有東木は「うとうぎ」と読む。静岡市葵区有東木である。旧安倍郡大河内村に属し、静岡市街から安倍川沿いに三〇キロメートルほど北上した山間高地に位置する。
十枚山、仏谷山、青笹山と続く安倍山系の中腹に開けた戸数八〇戸ばかりの集落であるが、寺や神社もあれば、商店や農協の出張所もあり、路線バスの運行もあるので、所謂山間僻地の感覚はない。「静岡のチベット」などともいうが、これは伝統芸能や昔からの習俗をよく伝えていることに対する譬喩だろう。
この地の標高は五〇〇メートルを超えており、一般的に温暖と言われる静岡にあって、冬季には積雪もみられる寒冷な地域である。
私は、この集落の下水道工事をするために、しばらくの間、通っていたのであるが、仕事の合間に土地の古老から聞いた話のあらましを書いてみる。
この集落の歴史を土地の人に訊くと、武田勝頼の遺臣六人が天目山での敗戦後、この地に落ちのびて来て、この集落を拓いたという落人説と、同じ武田家でも、すでに信玄の頃に、梅ヶ島の入島や日影沢の金山採掘のために、当地へやってきた山師や金掘人夫の末裔が金山衰退後に住み着いたという土着説とがあって、いずれの説とも定かではない。土地の人の多くは、金掘人夫説よりも落人説を好むようで、これも人情として当然のことと肯ける。誰しも、己の先祖は誇り高き出自を願うものである。
ともあれ、峠ひとつ越えると甲州という地形上の理由もあって、政治、経済、習俗などの面で、武田家に限らず甲州の影響を非常に色濃く受けていたことが窺われる。
峠というのは標高一,四一四メートルの地蔵峠のことで、二本の足が唯一の交通手段であった頃には、この峠を越えて甲州の富沢や南部へ行くほうが、駿府の街へ行くよりもよほど楽であったようだ。安倍川上流には地蔵峠の他にも、安倍峠や刈安峠など甲州方面へのルートは幾つもあって、盛んに交流を繰り返していたようである。
この地へ一歩踏み入れた途端に気がついたことがある。子供といわず大人といわず、老若男女、行き交う人の全てが、礼儀正しいのである。声を出して挨拶しない場合でも、軽い会釈、目礼は欠かさないのである。知らぬ顔の半兵衛で取り澄ましている輩は他所者と決め付けても間違いがなかろう。
「衣食足りて礼節を知る」というが、衣食住が足りて、更に、ワサビや茶や椎茸で現金収入があるためか、住民全員が穏やかで、せせっこましいところがなく、一口に醇朴とか素朴とかという言葉で括ってしまうのには若干の躊躇いさえ覚える。
さて、有東木の特色は何といっても、ワサビの名産地として有名なことである。ワサビは、もともと日本の中部山岳地帯に自生するアブラナ科の植物で、独特の風味が魚介類や蕎麦を食う際に、絶好の香辛料となることは衆知の通りである。また、その成分の中には非常に強い殺菌力を持っていることも知られている。上等な酒粕に細かく刻んだワサビを漬け込んだ山葵漬も当地の名物である。因みに山葵漬の老舗「田尻屋総本家」の創業は宝暦三年(一七五三年)で徳川九代将軍家重の治世である。
ワサビは古くから薬として用いられていたとされ、発掘された飛鳥時代の木簡に「委佐俾」と書かれているのが確認されている。
室町時代には現代と同じように薬味としての利用が確立していた。江戸時代に入ると寿司や蕎麦の普及にあわせて広く一般に利用されるようになった。
現代の科学でもワサビに大量に含まれるビタミンCがウイルス性の病気の防除や発ガン性物質の一つニトロソアミンの生成を防いでガンの発生を少なくすると言われている。
有東木の集落から少し登った所に、土地の人がワサビ山と呼んでいる一帯がある。付近一帯は野生のワサビがたくさんあった場所で、故にワサビ山と呼ぶのである。昔は、このワサビ山の野生ワサビを大切に保護すると同時に、村民が共同で出荷管理していたそうである。
慶長年間、一六〇〇年頃というから丁度関ヶ原の合戦があったころだが、有東木の人、白鳥亀衛門がワサビ山の野生ワサビを村内「井戸頭」湧水地に移植したところ非常によく成長繁殖したので、他の村民もこれを見習ったのがワサビ栽培の始まりとされる。このワサビの人工栽培を我が国で最初に始めたのが有東木の人たちであったと言うのが、何と言ってもこの土地の人たちにとって最大にして最高の自慢の種なのである。
