新型コロナウイルスの影響で、東京・上野にある文豪・森鴎外(おうがい)ゆかりの老舗旅館「水月ホテル鴎外荘」(台東区池之端)が令和2年5月末で閉館することが分かった。宿泊などのキャンセルが相次ぎ、約八十年の歴史に幕を下ろす。
敷地内には鴎外が傑作「舞姫」を執筆した旧邸がある。女将の中村みさ子さん(62)は「旧邸を守るため、倒産前に閉館しようと決断しました」と話している。(東京新聞記事)
森 鷗外(もり おうがい、文久2年1月19日(1862年2月17日 ) - 1922年(大正11年)7月9日)は、日本の明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、陸軍軍医(軍医総監=中将相当)、官僚(高等官一等)。位階勲等は従二位・勲一等・功三級、医学博士、文学博士。本名は森 林太郎(もり りんたろう)。
石見国津和野(現:島根県津和野町)出身。東京大学医学部卒業。
鴎外の旧宅・水月ホテル鷗外荘(旧居、東京都台東区池之端)は、鴎外が20代後半に住んでいた住宅であり、最初の妻の実家である磐田の赤松家が、結婚の際に贈ったもので、2年ほどで離婚した時に返却を求めなかった。
その後、売りに出された際、隣にあった旅館の創業者が購入し宿泊できるようにした。天然温泉は都内第1号とされる。
先妻 登志子(1871-1900。海軍中将赤松則良娘)とは、1889年に結婚したが1年半で破綻。登志子は鷗外と別れた後、1900年に再婚先で結核で死亡。登志子との間には長男 於菟(おと、医学者、台北帝国大学医学部教授などを歴任)がいる。
磐田市に残る旧赤松家は、近代日本の造船技術の先駆者で、明治期に磐田原台地に茶園を開拓した海軍中将男爵赤松則良の邸宅跡です。
赤松 則良(あかまつ のりよし、天保12年11月1日(1841年12月13日) - 大正9年(1920年)9月23日)は、日本の武士(幕臣)、軍人、政治家。貴族院議員。
栄典は海軍中将従二位勲一等男爵。通称は大三郎。日本造船の父と呼ばれる。中世の播磨の名族赤松氏の末裔と称する播州網干(現姫路市網干区)新在家の龍野藩御用商人であった廻漕業赤松良則を実父とする幕府十五番組御徒士(御家人)・吉沢雄之進の次男として江戸深川に生まれる。
弘化4年(1847年)、祖父赤松良則の後を継ぎ父の実家である赤松姓となる。先祖の出自から父の経歴まで「赤松則良半生談」に本人が詳しく述べている。祖父赤松良則(泰輔)の墓は網干本柳寺に現存する。咸臨丸にて渡米した際、艦長・勝海舟より、航海中の功績あり、として、礼砲発射の号令を発する名誉を授かっている。
沼津兵学校勤務の際、明治新政府からの出仕を命ぜられても則良は渋っていた。出仕を決意した背景には勝海舟の助言があったと言われる。
妻・貞はオランダ留学に同行した林研海の妹であり、同じくその姉を娶った榎本武揚とも義兄弟となった。また、長女・登志子が森鴎外に嫁する際、媒酌人をつとめたのは、同じくオランダ留学生であった西周である。
オランダ留学中、榎本武揚とともに第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争を観戦しており、その際前線の塹壕まで進み、戦闘を直に体験している。また、その帰路にドイツのクルップ社へ立ち寄り、招待された晩餐の席で、同社社長のアルフレート・クルップと会話している。以上はウイキペディアから主要な記述を抜粋した。