江戸時代になると,槍は武士のもつ武具として,またたしなむべき武術として非常に重要な位置を占めるようになり,腰の二刀とともに武士階級を象徴するようになった。流派も数多く出現するが,素槍では,大内無辺の無辺流,竹内藤一郎の竹内流,中山源兵衛吉成の風伝流など,鎌槍では,奈良宝蔵院の僧胤栄の宝蔵院流(これは高田派,中村派,礒野派などに分派する),鍵槍では,内海六郎右衛門重次の内海流,佐分利猪之助重隆の佐分利流,管槍は,伊東紀伊守祐忠の伊東流,小笠原内記貞春の日本覚天流,津田権之丞信之の貫流などがおもな流派である。江戸時代初期にほぼ完成をみた槍術は,中期から後期にかけて技や理論もくふう研究され,とくに練習法の進歩はめざましく,双方が防具を着けて仕合稽古を行うようになった。
無辺流の流祖は出羽国横手郡大内庄(現秋田県横手市)の人、大内無辺(生没年不詳。天文-永禄(1532-70)のころ)。年少のころより戸倉河畔で成長し、川に遡上する鮭を突き捕るのが業で、それより槍術を開悟した。
流祖は平鹿の真人山(秋田県横手市)に祈念して霊夢をうけたと言い伝えている。「無辺風月眼中眼、不尽乾坤燈外燈、柳暗花明十万戸、敲明処々有人鷹」の頌をもって必勝の極意をさとって流名とし、幻槍の伝を奥とした。
木槍試合をすること百二十三回、敗れたことわずか三度だったという。写本『無辺流槍手鑑』が伝わっている。その子上右衛門、孫清右衛門とよくその業を継ぎ、清右衛門の門人 椎名靭負佐(しいなゆきえのすけ)は大坂夏の陣に従軍して功名をたて、その門人 小泉七左衛門吉久は大坂に住み無辺流を広めた。
一方、無辺の甥の山本刑部宗茂は、越後国(新潟県)村松から江戸に出て山本無辺流を唱えたが、その孫加兵衛久茂は名手の聞こえ高く、1637年(寛永14)柳生宗矩の別邸においてその妙技を三代将軍家光の台覧に供したのをはじめ、しばしば台覧の栄を受け、1667年(寛文7)には男久明(ひさあきら)・久玄(ひさはる)を伴って将軍家綱(いえつな)の台覧を賜り、同年12月ついに御家人に登用され、廩米(くらまい)200俵を給せられた。このほか羽州鶴岡の田村八右衛門秋義を祖とする無辺無極流など、幾多の分流が全国に広がりをみせた。
鮭を突き捕る銛の技から槍術の一流を立てた大内無辺のような人物こそ名人・達人というのであろう。
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