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ウクライナは明日の日本

2022-05-20 07:12:21 | 日記
ウクライナは明日の日本
“シーチン”修一 2.0


【雀庵の「大戦序章」44/通算476 2022/5/20/金】人生、生き方、思想、感性に決定的な「プラス」を与えた本。「本との出会い、本当の出会い」・・・小生にも5~10回ほど読み返した本が何冊かあるが、中核派の吶喊小僧から抜け出る契機になったのは20歳のときに千葉刑務所独房で読んだヴォーリン著「知られざる革命 クロンシュタット反乱とマフノ運動 」(1966年)だった。房で3回、シャバで2回ほど読んだろう。


同書はレーニン、トロツキー、スターリンらが進めた一党独裁的、異見を許さない暴力的な統治に対し、「こんなのは我々の目指す共産主義ではない」とクロンシュタット軍港の水兵が反旗を翻して蜂起したものの、徹底的に潰され、容赦なく殺されたロシア革命の裏面史を伝えている。


保釈後の1972年2月に「人民を解放すべき共産主義が、異を唱えた人民を情け容赦なく殺す、解放どころかツァーリ(ロマノフ王朝)以上の圧政じゃないか」と中核派幹部(全学連三里塚現地闘争本部長の前田さん)にレポートを出したところ、反論されるのではなく「お前は消耗どころじゃない、腐っている」と背を向けられた。惨めな感じで、夕方の雪が残る農道をとぼとぼと天神峰のバス停に向かったことを覚えている。


夕べ、久し振りに同書を読んでみたら、後半にウクライナのことが書かれていた。ウクライナ人は数百年間、周辺列強に支配され、奴隷化、あるいは圧迫され続け、1991年のソ連崩壊でようやく独立できた、だからこそ今必死で独立を守ろうとしているのだ。以下、同書からざっと「ウクライナ人の歴史」を振り返る。(*)は小生の補足。
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1918年のブレスト・リトフスク条約(*1)の締結により、ロシア・ボリシェビキの後退したウクライナへオーストリア、ドイツが自由に接近するようになった。


<*1)ロシア革命翌年の1918年3月3日、ベラルーシのブレスト・リトフスクでソビエト政府がドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、ブルガリア王国、オスマン帝国の同盟国側と結んだ講和条約。


ロシア革命後、ソビエト政府は、すべての交戦国に無併合、無償金、民族自決を原則とする講和を訴えた。しかし、協商国側はこれに応ぜず、ドイツ側だけが応じた。1917年12月22日に開始された交渉は、ドイツ側の過大な領土要求のために難航した。1918年1月、レーニンはロシア革命の「息継ぎ」のために即時講和を主張。この交渉引き伸ばしの間に、ドイツ側の態度を非難しソビエトを支持する気運が、東・中欧および西欧に広がったが、2月18日ドイツ側は対ソ攻撃を再開した。


3月3日に調印された講和により、ロシアはポーランド、バルト海沿岸、ベラルーシの一部、ザカフカスの一部を放棄、ウクライナの独立を承認し、有力な穀倉地帯や工業中心地を失った(日本大百科全書)>


戦勝国のドイツらは軍事的行動だけにとどまらず、ウクライナの政治経済にまで侵入してきた。彼らの目的は収穫物を自分のものにすることだった。この目的を容易に遂げるために、彼らは、かつて民衆によって転覆された貴族と地主階級の権力を復活させ、(元ポーランド軍司令官)ヘトマン・スコロパッキーの独裁政府を設けた。


オーストリア、ドイツの軍隊は将校たちによって計画的に誤った方向へ導かれ、ウクライナ国民への敵愾心を育て、国内秩序は破壊され、労働者、農民を恐怖に陥れた。オーストリア、ドイツによる経済的略奪は莫大なもので、輸送方法に困るほど小麦、家畜、卵、肉などを何百、何千という貨車で運び去った。農民が抵抗したりすれば鞭打ち、報復、銃殺が待っていた。


侵略者の乱暴狼藉は「ペトルーラ」(占領支配に抵抗する民主共和国志向の非正規軍)の運動を活発化させ、1918年6月から8月には農民は地主を襲撃した。しかし、ヘトマンと地主、ドイツの報復を受け、反乱した村々の農民は鞭打たれ、処刑され、財産は焼かれた。


