雷にどしゃぶり。
朝起きると、近ごろないくらいの大雨でした。
でも、不思議と仕事に行く頃には小降りになり、帰る頃には雨は上がっています。
天気が悪いとき、そういう日が続くと、
「私って、ラッキー!もってる〜」と思うくらいにはノーテンキです。
凸凹っ子たちは、手がかかる子と思われる方も多いかもしれません。
言わないとちゃんとしない、言ってもちゃんとしない、
勉強も生活面もとにかく、何もかも親が、大人が、口を出さないと何もできない、
という風に思われている方もいらっしゃるかもしれません。
私が支援員として関わってきた凸凹っ子たち、特に中学生の凸凹っ子たちは、どうだったでしょう。
そういう子たちも居たとは思います。
でも、むしろ、小さい頃、小学校では
「おとなしくて悪いこともしなかった」「いつも真面目にしていた」「目だった問題はなかった」と、
どちらかというと学校ではもちろん、家でも我を出すことなく、
聞き分けの良い子として育っていたり、過ごしていたりしていた子どもも多く居たように感じます。
そういうふうに「おとなしく、問題がなかった」といわれる子どもたちと、
中学校で接していて、年齢にそぐわない幼さを感じることがよくありました。
「おとなしくて悪いことはしない」という小学校での高評価は、
私の印象では「周りへの興味関心が薄く、何をしてよいか戸惑っている」と感じたり、
「いつも真面目にしている」というのも、「言われたことをしようとしているけど要領が悪過ぎる」と感じたり、
「目だった問題はなかった」という評価も「自主的に動けないから、その場に居るのがやっと」と思われて、
良い子たち、というより困ってない?と感じる子たちが多かったように思います。
その子たちに、例えば、文化祭の練習でやっていることを、
「何のためにやっていて、どこでやっている」などと説明をすると、動けたり、
「時間内に終わらせるためには、どうるか。終わらない場合はどうすればいいか」を一緒に考えたりすると、
自分で動けたり、考えたりできることがありました。
小学校で引継ぎなどで言われた評価は、もちろん、その子の一面を表していたのでしょうが、
実際に目にする子どもとのギャップというのは感じることでした。
そして、ときとして、「おとなしくて、真面目」にしていた子どもたちは、
テストの点数が悪くても、答えを「真面目に書く」ことで評価されていたりして、
その子の根本的な凸凹には触れられず、「目立たない子」として、
中学校に上がって来ることがあったのではないかなぁ、と思うことがありました。
家の中においても、親御さんを困らせることなく、かわいがられ、
手のかかる兄弟姉妹に構っている間、放っておいても文句も言わず、
「いい子ね、いい子ねぇ。」と言われて育っていたり。
主張を強くするわけではないので、ついついおとなしい凸凹っ子は後回しになったり、
言うことをきかない兄弟姉妹より親御さんが「これするのよ、こうするのよ。」とおとなしい凸凹っ子には指示をし、
それができると褒めたり、あげたりしていたり。
それなのに、小学校の高学年、中学生くらいになると急に「積極性」や「自主性」の名のもとに
「自分でしなさい」「どうしてしないの」と追いつめられる凸凹っ子たち。
そういう印象を受けるお子さんと会うと、
どうやったら「自分で考えていいいし、失敗しても大丈夫」というのを身を以て知ってもらえるかなぁ、と
考えることもありました。
身の置き所がなく、怯えるように小さくなっている凸凹っ子もいます。
朝起きると、近ごろないくらいの大雨でした。
でも、不思議と仕事に行く頃には小降りになり、帰る頃には雨は上がっています。
天気が悪いとき、そういう日が続くと、
「私って、ラッキー!もってる〜」と思うくらいにはノーテンキです。
凸凹っ子たちは、手がかかる子と思われる方も多いかもしれません。
言わないとちゃんとしない、言ってもちゃんとしない、
勉強も生活面もとにかく、何もかも親が、大人が、口を出さないと何もできない、
という風に思われている方もいらっしゃるかもしれません。
私が支援員として関わってきた凸凹っ子たち、特に中学生の凸凹っ子たちは、どうだったでしょう。
そういう子たちも居たとは思います。
でも、むしろ、小さい頃、小学校では
「おとなしくて悪いこともしなかった」「いつも真面目にしていた」「目だった問題はなかった」と、
どちらかというと学校ではもちろん、家でも我を出すことなく、
聞き分けの良い子として育っていたり、過ごしていたりしていた子どもも多く居たように感じます。
そういうふうに「おとなしく、問題がなかった」といわれる子どもたちと、
中学校で接していて、年齢にそぐわない幼さを感じることがよくありました。
「おとなしくて悪いことはしない」という小学校での高評価は、
私の印象では「周りへの興味関心が薄く、何をしてよいか戸惑っている」と感じたり、
「いつも真面目にしている」というのも、「言われたことをしようとしているけど要領が悪過ぎる」と感じたり、
「目だった問題はなかった」という評価も「自主的に動けないから、その場に居るのがやっと」と思われて、
良い子たち、というより困ってない?と感じる子たちが多かったように思います。
その子たちに、例えば、文化祭の練習でやっていることを、
「何のためにやっていて、どこでやっている」などと説明をすると、動けたり、
「時間内に終わらせるためには、どうるか。終わらない場合はどうすればいいか」を一緒に考えたりすると、
自分で動けたり、考えたりできることがありました。
小学校で引継ぎなどで言われた評価は、もちろん、その子の一面を表していたのでしょうが、
実際に目にする子どもとのギャップというのは感じることでした。
そして、ときとして、「おとなしくて、真面目」にしていた子どもたちは、
テストの点数が悪くても、答えを「真面目に書く」ことで評価されていたりして、
その子の根本的な凸凹には触れられず、「目立たない子」として、
中学校に上がって来ることがあったのではないかなぁ、と思うことがありました。
家の中においても、親御さんを困らせることなく、かわいがられ、
手のかかる兄弟姉妹に構っている間、放っておいても文句も言わず、
「いい子ね、いい子ねぇ。」と言われて育っていたり。
主張を強くするわけではないので、ついついおとなしい凸凹っ子は後回しになったり、
言うことをきかない兄弟姉妹より親御さんが「これするのよ、こうするのよ。」とおとなしい凸凹っ子には指示をし、
それができると褒めたり、あげたりしていたり。
それなのに、小学校の高学年、中学生くらいになると急に「積極性」や「自主性」の名のもとに
「自分でしなさい」「どうしてしないの」と追いつめられる凸凹っ子たち。
そういう印象を受けるお子さんと会うと、
どうやったら「自分で考えていいいし、失敗しても大丈夫」というのを身を以て知ってもらえるかなぁ、と
考えることもありました。
身の置き所がなく、怯えるように小さくなっている凸凹っ子もいます。