反共・反独裁の国際組織が必要
“シーチン”修一 2.0
【雀庵の「大戦序章」40/通算472 2022/5/9/月】ウラジーミル・プーチンはソ連建国の父ウラジーミル・レーニン著「共産主義における左翼小児病」を当然ながら読んでいるだろう。小生も50年振りに書棚から取り出してみたら、最終ページに「私本閲読許可証」が貼ってあった。「呼称番号:3202番、氏名:3002、閲読期間:自46.10.13 至46.11.12」とある。1971年に捕縛・収監されていた時に読んでいたのだ。毎朝点検があり「10舎点検ヨーイ、番号!」「2!」なんてやっていた。日射しの入らない北側の独房・・・無知・軽薄が招いた自業自得、嫌な思い出だ。
アカに洗脳されるとロクなことにならないが、その頃でも「革命で経済が破壊されるが、産業を復興させなければ国民を食わせられない、どうするのだろう?」と時々思っていた。アカの学者でもデータ不足のためか、その問題についてほとんど触れなかった。たとえ疑問に思っても、それを口にすることは利敵行為、腐敗した反革命分子として叩かれるからタブーだったのかも知れない。日本学術会議のように「保身第一」は今でも変わらないよう。右も左もそんなものか? 群れる動物、人間の性かも知れない。
ソ連にせよ中共にせよ、マルクス式共産主義「計画経済」はすべて失敗した。戦後以降の自由民主陣営による包囲網で1965年あたりから共産圏経済は斜陽になっていった。ムリとムダが多過ぎるのだ。エリート以外の民は慢性的なモノ不足、飢餓線上。それでソ連は自壊した。
中共はトウ小平が資本主義経済を導入して40年、最近になってようやく農村戸籍階級末端の日雇いルンペンプロレタリアートも飢餓から解放されたとか。ゼロコロナ経の習近平が言うことだから怪しいが、紅色貴族2代目、3代目は、夢も希望も持てない出稼ぎプロレタリアート下層階級の暴動、窮民革命を恐れているに違いない。
それにしても、未だに共産主義を「是」とする人がG7の国でも結構おり、日本では選挙投票者の20%、ドイツでは50%ほどが共産主義政党を支持しているようだ。アカ利権の WinWin ネットワークのようなものがあるのかもしれない。資本主義社会の自由民主人権法治を堪能しながら、一方では共産主義独裁を称揚する・・・まるで二重人格、今日はジキルで明日ハイドみたい。
米国民主党もそれに近いが、小生のような単純脳では理解し難い人たちだ。単なる無知ではないと思う。無恥? 利権でうまい汁を吸うパラサイトが多いのではないか。以下、WIKIなどを参考に共産主義を分かりやすく解剖してみる。敵を知り己を知れば百戦危うからず。
・・・・・・
1917年、日本は大正6年、第一次世界大戦の真っ最中だった。3月(ロシア暦2月)に 「ロシア2月革命」が勃発、国会臨時委員会が臨時政府を樹立し、ニコライ2世が退位、ロマノフ朝が滅亡した。4月には日本もロシア臨時政府を承認している。
同年10月には首都ペトログラードで労働者や兵士らによる武装蜂起を発端に革命戦争が始まり、レーニン率いるボリシェビキ派が躍進した。
一般にこの2月と10月の革命を「ロシア革命」と呼んでいる。有史以来初めてのマルクス流共産主義国を目指す「社会主義国・ソビエト連邦」の誕生である(ソビエト=委員会、評議会、共産党占領地域の意)。以後、ソ連と共産主義思想は世界史に大きな影響を与えた。
当時の世界は弱肉強食の帝国主義時代である。弱者集団や弱国は列強の植民地になっていた。明治維新で近代化を急いだ日本は植民地にならないために富国強兵を急ぎ、遅れて来た新帝国ではあるが植民地にならなかったのは先人の努力による。明治の為政者には武士道精神があった。
近代化、国際化は、先進国の自由民主人権法治の主義思想も日本にもたらした。日本の国情に合わない、などと否定すれば「蛮族め! それなら不平等条約改定は受け入れないぞ!」となるから、列強式の自由民主を進めなければならない。かくして大正年間には「大正デモクラシー」と呼ばれる護憲運動が盛んになり、明治以来の強権的な政治体制が揺らいで政党勢力が進出することになった。
第一次世界大戦(1914/大正3年~1918/大正7年)では、元老の井上馨はその機会を「天佑」と言い、日英同盟を理由に参戦。対独戦火のヨーロッパ列強各国に代わり、日本とアメリカの両新興国家が物資の生産拠点として貿易を加速させ、日本経済は空前の好景気となり、大きく経済を発展させた。
特に世界的に品不足となった影響で繊維などの軽工業や、造船業・製鉄業など重工業が飛躍的に発展、未発達産業であった化学工業も最大の輸入先であるドイツとの交戦によって自国による生産が必要とされ、一気に近代化が進んだ。また、政府財政も日露戦争以来続いた財政難を克服することに成功した。日本も415人の戦死者を出したものの連合国として勝者の側につき、列強「五大国」の一員となった。
戦後には、ベルサイユ・ワシントン体制に順応的な幣原喜重郎外相による幣原外交が展開され、中国(中華民国)への内政不干渉、ソ連との国交樹立など、一定のハト派・国際協調的な色彩を示した>
・・・・・・・
ソ連との国交樹立・・・良かったのかどうか。幣原喜重郎と言えば「軟弱外交」「GHQ憲法受け入れ」。肝心な時に日本をミスリードした人という印象がある。リベラルは「寛容を装うワル」「危険な容共派」と警戒していた方が良いのではないか。ハト派の鳩山由紀夫・・・これはただの暗愚だ。
レーニンは「冷人」か。冷静沈着な人か、冷酷非道な人か。「冷静冷酷な殺人鬼」が正解である。子分のトロツキー、スターリン、毛沢東、プーチンも己以外の「人命」をまったく気にしないという凄さがある。気に入らない人間がいると側近が忖度して始末するから何人殺されようとまったく痛痒を感じない。皇帝ニコライ2世のロマノフ一族は革命の翌年1918年7月17日に秘密裏に暴行虐殺された。
赤色独裁暴君の元祖レーニンが「共産主義における左翼小児病」を書いたのは、1917年のロシア革命から3年後の1920/大正9年である。政権を掌握したといっても、それは複数政党による連立政権であり、彼が率いるボリシェビキ派(少数派の意)は党内、党外の「左翼小児病」、つまり彼にとっての「政敵」排除を強力に進めていく。彼の理想とする革命を推進するためには一党独裁、個人独裁が必須だったのだ。「色々な意見を聞き、調整し、政策を決める」という民主主義は、彼の思考にはない。自分が絶対的な正義であり、それ以外は全て悪、邪道、反革命なのだから。彼は「共産主義における左翼小児病」の中で政敵排除の手口をこう指導する。
<社会主義革命が行われても、一国でブルジョワジーが打倒されても、ブルジョワジーは国際的な繋がりを持っており、プロレタリアートは弱いままだ。強い敵には最大の努力を払い、小さな「ひび」でも、派閥間の「利害対立」でも、とにもかくにも、大衆的同盟者を味方につけ、あらゆる可能性を利用しなくてはならない。綿密に、注意深く、用心深く、上手に利用する。これを理解しない者は、マルクス主義を理解していない。
長い期間、様々な政治情勢の中でこの真理を実践的に示さなかった者は、人類を搾取者から解放する闘争の中でまだ学びが足りない。「我々の理論は教条ではなく、行動の手引きである」、こうマルクスとエンゲレスは言っている。カウツキーらのような「特許」マルクス主義者の最大の過ち、最大の罪は、彼らがこの真理を理解せず、プロレタリアート革命の最も重要な瞬間にこれを適用できなかったことである。
西欧とアメリカの左翼共産主義者と労働者階級に忠実な革命家たちは、この真理を自分のものにするために、かつ遅れたロシア人のように高い代金を支払わないように、何が何でも努力しなければならない!>
異議なし!と叫びたくなるほど上手いなあ、さすが世界史に名を遺すほどのワル、アジテーターである。共産主義は一種の一神教、神はマルクスで、共産党トップが不可侵の法皇、預言者だ。レーニンは預言者を経て神になった。
