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雀庵の「常在戦場/70 妄想性餓狼 VS 痴呆性軟派」

2021-08-19 07:51:29 | 日記
雀庵の「常在戦場/70 妄想性餓狼 VS 痴呆性軟派」
“シーチン”修一 2.0


【Anne G. of Red Gables/354(2021/8/19/木】「水は低きに流れ、人は易きに流れる」。有名な格言だね、ちょっぴり苦い。「水は低きに流れる」は「人間の性(さが)は善であり(性善説)、政治が善であれば民も自然にそれに従う」ということ。「人は易きに流れる」は「人は苦労を嫌がり安直な方向に行きやすい」ということで、これは後世の人が追加したものらしいが、実に上手いことを言う。努力しなさい、頑張りなさいという「こら、鉄矢!」の叱咤激励の教え。


「水は低きに流れる」の原典は孟子で、「告子上」に曰く「人性之善也、猶水之就下也」(人の性(さが)は本来善である、それは水が低い方へ流れるのと同じだ)。また孟子「梁恵王上」の「民帰之、由水之就下、沛然誰能禦之」には現代語抄訳でこうある。


<孟子が梁の襄王に謁見した後、ある人にこう語った。襄王の姿を遠くから望むに人君たるの威容なく、接近するも少しも畏敬を感じることができなかった。王はだしぬけに我に問うた。


「天下はいずれに定まるであろうか」、我は答えた。「一つに定まるでありましょう」。王「誰が一つにするであろうか」、我「人を殺すことを好まぬ者が、やがては天下と共にこれを統一するでありましょう」。すると王が云った、「それでは誰が天下と共にするであろうか」と。我は云った。


「王よ、苗(なえ)を知りましょうや。七八月の間、日照りが続けば苗は枯れてしまいます。然るに一たび天が雲を湧き出だし、盛んに雨を降らせれば、苗は勢いづいて起き上がります。このように天と共に有るならば、誰がこれを阻むことができましょうか。
今、天下の諸侯は人を殺すを好む者ばかりです。もし、人を殺すを好まざる者が居れば、天下の人民はこぞってこれを慕い望むでありましょう。
誠にこのようであるならば、民の帰することは水の低きに就くが如く、誰がその勢いを妨げることができるでしょうか」と>


残虐な圧政で人民を抑えつけ、殺しまくっている為政者は、人民の支持を失うのは当たり前だ、水が低い方へ流れるように、人民は暴君から離れていく、それは誰にも止められない・・・孟子が暴君の襄王に「仁(じん)がなければ人民は付いてきませんよ」と諫めたわけだ。


襄王(恵王とも)は、中国戦国時代の梁(別名、魏)の3代君主。「恵王の時代の魏は、韓・趙・斉・秦の四カ国を敵に回した事で戦争が増え、相次ぐ動員によって民は疲弊していた。韓と趙とは恵王が即位する以前から魏と抗争状態にあったが、斉や秦とも敵対したのは恵王の野心が招いた失策とも言えた。孟子は恵王の好戦的性格を戒め、それを改めない限りどんなに小手先の徳を施しても無駄であることを暗に諭したのだった」(WIKI)


「仁」は「思いやり。いつくしみ。なさけ。特に、儒教における最高徳目で、他人と親しみ、思いやりの心をもって共生を実現しようとする実践倫理」(goo 辞書)。「仁」の反対語は「暴・悪・虐・惨・苛・狡・獪・濁」あたりか、これは習近平・中共そのものである。近隣国のみならずほとんど世界中から蛇蝎の如く嫌われているか怪しまれている。オマケは中共コロナ。うんざり!


毛沢東・中共は焚書坑儒で先人の教えをすべて排除したから、14億の国民がいても全部が習近平と同じオツム、中坊レベルの思考力しかない。中国社会科学院の研究者が訪日して日本の学者と討論したが、「中国人学者は皆、同じことを言う、組織が認定したこと以外は言わない。日本の学者が色々な意見、考えを述べるのを見て彼らは驚いていた」という。


「人は易きに流れる」・・・しかし中国の人民は「上に政策あれば下に対策あり」、面従腹背が処世術だ。本心が奈辺にあるか、○○か利巧か、小生にはちっとも分からない。以下は中国社会科学院文学院・李兆忠氏の論稿「漢字が表す二つの世界」(「人民中国」)。知的であり、共産主義者の怪しく愚かしい臭いがまったくないので調べたら香港に「保良局百周年“李兆忠”紀念中学」があるから、香港の学者、今は故人のようだ。その教え。


