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drawing mar2012
いつものことながら、最近(2週間ほど前)のカッキーYAMAからの眺め。丹沢の山並みだ。
川崎のうちの近くだけが、雲に覆われていた。寒い日だったと思う。
特にこれほどの景色とは思わないで撮ったのだが、写真として後で見てみるとかなり幻想的な感じだ。
実際は普通の日常的現実的風景だった。
コーヒー離れが進んで一時期、「喫茶店」の数がぐっと減っていると言われた。今もそうかもしれない。私は外へ出るとコーヒーをよく飲む。考えてみると最近は安いコーヒーチェーンのコーヒーをよく飲んでいる。いわゆる「喫茶店」というところへ入るのは時々となっていることに気付くのだ。コーヒーはよく飲む方かもしれない。通販サイトのおすすめにも、コーヒー関係のものが多い。それとオーディオ関係・・・など。サイトを何気なく見るだけで次のときに、コーヒーは豆やカップ、エスプレッソを入れる器具、ドリップの道具などなどが、どうですかどうですかと並んでいるのが目に入る。特に買う気はないのに関心があるのか、やはりそれらを見ることも多い。使い方、形、色、材質、性能などなど仕様の部分も気付くと読んでいる。道具はこういったところが大切だということなのだろう。無意識にチェックしていることに気付いて、首を一振りし、本来の作業に入ることが多い。
3月のある晴れた日に、ホテルニューオータニのあたりをうろつくこととなった。その時のフォト。こととなった、というのはそのつもりではなかったのである。四谷で降りて中央線沿いに市ヶ谷方向へ行きたかったのだ。歩き出しから反対方向へと進んだのだ。上智が見えたから気が付けばいいのだが、へ~、上智だと思っただけで通り越し、勢いでニューオータニへと進むのだった。市ヶ谷方面にとりたてて何か重要な目的のものがあるわけでもなかったので、ニューオータニを見ても好いかなと思った。見学客となってしまった場違い風なその人は、その後、ホテルの中を歩き回るのだった。場違い風ではあるが、似たような人は少なからずいた。レストラン利用客もいるのだろう、いろいろな人種がいるところが大きなホテルの良いところでもある。そこを出てからどこをどう歩いたかは覚えていない。どこかの駅にたどり着いた。とにかく中央線はその辺でググッと大きく曲がっているので方向があらぬ方を向くのである。普段、街を碁盤の目のように捉えているけれど、我が「TOKIO」はクモの巣状になっていて中心に近づくと円形が強まり、分けが分からなくなるのである。
ホテル内のホール天井
そのホールの床
調べていたらこのホールはガーデンコートと言うそうだ。
言われなければ知ることもない。
中心にあるのはチャペルと紹介されている。
天井と床で似たような大きさの円とし、関連を持たせているというところだろう。
見下ろしているうちに、座っている人が動き、入れ替わったりした。
もっと賑わっていてほしいところ。でも見も知らぬ人の動きにまであれこれ言うわけにもいかない。
飛行機雲・太陽の方向に向かって伸びる・西へ航路を採ったらしい
ある風景
3月のこの日、この辺りは寒かった。
吉本隆明さんが亡くなった。彼の本は熟読とはいかないまでも、多く読んだ。
読み流している、飛ばし読みしているといった類だったかもしれない。
でも、字面を追っているだけで不思議と落ち着いた。
いろいろな事柄に対し、尽きぬ興味を持っているようで、
そして、それらに接するときの発言がとても実直、冷静な感じがして、
どのように言ったらよいか、
肉体的身体的な人なのではないかなと思っていた。
発言の内容が時としてとても刺激的であるにもかかわらず、
言葉は普通の言葉を使っていた。
最近のテレビでの講演会の様子を見ていても、
変わりのない、その飾り気のなさや、ストレートな発言に、
独特のユーモアを感じるのだった。
横浜を歩くとチョコレート、クッキーの香りがするとこのblogに書いたことがある。
実際にそうだったからだ。
下町の、浅草から上野の辺りを歩くと、
これまた、旨そうな醤油ダレの香りがする。
上のフォトの辺はよく言われるところの、土の香りだ。
