むしろ情念としてのそれのみかもしれない。
他に思ったのは、何らかの用途をそこに見ようとする、ということだった。
頭の中に去来したのは
祭礼の時のかがり火のためか、
あるいは、墳墓を取り囲む人々を象徴させたものか、という漠然としたものだった。
今の時代、そんなことは情報を調べていけば、想像などするより速く確実に分かるよ、と言われるかもしれない。
調べればあるところまでははっきりとするのだろう。
石の色と質感が圧倒的な中で、その土器のまた別の色、質感はそれだけで大いにそこにそうして
置いておきたいと思うのだろう、と感じた。
平地ではなく高台を選んだのはなぜか。
単純に見晴らしが理由かもしれない。
人々が、材料をかつぎあげるだけの労力をいとわぬ人物のものであってみれば、
下から周りの山々を見上げて、あの辺にしようと指差した人がいたのだろう。
古墳山をを降り、麓の古墳館に向かった。
その時の資料を付けておくことにした。
MAP
資料パンフレット(2007年当時のもの)