gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

雀庵の「常在戦場/100 「孫文、魯迅、中共の大失敗」(上)

2021-10-24 07:17:57 | 日記
雀庵の「常在戦場/100 「孫文、魯迅、中共の大失敗」(上)
“シーチン”修一 2.0


【Anne G. of Red Gables/380(2021/10/24/日】孫文(孫中山)は「大清帝国を亡ぼし中華民国を起こした偉人」と小生は少年の頃から思っていた。


中2の1964年、東京五輪の頃に世界史の授業で学んだのかもしれない。五輪の最中に毛沢東が核実験をしたことを知らなかったのは、世界史の先生が日教組支持で内心は岩波社員の如く「やったーっ、万歳!」と思っていたのかもしれないが、これは他の教員や父兄から苦情が出るからなのか、教えてもらわなかった。五輪の熱狂の中で隠蔽された不都合な真実・・・


当時、孫文は亡くなってから半世紀たっていて「過去の歴史の偉人」として授業で触れてもいい、しかし毛沢東は評価が定まらない「今の人」だから授業では触れない、というルールがあったのだろう。今も昔も同じか?


歴史の授業は「今現在」から始めてはどうか。例えば中学の「日本近代史」なら明治維新→ 幕末→ 江戸幕府成立→ 戦国時代・・・と過去に遡った方が俄然興奮し興味津々、知的刺激になるのではないか。現在のように300万年前の間氷期から石器時代、縄文時代、弥生時代、倭国、大和国とかやっていたら「ハラハラドキドキ」の明治維新に到達する前に白髪三千丈、少年老い易く学成り難しになってしまいそう。


高校の授業なら「日本現代史」で2001年9.11テロ→ バブル経済→ GDP大国→ 60年安保→ 敗戦→ 大東亜戦争・・・とかに遡及する。愚息は大学生時代に「オヤジ、日本はアメリカと戦争していたんだって?!」と興奮していた、嗚呼。今の教育では話にならん、福田恒存曰く「教育の普及は浮薄の普及なり」、まったく嘆かわしいと小生は思うが、老いのタワゴトか。


それはそれとして、孫文(1866 - 1925)。気になる存在である。中共では国父のように崇敬されて、あちこちに「中山公園」があるが、実際に何をしたのか、小生はほとんど知らない。魯迅についても同様である。無知を自覚したら、それなりに納得できるまで調べたい、多動性老人は夢中になって1週間を過ごしてまとめたのが以下のレポートである。ご笑覧くだされ。・・・・・・・・・・・・・・・


10月10日は小生にとっては「1964年東京五輪の日」だが、支那では「中華民国」誕生を祝う「双十節」。「中華民国を成立させた辛亥革命(辛亥=しんがい、かのとい、干支の一つ、1911年を示す)の導火線としての武昌蜂起が起った宣統3 (1911) 年8月19日が太陽暦で10月10日にあたり、10が2つ重なるところから双十節と呼ばれる。中華民国では国祭日と定めたが、中華人民共和国では辛亥革命記念日と呼ばれている」(ブリタニカ)


満洲族による清朝統治から支那人による統治へ辛亥革命は「無血革命」のように移行したが、孫文は革命現場にはいなかった。痛恨のミス! 内戦必至とみて軍資金調達で外遊していたそうだが、清朝の想定外の「禅譲」で肩透かしを食ったようでパッとしない、どうも彼は運が悪い。日本大百科全書から(カッコ内は修一)。


<孫文は1911年10月に軍資金の募集でアメリカにいた。辛亥革命の勃発を知り、列強の援助を期待して(さらに)西欧を巡り(2か月後の12月25日に上海に)帰国。臨時大総統に推されて1912年1月1日、中華民国を発足させた>


遅れて来た青年・・・どころか当時の孫文は45歳の大人、「四十にして惑わず、不惑」を過ぎている。当時の日本では50歳で初老、隠居が一般的であったから、勢いとかオーラ、生臭さが薄らいで神輿に担ぐには丁度いい、象徴的な看板だったのではないか。