今日は日中は暖かく、ランニングには最適だった。私はウォーキングとジョギングを繰り返すのだったが、60代くらいの年配者で本格的に走っている人を見かけた。私がそこにいる間、優に1時間くらいは走っているようだったので、あのスピードだと20キロから30キロくらいの距離を稼いでいるのではないだろうか。休みもせずよく走り続けられると感心したが、始め見たときはたくましい走りだったのが、1時間後には心なしかヒョロヒョロした感じになっているように見えた。1時間で短パンから延びた足もぐっと細くなったような・・・、そんなことはないかな、でもみるみる痩せたように見えたのである。そのくらい気合の入った走りだった。しかし相当な体力。年齢別だとかなりの記録になるのではないだろうか。その辺りには既に梅が咲いていた。赤と白の・・・。フォトを撮る人などもいて、私もケータイで撮ってみた。少しピンボケだった。
昼間は暖かだったが、天気予報だと関東地方は今晩は冷えるようだ。ところによっては雨、雪の見込みもあり、天気すぐれず。
これは気のせいかもしれないのだが、近年、夏の日差しが冴えて少し強くなったような気がする。冬は以前にも増して夜に冷え込むようになった気がする。環境に配慮し、エコなどと言い、温暖化対策として二酸化炭素などの削減にこれ努めた結果、空気が少し澄んだのかなと思う。違うかもしれない。けれども、街中でのその夏の日差しと冬の冷え込みのわずかな変化は山の空気に少し似てきたのかもしれないと思うのである。そう感じる日がある。
昨年の12月13日に、カツラのことをblogに書いている。だからというわけではないが、数日前に、驚いた。ドンキホーテにカツラが置いてあるのが偶然目に入ったのだ。1000円くらい・・・。百均とまではいかないが、既に在る。ゴホ、ゴホッ・・・。
今日は寒い。特に・・・。数日前に暖かいなと思っていたら案の定、中国地方などで春一番が吹いたりしたそうだ。ところが昨日今日と冬に逆戻りの感じだ。そう思っていたら、あるところに「6日は関東で初めて最高気温が20度を超えたり、中国地方で「春一番」が吹くなど、春本番を思わせる陽気。でも8日からは「寒の戻り」でしょう。」という数日前の予想があった。さすがに全くその通り。
link: tenki.jp http://tenki.jp/forecaster/diary/detail-4412.html
先日は「耳障り」という言葉について、あれこれといじくりまわさざるをえなくなってしまったのだが、一方で「耳を疑う」という言葉もある。これは大阪の役所でのことだそうだ。トレーニングジム化していたらしい。「耳も、ついでに目も疑う」。
リンク:「どんだけ体鍛える気やねん!」と思わずツッコミたくなる大阪公務員組合「秘密のスポーツジム」「会議室が完全に卓球センター」
http://news.livedoor.com/article/detail/6337450/
「便宜供与ではない」などという何か的外れな、言い訳にもならない自分勝手な状況説明をしているらしい。ではどうやってその安くもなさそうなトレーニング機器を集めたのか? 贈り物、プレゼント、ということなのだろうか。税金で購入した「役人のための」厚生施設ということなのだろうか。
便宜がどうのこうの言う前に、そもそも仕事の合間にそういったことをやっていたということなのか?仕事中に?役人が? 消防署員などは仕事柄いつもトレーニングをしているからそういう目的でなら分かるが、ここはそういったところなのか? ムキムキの体つきの人々が大阪の役所ではウロウロしているのだろうか・・・。
税金で成り立っているわけではない、むしろ税金を納める側の民間企業でなら、つぶれることも視野に入れて成り立つかもしれない。利益の余剰分で可能かもしれない。だから、あり得るとは思うがスペースの確保、器具の確保、社員への効用、そしてそんなことまでやるかどうかの常識的判断などなど、もろもろのことすべてを考えて良さそうなら実現するということだろう。もちろん効果がなく逆効果にでもなれば会社がつぶれる一原因になるかもしれないというリスクも含んで。社員食堂がレストラン化した会社もあるらしいからあり得ないというわけではないだろう。でもこの大阪の場合は一体何なのだ? こちらの感覚がおかしいのか? 目くじらを立てているわけではなく、普通に考えて、なんだこれは?と思うのだが、私の感覚は今の若者用語でいうとウザイのだろうか? 「便宜供与ではない」などと大阪弁でうそぶいていれば、特に問題はなく、あり、ということなのかな?
