日々是好舌

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宗長も住みし駿河の鞠子宿

2011年10月19日 15時17分06秒 | 日記
静岡市の西のはずれにある丸子宿は東海道53次の20番目の宿場町である。東海道中でもっとも小さい宿場。天保14年(1843年)の記録によると、家の数は211軒、旅籠は24軒であったという。

室町時代後期の連歌師・柴屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)が結んだ庵が吐月峰柴屋寺として今もこの地にある。吐月峯と書いて「はいふき」と読む。煙草道具の灰落としの竹筒はここのお寺の名物である。

宗長は文安5年(1448年)駿河国島田(現在の静岡県島田市)において鍛冶職五条義助の子として生まれた。

五条義助(ごじょう-よしすけ)は相模国鎌倉の正宗に師事し,駿河国島田で刀鍛冶(かじ)を業とした。永正年間(1504~1521年)相模国小田原に移住。義助の名跡は江戸時代までつづき多くの名工を輩出した。

宗長は寛正6年(1465年)に出家して後に今川義忠に仕えたが、義忠が戦死すると駿河を去り上洛した。宗祇に師事して連歌を学び水無瀬三吟(長享2年(1488年))、湯山三吟(延徳3年(1491年))などの席に列する。
大徳寺の一休宗純に参禅、大徳寺真珠庵の傍らに住み宗純没後は神奈備に近い山城国薪村(現在の京都府京田辺市)の酬恩庵に住んで宗純の菩提を弔った。
明応5年(1496年)、駿河に戻って今川氏親に仕える。文亀2年(1502年)、宗祇が箱根湯本で倒れたときその最期を看取った。宗祇没後は連歌界の指導者となる。また有力な武将や公家との交際も広く三条西実隆や細川高国、大内義興、上杉房能とも交流を持ち今川氏の外交顧問であったとも言われている。永正元年(1504年)、斎藤安元の援助により駿河国丸子の郷泉谷に柴屋軒(現在の吐月峰柴屋寺)を結び京との間を往還して大徳寺の山門造営にも関与した。

江戸時代初期の安楽庵策伝『醒睡笑』は連歌師・宗長の歌「武士(もののふ)のやばせの舟は早くとも急がば廻れ瀬田の長橋」を引用し、「急がば回れ」の諺の発祥であると紹介している。

代表作として句集「那智篭(なちごもり)」、日記「宗長手記」、「宗長日記」があり、ほかに「東路の津登(あづまじのつと)」、「宇津山記」、「宗祇終焉記」がある。

丸子宿といえばもう一つの名物は「とろろ汁」である。今でも丁子屋をはじめとして「とろろ汁」を食わせる店が何軒もある。

「とろろ汁」の作り方を簡単に書いておく。

先ず自然薯を手ごろな長さに折り丁寧に洗う。髭根をガスの炎で焼くと良い。

洗った自然薯を卸し金で摩り下ろす。これを擂鉢で丁寧にあたる。

鰹節や鯖節或いは煮干などで濃い目のダシを取り、気持ち濃い目の味噌汁を作る。

擂鉢の自然薯の下ろした物へ少しずつ味噌汁を加えながら延ばす。このときに極めて慎重にしないと上手に延びないので注意を要する。

最後に醤油を数滴垂らして隠し味にする。

人によっては鯖を焼いたものを加えたり、鶏卵を加えたりするようだが私は鰹節のダシだけである。

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