日々是好舌

青柳新太郎のブログです。
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山葵とは まことに辛い 話です

2012年08月24日 08時11分51秒 | グルメ
有東木は「うとうぎ」と読む。静岡市葵区有東木である。旧安倍郡大河内村に属し、静岡市街から安倍川沿いに三〇キロメートルほど北上した山間高地に位置する。
十枚山、仏谷山、青笹山と続く安倍山系の中腹に開けた戸数八〇戸ばかりの集落であるが、寺や神社もあれば、商店や農協の出張所もあり、路線バスの運行もあるので、所謂山間僻地の感覚はない。「静岡のチベット」などともいうが、これは伝統芸能や昔からの習俗をよく伝えていることに対する譬喩だろう。
この地の標高は五〇〇メートルを超えており、一般的に温暖と言われる静岡にあって、冬季には積雪もみられる寒冷な地域である。
私は、この集落の下水道工事をするために、しばらくの間、通っていたのであるが、仕事の合間に土地の古老から聞いた話のあらましを書いてみる。
この集落の歴史を土地の人に訊くと、武田勝頼の遺臣六人が天目山での敗戦後、この地に落ちのびて来て、この集落を拓いたという落人説と、同じ武田家でも、すでに信玄の頃に、梅ヶ島の入島や日影沢の金山採掘のために、当地へやってきた山師や金掘人夫の末裔が金山衰退後に住み着いたという土着説とがあって、いずれの説とも定かではない。土地の人の多くは、金掘人夫説よりも落人説を好むようで、これも人情として当然のことと肯ける。誰しも、己の先祖は誇り高き出自を願うものである。
ともあれ、峠ひとつ越えると甲州という地形上の理由もあって、政治、経済、習俗などの面で、武田家に限らず甲州の影響を非常に色濃く受けていたことが窺われる。
峠というのは標高一,四一四メートルの地蔵峠のことで、二本の足が唯一の交通手段であった頃には、この峠を越えて甲州の富沢や南部へ行くほうが、駿府の街へ行くよりもよほど楽であったようだ。安倍川上流には地蔵峠の他にも、安倍峠や刈安峠など甲州方面へのルートは幾つもあって、盛んに交流を繰り返していたようである。
この地へ一歩踏み入れた途端に気がついたことがある。子供といわず大人といわず、老若男女、行き交う人の全てが、礼儀正しいのである。声を出して挨拶しない場合でも、軽い会釈、目礼は欠かさないのである。知らぬ顔の半兵衛で取り澄ましている輩は他所者と決め付けても間違いがなかろう。
「衣食足りて礼節を知る」というが、衣食住が足りて、更に、ワサビや茶や椎茸で現金収入があるためか、住民全員が穏やかで、せせっこましいところがなく、一口に醇朴とか素朴とかという言葉で括ってしまうのには若干の躊躇いさえ覚える。
さて、有東木の特色は何といっても、ワサビの名産地として有名なことである。ワサビは、もともと日本の中部山岳地帯に自生するアブラナ科の植物で、独特の風味が魚介類や蕎麦を食う際に、絶好の香辛料となることは衆知の通りである。また、その成分の中には非常に強い殺菌力を持っていることも知られている。上等な酒粕に細かく刻んだワサビを漬け込んだ山葵漬も当地の名物である。因みに山葵漬の老舗「田尻屋総本家」の創業は宝暦三年(一七五三年)で徳川九代将軍家重の治世である。
