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雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(92」

2020-10-16 07:58:39 | 日記
雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(92」
“シーチン”修一 2.0


【Anne G. of Red Gables/203(2020/10/16/金】中核派幹部の清水丈夫が生きていた! 通称シミタケ。天敵革マルとの殺し合いが激しくなった1971年(34歳)あたりから、中核、革マル双方の幹部連中は皆、地下に潜ったが、中核のボスの本多は殺された。


シミタケが表に出るのは50年振り。両派幹部の裏取引で5年ほど前(2015年あたり)に殺し合いは止めたらしいが、その後も潜伏していたのはこの休戦だか終戦を怪しんでいたからだろう。


中核、革マルは1959年9月に設立された革命的共産主義者同盟、通称「革共同」が母体。スターリンが死ぬと世界中の共産主義政党はタガが外れて“新左翼”が生まれ、日本では共産主義者同盟(ブント)や革共同が結成された。


革共同は1962年1月には本多延嘉、シミタケ、北小路敏らと黒田寛一(通称クロカン、ペンネームは山本で、Y派とも)が分裂して、本多派が「中核派」、クロカンが「革マル派」を称するようになった。


中核派は単純脳細胞の武闘派(暴れるのが大好きなバカ、小生を見よ!)、革マル派は悪知恵で陰険な秘密結社(クロカン曰く「組織に寄生し乗っ取るサナダムシ」)。革マルはプーチンみたいに殺しが上手くて尻尾を出さない。それでも本多書記長を殺したときは相当嬉しそうで記者会見までした。


<1975年(昭和50年)3月14日未明、本多が住んでいた川口市内の自宅アパートに革マル派のメンバー十数人が乱入し、就寝中の本多を鉄パイプ等で全身を滅多打ちにし、頭蓋骨骨折・脳内出血の致命傷を与えて殺害した。


同日夕方、革マル派は解放社(公然拠点)で記者会見を開き、革マル派全学連委員長土門肇が次の声明を読み上げた。


「今朝、わが全学連戦士たちは、反革命の頭目、本多延嘉に対して、階級的怒りの鉄槌を振りおろしました。これは、産別戦争と称して無差別無制限のテロを労働者に加えるという、世界革命史上、前古未曽有の反革命集団に対して振りおろした怒りの鉄槌であります。


わが全学連の戦士たちは、午前0時40分に本多が東川口の戸塚荘というアパートに、防衛隊と車で帰ってくるところから補足していました。そして、わが戦士たちに本多が面と向かったときに、彼が発した唯一のことばは、“人殺し、人殺し”と叫ぶことでしかないという、革命家として未熟な態度を示したのです。“完全せん滅”のことばのもとに、殺人を賞揚していた男が、本質的には小心者で、自分では殺人なんかできない男であることを、わが戦士に対する対応の中でバクロしたのです。


我々は血を血であがなう戦いをよしとするものではありません。本多に対して鉄槌を加えたのも、殺害が目的ではありませんでした。彼が死に至ったのは、全学連戦士の燃えたぎる階級的怒りが、鉄槌の一ふり一ふりにおいて表現されたことの結果であるということです」>(WIKI)


シミタケは本多が殺された後に中核派の最高指導者となったが、血で血を洗う抗争が始まった30歳あたりから83歳までの50年以上を隠れ住むというのは・・・何というか、凄まじくもケッタイな人生だ。タイムスリップしたみたいにオツムも半世紀以上は“革命前夜”、夜明けは近いと妄想し続けてきた。今も変わらない。中核派機関紙「前進」9月6日の革共同集会での清水の半世紀ぶりの演説から。


<階級からの遊離が自分の中で起こっていた。その意味で私は、階級闘争の現場に飛び込み、一緒になって闘う中で、自己批判を深めていかなければならないと決意しています。


それを本当にやりきれるかどうかに、私自身が共産主義者であるかどうかが問われていると思います。やはり一人の共産主義者として生き抜きたい、闘い抜きたい。


現在のコロナ情勢のもとでの大恐慌情勢の進展は、私も50年見てきて、今までにはない、ものすごい情勢が始まっています。凶暴化する新自由主義を打倒する階級的な労働運動を本当につくりだすために、革共同はどんなことをしてでも頑張らなくてはいけない。大量解雇、組合つぶしを絶対に許さず、労働運動をよみがえらせる、新自由主義を覆す闘いをつくることを決意します>


「階級闘争」って少なくとも日本では死語だぜ。「三つ子の魂百までも」、80翁になってもバカはバカ、シミタケよ、眠れ! 他者のことは言えないが・・・


夏彦翁曰く「みんな正義が大好きだ。正義はやがて国を亡ぼす」。柔軟、かつシタタカであれ、ということだな。嫌な奴、中共の犬だと思っているが、2Fの人なんて政治家としてはスゴイのだろう。それに引き換え3F隔離室の狂者の妄想的独り言のようなブログにはやはり読者はつかないのかなあ・・・なんてここ1週間ほどちょっとブルーだったが、愛想を尽かされたと思っていた同期からメールが届いた。


<ここのところ元気なようで健筆をふるっていて喜ばしいね。ただ相変わらずのTV批判はいただけない。論じ方が的外れだから。大宅壮一が「一億総白痴論」を唱えた時だって、台風が来ればNHKのTVにかじりついていたのでは。


例えば本というメディアが何でもよいかといえば、悪書が浜の真砂ほどあるのは先刻ご承知のはず。要するに論ずる対象はあくまで媒介される中身、コンテンツではないのかな。そこを取り違えたらマズイぜよ。「頂門の一針」の投稿者は割合スポーツファンが多いようだが、これもTVという手段があってメルマガに書ける>


励ましのような、叱責のような・・・下賤の身ながらもお客さんを癒して贔屓を増やし、やがてはナカ一番の花魁に、わちきはなりたいと思っていんす。


まあ、読んでくれているだけでも有り難い。シカトされるのが人間には一番こたえるらしい。生きながら殺されていくのはもっと酷い、生き地獄だ。


楊海英著「中国人の少数民族根絶計画」から。内モンゴルにおける毛沢東・中共の残虐は続く。


<妊娠中の女性の体内に手を入れて胎児を引っ張り出すという凄惨な犯罪も行われ、中国人たちはこれを「芯を抉り出す」と呼んでいました。


中国人の白高才と張旺清は、ワンハラというモンゴル人女性を「重要な犯人」だと決めつけ、様々な暴力で虐待しただけでなく、手を陰部に入れて子宮にまで達し、すでに4か月になっていた胎児を引き出しました。


彼女はこの暴挙が原因で障碍者となり、1976年に亡くなりました(楊海英編「モンゴル人ジェノサイドに関する基礎資料5」風響社)。


このように、文革中にモンゴル人女性に対して、人民解放軍と共産党幹部たち、それに中国人農民らが犯した罪は枚挙にいとまがありません。そして、これは決して過去の問題ではないのです。性的な犯罪を受けたモンゴル人女性は泣き寝入りを強制され、訴え出ることもできないまま今日に至っています。


女性たちが自らの被害について語ることができない中国社会は、二次的な加害行為がいまだに続いている事実を明示しています。文化大革命はモンゴル人にとって、いえ、人類にとって未解決な人道に対する犯罪です。そうである以上、私たちは国際社会および国際人道法廷に訴え続けなければなりません>


内を見れば中核派、革マル派、日共、立民・・・、外を見れば中共、北、露、ANTIFA、IS・・・、まずは中共を包囲殲滅戦で自壊させなければならない。同志諸君、長い戦いだ。無駄死にしません、勝つまでは! 健康に努めてイザッ!という時に備えようぜ。目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp