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Tcupサ終のため2022年春に移籍しました。岩手盛岡のことやサッカーなどスポーツのことを書きたいと思います。

もう一度由利本荘の話

2011-06-13 23:07:00 | 旅行
由利本荘の話をもう一度しようと思います。

由利本荘到着は前夜7時半。

本荘ステーションホテルは実は2回目。東北総体の年に行ったのではや7年かな。

それで夕飯の写真。

ウマヅラ塩焼き、ぼんじり(ぼんぼりと間違えて書きました。おばかですね)串、牛筋煮込みにお酒は「雪の茅舎」純米吟醸・奥伝!


翌朝は「せのぶら」ならぬ「あきぶら」。


本荘へ来たらやっぱり鶴舞公園、ここははずせないでしょ。

で、今回は山ろく線乗りませんでした。ごめんなさい。

聖地・盛岡南公園の誕生

2011-06-13 19:08:00 | 蹴歌蹴闘
1999年は岩手インターハイの年だった。このインターハイでは盛岡市がサッカー競技の会場となり、そのために決勝会場として作られたのが「いわてフットボールの聖地」盛岡南公園なのだ。

その杮落としとなった試合はTVI杯高校招待、この年は東福岡を迎えた。すでに本山雅志をはじめとする栄光の戦士たちは卒業したが、ネームバリューはさすがのものであった。
この年の岩手選抜は大船渡主体のメンバー。中田洋介に太田亮、試合には出なかったが下屋敷恒太郎もいた。だが東福岡に名前負けしたか、1-4の完敗。その1点は中田のゴールだった。

その後東北高校選手権も行われた。ここで注目されたのは岩手の高校より秋田商業だった。秋商のこの年の主力には熊林親吾、清野智秋というのちのJリーガーがいた。その予想通り秋田商業は青森山田を倒して(いまからすると意外なことだが、青森山田がはじめて東北王者となるのはこれより4年後のことだ)下馬評通りに東北王者の座についた。

そして本番、岩手インターハイだ。オラがみた試合の中でも感慨深いのはいくつかある。
山口の多々良学園(その後経営破たんし現在は高川学園に)と群馬の前橋育英はのちにJリーグでプレイした選手が多い同士の対決。少なくとも多々良3人、前橋育英4人がJに行ったはずだ。この試合、中山元気のゴールもあって2対0で多々良学園が勝利したが、前橋育英の松下裕樹主将がロスタイムに退場になったこともあった。

この年の決勝は千葉の八千代と広島の広島皆実の試合。この試合は激しかった。
まずは八千代が縦パスの動きから先制した。しかし皆実は秦賢二のFKで同点に追いつく。前半1対1で折り返し、後半も同じような展開に。まず八千代が中盤のワンタッチプレーで勝ち越すが、皆実もまた秦のセットプレー。そこへ柴村直弥が飛び込み同点とした。
2対2で迎えた延長戦、ここで勝ち越したのは皆実のほうだった。決めたのは瀬戸彬仁。できればここでゴールデンゴールにしてもよかったと当時は思ったもんだが、そんなに世の中は甘くない。これで尻に火がついた八千代は、ついに兵働昭弘のゴールで追いつき、その後も勝ち越しを狙ったが、結局勝ち越しゴールは生まれず3対3の同点で試合終了。当時はこの時点で両校優勝となったわけだ。

余談だが、瀬戸はのちにフットサルのFリーグでプレー。初ゴールはステラミーゴいわて花巻戦だったというから、皮肉なもんである。

ともかく、1999年8の月の祭りはこうして終わったのだ。こんな熱狂する試合を岩手のチームもできるようにしないといけないと思う。


2011岩手県A代表

2011-06-13 18:37:00 | SOCCER
コパ・アメリカ2011 ブラジル代表が7日に発表された。私と同世代のGKジュリオ・セザール(1979生まれ)から92年生まれの選手まで広い年代を網羅している。

こうなるとやはり僕の血が騒ぐのだ。
ザックりいわて2011・22戦士を紹介するぜ!