<四角い小さな漢字の中に、二つの異なる世界が存在している。一つはもともと中国で造られた中国製、もう一つは日本で改造された日本製である。


この二つの世界は、「あなたの中に私がいて、私の中にあなたがいる」ようなもので、コミュニケーションにはとても便利だ。しかし多くの場合、この両者は、うわべは親しそうに見えて実は心が通わず、似て非なるものなのである。


日本語の中の多くの語彙は、見た目では中国語とまったく同じだが、実は意味が非常に違う。中国から来たある代表団が日本の工場を見学したとき、工場内に掲げられている「油断一秒、怪我一生」というスローガンを見て、その文字面だけから「これは油が大切だと言っているのだな」と憶測した。
中国語では「一秒でも油が切れれば、生涯自分が悪いと思う」という意味になるからである。


しかし実は日本語では、これは安全生産のスローガンなのだ。「油断」は「不注意」、「怪我」は「傷を負う」という意味だとわかって大笑いになった、という。中国人と日本人がつきあうとき、この種の誤解は避けることができない。


日本語の中で使われる漢字の語彙には、中国人の想像を超えるものがほかにもたくさんある。たとえば、中国語での「無理やり」を意味する「勉強」は、日本語では「学習」の意味で使われる。中国語で「夫」を意味する「丈夫」は、日本語では「頑丈」の意味だ。


このように、表面の「毛皮」を傷つけることなく、中身の「肉」をすっかり「すり替え」てしまう日本人の知恵と想像力に、感心せざるを得ない。


しかし、われわれ中国人は、これに驚く必要はない。率直に言えば、現在の中国で使われている中国語の語彙の多くは、20世紀初めに日本から導入されたものだからだ。たとえば、「金融」「投資」「抽象」など、現代中国語の中の社会科学に関する語彙の60~70%は、日本語から来たものだという統計がある。


漢字文化圏に属する多くの国家や民族を見回して見ると、漢字をこのように創造的に「すり替え」、もう一つの漢字王国を樹立し、かつまた中国語へ「恩返し」しているのは、日本だけだ。


日本のすごいところは、中国の漢字に対して、受動的にそのまま受け入れるのでもなく、愚かにも高慢にそれを拒否するのでもない、自発的にそれを手に入れ、徹底的にそれを消化した後、自分の必要に応じて大胆な改造を行い、自分の言語にしてしまうところだ。だからこそ漢字は、日本にしっかりと根を下ろし、西洋文化の猛烈な襲来に耐えることができたのである。


客観的に見れば、この奇跡はかなりの程度、日本が島国であるという特殊な地理的環境によっている。広大な太平洋が天然の要害となり、異民族の鉄騎兵の侵入を阻止したばかりでなく、文化的に異民族に同化される運命から逃れることができた。


大陸とも適当に離れているため、日本は必要に応じて、自分より先進的な中国の文化を摂取し、ゆっくりとそれを咀嚼し、消化して、改造することができた。異文化をどう受け入れるか、その主動権は完全に自らの手中にあったのである。


これと同時に1200年前、日本は漢字を大規模に導入するとともに、「ひらがな」を発明した。ここで日本は自分の文字言語を持った。「ひらがな」は完全に漢字の草書体に啓発されて造られたものではあるが、大和民族の魂の深いところにある必要性から発したものでもある。


日本人から見るとおそらく、基本的に一つの漢字に一つの音がちゃんと対応している四角い漢字は、柔らかくて滑らかな日本語の感覚や、長さにこだわらない語彙とは多少隔たりがあり、曲線が美しく、簡潔な「ひらがな」こそが、日本人の発想や言語感覚により合致すると映るのだろう。


「ひらがな」は日本語の形を完成させた。それを用いて発音を表記することができ、漢字の発音を日本化させた。また、直接、日本固有の語彙を書き表すこともでき、助詞として用いてセンテンスを構造することもできる。まさに一石三鳥とも言うことができる。


「ひらがな」の創造は、日本語が自分の「形」と「心」を探し当てたことを意味する。これによって漢字は一つの重要な材料として日本語の構造の中に組み入れられた。この時、漢字の固有の意味は、時間の流れとともにひっくり返されたり、「すり替え」られたりすることが必然的に発生した。


日本語の漢字の語彙は明らかに軽く、生き生きとしている。使い方もそれほど厳格ではなく、通常、いくつかの異なる漢字を使って一つの日本固有の語彙に表している。それによって人々はさらに、一種の遊びの味を感じるのである。