思いもよらないものに出くわすと、耳も目も疑って、クエスチョンマークの連続、????になってしまうのだ。
インドネシアのガムランの音をときどき耳にする。音の感じが独特なのでどうなっているのだろう、と思っていたら分かりやすく解説しているサイトがあった。音階についての解説だ。他にジプシー音楽や沖縄音楽の音階についても簡単に触れている。分かりやすい。沖縄の音階はギターで弾いてみるとそれらしく聴こえる。そんなことを思っていたら、AKB48(私は今でもフォーティーエイトと言いたくなくて省略する。長くて言うのが面倒なのである)ではなく、インドネシア系のJKT48というのが出てきているそうで、「何が何だかわっからへん」のである。もうほとんど「区別して見ていない状態」だ。「識別不能」・・・。それならついでにGNZ48というのも出してくれるといい。これは銀座と読む。
このところ集団で踊っているのが目につく。あれだけ人数が多いと、タレント希望者をかなり広く浅く拾っている、といった感じだろう。まさか、就職先の枠を広げているということに近いのだろうか。アジア系はグループ化、集団化しているように見える。ドドドッと音を立てて踊っているように見える。音が聞こえてきそうだ。
ガムランは音階も独特だが、やはり一つの音を打ったときの音色というものにも何とも言えない味わいがあり、そこを好む人も多いと思う。
リンク:
もっと音階、http://labocho.web.fc2.com/mt/exscale.htm
ガクテン、http://hp.vector.co.jp/authors/VA028660/mt/index.htm
昨日は二十四節気の一つの「啓蟄」だったそうだ。天気もすぐれなかったし全く気付かなかった。啓蟄は年によって日が違うようだ。違うといっても大したことはなく、例えば昨年は3月6日だったようで1日くらいずれたりする。昨日天気はあまり良くなかったが、穴から出た虫の如く春を感じて飛び出た人もいるのだろう。中国の季節の分け方で、1年を太陽の動きから分割している。
blogの、これはなんというのだろう、背景の表示、テンプレート・・・、このテンプレートを替えて3回目くらいになる。2回目は、秋になったので何となく紅葉の色に近いものにしていた。この後今回のものにしたのだが、少し変わったところが良いとは思うものの、色としては黒っぽい色なので濃い色の文字にすると見えにくいことがある。例えば2010年の大晦日のときの記事など、
大晦日・2010(このころは絵文字なども分けもなく入れて楽しんでいる)
年の瀬も押し迫って・part2。など
がその例だ。テンプレートを替えた途端に、あっ、これは見づらいかもしれない、と思ったものの字の色を変えたりしているためすべての字が見えやすいようなもの、とすると使えるテンプレートの数が限られてくると思い、後のことも考えてそのまま使うことにした。確かに濃い色の文字は暗い背景では見にくい。変な技というかもしれないが、パソコンなどで見るときは画面上でマウスを使って「網掛け」してもらえるとそこだけ文字の色が変わって読みやすくなる。このようなことを期待するまでもなく、ソコマデシテ読ミトウナイ、と言われてしまうだろう、と思いつつ・・・。
似たようにblog上で伝わりにくい、意味として伝わりにくいなというのが、例えば2009年12月24日、丁度クリスマスイヴのときに書いたものである。
クリスマスイブ
この鳩山というのは時の首相の鳩山さんのことである。このときは敵味方から総スカンを食らって孤立したようになっていて、そう言いたかったのである。素直にそう言っているにすぎない。次の片山は、これは紛らわしいことに登山をやっていた片山右京のことを言っているのである。死者の出る事故を起こした直後だったと思う。3名の彼を含むパーティーの2名が極寒の富士山で亡くなった。あの事故である。私は彼の登山の過程をメディアなどで垣間見ていて、何かスポンサーなどの在り方や彼のモチベーションに不穏なものを感じていたのだ。レーサーならばまだ良かったかもしれないが、登山だとまた死者の出る事故を起こすだろう、と感じている。今でも。だからこれも素直に出た言葉である。このときの事故はその後の調べで亡くなった2名のテント設営の不備などが明らかになった。また強風という悪天候などいろいろが重なった。滑落した直接の原因は片山氏とは関係が無いようである。だが、また同じようなことが起きる、と思うのだ。彼の身辺で。片山氏の性格的なもの、適正を見てしまうのだ。あくまでも私の無責任な一方的な見方である。