上記の引用にあるカウツキー(オーストリア人)は晩年のマルクス、エンゲレスと親しく、当時の共産主義思想の泰斗。1918年に上梓した「プロレタリアートの独裁」でソビエト社会主義政権を「一党独裁」と非難し、「民主主義による社会主義の実現」を主張したから、レーニンは猛烈に反発し「背教者」「ユダ」「日和見主義」などと激しく罵倒したわけだ。聞く耳もたず、下郎の逆恨み、アカはそういう人種、蛮族である。
さて、以上、長々と第一次世界大戦と共産主義革命について紹介したが、今のウクライナの対露防衛・独立戦争は「ロシア革命の100年前から始まっていた」ことを知ってびっくりしたからである。ボリシェビキによる権力奪取は近隣国、ロシア帝国の属国にも甚大な影響を及ぼしたのだ。こういう事情だ。
<ロシア人以外の民族が多数派を占める地域は、1917年の2月革命の後に相次いで独立宣言を行ったり独立への動きを見せたが、(レーニンの思うようには)ソビエトへの移行は進まなかった。ウクライナでは中央ラーダ(議会)が1917年6月10日に自治を宣言し「ウクライナ人民共和国」の創立を宣言した。これにより(従属を求める)ボリシェビキ政府と対立を深め、12月の赤軍のウクライナ侵攻を発端に全面的な武力衝突へ至り、1918年1月にウクライナはロシア・ソ連からの独立を宣言したものの、1921年末には弾圧され、ここに4年にわたるウクライナ内戦はウクライナ勢力の敗北のうちに終結した>(WIKI)
1991年のソ連崩壊でウクライナはロシア・ソ連のくびきから逃れ8月24日、独立宣言し、国名もウクライナ・ソビエト社会主義共和国から「ウクライナ」に改めた。その後の30年は自由民主国家を目指すものの内政での騒擾やプーチン・ロシアの「ウクライナ奪還」の圧力もあり、以下のような苦難の道を歩んでいる。
2004年11月~2005年1月:オレンジ革命。2014年2月18日~23日:マイダン革命による親ロシア政権打倒。2014年3月18日:ロシアのクリミア併合。2014年5月12日:ドネツク人民共和国・ルガンスク人民共和国の独立宣言。2021年3月:ロシア・ウクライナ危機の発生。2022年2月21日:上記の2カ国をロシアが承認。2022年2月24日:ロシアによるウクライナ侵攻開始・・・
ロシアの武力攻勢を国連は止めることができない。小生は日本語表記の「国際連合」を「連合国機構」と表記すべきだと思っている。それなら第2次世界大戦の勝者である米英仏露中の、勝者による、勝者のための組織だと分かるから、日本人も変な期待、たとえば国連=正義&中立とか根拠のない甘い幻想を抱くことはないと思うのだが・・・国連のサイト(WIKI版)から。
<国連は第2次世界大戦後、将来の戦争を防ぐ目的で設立され、(戦争抑止)効果のない国際連盟の後継を果たしました。国連には6つの主要な機関があります。総会、安全保障理事会、経済社会理事会、信託統治評議会、国際司法裁判所、国連事務局です。
安全保障理事会(安保理)は、国家間の平和と安全を維持する責任を負っています。安保理の5つの常任理事国は国連決議に対して拒否権を持ち、決議の採択を阻止することができます。理事会の決定は国連安保理決議として知られています。
世界平和を維持するという組織の使命は、その初期の数十年間、米国とソ連、それぞれの同盟国との間の冷戦によって複雑でした。その任務は、主に非武装の軍事オブザーバーと、主に監視、報告、信頼醸成の役割を持つ軽武装の軍隊で構成されてきました>
安全保障理事会は国連のキモだが、理事会の1か国でも拒否権を行使されたら何もできない。まるでザルだ。しかし、瓢箪から駒で、ザルだから国連が成立したらしい。
<安全保障理事会の5か国の常任理事国は拒否権を認められているから、自国の国益に反すると思われる決議案を、自己の1票によって葬り去ることができる。この拒否権の是非は国連創設後の数年間盛んだったが、事実は「拒否権さえなければ強制力のある国際機構ができる」のではなく「拒否権がなければ(そもそも)国際連合は成立し得なかった」のである。