慶長一二年(一六〇七年)七月、駿府城へ入城した大御所家康に献上した折に、その味が絶賛されたことや、葉が徳川家の葵の家紋に通じることから、幕府の庇護を受けることとなり、村外不出の御法度品扱いとなって厳重に管理された。
ワサビの栽培技術が有東木以外へ流出したのは家康の時代からずっと下って延享元年(一七四四年)に伊豆の天城から当地へシイタケ栽培の技術指導のために来ていた板垣勘四郎と与市主従によって翌延享二年五月に伊豆の天城へ伝えられた。これは東照権現家康公の決めた掟を破るものとして寛延三年(一七五〇年)五月十日、駿府町奉行所の白洲において訴訟裁判が行われたが、九代将軍家重の御側御用取次側衆の大岡忠光によって一切お構いなしの裁定が下されている。
ワサビ栽培に必要な条件は清冽な水である。水温が一八度以上になると病気になりやすいという。安倍川と富士川の分水嶺から湧き出る豊富な水は集落を囲む山のあちらこちらから湧き出していて、大小の沢を形成している。その湧き出し口のところから安倍川本流への合流点まで利用できる水と土地はすべてワサビ栽培に利用されている。
この土地の人たちは実に巧みに石を扱う。金掘人夫の末裔として、先祖の技術を伝承しているのかもしれない。家の敷地は石垣をめぐらし、石段と石畳の道が迷路のようになっている。勿論、ワサビ田も茶畑も野菜畑もすべてが石積みで出来ていて、丁度、インカ帝国の遺跡でも想像してもらうと解り易いだろう。
この地の風習や伝統行事などには、まだまだ興味深いことが多いのだが誌面の都合もあるから今回は割愛することとする。
有東木地区に集落排水つまり下水道を敷設した目的は、この地域の水質を保全するためであるが、同時に静岡市の水源を守るためでもある。因みに安倍川の水質は常に全国一級河川の上位にランクされている。
私は、鶴嘴と石箕、スコップと大バールという極めて基礎的な道具とともに、五尺四寸、二〇貫、胴長短足のこの身体で工事に携わったことを生涯の誇りとしている。
十枚山、仏谷山、青笹山と続く安倍山系の中腹に開けた戸数八〇戸ばかりの集落であるが、寺や神社もあれば、商店や農協の出張所もあり、路線バスの運行もあるので、所謂山間僻地の感覚はない。「静岡のチベット」などともいうが、これは伝統芸能や昔からの習俗をよく伝えていることに対する譬喩だろう。
この地の標高は五〇〇メートルを超えており、一般的に温暖と言われる静岡にあって、冬季には積雪もみられる寒冷な地域である。
私は、この集落の下水道工事をするために、しばらくの間、通っていたのであるが、仕事の合間に土地の古老から聞いた話のあらましを書いてみる。
この集落の歴史を土地の人に訊くと、武田勝頼の遺臣六人が天目山での敗戦後、この地に落ちのびて来て、この集落を拓いたという落人説と、同じ武田家でも、すでに信玄の頃に、梅ヶ島の入島や日影沢の金山採掘のために、当地へやってきた山師や金掘人夫の末裔が金山衰退後に住み着いたという土着説とがあって、いずれの説とも定かではない。土地の人の多くは、金掘人夫説よりも落人説を好むようで、これも人情として当然のことと肯ける。誰しも、己の先祖は誇り高き出自を願うものである。
ともあれ、峠ひとつ越えると甲州という地形上の理由もあって、政治、経済、習俗などの面で、武田家に限らず甲州の影響を非常に色濃く受けていたことが窺われる。
峠というのは標高一,四一四メートルの地蔵峠のことで、二本の足が唯一の交通手段であった頃には、この峠を越えて甲州の富沢や南部へ行くほうが、駿府の街へ行くよりもよほど楽であったようだ。安倍川上流には地蔵峠の他にも、安倍峠や刈安峠など甲州方面へのルートは幾つもあって、盛んに交流を繰り返していたようである。
この地へ一歩踏み入れた途端に気がついたことがある。子供といわず大人といわず、老若男女、行き交う人の全てが、礼儀正しいのである。声を出して挨拶しない場合でも、軽い会釈、目礼は欠かさないのである。知らぬ顔の半兵衛で取り澄ましている輩は他所者と決め付けても間違いがなかろう。