この事故は結局よく分からないことが多かった。彼は事故で起きたことをもっときちんと述べるべきだったと思う。そういった能力に欠けていたのだろうか。事故後、気の毒なほど憔悴しきった片山氏に対し、片山氏側の誰かがかばうようにして記者会見が打ち切られることが続いたため、どうも腑に落ちないことが残ったのである。滑落した2名は、片山氏が気が付いて下へ降りながら探し、200メートルほど降りて探し当てたとき(深夜、厳寒、強風の中、よく探すことができたと思う)、一人は取り乱して何か叫び、一人は横たわって意識はあるものの動かなかったという。発表では「凍死」という一言である。そしてそれ以外のことが報じられなかったのだ。テントはそこからほんの5メートルほど脇にあったという。暗くてその2名が滑落したときテントの位置が分からなかったのだろうか?滑落後テントからはい出たのではないのか。なぜ、何とか高度を下げるところまで下山しなかったのだろう。靴はあったのか。そのとき着ていたものは?。富士山は下山するのはそれほど難しくない。一人は熟達者だったというし風だけを避けるなら数百メートル高度を下げただけで不思議なくらいおさまる場所もあるはずだ。すぐに心して降りれば助かったかもしれない。一緒に転がり落ちたテントの中に他に装備はあったのだろうか。なぜそこから動かなかったのか。怪我の可能性もあるだろうがそれは報じられなかった。ここで怪我が原因で動けなかったというのなら、この事故のいきさつ上非常に重要だからニュースに含まれたはずである。ところがそういった怪我があったとかなかったなどについても一切なく「死因は凍死」という何かとても冷たい短い一言の一本槍だったのである。新聞もネット上のニュースもテレビも・・・。着ているものが良ければ動かないでも生きて救出されただろう。なぜなら片山氏は二人を見つけてから(何度も言うがよく見つけられたと思う)一晩中そこにいて、特に凍死にもならず翌日歩いて下山しているのだ。その姿はテレビで大きく報道された。ところがその他の二人が凍死とはどういうことなのか。こういった山での、特に一般の登山者とは言えないこれらの人々のような者の事故のとき、もっと詳細が伝えられるのが普通である。次のチャレンジも控えていたのだ。亡くなった彼らは何を着ていたのか。まさかテント内で薄着になっていたのか。ジャケットはどこにあったのか・・・。それがただ「凍死」の一言だ。
ここからは私事だが、この一連の報道の後、分からないのでそれらのニュースを報じているテレビ関係のサイトに疑問点や今の様に不自然に感じたところをコメントや投書の形で質問した。しかし、それらは黙殺されたのである。音沙汰なしである。かつ、コメントとして誰もが読めるように掲載される欄に書いたにもかかわらず、削除されたのである。その後に続けた質問にも受付だけしておいて音沙汰なし。削除、黙殺である。こういったテレビ関係のサイトの態度はいったい何なのだろう?日本のテレビ関係、事なかれに過ぎないか。そのくせ弱い者の恥部をさらすようなことには熱心だ。毎日お祭り騒ぎ。
滑落後の詳細は私にとって分からないままだ。これまでは多くの犠牲の上に知り得た教訓、情報などが役立てられてきたはずだ。特に山の情報は・・・。よく分かる例として登山具などの改良にもそういったことは活かされている。しかし、なんなのだこれは。いつからこういうことになったのだ。
あれから時間は経った。
さて・・・、