1944年8月、米ダンバートンオークスで国際連合憲章の草案が検討されたとき、ソ連は安全保障理事会での決議は常任理事国全部の賛成を要とすることにし、特に、その決議の対象が理事国の一つである場合にも、その理事国が評決に加わる権利をを持つことを主張した。
これに対して英・米は「当事国が表決に加わるのは不合理である」と述べて反論したが、ソ連はその主張を変えなかった。その結果、ダンバートンオークスの会議では安保理の表決方法については決定がなされず、1945年2月のヤルタ会談でルーズベルト大統領がソ連の主張をそのまま認めて現在の拒否権が生まれたのである。それによって初めてソ連は国際連合に入ることに合意した>(高坂正堯著「国際政治」)
国連の生みの親である米国のFDRルーズベルトを小生はアカだと疑っているが、狡猾、悪魔的な罠を用意し日本を挑発して戦端を開かせ、一気に第2次大戦への参戦、そして大勝利により米国を戦後世界の覇者にしたのは「すごい」と認めざるを得ない。虚偽、謀略、冷酷非道、ソ連支援・・・まるでレーニンが甦ったような政治家で、米国内でもいろいろな批判はあるが、「米国を唯一の超大国にした」「戦後世界で列強間の熱戦を抑え込んだ」という評価は今でも不動だ。
しかしながら、彼の創った安保理はプーチン・ロシアの身勝手な侵略戦争や、習近平・中共の戦狼外交により最早、抑止力機能を失った、賞味期限をとっくに過ぎた、と言えるだろう。国連の大改革、あるいは実効性のある新たな安保理的枠組み構築を早急に進めるべきである。
・・・・・・・・・・・・・・
目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp
https://blog.goo.ne.jp/annegoftotopapa4646
https://note.com/gifted_hawk281/n/n9b3c7f4231f9
まぐまぐID 0001690154「必殺クロスカウンター」
“シーチン”修一 2.0
【雀庵の「大戦序章」40/通算472 2022/5/9/月】ウラジーミル・プーチンはソ連建国の父ウラジーミル・レーニン著「共産主義における左翼小児病」を当然ながら読んでいるだろう。小生も50年振りに書棚から取り出してみたら、最終ページに「私本閲読許可証」が貼ってあった。「呼称番号:3202番、氏名:3002、閲読期間:自46.10.13 至46.11.12」とある。1971年に捕縛・収監されていた時に読んでいたのだ。毎朝点検があり「10舎点検ヨーイ、番号!」「2!」なんてやっていた。日射しの入らない北側の独房・・・無知・軽薄が招いた自業自得、嫌な思い出だ。
アカに洗脳されるとロクなことにならないが、その頃でも「革命で経済が破壊されるが、産業を復興させなければ国民を食わせられない、どうするのだろう?」と時々思っていた。アカの学者でもデータ不足のためか、その問題についてほとんど触れなかった。たとえ疑問に思っても、それを口にすることは利敵行為、腐敗した反革命分子として叩かれるからタブーだったのかも知れない。日本学術会議のように「保身第一」は今でも変わらないよう。右も左もそんなものか? 群れる動物、人間の性かも知れない。
ソ連にせよ中共にせよ、マルクス式共産主義「計画経済」はすべて失敗した。戦後以降の自由民主陣営による包囲網で1965年あたりから共産圏経済は斜陽になっていった。ムリとムダが多過ぎるのだ。エリート以外の民は慢性的なモノ不足、飢餓線上。それでソ連は自壊した。
中共はトウ小平が資本主義経済を導入して40年、最近になってようやく農村戸籍階級末端の日雇いルンペンプロレタリアートも飢餓から解放されたとか。ゼロコロナ経の習近平が言うことだから怪しいが、紅色貴族2代目、3代目は、夢も希望も持てない出稼ぎプロレタリアート下層階級の暴動、窮民革命を恐れているに違いない。