「衣食足りて礼節を知る」というが、衣食住が足りて、更に、ワサビや茶や椎茸で現金収入があるためか、住民全員が穏やかで、せせっこましいところがなく、一口に醇朴とか素朴とかという言葉で括ってしまうのには若干の躊躇いさえ覚える。
さて、有東木の特色は何といっても、ワサビの名産地として有名なことである。ワサビは、もともと日本の中部山岳地帯に自生するアブラナ科の植物で、独特の風味が魚介類や蕎麦を食う際に、絶好の香辛料となることは衆知の通りである。また、その成分の中には非常に強い殺菌力を持っていることも知られている。上等な酒粕に細かく刻んだワサビを漬け込んだ山葵漬も当地の名物である。因みに山葵漬の老舗「田尻屋総本家」の創業は宝暦三年(一七五三年)で徳川九代将軍家重の治世である。
ワサビは古くから薬として用いられていたとされ、発掘された飛鳥時代の木簡に「委佐俾」と書かれているのが確認されている。
室町時代には現代と同じように薬味としての利用が確立していた。江戸時代に入ると寿司や蕎麦の普及にあわせて広く一般に利用されるようになった。
現代の科学でもワサビに大量に含まれるビタミンCがウイルス性の病気の防除や発ガン性物質の一つニトロソアミンの生成を防いでガンの発生を少なくすると言われている。
有東木の集落から少し登った所に、土地の人がワサビ山と呼んでいる一帯がある。付近一帯は野生のワサビがたくさんあった場所で、故にワサビ山と呼ぶのである。昔は、このワサビ山の野生ワサビを大切に保護すると同時に、村民が共同で出荷管理していたそうである。
慶長年間、一六〇〇年頃というから丁度関ヶ原の合戦があったころだが、有東木の人、白鳥亀衛門がワサビ山の野生ワサビを村内「井戸頭」湧水地に移植したところ非常によく成長繁殖したので、他の村民もこれを見習ったのがワサビ栽培の始まりとされる。このワサビの人工栽培を我が国で最初に始めたのが有東木の人たちであったと言うのが、何と言ってもこの土地の人たちにとって最大にして最高の自慢の種なのである。
慶長一二年(一六〇七年)七月、駿府城へ入城した大御所家康に献上した折に、その味が絶賛されたことや、葉が徳川家の葵の家紋に通じることから、幕府の庇護を受けることとなり、村外不出の御法度品扱いとなって厳重に管理された。
ワサビの栽培技術が有東木以外へ流出したのは家康の時代からずっと下って延享元年(一七四四年)に伊豆の天城から当地へシイタケ栽培の技術指導のために来ていた板垣勘四郎と与市主従によって翌延享二年五月に伊豆の天城へ伝えられた。これは東照権現家康公の決めた掟を破るものとして寛延三年(一七五〇年)五月十日、駿府町奉行所の白洲において訴訟裁判が行われたが、九代将軍家重の御側御用取次側衆の大岡忠光によって一切お構いなしの裁定が下されている。
ワサビ栽培に必要な条件は清冽な水である。水温が一八度以上になると病気になりやすいという。安倍川と富士川の分水嶺から湧き出る豊富な水は集落を囲む山のあちらこちらから湧き出していて、大小の沢を形成している。その湧き出し口のところから安倍川本流への合流点まで利用できる水と土地はすべてワサビ栽培に利用されている。
この土地の人たちは実に巧みに石を扱う。金掘人夫の末裔として、先祖の技術を伝承しているのかもしれない。家の敷地は石垣をめぐらし、石段と石畳の道が迷路のようになっている。勿論、ワサビ田も茶畑も野菜畑もすべてが石積みで出来ていて、丁度、インカ帝国の遺跡でも想像してもらうと解り易いだろう。
この地の風習や伝統行事などには、まだまだ興味深いことが多いのだが誌面の都合もあるから今回は割愛することとする。
有東木地区に集落排水つまり下水道を敷設した目的は、この地域の水質を保全するためであるが、同時に静岡市の水源を守るためでもある。因みに安倍川の水質は常に全国一級河川の上位にランクされている。
私は、鶴嘴と石箕、スコップと大バールという極めて基礎的な道具とともに、五尺四寸、二〇貫、胴長短足のこの身体で工事に携わったことを生涯の誇りとしている。