養生で習ったご飯は、
その日に復習する、マメな私。
昨日も夕飯で復習したが、
「丸いもの」が入っていない痛恨のミス。
また、やろう!
昨日から
ずーーーっと考えているのだけれど、
まとまらず。
「見立て」と「実践」について。
早い話が、この見立て、
個別の支援計画と言われるもののことだ。
こういう「個別支援計画」と
いわれるものの「個別」性が、
個人を見ていないことは、たぶん多々ある、と思う。
個別というと、
血肉の通った名前のある個人を
指しているようで、
実は、巧みにカテゴライズされたものに
当てはめてる…よね?
という場面を身近では、
入院中の義母の病院の対応や
ケアマネさんの言動で感じたことがあった。
病院の対応や
ケアマネさんの見立てに対して、
目の前にいる義母を見て、
必要なことを工夫したのは、
日常を共にしている夫や私だった。
極端なことを言うと、
義母が生きやすくなるためなら、
ケアの計画も別に必要を感じなかった。
少なくとも、私は。
義母がどう生きたがっていたかを知る、
息子である夫の話を聞き、
義母の行きたがっていた方向に
近付けるようにしよう…。
そんなことを出来るだけしたつもりだ。
回りくどく、
こんなことを思い出しているのは、
個別支援計画を作成する、
児童発達管理責任者が不足している、
と言う話を聞いたから。
児童発達管理責任者って…?と
調べれば調べるほど、
子どものケアマネ?と思ったからです。
そして、ググると、
「将来性のある資格」とある。
発達障害が広く認知されるようになり、
障害者発達支援に含められたことで、
発達障害児とみなされる児童の数が増加しており、
児童発達管理責任者に将来性がある
そうなのだ。
将来性という言葉は、
そのことが継続的に盛んで、
平たくいうと食いっぱぐれなく安泰と
いうようなイメージを私は持つ。
違和感しかない。
発達障害とみなされたとして、
その子たちがどんどん、
発達障害という状態から外れていけば、
少子化のご時世、
教員同様、人数規模縮小とならないのだろうか?
単に、
なり手が少なくて人手不足なのだろうか?
例えば、親御さんがどう接していいか、
我が子ながら困っている。
本人が学習や周囲との齟齬で困っている。
そんなとき、
児童発達管理責任者に
個別支援計画を作ってもらうしか
救う手立てがないのだろうか?
担任は当たり外れが云々、というのは
よく聞く話。
うーん。
情報を親御さんが見つける以外のやり方が、ないのだろうか?
頭の片隅案件で、
このことをずっと考えています。
子どもを大人の食い扶持に
してはいけない。
そうならないために。
どうする!