あくまで反乱を持ちこたえた農民は自然発生的にパルチザン部隊を形成し、20騎、50騎、100騎の武装騎兵隊で、貴族やその代行者、ヘトマン軍を神出鬼没のゲリラ戦で殲滅していった。


やがて反乱が頻繁に起こるようになり、それに対する政府軍の報復も苛烈になると、各地のパルチザン部隊は結束していく。この統一と、南部全体への発展を進めたのが農民のネストロ・マフノ(*2)だった・・・


<*2)ネストル・マフノ(1889~1934)はソ連統治下のウクライナの農民運動指導者。農民出身で元・農民労働者ソビエト議長。


マフノはアナキスト(小さな政府で、基本は人民の自治・自由を主体とする国家を良しとする思想・運動)の活動に参加し、1910〜17年懲役刑に服す。その後郷里で農民運動の指導者となった。内戦期には農民軍を組織し、地主勢力、ドイツ占領軍、デニキンの白衛軍と戦う。1919〜20年、穀物徴発政策をめぐりソビエト政府軍と戦ったが、農民軍は壊滅し、1921年妻と娘とともに亡命。


日本では大杉栄による紹介「無政府主義将軍ネストル・マフノ」(1923年)以来知られる。著書に3巻の回想録(1929〜36年)等がある。(20世紀西洋人名事典)>
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15世紀後半、リトアニア、ロシア、クリミアが接する地域、「荒野」と呼ばれるウクライナの草原において、「コサック」という武装民の共同体が成立した(WIKI)。異民族による苛烈な支配から逃れたいというウクライナの“窮民”が団結し、支那の「水滸伝」で有名な“梁山泊”のような「解放区」を創り、次第に力を強めていったのだ。


しかし、1672年に一衣帯水のオスマン帝国(今のトルコの前身)の援助を受けてウクライナの国家統一を実行しようとしたが失敗し、1781年にはロシアによりウクライナにおけるコサック自治制は廃止された。1783年、ロシア国内にならってウクライナでも「農奴制」が敷かれたという。


奴隷・・・「恋の奴隷」は良いけれど独裁者、独裁国家という自由も人権もない“蛮族”の奴隷になるくらいなら、吶喊して果てた方がマシだ、マトモだ、と小生は思うが、どうなんだろう。ロシア通の遠藤良介氏は「ウクライナ『文明の境界線』はどこに」(産経2022/5/18)で、こう書いている。


<「ウクライナ人は本質的に自由を愛する民族だ」「われわれはロシア人やベラルーシ人のような(権力隷従の)奴隷にはならない」


多くのウクライナ人から聞いた言葉だ。世界を驚かせているウクライナ善戦の根底には「独立と自由を必ず守り抜く」という国民の強固な意思がある。ウクライナの国民的作家、クルコフ氏は話す。


「プーチンが戦っているのはウクライナ人のメンタリティー(精神性)だ。ウクライナ人は歴史的に自由を愛する個人主義の人々であり、1人の指導者に従う集団主義のロシア人とは大きく異なる」


ウクライナ人の精神性の源流はコサックにあるといわれる。コサックは15世紀以降、農奴制を逃れて自由を求めた農民らがロシア南部やウクライナの辺境に築いた自治的な武装集団だ。彼らは首領を選挙で選び、重要事項は全員集会で決めた・・・>


冒頭の1918年の「ブレスト・リトフスク条約」にトルコ(当時はオスマン帝国)が絡んでいるが、今、エルドアンが君臨するトルコはロシアのウクライナ侵略について、どっちつかずの「曖昧戦略」で西側世界の大顰蹙を買っている。トルコの近現代史をざっくり辿ると――


<オスマン帝国は第一次世界大戦で敗北すると、英仏伊、ギリシャなどの占領下に置かれ、完全に解体された。トルコ人は1924年に西洋化による近代化を目指すイスラム世界初の世俗主義国家「トルコ共和国」を建国、イスラム法は国法としての地位を喪失した。大陸法の影響を受けただけでなく、米国などからの直接投資も受け入れることになった。


第二次世界大戦でトルコは中立を維持したが、末期の1945年になり連合国の勝利が確定的になると、その圧力により2月23日にナチス・ドイツと大日本帝国に対して宣戦布告した。戦後は、ソ連に南接するため、反共の防波堤として西側世界に迎えられ、1952年には北大西洋条約機構(NATO)に、1961年には経済協力開発機構(OECD)に加盟した。