3月5日の当blogで(「軽」に乗ってみて・・・ )の石原東京都知事の物言いについて触れて、「耳触り」が良い、悪いという言い方をしている。「みみざわり」というのは耳にさわるのだからこの言葉だけで既に、マイナスの良くない音、事柄として言い得ているのだと思う。そう思ってきた。だから、耳障りと書けばそれでよいのかもしれない。これでたとえば舌触りなどとは違う、ということになる。舌触りはそれだけでは良い悪いはその言葉に付随しない。だから舌触りが良い、悪いとう言い方をする。よく言われるところの食感というやつである。では「耳障り」ではなく「耳触り」と言えばそれは舌触りの様に良い悪いを除いた、もう少し客観的な中立な意味になるかというと、ここでいろいろな論議をする人が多くいるようなのだ。試しに「耳触り」で検索してみるとよい。
早く言ってしまうと、私は「耳ざわり」というと耳触りだろうが耳障りだろうが、耳に心地よくないという意味でマイナスの意味として使う。だからこの日のblogの場合は種を明かせば、安易に使ってしまった、ということなのである。ところでこの場合、文脈上どのように言えば良いかという一歩突っ込んだ具体的なことについて考えると、「耳に心地良い」という言い方も良さそうだが、しかし、少し不適切である。なぜなら、心地良いというとき若干、生理的感覚的に気持良い、実際の音として耳に気持ちよく聞こえる、という意味が入るような気がするからだ。このblogの場合は、だから、この言い方をすると少しだけ変な感じである。都知事の話の内容やそれにまつわる態度、その状況なども含めたものだからだ。耳から聞いた内容に関することだからだ。ぎりぎり良いということかな・・・。では「触り」という言い方なら良いかということだが、よく考えるとそれもどうも使いたくはない、個人的にも・・・。
なにか適切な言葉があったら教えてください。と、教えてコーナーにでも投書せねば・・・。思いつくところだと、内容を言っているわけだから、「耳への聞こえが・・・」「耳に聞こえが・・・」「聞こえが・・・」辺りかなと思うが、それこそ、どなたかご存じないかなと思う。しっくりくる言葉が見つかるとそれこそとても心地良いと思うのだが。
舌触りに倣い、耳触り、という言葉を新しい使い方だといって無理やり広め始めるか???? しかし、言葉というのはそんなものではないだろう・・・。
埒が明かない。
今日の、ランニング中の風景。
暖かだった。
ランニングといえば、市民マラソンが流行っているそうで、東京マラソンなどは参加希望者が急増しているそうだ。何十年か前に既にアメリカで市民マラソンが市民権を得、流行りだしたことを考えれば、なんで今頃?と思うが、しかしとにかく健康には良いと思う。大会もいろいろなものが目白押しなようだ。先日、テレビで昼の休憩時間などの皇居周辺マラソンランナーの数が急増し、子供づれの一般歩行者などとの接触も多くなり、苦情が出ているというニュースをやっていたが、まあそれはなんとかするとして、インタビューを受けるランナーの顔を見ていると、いかにも健康そうで、こんなに笑顔になれるなら何はともあれマラソン自体は良いことなのではないかな、と思った。
私の走りはというと、とぼとぼと走ったり歩いたりで、遅い。
今日は振り返りもしつつ、思いつくところをあれこれと・・・。
車の販売台数が前年同月比で見て伸びているという結果が出たそうだ。単純に良いことだと思う。車であれ何であれ自分の国の製品が評価され売れることはニュースとして聞くだけでも嬉しい。反対に東京へのオリンピック招致に固執する石原都知事の姿にはなぜか軽い失望を覚える。いくら若者たちに希望を与えるためという言葉を聞いてもだ。耳触りが良過ぎないか。車の販売台数が伸びたということだが、では昨年のタイの洪水のときの自動車関係の工場の「報道騒ぎ」はいったい何だったのか、ということも思う。テレビは連日のごとく増水した川と浸水した町の風景を流し、現地の工場の取材をして大変だ大変だと騒いでいた。騒ぐのが好きなのだろう。原因に言及することもほとんどなく、例年のこと、よくあることなのかどうなのかすらはっきり伝わらず、次の大潮のときが大変だ、どうなるか、と人々の心配を逆手にとってスリル感を盛り上げているかとすら受け取れるようないつもの物言いがあったのである。工場の関係者は実際に大変だったのかもしれないが、その後対処して何とかしたのだと思う。
