日々、あんのん。

からだの育ちの凸凹、学習のスタートラインにつけない人のもっと学びたい、発達したいを応援します。

媒介の重さ。

2015-02-16 20:01:43 | フォイヤーシュタイン
 からだが油断するほど、暖かい1日でした。
これで、急に寒くなると、調子が狂い、少しからだがだるくなります。
でも、そういうことを意識するようになって2,3年。
なんとなく、乗り越えているので何事も意識することは大切なのですね。

 私はお調子者なので、子どもが調子に乗ってなにかやっていると、
「あら、楽しそうで良いねぇ。」と呑気に思ってしまいます。

 ふと、今日『「このままでいい」なんていわないで!』という、
フォイヤーシュタイン博士の著書を読んでいて、
ちくり、と考えることになりました。

 アダムという少年のことを書いた章で、

(様々な展示物を見ている)アダムは物事がなぜ起こるかを理解するよりも、
目の前で何かが起こることに心を奪われている。目に見えること、体験することが彼にとっては刺激的なのである。
彼が喜んでいるのだから、それで充分ではないだろうか?
<中略>
アダムと展示物との相互作用の中心が全て身体的活動に限られ、思考活動が置き去りになってしまっている


という文章がありました。

 私が目を奪われる活動は、しばしばこの「身体的活動」に夢中になっている子どもの姿なのです。
それはそれで、懸命に何かに取組んでいる、きらきらと輝く姿なのですが、
私の場合、その姿に見とれているだけでは良くないのだった!ということに、
今更ですが、ハタと気がついたのです。

 フォイヤーシュタインでは、「媒介」ということがとても大切です。
近くにいる大人が、単純な身体的活動の先に子どもの生活や自立を見据えて、
その一見単純な活動を、思考したり想像したり、選択することを学ぶものに変容させるのです。

 こうして書きながら、一体、私にそんなことを思考する力があるか?と
本を読みながら頭が痛くなりました。

 大人の知恵のある関わり、ということをしっかり考えなくては、
せっかくの伸びしろにも気がつかず、ちょきちょき刈り込むことになるのですね。
心せねばいけませんね。

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