国父アタテュルク以来、イスラムの復活を望む人々などの国内の反体制的な勢力を強権的に政治から排除しつつ、西洋化に邁進してきた。その最終目標である欧州連合(EU)への加盟にはクルド問題やキプロス問題、ヨーロッパ諸国の反トルコ・イスラム感情などが障害となっている。


エルドアン政権下の2010年代から2020年代にかけてはEU加盟よりは、国内での反対派弾圧やイスラム回帰、オスマン帝国旧領やその周辺に対するトルコの影響力拡大を優先している>(WIKI)


トルコはエジプトと同様に政治と宗教を切り離した「政教分離」により戦後の国際社会で存在感を高めたが、エルドアン政権になるとイスラム原理主義への回帰志向、自由民主軽視の動きが強まり、まるで鵺 (ぬえ)のような怪しい印象を受け、西側諸国は不信感を強めるばかりだ。産経2022/3/11「トルコが経済悪化懸念 露・ウクライナ会談の背景」から。


<【カイロ=佐藤貴生】トルコはロシアの侵攻は受け入れられないとする一方、欧米が科した対露制裁には反対している。トルコには露から黒海経由でガスパイプラインが敷かれ、南部アックユでは露企業が原子力発電所を建設中だ。NATOの加盟国でありながら露の地対空ミサイルS400も購入し、米政府は独自の対トルコ制裁を行った。


トルコは国産の無人攻撃機をウクライナに供与しており、昨秋にはウクライナが東部を実効支配する親露派武装勢力の攻撃に同機を投入した。露の侵攻後、ウクライナはトルコ製無人機を使ってロシア軍と戦っているとも指摘される。


トルコは露の侵攻後、同国の軍艦がボスポラス、ダーダネルス両海峡を通って黒海に入るのを制限すると表明した。ウクライナ寄りの姿勢に傾きつつも露の反発を避けるバランス外交に腐心している>


どっちつかずで腐心するトルコは、自由世界から“不信”を買っているが、ロシアの顔色をうかがうエルドアンも「自由世界への不信」を募らせている。産経2022/5/16「トルコ大統領、不信感あらわ 北欧2カ国のNATO加盟問題で」から。


<【カイロ=佐藤貴生】フィンランドに続いてスウェーデンがNATOへの加盟申請を正式表明した16日、トルコのエルドアン大統領は両国の加盟に反対する方針を改めて強調した。NATOに加わるにはトルコなど加盟30カ国による全会一致の承認が必要。ウクライナに侵攻したロシアの軍事的脅威の拡大を受け、NATO加盟にかじを切った北欧2カ国にトルコが立ちはだかる構図が固まりつつある。


フィンランドとスウェーデンのNATO加盟について、「肯定的な見解を持っていない」と述べていたエルドアン氏は16日、両国が加盟すればNATOは「テロ組織の代表者が集結する場」になってしまうと述べ、不信感をあらわにした。スウェーデンについてはテロ組織の温床であり、議会にもテロリストがいると主張した。


スウェーデンの外務当局者は16日、同国とフィンランドの代表が協議のためトルコを訪れる計画があると述べたが、エルドアン氏は徒労に終わるとの見通しを示し、説得に応じない姿勢を明確にした。


エルドアン政権は、トルコからの独立を目指す少数民族クルド人の非合法武装組織「クルド労働者党」(PKK)や、2016年にトルコで起きたクーデター未遂事件で「黒幕」だと断定した在米イスラム指導者の支持者らを「テロリスト」とみなしている。フィンランドとスウェーデンは、これらの組織に連なる者をかくまっているというのがNATO加盟反対の理由だ。トルコ国営メディアによると、両国はトルコが要求する33人の身柄引き渡しを承認していない。


また、両国はトルコがPKKの「分派」とみなすクルド人民兵組織「人民防衛部隊」(YPG)掃討のため、2019年にシリア北部に侵攻した後、トルコへの兵器輸出を禁止した。エルドアン氏はトルコに制裁を科している国のNATO加盟は認めないとしている>
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我にも正義、彼にも正義、この世は正義と正義のぶつかり合い・・・まったく悩ましいことだ。国際政治学者・京都大学法学部教授・高坂正堯(1934~1996年)の著書「国際政治 恐怖と希望」は、小生にとってこれまた大きな影響を与えてくれた良書だが、こう記している。