「中華民国を発足させた」とは言っても実態は清帝国から中華民国への政権移行期であり、行政機構の多くは清帝国のままだったろう。「ラストエンペラー」こと宣統帝=愛新覚羅溥儀の母である隆裕皇太后は溥儀に代わり、1912年2月12日、宣統帝の退位を決定し清王朝に幕を引く「詔勅」を発布した。溥儀の家庭教師、ジョンストンの訳(一部)から引用する。


<今や全国民が共和制政府に傾いている。南部と中部の諸州が、まずこの意向をはっきりと表明し、続いて北部諸州の軍部指導者も、同様の理想を支持すると約束した。人々の願望の本質を観察すれば「天命」が分かる。単に我ら自身の帝室の栄誉だけを思って、国民の欲求に逆らうことは当を得たことではない。


私は時代の兆候を知り、国民全体の意見の趨勢を吟味した。そこで私は皇帝の同意を得て、ここに主権を国民に賦与し、共和国の基礎の上に立憲政府を樹立することを宣言する。


私はこの決定を下すにあたり、政治的混乱の終息をひたすら待ち望む我が臣民に対し、慰めを与えたいと希望するのみならず、政治的主権が究極には人民にあることを教えた古の聖賢の訓言に従いたいという思いにも駆られるのである>


哀愁を帯びた名文だ。慶喜も戦線離脱、蟄居する前に一筆、書いておけば良かったのに・・・


詔勅にある「古の聖賢の訓言」とは、古くは孔子・儒教の「博(ひろ)く民に施して能(よ)く衆を済(すく)う」政治家は仁者どころか聖人だ、という教えや、1700年代後期の米国独立戦争やフランス革命で始まった「国民主権」の思想などだろう。日本が列強に危機感を持って明治維新で幕藩体制(封建時代)から西洋風の近代国民国家=資本主義経済へ舵を切ったように、列強に蚕食されるばかりの清帝国も近代化を進める必要を痛切に感じていたわけだ。


かくして孫文を頭に戴いて中華民国がスタートしたが、孫文ら中国国民党は議会選挙で過半数を得られず、また統治能力もないために、間もなく政権を袁世凱に渡した。


袁世凱は清朝の軍人政治家、ナポレオンのように混乱を終息させると期待されたのだろうが、逆に帝政を目指した。私利私欲で自由に生きるのが大好きな支那人をまとめて列強に抗する強国にするには、それしかないと思っていたのだろう。


<孫文は社会改革を志向したが、第二革命に敗れて日本に亡命。宋慶齢と再婚したのも、この間のことである(宋慶齢は米国留学中の資産家のご令嬢で、妹は蒋介石夫人の宋美齢)。第三革命で袁世凱が倒れたあとの軍閥混戦状態の下で三たび広州を中心に政権の樹立に努めた。


孫文は幾多の挫折を経て、軍閥の背後に帝国主義があり、人民と結合して反帝反軍閥の戦いを進めねばならないことを知り、ロシア革命に学んだ。1924年1月、中国国民党を改組して、中国共産党と提携(国共合作)し、労働者、農民の結集を図って国民革命を推進することとした>(日本大百科全書)


「軍閥」とは何か。WIKIなどではこう説明している。


<軍閥時代:1916~1928年にかけて中華民国が内戦状態となっていた時期を指す。袁世凱の死を契機に北京政府の統制が失われ、各地の軍閥が集合離散を繰り返す軍閥割拠の時代となった。


軍閥は、列強の後ろ盾を持ち、地主階級と結びつき、自勢力拡大を最優先する個人の首領に従う私兵集団であり、中央の統制を受けず、各地に自己の王国を形成していた。その後、蒋介石の北伐によって各軍閥が国民政府の統制下に入る形で一応は平定された。


清朝の正規軍は満洲族で構成された「八旗」と漢族で構成された「緑営」だったが、やがていずれも形骸化して役に立たなくなったので、反乱などが起こると義勇兵を募ったり(郷勇)、地方の有力者の私兵を動員したり(団練)して、臨時に軍隊を編成して対応するようになった。この臨時の軍隊がやがて常設されるようになり、さらに自立化して独立勢力のようになったのが軍閥である。