ワサビは古くから薬として用いられていたとされ、発掘された飛鳥時代の木簡に「委佐俾」と書かれているのが確認されている。
室町時代には現代と同じように薬味としての利用が確立していた。江戸時代に入ると寿司や蕎麦の普及にあわせて広く一般に利用されるようになった。
現代の科学でもワサビに大量に含まれるビタミンCがウイルス性の病気の防除や発ガン性物質の一つニトロソアミンの生成を防いでガンの発生を少なくすると言われている。
有東木の集落から少し登った所に、土地の人がワサビ山と呼んでいる一帯がある。付近一帯は野生のワサビがたくさんあった場所で、故にワサビ山と呼ぶのである。昔は、このワサビ山の野生ワサビを大切に保護すると同時に、村民が共同で出荷管理していたそうである。
慶長年間、一六〇〇年頃というから丁度関ヶ原の合戦があったころだが、有東木の人、白鳥亀衛門がワサビ山の野生ワサビを村内「井戸頭」湧水地に移植したところ非常によく成長繁殖したので、他の村民もこれを見習ったのがワサビ栽培の始まりとされる。このワサビの人工栽培を我が国で最初に始めたのが有東木の人たちであったと言うのが、何と言ってもこの土地の人たちにとって最大にして最高の自慢の種なのである。
慶長一二年(一六〇七年)七月、駿府城へ入城した大御所家康に献上した折に、その味が絶賛されたことや、葉が徳川家の葵の家紋に通じることから、幕府の庇護を受けることとなり、村外不出の御法度品扱いとなって厳重に管理された。
ワサビの栽培技術が有東木以外へ流出したのは家康の時代からずっと下って延享元年(一七四四年)に伊豆の天城から当地へシイタケ栽培の技術指導のために来ていた板垣勘四郎と与市主従によって翌延享二年五月に伊豆の天城へ伝えられた。これは東照権現家康公の決めた掟を破るものとして寛延三年(一七五〇年)五月十日、駿府町奉行所の白洲において訴訟裁判が行われたが、九代将軍家重の御側御用取次側衆の大岡忠光によって一切お構いなしの裁定が下されている。
ワサビ栽培に必要な条件は清冽な水である。水温が一八度以上になると病気になりやすいという。安倍川と富士川の分水嶺から湧き出る豊富な水は集落を囲む山のあちらこちらから湧き出していて、大小の沢を形成している。その湧き出し口のところから安倍川本流への合流点まで利用できる水と土地はすべてワサビ栽培に利用されている。
この土地の人たちは実に巧みに石を扱う。金掘人夫の末裔として、先祖の技術を伝承しているのかもしれない。家の敷地は石垣をめぐらし、石段と石畳の道が迷路のようになっている。勿論、ワサビ田も茶畑も野菜畑もすべてが石積みで出来ていて、丁度、インカ帝国の遺跡でも想像してもらうと解り易いだろう。
この地の風習や伝統行事などには、まだまだ興味深いことが多いのだが誌面の都合もあるから今回は割愛することとする。
有東木地区に集落排水つまり下水道を敷設した目的は、この地域の水質を保全するためであるが、同時に静岡市の水源を守るためでもある。因みに安倍川の水質は常に全国一級河川の上位にランクされている。
私は、鶴嘴と石箕、スコップと大バールという極めて基礎的な道具とともに、五尺四寸、二〇貫、胴長短足のこの身体で工事に携わったことを生涯の誇りとしている。

女房も俺も蓼食う虫である

2011年12月12日 18時44分35秒 | グルメ
「柳蓼・やなぎたで」
蓼食う虫も好き好きという諺がある。タデの辛い葉を好んで食う虫もあるように、人の好みはさまざまだという意味である。諺のタデはヤナギタデと特定されているわけではないが、料理の世界でタデといえばホンタデ(本蓼)とかマタデ(真蓼)とも呼ばれるヤナギタデを指すのである。ホンタデ或いはマタデは「これが正真正銘の辛いタデである」という意味から名づけられたヤナギタデの別名である。
 タデ科の植物は地球上に約800種類が分布しているとされ、この内の約70種類が我が国に自生または帰化している。タデ科植物の中で最も重要なものは穀物のソバおよび同属の韃靼ソバである。他にはジャムなどにするルバーブや漢方薬の大黄(だいおう)やツルドクダミ(何首烏)、染料植物のアイ、山菜として利用されるイタドリやスイバなどもタデ科植物である。もう一つ忘れてならないタデ科の草が、子供のままごとに使うアカノマンマである。
ヤナギタデは、すでに平安時代から香辛料として用いられてきた。江戸時代には栽培品種も多く作られたということである。葉を噛むと、辛くて口の中が、ただれるという意味から「タデ」という言葉が生まれたと言われている。
鮎の塩焼きを食うときに使う「タデ酢」には、ヤナギタデの葉が香辛料として加えられている。タデ酢は、ヤナギタデの葉をすりおろし酢に混ぜてつくる。アユの塩焼きのほか、臭みのある魚料理などに使われる。また、刺身を食うときに、卸しワサビとともに、「つま」として添えられている「紅タデ」は、ヤナギタデの種子の芽生え(子葉)である。
ヤナギタデは、野菜としての利用法により「芽タデ」とか「笹タデ」と呼ばれている。芽タデは葉の色により「べニタデ」と「アオタデ」に区別されている。「べニタデ」の子葉は、濃赤紫色であるが、「アオタデ」は緑色である。一般に白身の魚には「べニタデ」を、赤身の魚には「アオタデ」を用いる。笹タデには本葉を用いる。主に「アオタデ」が利用され葉の形から「笹タデ」とよばれる。
ヤナギタデの辛味は胃を刺激し胃液の分泌を促すので消化を助け食欲をそそる働きがある。また、臭みを消すだけでなく、解毒効果もあるとされる。このことから、魚などを食べるときには、ツマとして添えられているヤナギタデの葉を残さずに食べておくことが望ましい。このことにより、食あたりを防ぐことができるからである。
ヤナギタデの英名は、"Water pepper"と呼ばれ、ヨーロッパでは、この果実をコショウの代用に使う。
ヤナギタデはその全草を生薬「水蓼」(スイリョウ)と呼び、民間薬として用いられる。秋に全草を採取し、日干しにして薬用に使う。ヤナギタデには、血液凝固促進作用や、血圧降下作用を示すことが報告されている。これを消炎、解毒、利尿、下痢止め、解熱、虫さされ、食あたり、暑気あたりなどに用いられる。ハチや毒虫にさされたときには、ヤナギタデの生の葉を揉んで塗布すると痛みや腫れがおさまる。食あたりには、茎葉をすりつぶしたものに、卸しショウガを同量混ぜ合わせ、小スプーン1杯を服用する。葉を水洗いして日陰で乾燥させたものを利尿や解熱に用いる。また濃く煎じて飲めば暑気あたりによいといわれている。その他、ネパールでは、魚毒として、葉を砕いて川に流し浮いてきた魚をとる。ヨーロッバでは葉から黄色の染料をとる。
 タデ酢を作るには、タデの葉を微塵に刻んで、二杯酢に混ぜるだけでもよいが、更に手を加えるならば、擂鉢でタデの葉を細かく擂り、これに粥飯を少し加えて擂り潰し、二杯酢を加えながらとろりとするまで擂りのばせばよい。なお、タデの葉を煎って作る「いりたで」というのがあり、清汁の吸い口などに用いられる。

◆ 鮎釣れて休耕田の蓼を摘む 

野蒜喰う土方渡世の冥利かな

2011年11月09日 19時38分01秒 | グルメ
 春まだ浅いある午後のことであった。若い現場監督が運転する安全パトロール車の助手席でうつらうつらしていると、運転席の若者が何かぶつぶつと呟きだした。不明瞭な言葉の意味を訝しく思ったので、問い質してみると、突如として野蒜が食いたくなったのだという。
 何故、斯くも唐突に野蒜が食いたくなったのかという私の問いかけには、しどろもどろと曖昧に答える若者であった。人間という動物は何かの加減で突拍子もないことを考えることがままある。しかし、それにしてもこの若者の言動は珍妙で私は理解に苦しんだ。そして、私が導き出した答は、野蒜を酒肴にして一杯やりたい、つまり小言ばかり言っていないで偶には一杯奢れよという催促なんだと結論付けた。
 若い現場監督も普段から口煩い上司である私に話すからには、どうしても野蒜が食いたかったのであろうし、酒も飲みたかったのに違いない。どんなに他愛のない事柄でも頼りにされれば嬉しいものである。
 私は自慢の記憶装置を逆回転させた。野蒜・のびる・ノビルと記憶の抽斗を検索してゆく。静岡方言ではノンビルと訛って呼ぶ、と、いうあたりで脳味噌の底でチーンと微かに音がして記憶装置が確かな反応を示した。
 安倍川の支流、藁科川のそのまた支流の飯間谷川の護岸工事をやったとき、山裾の茶畑で立小便をした。その折に股間の一つ目小僧が確かに野蒜を目撃していたのである。
 若者の運転する安全パトロール車は直ちに飯間谷川の工事箇所へ向かった。見覚えのある風景の中に確かに野蒜はあった。早速、鶴嘴で掘り採って土を振るい落とす。私の小便が肥やしに効いた所為もあってか球根も立派な野蒜に育っていた。その日の夕刻、行きつけの居酒屋で野蒜の玉子炒めを肴に一杯やったのは言うまでもない。
 野蒜は葱などと同じユリ科の植物で、古い時代に朝鮮あたりから渡来した帰化植物だという説もあるが、現在では人里に近い畦道や野原や土手などに多く野生の状態で分布している。晩春から初夏にかけて小さな擬宝珠をつけるのであるが、葱などのように種子を結ぶことは稀である。擬宝珠の中には小さな珠芽つまり「むかご」がたくさん着いていて塊状に肥大する。所謂、野蒜の花とよばれる紫褐色の塊がそれである。野蒜の地上部は初夏のころに枯れて球根は夏眠する。「むかご」は枯れて倒れた茎から地表に散布されて繁殖する。だから、野蒜は一箇所に太いのから細いのまで幾世代かが群生しているのが普通である。
 野蒜の食し方について掻い摘んで書いて置こう。
先ずは、生食である。これは太くて球根も大きな野蒜の表皮と髭根を取り除いてエシャレットと同じ要領で味噌などをつけて生のまま食べるのである。エシャレットつまり辣韮に比べると野蒜は少し辛さに勝る。
 旬の野蒜は刻んで葱と同じように味噌汁の実にしても美味い。因みに野蒜の旬は晩冬から早春にかけてである。野蒜は韮のように玉子やベーコンと炒めるのも良い。軽く茹でてから烏賊などの魚介と「ぬた」に和えれば申し分ない。桜海老などと掻揚げにしても美味い。
 野天で働く我々土方の流儀では、束のまま焚き火の灰に埋めて焼き、灰を掃って味噌や醤油で食うのが普通である。これは蛇足だが、タラの芽でもフキノトウでも焚き火で炙って食うときに必ず味噌や醤油を使うのは山菜に多く含まれるカリウムを塩のナトリウムで中和するためである。土方流といえば、酒の肴にと土方仲間の韓国人から塩昆布と一緒に漬けた野蒜の松前漬を貰ったことがある。これも結構美味かった。概して韓国人は山菜の食い方が日本人よりもはるかに上手で学ぶべき点が多い。
 その他にもいろいろな食べ方があると思うが、要は葱や韮や浅葱や辣韮の仲間であるから、それらの食べ方に従えば概ね間違いはなかろう。

鳥が来てあけびの種の糞をひる

2011年11月05日 14時35分20秒 | グルメ
「山のあけびは何見て割れる。下の松茸見て割れる」この些か卑猥な文句は艶物と呼ばれる都都逸である。何処の宴席であったかは失念したが、厚化粧の老妓が秋田民謡「おこさ節」の節回しにのせて元気よく唄ってくれたのを今でも憶えている。
 アケビはアケビ科の蔓性の落葉木本である。平地に多いのが五葉アケビで、山地には三つ葉アケビが多く、二つが交雑した中間種もある。近い仲間として郁子(むべ)がある。郁子は「ときわあけび」の別名が示す通り常緑であって実も開かない。
 アケビの語源は「開け実」の意で、熟すと左右にぱっくりと開くことに基づいている。山姫という呼び名も熟したアケビの実から女陰を連想した命名である。秋に熟す漿果は、淡紫色を帯びた楕円体で、二~四個が車輪状につき、完熟すると縦に開裂し、黒い種子を多量に含んだゼラチン状の白い果肉を現す。アケビが笑むという表現はこの状態を指す。熟れた果肉は甘くて美味である。アケビの食い方にはちょっとした骨(こつ)を必要とする。先ず、果肉を種子ごと口に含んで種を噛み潰さないように解す。舌を器用に使い果肉と種子をわけるとよい。甘い果肉は唾液とともに啜りこみ、残った種子はぺっぺっと音をたてて吐き出す。ちょうど、種の多い西瓜を食うのと同じ要領と考えて差し支えない。従って、アケビの上手な食い方はどうしても品格に欠けるのが難点である。もそっと上品に食したいという向きには種ごと食べることをお勧めする。種を噛み砕くと苦くて不味いので、適度に味わったらそのまま呑み込めばよいのである。多量の種は生理的には何らの問題もなく糞として安全に排泄できる。
 アケビの分厚い果皮は非常に苦く、生のままでは手におえないが、表皮を剥いた果皮の中に季節の茸や味噌などを詰め、爪楊枝で止めてから、植物油で揚げると苦味の利いた絶好の酒肴となる。嘗て、東北地方では囲炉裏の上にアケビの果皮を吊るして煙燻保存し、飢饉の際の救荒食とした。以上は一般的な果実の食い方であるが、山菜としては春の新芽を利用する。越後長岡地方ではアケビの新芽に限って「木の芽」と称して特別に扱い、雪解けの山から摘み採った「木の芽」を湯掻いて水に晒し、苦味を抜いてから胡麻醤油などで和える。アケビの利用価値は多岐にわたる。皮を剥いた蔓を晒して漂白したものでアケビ籠を編む。確か信州の野沢温泉だったと思うが、アケビの蔓で編んだ鳩車が所の名物である。
 太い蔓の部分を輪切りにして乾燥させたものを「モクツウ」と呼ぶ。日本薬局方にも収載されている生薬である。漢方では消炎性利尿薬として鎮痛、排膿、通経等の方剤に加えられる。通経剤とは月経不順時に、来潮を促進させるのに用いる薬剤のことであるから、生薬としての役割も女性の下半身に縁が深いことになる。成分はトリテルペノイドのhederageninとoleanolic acidが知られている。
 アケビの時季は存外短く、熟した順に小鳥や野猿が食べてしまうので、苦労して採っても果肉が入っていなかったなどということがしばしばある。最近では山形県あたりから栽培品の大きなアケビが果物店やスーパーなどに入荷しているので興味のわいた方は是非一度食べてみていただきた。

痩せ畑に美味きものあり藷の蔓

2011年10月26日 12時38分29秒 | グルメ
生家の前は二反歩ほどの畑になっていてサツマイモと小麦を交互に収穫していた。元々この畑は小石交じりの痩せた耕地であったが、私が幼い頃、父親が長い期間を掛けて「簀漉し」を行い土壌を改良したのである。「簀漉し」というのは、木の枠に篠竹を二センチ間隔ほどに打ち付けたスクリーンへ土を通すことによって、二センチ以上の礫を取り除く仕掛けである。つまり、耕土を篩いにかけたのである。多くの労力と根気の要る作業であったが父はほとんど一人で成し遂げた。畑にあった段差もこのときに解消してほぼ平坦な小石の少ない耕地に生まれ変わったのである。

 生家の床下には芋倉と称する地下室があってサツマイモや生姜などが貯蔵されていた。春に種芋を植えると、小麦の収穫が終わる初夏に種芋が蔓を出す。麦を刈取った畑に畝を拵えて、芋の蔓を挿す。初めはぐったりと萎れていた芋の蔓が一雨降るとたちまち元気になって見る間に畑中に蔓延る。蔓は延びるに任せればよいのだが、徒に放置すると途中で根を出して小さな芋を作るので「蔓返し」という作業を行うのである。稀にアサガオに似た花を咲かせることもあるが花を見ることは滅多に無い。当時のサツマイモは「護国」とか「農林一号」とかいう品種で味よりはむしろ収量に重きが置かれていたように思う。サツマイモの品種は他にもたくさんあった。  

 さて、そのサツマイモであるが、元々は南米の中央アンデス地方で栽培されていたものを西暦一四九〇年代にイタリアはジェノヴァの奴隷商人クリストファー・コロンブスがヨーロッパへ持ち帰ったとされている。日本へは西暦一六〇〇年ごろに中国から渡ってきた。コロンブスの時代から一〇〇年ちょっとで日本まで到達したことになるが、これは同じ頃にコロンブス一行がアメリカ原住民女性と交わって感染したとされる梅毒の伝播より半世紀以上も遅れている。

 サツマイモと呼ばれるのは薩摩国(鹿児島県)から全国に広まったからだが、その鹿児島では「琉球芋」と呼び、沖縄では「唐芋」と呼んでいるので渡来の経路がよく判る。因みに中国では「甘藷」と呼んでいる。甘藷は土地を選ばず何処にでも育つので有力な食料として栽培が奨励された。その最も熱心だった人が八代将軍徳川吉宗のころに活躍した蘭学者の青木昆陽で世に「甘藷先生」と呼ばれている。

 ところで、本稿ではサツマイモについて云々しようと言うのではない。テーマは芋蔓である。

 サツマイモの収穫に先立って畝を覆っている蔓を刈取るのであるが、その前に蔓の先端の柔らかな部分を摘み取るのである。この柔らかな蔓と葉を軽く湯がいてアク抜きをしたあと煮浸しにして食べるのであるが、これが意外に美味いのである。私が子供のころに食べたのは煮浸しだけであるが、葉柄や蔓を佃煮や金平にするレシピも紹介されている。いずれにせよ固くなった芋蔓は牛馬の飼葉ならともかく人間の食料には不向きだろうと思う。料理に適するのは蔓の先端十五乃至二〇センチの柔らかな部分としておく。機会があったら是非お試しいただきたい。


真桑瓜。

2011年08月23日 09時33分40秒 | グルメ
 マクワウリ(真桑瓜、英名:Oriental Melon)はメロンの一変種。また、その果実のこと。ウリ科キュウリ属で学名はCucumis melo var.makuwa。

 古くから日本で食用にされてきたため、アジウリ(味瓜)、ボンテンウリ(梵天瓜)、ミヤコウリ(都瓜)、アマウリ(甘瓜)、カンロ(甘露)、テンカ(甜瓜)、カラウリ(唐瓜)、ナシウリ(梨瓜)といった様々な名称で呼ばれてきた。さまざまな品種があり、黄金色に熟するマクワウリは、金瓜・黄金マクワウリとも呼ばれる。

 2世紀頃から美濃国(岐阜県南部)真桑村(のちの真正町、現:本巣市)にてよく作られていたため、マクワウリの名前がつけられた。この系統のウリが日本列島に渡来したのは古く、縄文時代早期の遺跡(唐古・鍵遺跡)から種子が発見されている。

 放射状に切って先割れスプーンなどですくったり、そのままかぶりついたりして食べるが、メロンほどの甘味は無い。お盆のお供えとしてよく使われる。

 韓国では、現在もブドウやスイカと並ぶ夏場のポピュラーな果物の一つで、各地で盛んに栽培され、郊外や農村には直売所が設けられている。

 以上はウイキペデアからの抜粋である。

 私はこのマクワウリが大好きで夏になると遠州海岸の産地へ買いに出かけている。今では掛川市に合併されたが、元の小笠郡大須賀町あたりでは国道150号線沿いに直売所があってあちらこちらで売っている。しかし、私はサンサンファームという施設で買うようにしている。ここの施設の商品は品質が良くて新鮮でしかも価格も良心的だからである。そして道端で商売している一見人のよさそうなオバちゃんが案外セコイ商売をすることを何度も経験しているからである。

 真桑瓜はメロンやスイカに比べたら糖度はずっと低い。しかし、仄かな甘味とさくさくとした歯ごたえはメロンやスイカでは味わえないのである。何しろ私は縄文時代に憧れを持っている人間であるから理屈ぬきでマクワウリは好きなのである。

 写真の長ナスは卸し生姜で炒めたり、シシトウと煮て食べたりしたが、皮が薄くて口当たりがよく実に美味しかった。
茗荷は味噌汁の実にしたり素麺の薬味にした。白瓜は糠味噌に浅漬けするとあたかもみずみずしい果物でも食べているような食感である。

生肉食うなら馬刺しをお食べ!!

2011年06月16日 07時38分43秒 | グルメ
焼き肉チェーン店でユッケを食べた客が集団食中毒を起こし、4人が死亡し、170人が発病した事件があった。

ユッケは肉膾のことで、「肉」はユク(육、Yuk)、「膾」はフェ(회、Hoe)の発音で、連音化して「ユッケ」と聞こえる。「膾・なます」は獣や魚の生肉を細かく刻んだものという意味である。名前が示す通り、生肉を使った韓国式の料理である。生の牛肉(主にランプなどのモモ肉)を細切りにし、ゴマやネギ、松の実などの薬味と、醤油やごま油、砂糖、コチュジャン、ナシの果汁などの調味料で和え、中央に卵黄を乗せて供することが多い。ナシやリンゴの千切りを添えることも多く見られる。食前にはよくかき混ぜるのが良いとされる。

今回の集団食中毒事件のユッケに使われた牛肉は店舗納入前の汚染が濃厚で、運営会社や食肉卸業者のずさんな衛生管理も露呈している。

富山県などは横浜若草台店で回収した未開封の生肉と、死者4人を含む客らから検出された大腸菌O111(オー・イチ・イチ・イチ)の遺伝子型が一致したと発表した。

これまでの捜査などで、チェーン店運営会社と食肉卸業者が、菌のついた肉の表面を削る「トリミング」をしていなかったことが明らかになっている。

大腸菌というのは、人や家畜の腸内に存在し、ほとんどのものは無害であるが、いくつかのものは、人に下痢などの消化器症状や合併症を起こすことがあり、病原性大腸菌と呼ばれている。この中で、特に毒力の強いベロ毒素を産生し、出血を伴う腸炎や溶血性尿毒症症候群(HUS)をおこすものを、腸管出血性大腸菌と呼んでいる。1996年の堺市などの集団感染で有名になったO157(オー・イチ・ゴ・ナナ)はその代表的なものであるが、そのほかに026,O111,O128など多くの種類がある。

大腸菌O111(オー・イチ・イチ・イチ)は自然界では主に、牛や羊の腸内に存在するとされる。

脚に蹄(ひづめ)を持った動物を有蹄類という。有蹄類は奇蹄類と偶蹄類に分けられるがいずれも草食動物である。
現在、奇蹄類はウマ・バク・サイの3科、23種が地球上で知られている。それに対して偶蹄類は、イノシシ、カバ、ラクダ、シカ、キリン、ウシなどの9科、185種である。(クジラはDNA解析ではカバの近縁とされているが、偶蹄類と呼べるかどうかは議論中のようである)。

ここで注目していただきたいのは、牛、羊、豚などはいずれも偶蹄目ということである。

昨年、宮崎県で蔓延した家畜伝染病、口蹄疫(こうていえき)は、鯨偶蹄目(豚、牛、水牛、山羊、羊、鹿、猪、カモシカ、など蹄が偶数に割れている動物)およびハリネズミ、ゾウなどが感染する口蹄疫ウイルスによる病気であったが、奇蹄類の馬は口蹄疫ウイルスに感染しなかったということである。つまり、馬肉と牛肉では基本的な違いがあるのである。

馬肉を食べる習慣のある地域は古来より馬の名産地であり、馬の生産と直結した文化が根付いていたと考えられる。
文禄・慶長の役で朝鮮に出兵した加藤清正軍が補給線を断たれ食料が底をついた時にやむを得ず軍馬を食したのに始まり、帰国後、清正が領地である肥後国(熊本県)に馬肉食を広めたという俗説がある。
しかし、馬肉を生で食べる習慣は熊本県の他、青森県や山形県、福島県(会津地方)、長野県、山梨県に存在する。

現在、国内に流通している馬刺しは、生食用食肉の衛生基準に適合している屠畜場から生食が認められた馬刺しが出荷されている。2011年現在、生食用食肉の加工基準に適合し、生肉の出荷が認められた屠畜場は全国で12ヶ所のみであり、全て生肉は馬肉のみを出荷している。また、馬肉生産量が1位の熊本県では、県内に所在する屠畜場で県及び市職員が大腸菌やサルモネラ菌などの病原菌が無いかを確認した上で出荷している事を公表している。

馬刺しについても、かねてから、住肉胞子虫に感染した馬による食中毒の可能性が示唆されている。ただし、厚生労働省によるとマイナス20度で48時間以上冷凍すれば寄生虫は死滅するとしている。

以上のとおり、牛肉については生食を前提とした国の基準が存在しなかったようだが、馬肉についてはしっかりした衛生基準が存在する。また、牛と馬では生物学的な違いもある。

どうしても生肉が食べたい人にはユッケではなくて馬刺しをお薦めしたい。

焼酎党。

2011年05月26日 15時10分55秒 | グルメ
若い頃にいた工事現場の飯場ではよく焼酎を飲んだものである。当時の焼酎は必ずしも美味いわけではなかったが、安くて直ぐに酔えるのが何よりもよかったのである。

その後、経済的に少しは良くなったので、日本酒やウイスキーなどを外で飲むことが多くなり焼酎はあまり飲まなくなっていた。
それが最近また焼酎を飲むようになったのは、糖尿病になった所為もあるが、焼酎のレベルが上がって美味い焼酎が手軽に手に入るようになったからである。

最近、封をきった焼酎は福岡県八女市の喜多屋というところの甕仕込み芋焼酎「太陽のしずく」という一品で俳句の師匠から送っていただいたものである。そのままでは強すぎるから白湯で割って飲んでいるがサッパリとした飲み口で美味い焼酎である。

これからの夏場、我が家では胡瓜揉みが定番でほとんど毎日欠かしたことがない。家飲みが専らで居酒屋などには月に一度か二度も行く程度だから、家内が出してくれる胡瓜揉みを肴に飲む一杯は何よりもありがたい。

ひとめぼれ。

2011年05月23日 07時33分56秒 | グルメ
 私が貧乏であることはかなり有名であるらしい。それを証拠に友人たちは私のところへ米を送ってくれるのである。米さえあれば飢えることもない。温かいご飯に生卵をかけて醤油を数滴垂らせば私にとってはご馳走である。梅干を載せて茶漬けにするのも捨てがたい。米を貰うのはなによりもありがたい。

 昨年の暮れに”さいたま市”の友人から30キロ入りの紙袋が届いてここ6ヶ月間はその米で食いつないだ。昨日、半年振りに白米10キロを購入したのだが、昨夜になって今度は栃木県の友人から白米10キロが新たに届いた。現在、我が家の米櫃には20キロ以上の米があるからまたしばらくは食いつなぐことができる。夫婦二人だから一度に炊く米は1合にも満たない。

 普段、米はスーパーで買うのだが、スーパーの米売り場には色々な米が置いてある。「こしひかり」「ささにしき」「あきたこまち」「きらら」・・・。産地も地元・静岡県産から東北各県産までまちまちである。
今回は大震災の被害が大きかった宮城県産の「ひとめぼれ」を食べることにした。被災地の米を買うことによってほんの少しでもお役に立てればと思ったからである。袋には登米産石越町限定とあるが、元々宮城県登米郡石越町が合併により登米市石越町になったようだ。登米市は今回の東日本大震災で壊滅的な被害を蒙った気仙沼から少し内陸に入ったところに位置する。

 私自身も農家の生まれだが、生家はお茶やミカンの栽培農家で稲作はしていなかった。子供のころにはずっと麦飯を食って育ったから所謂”銀シャリ”には憧れがあった。現在、64歳であるが自分で働いて食えるようになってからは、麦飯は”とろろ汁”のとき以外には食べたことが無い。

 小学生の頃に、近所の農家のお兄さんが田圃を耕しに行く牛の背中に私を乗せてくれた。小学校までの長い道のりを牛の背に揺られて行くのは実に楽しかった。
 
 小学校には学校田というのがあって田植えをしたり草取りをしたり稲の刈取りをしたりした。代掻きや苗代や普段の水の管理は農家の人がしてくれたようだ。田植えのときに”けらどん”という虫を捕まえて遊んだことが懐かしい。ケラ(螻蛄)は、バッタ目(直翅目)・キリギリス亜目・コオロギ上科・ケラ科の昆虫である。ケラが前脚を広げるのに合わせて、お前のチンチンでっかいなどと友達をからかったものである。

 今日はなんだか取り留めの無い話に終始してしまった。

厄除け団子。

2010年01月21日 21時52分51秒 | グルメ
法多山尊永寺(はったさん そんえいじ)は、静岡県袋井市にある高野山真言宗別格本山の寺院。寺号の「尊永寺」よりも山号の「法多山」の名で広く知られている。遠州三山の1つ。本尊は聖観音(正観世音菩薩、厄除観世音)。

厄除け観音として知られ、厄除だんごが名物となっている。
名物の厄除け団子は一箱500円で行列ができるほどです。