<現在の政治家は、その国の国家目的を追求するにあたって悪循環を起こさないような選択を取ること、できればよい循環を起こすような選択を取ることを要請されている。それは、力と利益の考慮によって動く現実主義者にも要請されている最小限の道徳的要請である。


国際政治に直面する人々は、最小限の道徳的要請と国益の要請との二者択一に迫られることがしばしばあり、それゆえに懐疑的にならざるを得ない。しかし、絶望して、道徳的要請を顧みないようになってはならないのである。この微妙な分かれ目は、実に大きな分かれ目を作るのである。


昔から人々はこのジレンマに悩んできた。たとえばソ連との冷戦という困難な状況にあって、アメリカの外交を立案したジョージ・ケナンは、このジレンマを何回も味わったように思われる。彼は異なった正義の体系を持つ巨大な国家ソ連に、何とか対抗していかなくてはならなかった。それは根本的には解決し得ない対立であった。しかし、彼はその問題から逃げるわけにはいかなかった。だから彼は「できること」をしながら、すぐにはできないことが「いつかはできる」ようになることを希望したのであった。ケナンは「外交50年」の中で次のように述べている。


「人間の大きな闘争の背後には、恐るべき人間的苦悩があるのであり、これこそ歴史の真実なのである。現代の人々は、かかる苦悩を理解しないし、その真実性を認めようとしない。いつも人々は、人間の知恵をもってしても解きほどくことのできないような恐るべき結び目があったことを、のちになって本当に理解するようになるのである」


戦争はおそらく人間の不治の病であるかもしれない。しかし、我々はそれを治療するために努力し続けなくてはならない。我々は懐疑的にならざるを得ないが、絶望してはならない。それは医師と外交官と、そして人間の務めなのである>


小生は、高坂氏の「国際政治 恐怖と希望」は、「ローマ人の物語」で知られる塩野七生氏(1937年~)の「マキアヴェッリ語録」などと一緒に枕頭に置いて読んでいるが、塩野氏の「逆襲される文明」によると同世代の高坂氏は良き友だったとある。


<高坂正堯さんは私にとって、歴史にかかわることならば何でも話せる相手だった。それで何を書こうが真っ先に意見を聞くのが彼だったが、そのたびに高坂さんは親切に問題点を指摘してくれたものである。


ある時彼はこんなことを言った。「歴史を書き続けているとメランコリックになるよ。シュテファン・ツヴァイクも自殺したし」


この言葉は私に以後も長く続く命題を与えた。ペシミストになるのはなぜか、そうならないで歴史を書き続けるにはどうしたらよいか。これへの対策は見つけたのだが、詳しくは別の機会に譲る>


ツヴァイクはウイーンの裕福なユダヤ系ドイツ人だが、ナチス・ドイツに迫害されロンドンに亡命、さらにツヴァイクは戦禍を避けるため1939年、ブラジルに移住した。1942年2月半ば、リオのカーニバル見物に出かけた最中、ツヴァイクは、日本軍によるシンガポール陥落とドイツ軍のアフリカ攻勢の報に接し、抑鬱状態となり、重い喘息を患っていた夫人とともに2月22日夜、睡眠薬による自死を遂げる(ツヴァイクは61歳)。ポルトガル語で「宣言」と書かれた彼の遺書には次の通り書かれている。


「自由な意志と明晰な精神をもって人生に別れを告げます。私にとって精神的な仕事が常にもっとも純粋な悦びであり、個人の自由がこの世における至宝でありました。友人たちに挨拶を。彼らが長い夜の果てになお燭光を目にすることができますように。気の短すぎる私はお先にまいります」(松本和朗・元駐ハンガリー大使の随想から)


燭光の訪れを無為無策でじーっと待ったり、明るい方へ逃げたりするより、今のウクライナ人のように勇気を奮って自ら無数の燭光を灯し、大火、猛火となって侵略者を地獄へ追い落とすのが正道ではないか。小生はそうありたい。


古人曰く「天は自ら助くる者を助く」。ウクライナに勝利を! プーチン・ロシアに鉄槌を! ウクライナは明日の日本だ。露中北の日本侵略を撃退すべし!
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目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp
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まぐまぐID 0001690154「必殺クロスカウンター」