カッキーYAMA   akihiko tange

手始めに、日常的なことを気の向いたときに載せていくつもり。

tokyo近郊の街へ出かけて・夕刻・28Nov2010

2010-11-29 | エッセイ


 


 

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黄葉(イチョウ)の神宮外苑・夕方6時頃・27Nov2010

2010-11-28 | エッセイ




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blogページを製作作業中に・・・・

2010-11-25 | エッセイ
先日、blogの作業中にヒヤリとすることがありました。その時は、blogの投稿ページに直接、文字を入力中でした。文字の打ち間違いを直すために、部分部分でひらがなを漢字に変換しつつあったのです。フォトは既にそのページ上にいつもより多くレイアウトして貼ってありました。文中の、あるところでひらがなを漢字に変換し、決定でenterキーを押したところ、そこから下に貼りこんであったフォトが全部消えてしまったのでした。面くらい戸惑いました。かまわず文字訂正をし、後で消えたフォトの貼り付けをし直しましたが結構ストレスがたまりイライラのもととなりました。要らぬ二度手間の作業をせざるを得なくなったわけで当然と言えば当然です。enterを押した時にほとんどの場合がそうはならず、時としてそうなるところが原因が分からないところとともに、気味の悪いところです。これがもっと膨大な量の作業をしている時だとしたらどうなるかと思うと、ちょっと想像がつきません。おそらく同じような体験をされた方もいると思います。ソフトの確実な作動性を得られないものでしょうか。そのように思います。


                                                                                  
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A hha hha!

2010-11-25 | 音楽


Bruno Mars Just The Way You Are 


Bruno Mars Parody!                       Bruno Mars









bruno mars の just the way you are が気に入っているのですが、
parody の方にはこれはもう参りました。笑ってしまいました。

同じ二つの動画を時間差で流すと、シンクロして面白く聴くこともできます。




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音楽と絵画について

2010-11-23 | エッセイ

銀座に小さな画廊があり、今年に入って縁があって絵を買い求めた。その「秀友画廊」で「音楽と絵画 響」展が開かれている。絵画を前にした時にそこから音楽が聞こえてくることがある、という話である。
画廊代表の浅野恵巳さんの案内から少しだけ引用(抜粋)しておきたい。(浅野さんは日頃から今日のアートシーンのことを色々と考えていらっしゃる方です。)
「音楽と絵画のはざまで

絵画作品を見て"曲が聞こえてくる"と感ずるなどの経験をされたことがおありではないでしょうか。

私は時々絵画を前にしたときどこからか音楽が聞こえてくる・・・そしてそこから異次元の世界にいざなわれるような不思議な力、

音楽が発する力、これは言葉以上のものがあるのではないでしょうか。日常に彩りをもたせてくれる魅力的な世界です。

カンディンスキーは「響き」というタイトルの版画集を創作しています。音楽と絵画、彫刻作品などとの関連性を探りたいと考えました。」

11月18日から12月10日まで    
関連リンク先: 
http://blog.aoki-juku.net/archives/3087020.html

秀友画廊
東京都中央区銀座7-8-1 丸吉ビル6F

(参考関連リンク先:http://www.ginza.info/S63875.html



音楽と絵画などの間には、関連はあるかもしれない。ただ自分は意識をして音楽から絵画、絵画から音楽を作ってみたことはないように思う。でもよいテーマだと思うしイメージの喚起力として試みてみてもよいかなと思う。秀友画廊の企画展は何人かの画家の小品を中心にまとめているようで、12月の10日まで。銀座。

ところで、話が急に飛んで私的になるのだが、「響」(ひびき)での思い出がある。響は、某アルコールメーカーのウィスキーの名前としても使われている。響という漢字のビジュアル的な、字面からくるイメージも感じのよいものだし、その指し示している意味もまた音空間とかヴァイヴレーションとか広がりが豊かな気もする。この「響」なのだが、子供というのは小さい頃によく勘違いをして大人たちを笑わせるようなヒットを飛ばす。私の甥がまだ2,3歳の頃、やっと片言のそれでも言葉を連ねて話せるようになった頃、おじさんの響きだ、響きだ、と言っていたらしいことを思い出した。ここで言うおじさんとはまだ比較的若かりし頃の私のことである。甥は1階に居て、おじいさん、おばあさん、親などに報告していたらしいのだが、それは上の2階から天井越しに降ってくる私の「いびき」であったそうだ。「響き」ではなくてそいつは「いびき」だよ。たぶん。音としてはゴォーゴォーというかなり迫力のあるものだそうで、1階全体に確かに響いてはいたそうである。もちろん私は知らない・・・・。



                                       


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耳鳴りのことなど・23Nov2010

2010-11-23 | エッセイ
よく、物書きが書くことが無くて困った時にやることのひとつに、体調のことを書くというのがあるらしい。ここの具合が悪いだの、頭が変だのというやつだ。頭が変というのはもう既に別の意味で変だったりする。天然ボケ、素っ頓狂、粗忽、などがその例なのだが、だが多少変でも、人間、特に変なもの同志、愉快でそれで良いではないか、ということだ。・・・・そういうことではなかった。具合が悪いというのは、病のことである。病のことを書いたりするらしいのだ。あまたあるblogにもそういった自分の病のことを書き連ねているのも多くあって、ほとんどが治療という意味では役に立たないと思うのだが、同じような症状で苦しんでいるのだな、という思いで勇気づけられることはあるのだ。これも立派な効用だと思う。温泉の効用と同じで能書きに書かれているのとは別のその人への独自の思わぬ効用があったりするのだ。・・・・温泉のことを書くのではなかった。これらの症状の中には、先に「苦しむ」と書いたが苦しむとまではいかないような微妙なものもある。倦怠感、目の疲れなどがそうだ。疲労というのは病の部類に入れてもらえないことが多い。回復するものと思われているからだ。筋力トレーニングの超回復のようなものだ。・・・・筋力トレーニングのことではなかった。しかしそれら「疲労」というのも何らかのボーダーを超えると回復する機会を失う。病、故障の一歩手前だ。
 ところで、我が「耳鳴り」も微妙なところに分類される傾向が強いもののようだ。
「ここ2週間ほど、耳鳴りが強い。今日も依然として強い。
 右脇腹の痛みは、ここ1月ほど和らいでいて、感じないこともある。」
 

                                                                                                                  
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フォー・21Nov2010

2010-11-21 | エッセイ

家の近くの小さな駅前商店街を歩いていると、エスニック料理屋(基本はインド料理)のメニューが目に入った。

 「ベトナムのフォー」

新しくメニューに加わったらしい。またフォーだ。インドとは違ってベトナムの「方」だよ、ということではないらしい。そこには、それがどういうものかも美味しそうな写真付きでちゃんと書いてある。「エビとイカの入ったベトナム定番のヌードル」だという。アラフォーというものの意味がやっと分かり、大きく前進つつあった私の知識がここへ来て止まった。ヌードルにもフォーがあるということが新たに判明したのだ。しかし、もう混乱することもなく、あらゆるフォーがあることが分かってきた。
ウィキペディアなどで調べてみると、驚くべきことにベトナムの麺料理に本当に、フォーというのがあるのだった。ほ~ぅっ!!!!!

「カッキーYAMA」の中の、関連したpage:
http://blog.goo.ne.jp/aki7tan/e/3bc18cf1591c61ff535dd61e1c8e4101



                                            

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19・Nov・2010

2010-11-19 | エッセイ
ボジョレーヌーボーのことをblogなどに載せると、はしゃいで、あるいは気取って、あるいは訳知りに書いていると思われると思い込んでいるbloggerが見られるようだ。特に女性に多い気もする。結構、気を使ってしまう人が多いのだろう。 そうすると腰が引けて、何気なく偶然入ったレストランで今年のボジョレーを飲んでしまひ・まひ・た~。という論調になってしまうようなのだ。ボジョレー騒ぎも、何を今さらと感じるところもあるのかもしれない。少し飽きた感じもするけれど、本場フランスでは飽きずに懲りずにずっとやっているわけである。とっととガブガブ飲んで、ガンガン書きやがれ!

                     
                                           
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2年前の京都の旅のことを昨日blogに載せて思ったこと。

2010-11-19 | エッセイ
京都を2年前に歩いた時のことをblogに載せようとして、既にほとんどそれが記憶から抜け落ちていることに気付く。撮ったフォトの連なりである程度、時系列で記憶を追って行くことはできるのだが、実にうわべのことしか出てこない。鮮明なことは断片として残っているだけだし、それはフォトを撮った瞬間のその切り取られた枠の周辺に位置していることが多い。撮っている瞬間は視覚的なもの以外はほとんど頭の中には何も無いし、それは後になっても既にその1枚で表わされてしまっているものだ。その時の旅の印象というものは、周辺のディテールとも言うべきそれら断片によるところの方が大きい。そしてよく思い起こすとそのある一つの断片的記憶は、それを呼びさました1枚のフォトと、時間的にも空間的にも思いのほか離れていることも多かったりする。撮った自分も確かにいたはずなのだが・・・。時が経ち、撮った時の記憶とともに残る1枚というのはほんの一握りのように思う。


                                              
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9月・京都を歩いた時・2008

2010-11-18 | 旅行

京都・2008

2008年の9月1日、まだ暑さの残る頃、京都を竜安寺方面へ向かって歩いた。
2年前に感じたことというのは、ディテールについては今はもう忘れてしまっている。
ただひたすら歩いたことだけが記憶に残る。























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