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Tcupサ終のため2022年春に移籍しました。岩手盛岡のことやサッカーなどスポーツのことを書きたいと思います。

続・ゼブラとの出会い

2011-06-07 12:56:00 | 蹴歌蹴闘
1996年11月3日、試合が終わってから渋民駅前のオラの自宅で買ってきたプログラムを読んでいた。

盛岡ゼブラのことをオラはまったく知らなかったわけじゃない。前年(厳密にいえばこの年の1月)に全国地域リーグ決勝大会に出場、そのことがニュースになった。確かTVIの「プラス1」だったと思う。しかしどういう選手がいるか、どんなチームなのかわからなかった。

以下に1996年天皇杯オフィシャルプログラムから抜粋したゼブラのチーム紹介を記す。

優雅な姿、俊敏な身のこなし、百獣の王・ライオンにも立ち向かう団結力と勇気を持つシマウマにちなんで「盛岡ゼブラ」と名付け、クラブチームとして1957年に発足してから、まもなく40年を迎えます。チーム練習は夜間を主として行うほか、各自トレーニングに励んでいます。

今もそのスタイルは変わっていないのであるが、当時は文字通り岩手の最強チームであり、年が明けたらもう一度見てみようと思った。ただそれだけのことが15年も続いたのだ。


盛岡ゼブラとの出会い

2011-06-07 09:15:00 | 蹴歌蹴闘
1996年、天皇杯全日本サッカー選手権は現在の1県1代表制となった。
これは1972年のオープン化以来の革命的な出来事であり、これを気に各県のフラグシップクラブ作りが本格化するようになったと思う。

仙台や山形の情報を耳にする中で、一枚のチラシを見て「これは見るしかない」と考えた。
11月3日、岩手県営運動公園で盛岡ゼブラが富士通川崎を迎え撃つ、というのだ。
オラはといえば、前日に柏サッカー場の柏レイソル対サンフレッチェ広島を観戦。そして当日の朝新幹線で盛岡へ戻り、一旦身支度を整えてから運動公園へ向かった。

富士通はここで前年仙台に完敗を喫した選手が半分、伊藤彰ら後の川崎フロンターレで活躍する選手が半分という顔ぶれだった。また、ナイジェリア人の選手も加入しており、これを相手に盛岡ゼブラがどこまでやれるのだろうか、というのがオラのこの試合の焦点だった。
そんな中、オラが気になったのは芝生のゴール裏で応援する富士通のサポーターたち。彼らは応援歌のレパートリーとして当時ヒットしていたナンバーを使用していた。こんな乗りのいいサポーターはJにもいないだろ、と思ったぐらいである。

試合はいきなり伊藤のゴールで富士通が先制した。ゼブラも守備からのカウンターでなんとかチャンスを作りたかったが、逆に追加点を許した。その度に富士通のサポーターは踊りだす。一方のゼブラのほうにはサポーターらしき人は見当たらなかった。当時の盛岡はそんな現実だったのだ。
前半戦を0-6の大差で折り返し、後半に富士通はナイジェリア人のムタイル(川崎から後に山形でプレー)を投入。しかし団結して1点もやらない、カウンターで1点取ると言うスタイルに徹したゼブラからゴールを割ることはできなかった。最後にはゼブラも攻め込むが、GK境秋範の壁を破れず0-6のまま試合は終わった。

これがオラの盛岡ゼブラとの出会いだ。