漢字に対する違った考え方が、二つの異なる漢字の世界をもたらした。その優劣は、一概に論じられない。しかし、西洋文明が東側に浸透してきた「近代化」の歴史背景の中で見れば、その優劣ははっきりと示されている。当時、激しく湧き起ってきた近代化の流れと西洋の科学文化に直面した中日両国の学者たちは、まったく異なる姿勢と反応を示したのである。


たとえば、西洋の科学に関する著作を翻訳する際、清朝末期の中国の学者は「中学為体、西学為用」(中国の学問を「体」とし、西洋の学問を「用」とする)という文化的な信念を堅持し、中国の古典を引用して西洋科学の概念を既存の語彙に置き換えようとした。


例えば現在の「経済学」を「計学」あるいは「資生学」と翻訳したり、「社会学」を「群学」と訳したりしたのだが、結局はどうにもならなくなってしまった。


しかし日本の学者は、実用的で柔軟なやり方で、「文字本位制」の制限を受けずに、意訳の方法によって、数多くの多音節の語彙を作り出し、みごとに西洋の概念を置き換えることに成功した。これによって、日本が西洋に学び、「近代化」の道を歩んでいくうえで、言語の面で道路が舗装されたのだった。


もし日本が、漢字を借用して西洋の概念を置き換えることをしなかったら、現代の中国語はいったいどのようになっていただろうか。おそらく今よりも寂しいものになっていたのではないだろうか。多分、強い刺激や栄養に欠けているため、すばやく「近代化」することが難しくなったに違いない。


こうした角度から見れば、日本語の中国語への「恩返し」の功績を、われわれは決して忘れてはならないのである>


何となくこそばゆいね、「いえいえ、中国があってこその漢字です、日本語式の漢字がお役に立てたのは、ほんのお礼にすぎません。近々、日本式文化大革命をお贈りしますので、どうぞご笑納ください」と言いたくなる。


漢字文化圏の国は今では中国、日本、台湾しかない。ベトナム、朝鮮は離脱した。毛沢東・中国は簡体字を強制して古典を読めなくした、つまり人民を暗愚にした。日本は敗戦以降、漢字の簡略化と使用制限により国民の軽佻浮薄化を進めている。まるで軽薄短小の軽チャー化。


暗愚の誇大妄想性餓狼VS平和ボケの痴呆性軽薄軟派のガチンコ・・・中共式文化大革命にやられそう・・・アフガンの今日は日本の明日かも知れない。古森義久先生の「アフガニスタン危機の日本への意味」Japan In-depth 2021/8/17から。


<南ベトナムと同じような悲劇がいまのアフガンで起きていることには同情を禁じえない。アフガンも南ベトナムも、アメリカに依存してきた国家の悲劇なのである。わが日本はこうした現実をまったくの対岸の火事として冷ややかにみることができるのか。私にはそうは思えない。


なぜならわが日本も自国の安全保障、自国の防衛に関してはアフガンや南ベトナムと同じように超大国アメリカにほぼ全面依存しているからだ。もし、仮定の仮定のもし、である。アメリカが在日米軍を全面撤退させると宣言したらどうなるのか。日米同盟はもうアメリカの国益を利さないから破棄すると言明したらどうなるのか。


もちろんアメリカでは日本との同盟は自国の重要な国益にかなう基本政策として歴代の政権も議会も超党派でその堅持を支持してきた。なにしろもう70年以上の実績がある。


だがそれでもどんな国のどんな対外政策も永遠に不変であるはずがない。ましてアメリカは政府が国民多数の意思によって動く民主主義国家である。日本との同盟も、在日米軍の駐留も「もう必要ない」と決めるというシナリオは起きうるのだ。


日本にとっては日本の固有の領土を軍事手段ででも奪取しようとする中国という敵性の強い国家が存在する。その中国ではつい最近も台湾有事では日本に対して核攻撃をかけるという戦略が動画という形で公表された。北朝鮮も日本を核兵器で海底に沈めるぞ、と脅すほどの敵対性をみせる。


こうした日本への脅威を実際の攻撃や侵略にならないように抑えているのはアメリカの同盟国としての強大な軍事抑止力である。その抑止がなくなるとき、つまりアメリカ軍が日本から去るとき、日本はどうすればよいのか。アフガンでの悲劇をみると、ついそんなところまで考えさせられるのだ>


水が低きに流れるように日本人は易きに流れる・・・国家の危機にあっては「それはあり得ない」と我々は断言できるか。そう断言ないことが恐ろしい。
目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp
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