生まれも育ちも日本である私は、他国の言語を話すことができない。
これまで 私が、いくつかの国の語学に触れてみて思うことは
日本人が、他国の言語を習得することは、他国の人が日本語を学ぶよりも、圧倒的に容易い、ということである。
すべての国の言葉に触れたわけではないので、必ずしも私の思うことが正しいとは限らないけれど、ともかく日本語は難しい。
最近、私は、固有名詞は別として 「よし子さんにも、お聞きしてみたいものです」 という日本語を公開した。
それは、例えば花子さんに、私の思うことが、より正確に伝わってほしいという気持ちから、花子さんに向けた言葉である。
ここで、よし子さんの名前を出したのは、私は、よし子さんについて、「こう思う」 という例を挙げることで、私の思うことを、花子さんに、より正確に伝えたかったから。
それはつまり、よし子さんに関することの、花子さんの考え方を、花子さんに尋ねたに過ぎないのだ。
もしも私が、これまで生きてきた中で習得した日本語により、よし子さん本人の回答を求めるなら、
「お聞きしたいです」 という日本語を使う。
「お聞きしたいです」 と
「お聞きしたいものです」 が、表す日本語の意味は、明らかに異なる。
お聞きしたいものです。
この、もの の、たった2文字は、日本語において大きな役目を担っている。
花子さんに、お伺いするにあたり、
私の質問の意味を、花子さんに、より正確に理解していただくための もの の2文字なのである。
半世紀以上、日本語で日常生活を営んできたからこそ、この もの の使い方も、それが持つ意味も理解できる。
このようなことから、外国人が日本語を学ぶことの難しさを感じるのだ。
「お聞きしてみたいものです」 は、花子さんに宛てた私信であって、ほかの誰かに宛てたものではない。
もし、何も制限のないところで、よし子さんが、
「よし子さんにも、お聞きしたいものです」
この発言を目にしたなら、よし子さんが、自分に向けた質問である、と、思い込んでも、当然である。
それが、日本語の難しさなのだ。
しかし、この場合は
私から、花子さんへ宛てたメッセージの一部であることは明確である。
したがって、よし子さんが、私に対して、回答を出さなければならない、と思う必要はない。
ただ、私の発言を目にしたことで、よし子さんが、ご自分の思うことをご自分の周囲で語るのは自由。
でも、そこに私が介入することはない。
なぜなら、
かつて、双方の考え方が一致することによって、「関わらないことが最善の策」 と、お互いに確認しあった過去があるから。
私は、私にとって、意義があり進歩が望める事柄にしか、できる限り関わらないことにしている。
他人の喧騒が好きな人は、ここを訪ねれば良い。
ここでの喧騒を不快に思い、ここでの喧騒を疑問に思い、喧騒を好まず、人間としての理性と一般常識をお持ちなら、ここを訪ねなければ良い。
他人の、辛さ、悲しさ、を、思い図ることなく、他人の苦労が、自分の喜びになるのなら、ここでのヤリトリを客観的に眺め、面白おかしく語り合って楽しめば良い。
それだけの事。
このブログにおける、本文、コメント欄、すべての文字について、他所への引用、転記を禁止します。
また、このブログのリンク、ブックーマークは、お断りいたします。
既に、リンク、ブックマークの場合は、直ちに外していただきますよう申し出ます。