清朝の末期の軍隊はこの軍閥の寄り合い所帯のようで、兵隊は中央政府の命令よりも、直属の軍閥の長の命令に従った。


例えば、袁世凱(1859 - 1916年)は軍閥の長で清王朝の将軍でもあったが、義和団の乱(北清事件、1900年)の時には動かずに自己の勢力の保全に勤め、辛亥革命では革命側に付いて清朝を崩壊させた。革命後に孫文が亡命すると袁は中華民国の大統領に就任、圧倒的な勢力になり、他の軍閥も大人しく従っていたが、袁が急病死して政権が混乱すると従わなくなり、中国は軍閥の群雄割拠状態になっていく>


まったく支那の近現代史は波乱万丈、今でも軍閥・派閥が覇権争いをしている。永久革命的戦国時代、つける薬なしか? せめてドンパチは支那大陸内でやってくれ。


作家であり革命を求めていた魯迅(1881 - 1936年、「狂人日記」「阿Q正伝」で有名)は辛亥革命最中の1911~12年に小説「懐旧」を書いている。小生は「懐旧」は未読だが内容は「多くの人民は奴隷であるがために愚かになった、いつわりの伝統で(歴史や現状、自己を)欺き、革命家を理解せず、また援けもしない、人民の事業のために死んでいった人びとはあいかわらず人民からは遠い」(ロシアの魯迅研究家・翻訳者のバズネーエワ女史)というもので、魯迅のマルクス共産主義あるいは赤い自由主義への傾倒を示しているようだ。


1848年にマルクスとエンゲルスによる「共産党宣言」が発行され、その共産主義思想が1905年と17年のロシア革命で世界に拡散していった。当時の日本でも自由民権とか大正デモクラシーとして同様な主張が盛んになっていった。


正義感に溢れ、かつ理想的、科学的な革命思想に見え、世事に疎いインテリ、特に若者は“新思潮”に引き付けられたのだ。「流行り病 昔マルクス 今コロナ」。昨今の米国では時代錯誤のようなマルクス病感染者が増えているが、自覚がないからどうなるものやら・・・それはさておき、


そのマルクスボーイのリーダー格的な魯迅は1912年に孫文の口利きなのか中華民国の教育部(教育宣伝部門?)に招かれ、軍閥混戦状態の中にあっても1926年まで役人生活を送りながら革命を煽る主要な作品を発表していく。そこに北京で行われた民衆の請願デモに対して段祺瑞(北洋軍閥の親日派、北京政府のトップ)の衛兵が発砲して多数の死傷者を出した「3.18事件」が起きた。


<1926年3月18日に学生、市民など約5000人が北京の天安門前で国民大会を開き、列国の最後通牒に反対し「帝国主義打倒」「段祺瑞打倒」「8ヵ国公使を追放せよ」などのスローガンを掲げてデモを行い、執政府に陳情しようとして国務院に到着したが、軍警に阻止され、段祺瑞の命令で軍警が民衆に発砲、約50人の死者と多数の負傷者が出た。


魯迅は政府を激しく批判した。これに対し軍閥政府は魯迅を含め50数名を指名手配、彼は、日本人やドイツ人が経営する病院に潜伏を余儀なくされた。避難生活は5月には終わるが、その年8月北京を離れ、福建省にある厦門大学の中国文学の教授として迎えられた。翌1927年1月に広州に移り、中山大学文学系の主任兼教務主任の職に就いたが、4月に国民党による反共クーデターが起こり、嫌疑を受けて監視され、中山大学の職を辞した。


10月に上海に脱出し、以来、1936年に55歳で没するまで許広平夫人と上海で暮らした>(コトバンク、WIKIなど)


1925年、59歳で没した孫文、11年後に追った魯迅・・・辛亥革命以降、中国革命に殉じた、あるいは殺された人々は、中共帝国建国後の8000万~1億人を含めると数億になるだろう。孫文や魯迅などは今の習近平・中共を見て、あの世でどう思っているのか、霊能者とか恐山のイタコに聞きたいものだ。(つづく)
・・・・・・・・・・・
目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp
https://blog.goo.ne.jp/annegoftotopapa4646
まぐまぐID 0001690154「必殺クロスカウンター」