販売台数が伸びたと伝えられる車の中で、軽自動車の伸びもまずまずのようだ。自分の場合、昨年、車を「軽」に替えた。「軽」は2度目である。かつて荷物も運べるように「軽」のバンを安く手に入れ乗っていたことがある。今回のは乗用専用の車でターボも付いている。ターボの付いた車など初めてである。店の人に聞いて、ほおっ!、と思った。乗ってみて、毎日の様に乗るわけでもないし、長距離を頻繁に乗るわけでもない私のような使い方の場合、とても満足なのだ。この満足感の中には税金などの割安感もかなりの比率で入っている。車自体は、性能が格段に上がっているのだなと感じている。以前乗っていたバンや今から思えば昔のスバル360のように性能面で心もとない、といった状況ではなくなっていたことに遅まきながら気づかされるのだった。「軽」の販売台数が伸びているのは、この国のある意味、裕福になった人々が物の溢れた状態に慣れ車も2台目を持つようになり、「軽」がセカンドカーとして利用される、という位置づけになったこともその理由として大きいのだろう。戸建の住宅の駐車場を考える時も2台分のスペースを狭い敷地の中で何とか確保しようとする時代である。それと並行して、若者の車からの関心が薄れ、以前のようにそれをステータスのアイテムとして捉えることはなくなっている。私にはできない、というより嫌なのだが、車のシェアをする人々もいる。要求される車像がかなり変わってきているのだと感じる。
以前久米宏がニュースステイションで半ば冗談のように国民の多くがもし全員「軽」に乗り替えれば、かなり道路の渋滞は軽減されます、と言っていた。そのくせ彼はとてもりっぱな大型の高級車に乗っていたから笑ってしまったが、しかしそれはそれとして彼はこの国の道路事情そのものに本当は一言、言いたかったのかもしれない。私はそれを聞いていて、しかし冗談かもしれないがとても良い発想かもしれないと思ったのであった。そのときは具体的にこのくらいの渋滞緩和になるということが数値なども含めて大まかに示されていたと思う。ETCの普及などと絡めて首都高の渋滞が問題として取り上げられていた時である。テレビを見つつ、かつて訪れたアジアの国々の道路事情が風景とともに頭に浮かび、「軽」などのコンパクトな車はアジア地域ならもっと売れるのではと思った。狭い国土の日本を含めアジアの国々などでは、コンパクト化の傾向のあるヨーロッパの車に対する考え方、センスの方が、アメリカなどでの考えより優れているのだろうし、その意味で日本の「軽」は見落とすことのできないアイテムだと思うのである。今もその考えは変わらない。そしてそれは日本人の生産者の得意とするところでもある。ここを手放すという手はない。方向転換するという手はない。私自身は今後、大きな車に替えることもあるかもしれないが、日本の「軽」はその意味でとても特徴的で優位性のあるものと思う。それなのに、この国の政治家、官僚のあたりは何を考えているのか、「軽」に対する税金を上げるだの何だのという話を持ち出す者もいるらしい。コンパクトに作るという能力が弱体化してしまうではないか。急に話が極端になってしまうが、そういうことを言う政治家は落選させるべきだ。どこの県から出てくるのか・・・。またそういったことを組織内で推し進めようとする官僚は辞めさせるべきだ。
「軽」は、気軽に安く乗れて使いやすくそして楽しめる、という様にさらに文化としても高めるべきだ。もっと海外で売れるはず。小さいものへ機能、性能を凝縮させることがこの国のメーカーの得意とするところなのは、車以外の例えばウォークマン、ケータイ、その他家電製品などなどを見ても一目瞭然なのだから・・・。洒落になってしまうかもしれないが、車は「家電化する」という言葉も聞かれるし・・・。
一言で言うと、「軽」の税金は高くするな、ということになるのだが・・・。