それにしても、未だに共産主義を「是」とする人がG7の国でも結構おり、日本では選挙投票者の20%、ドイツでは50%ほどが共産主義政党を支持しているようだ。アカ利権の WinWin ネットワークのようなものがあるのかもしれない。資本主義社会の自由民主人権法治を堪能しながら、一方では共産主義独裁を称揚する・・・まるで二重人格、今日はジキルで明日ハイドみたい。
米国民主党もそれに近いが、小生のような単純脳では理解し難い人たちだ。単なる無知ではないと思う。無恥? 利権でうまい汁を吸うパラサイトが多いのではないか。以下、WIKIなどを参考に共産主義を分かりやすく解剖してみる。敵を知り己を知れば百戦危うからず。
・・・・・・
1917年、日本は大正6年、第一次世界大戦の真っ最中だった。3月(ロシア暦2月)に 「ロシア2月革命」が勃発、国会臨時委員会が臨時政府を樹立し、ニコライ2世が退位、ロマノフ朝が滅亡した。4月には日本もロシア臨時政府を承認している。
同年10月には首都ペトログラードで労働者や兵士らによる武装蜂起を発端に革命戦争が始まり、レーニン率いるボリシェビキ派が躍進した。
一般にこの2月と10月の革命を「ロシア革命」と呼んでいる。有史以来初めてのマルクス流共産主義国を目指す「社会主義国・ソビエト連邦」の誕生である(ソビエト=委員会、評議会、共産党占領地域の意)。以後、ソ連と共産主義思想は世界史に大きな影響を与えた。
当時の世界は弱肉強食の帝国主義時代である。弱者集団や弱国は列強の植民地になっていた。明治維新で近代化を急いだ日本は植民地にならないために富国強兵を急ぎ、遅れて来た新帝国ではあるが植民地にならなかったのは先人の努力による。明治の為政者には武士道精神があった。
近代化、国際化は、先進国の自由民主人権法治の主義思想も日本にもたらした。日本の国情に合わない、などと否定すれば「蛮族め! それなら不平等条約改定は受け入れないぞ!」となるから、列強式の自由民主を進めなければならない。かくして大正年間には「大正デモクラシー」と呼ばれる護憲運動が盛んになり、明治以来の強権的な政治体制が揺らいで政党勢力が進出することになった。
第一次世界大戦(1914/大正3年~1918/大正7年)では、元老の井上馨はその機会を「天佑」と言い、日英同盟を理由に参戦。対独戦火のヨーロッパ列強各国に代わり、日本とアメリカの両新興国家が物資の生産拠点として貿易を加速させ、日本経済は空前の好景気となり、大きく経済を発展させた。
特に世界的に品不足となった影響で繊維などの軽工業や、造船業・製鉄業など重工業が飛躍的に発展、未発達産業であった化学工業も最大の輸入先であるドイツとの交戦によって自国による生産が必要とされ、一気に近代化が進んだ。また、政府財政も日露戦争以来続いた財政難を克服することに成功した。日本も415人の戦死者を出したものの連合国として勝者の側につき、列強「五大国」の一員となった。
戦後には、ベルサイユ・ワシントン体制に順応的な幣原喜重郎外相による幣原外交が展開され、中国(中華民国)への内政不干渉、ソ連との国交樹立など、一定のハト派・国際協調的な色彩を示した>
・・・・・・・
ソ連との国交樹立・・・良かったのかどうか。幣原喜重郎と言えば「軟弱外交」「GHQ憲法受け入れ」。肝心な時に日本をミスリードした人という印象がある。リベラルは「寛容を装うワル」「危険な容共派」と警戒していた方が良いのではないか。ハト派の鳩山由紀夫・・・これはただの暗愚だ。
レーニンは「冷人」か。冷静沈着な人か、冷酷非道な人か。「冷静冷酷な殺人鬼」が正解である。子分のトロツキー、スターリン、毛沢東、プーチンも己以外の「人命」をまったく気にしないという凄さがある。気に入らない人間がいると側近が忖度して始末するから何人殺されようとまったく痛痒を感じない。皇帝ニコライ2世のロマノフ一族は革命の翌年1918年7月17日に秘密裏に暴行虐殺された。