GK 三田 優(ガンジュ)
   菊地寛孝(ゼブラ)
DF 藤村健友(ゼブラ)
   市村 瞬(グルージャ)
   知野匡伸(ゼブラ)
   川村雅俊(ゼブラ)
   竹田大和(ゼブラ)
   松葉 開(岩手大学)
MF 滝村和彦(ゼブラ)
   千葉裕也(ゼブラ)
   西 洋祐(グルージャ)
   中野 翼(ガンジュ)
   谷村憲一(盛岡商業高校)
   成田大樹(ゼブラ)
   白澤 実(ゼブラ)
   岩舘貴紀(ゼブラ)
   松田賢太(グルージャ)
   藤村慶太(盛岡商業高校)
FW 山谷紘大(ゼブラ)
   佐藤佳成(グルージャ)
   原田 太(ガンジュ)
   仲谷圭史(ガンジュ)

中島入れませんでしたが、まぁこんなでしょ。

オラのライターデビュー

2011-06-13 10:27:00 | 蹴歌蹴闘
それから話は進み、4月18日に渋民の4号線沿いにあった「ジャバ」というカフェレストラン(いまは「ヴィラ渋民」として営業中)で「スポーツボイス」の編集長と話をした。
次回からのコラムの内容について、具体的には「原稿2,3枚を目処に」ということで説明があった。

その1回目、オラが書いたのはTVI杯高校招待サッカー。この当時岩手県高校選抜が全国の有力校を迎えて試合をしていた。例えるならキリンカップのようなものだ。
この年は藤枝東高校が相手。岩手選抜には照井篤、中田洋介の名前もあった。
試合は大船渡の大谷哲也のシュートのこぼれを佐藤純平が決めた。対する藤枝東はFW河村優やMF佐賀一平を軸に攻めるが、照井を中心とした遠野守備陣のカテナチオ(イタリア代表の伝統的な守備の堅さをイタリア語の「鍵」という言葉で表したもの)を打ち崩せなかった。

試合は2対1で岩手選抜が勝利。これには照井たち遠野の守備の力が貢献したとオラは書いた。
その後河村、佐賀、照井はJリーグチームへ入る。そのほかにも東北や東海の社会人リーグで活躍した選手も両軍にいる。

このコラムを書くにあたり、オラは冒頭に間近に迫ったフランスワールドカップのことに触れ、そこで「2002年には小笠原満男が出るかもしれない」などと書いた。いま思えば、こんなことをよく書けたなと思う。

その後も中学時代の山本脩斗や福士徳文、山谷紘大のことなど書いてみた。少年も盛商V戦士前後の世代を取り上げたことがあっただろうか。あの頃をメモに残してきたことはオラの誇りである。例えば練習で秋濱君(元グルージャ・現盛岡中央コーチ)は一人だけ50m6秒台だったり、滝村君(現盛岡ゼブラ)はPKでドライブシュートを蹴ったり、ほかにも探せばいろいろある。

盛岡版サポーターミーティング

2011-06-13 09:44:00 | 蹴歌蹴闘
さきほどオラが仙台でサポーターミーティングに参加したと書いた。

それをこの盛岡でできないのだろうか?そう考え、当時御厩橋のたもとにあった国際交流プラザ(アイーナができてそっちに移転した)でミーティングを開催した。当時は岩手日報の夕刊の告知欄を借りて宣伝したものである。

しかし盛岡では思うほど来場者はなかった。みんなサッカーに対して無関心なのか、相当やりきれないところがあった。
だが、1997年11月にサッカー日本代表がワールドカップ出場を決める。世に言う「ジョホールバルの歓喜」である。その後メディアがオラのことを取り上げるようになったのだ。

岩手日報の夕刊に載ったのは翌年(1998年1月8日)のこと。堂々とカラー写真で特集された。
それから地元のフリーペーパー「スポーツボイス」にも掲載された。このとき同紙の編集長から「そのキャラクターとコアな知識を活かして、連載を」と言われたのである。
その連載のことについては追々書くことにしたい。当時ピックアップした小中学生はのちの岩手サッカーの黄金時代を築き、輝く盛岡ゼブラの時代を作り上げた人たちとしてオラの友になるのだ。