赤色独裁暴君の元祖レーニンが「共産主義における左翼小児病」を書いたのは、1917年のロシア革命から3年後の1920/大正9年である。政権を掌握したといっても、それは複数政党による連立政権であり、彼が率いるボリシェビキ派(少数派の意)は党内、党外の「左翼小児病」、つまり彼にとっての「政敵」排除を強力に進めていく。彼の理想とする革命を推進するためには一党独裁、個人独裁が必須だったのだ。「色々な意見を聞き、調整し、政策を決める」という民主主義は、彼の思考にはない。自分が絶対的な正義であり、それ以外は全て悪、邪道、反革命なのだから。彼は「共産主義における左翼小児病」の中で政敵排除の手口をこう指導する。
<社会主義革命が行われても、一国でブルジョワジーが打倒されても、ブルジョワジーは国際的な繋がりを持っており、プロレタリアートは弱いままだ。強い敵には最大の努力を払い、小さな「ひび」でも、派閥間の「利害対立」でも、とにもかくにも、大衆的同盟者を味方につけ、あらゆる可能性を利用しなくてはならない。綿密に、注意深く、用心深く、上手に利用する。これを理解しない者は、マルクス主義を理解していない。
長い期間、様々な政治情勢の中でこの真理を実践的に示さなかった者は、人類を搾取者から解放する闘争の中でまだ学びが足りない。「我々の理論は教条ではなく、行動の手引きである」、こうマルクスとエンゲレスは言っている。カウツキーらのような「特許」マルクス主義者の最大の過ち、最大の罪は、彼らがこの真理を理解せず、プロレタリアート革命の最も重要な瞬間にこれを適用できなかったことである。
西欧とアメリカの左翼共産主義者と労働者階級に忠実な革命家たちは、この真理を自分のものにするために、かつ遅れたロシア人のように高い代金を支払わないように、何が何でも努力しなければならない!>
異議なし!と叫びたくなるほど上手いなあ、さすが世界史に名を遺すほどのワル、アジテーターである。共産主義は一種の一神教、神はマルクスで、共産党トップが不可侵の法皇、預言者だ。レーニンは預言者を経て神になった。
上記の引用にあるカウツキー(オーストリア人)は晩年のマルクス、エンゲレスと親しく、当時の共産主義思想の泰斗。1918年に上梓した「プロレタリアートの独裁」でソビエト社会主義政権を「一党独裁」と非難し、「民主主義による社会主義の実現」を主張したから、レーニンは猛烈に反発し「背教者」「ユダ」「日和見主義」などと激しく罵倒したわけだ。聞く耳もたず、下郎の逆恨み、アカはそういう人種、蛮族である。
さて、以上、長々と第一次世界大戦と共産主義革命について紹介したが、今のウクライナの対露防衛・独立戦争は「ロシア革命の100年前から始まっていた」ことを知ってびっくりしたからである。ボリシェビキによる権力奪取は近隣国、ロシア帝国の属国にも甚大な影響を及ぼしたのだ。こういう事情だ。
<ロシア人以外の民族が多数派を占める地域は、1917年の2月革命の後に相次いで独立宣言を行ったり独立への動きを見せたが、(レーニンの思うようには)ソビエトへの移行は進まなかった。ウクライナでは中央ラーダ(議会)が1917年6月10日に自治を宣言し「ウクライナ人民共和国」の創立を宣言した。これにより(従属を求める)ボリシェビキ政府と対立を深め、12月の赤軍のウクライナ侵攻を発端に全面的な武力衝突へ至り、1918年1月にウクライナはロシア・ソ連からの独立を宣言したものの、1921年末には弾圧され、ここに4年にわたるウクライナ内戦はウクライナ勢力の敗北のうちに終結した>(WIKI)
1991年のソ連崩壊でウクライナはロシア・ソ連のくびきから逃れ8月24日、独立宣言し、国名もウクライナ・ソビエト社会主義共和国から「ウクライナ」に改めた。その後の30年は自由民主国家を目指すものの内政での騒擾やプーチン・ロシアの「ウクライナ奪還」の圧力もあり、以下のような苦難の道を歩んでいる。
2004年11月~2005年1月:オレンジ革命。2014年2月18日~23日:マイダン革命による親ロシア政権打倒。2014年3月18日:ロシアのクリミア併合。2014年5月12日:ドネツク人民共和国・ルガンスク人民共和国の独立宣言。2021年3月:ロシア・ウクライナ危機の発生。2022年2月21日:上記の2カ国をロシアが承認。2022年2月24日:ロシアによるウクライナ侵攻開始・・・
ロシアの武力攻勢を国連は止めることができない。小生は日本語表記の「国際連合」を「連合国機構」と表記すべきだと思っている。それなら第2次世界大戦の勝者である米英仏露中の、勝者による、勝者のための組織だと分かるから、日本人も変な期待、たとえば国連=正義&中立とか根拠のない甘い幻想を抱くことはないと思うのだが・・・国連のサイト(WIKI版)から。
<国連は第2次世界大戦後、将来の戦争を防ぐ目的で設立され、(戦争抑止)効果のない国際連盟の後継を果たしました。国連には6つの主要な機関があります。総会、安全保障理事会、経済社会理事会、信託統治評議会、国際司法裁判所、国連事務局です。
安全保障理事会(安保理)は、国家間の平和と安全を維持する責任を負っています。安保理の5つの常任理事国は国連決議に対して拒否権を持ち、決議の採択を阻止することができます。理事会の決定は国連安保理決議として知られています。
世界平和を維持するという組織の使命は、その初期の数十年間、米国とソ連、それぞれの同盟国との間の冷戦によって複雑でした。その任務は、主に非武装の軍事オブザーバーと、主に監視、報告、信頼醸成の役割を持つ軽武装の軍隊で構成されてきました>
安全保障理事会は国連のキモだが、理事会の1か国でも拒否権を行使されたら何もできない。まるでザルだ。しかし、瓢箪から駒で、ザルだから国連が成立したらしい。
<安全保障理事会の5か国の常任理事国は拒否権を認められているから、自国の国益に反すると思われる決議案を、自己の1票によって葬り去ることができる。この拒否権の是非は国連創設後の数年間盛んだったが、事実は「拒否権さえなければ強制力のある国際機構ができる」のではなく「拒否権がなければ(そもそも)国際連合は成立し得なかった」のである。
1944年8月、米ダンバートンオークスで国際連合憲章の草案が検討されたとき、ソ連は安全保障理事会での決議は常任理事国全部の賛成を要とすることにし、特に、その決議の対象が理事国の一つである場合にも、その理事国が評決に加わる権利をを持つことを主張した。
これに対して英・米は「当事国が表決に加わるのは不合理である」と述べて反論したが、ソ連はその主張を変えなかった。その結果、ダンバートンオークスの会議では安保理の表決方法については決定がなされず、1945年2月のヤルタ会談でルーズベルト大統領がソ連の主張をそのまま認めて現在の拒否権が生まれたのである。それによって初めてソ連は国際連合に入ることに合意した>(高坂正堯著「国際政治」)
国連の生みの親である米国のFDRルーズベルトを小生はアカだと疑っているが、狡猾、悪魔的な罠を用意し日本を挑発して戦端を開かせ、一気に第2次大戦への参戦、そして大勝利により米国を戦後世界の覇者にしたのは「すごい」と認めざるを得ない。虚偽、謀略、冷酷非道、ソ連支援・・・まるでレーニンが甦ったような政治家で、米国内でもいろいろな批判はあるが、「米国を唯一の超大国にした」「戦後世界で列強間の熱戦を抑え込んだ」という評価は今でも不動だ。
しかしながら、彼の創った安保理はプーチン・ロシアの身勝手な侵略戦争や、習近平・中共の戦狼外交により最早、抑止力機能を失った、賞味期限をとっくに過ぎた、と言えるだろう。国連の大改革、あるいは実効性のある新たな安保理的枠組み構築を早急に進めるべきである。
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目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp
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