京都楽蜂庵日記

ミニ里山の観察記録

E=MC^2 この方程式の単位はなんだ?

2019年02月27日 | 日記

 E=MC^2(質量M X 光速C^2)は世界で最も有名な方程式である。文学者、大学生、新聞記者、八百屋のおじさん、うちのかみさん、小学生おまけに国会議員でさえ(失礼!)知っている。これはアインシュタインの特殊相対性理論から難解な数学と論理を積み重ねて出てきたものである。どうして質量と光速といったものから、エネルギーの単位が出てくるのだろうか?

これについてはアイザック・アシモフ (1920-1996)がその著「時間と宇宙について」(早川書房 1994)で詳しく説明してくれている。アシモフはロシアで生まれたが、3歳の頃にアメリカに移り、ボストン大学の生化学の教授になった。一方でSF作家として精力的に作品を発表し、科学啓蒙書も多数著した。ここではその説明を要約して紹介する。

 

まずニュートンの第二法則から説明は始まる。単位はすべてcgs単位である。

F = m x α (力=質量x加速度)

ここの単位は gr x (cm/sec ^2)

この単位をdyne(ダイン)と呼ぶ。

1ダインは1grの質量に1cm/sec^2の加速度を与える力の大きさである。

次に仕事という概念が必要である。これはエネルギーと等価である。

仕事(W)=力(F)x 距離 (d) で表される。すなわち抵抗力とそれに逆らって動く

距離。この単位はdyne x cmである。これをerg (エルグ)と称する。

エルグは結局、gr  x (cm/sec)^2で表される。

E=MC^2の単位も同じgr x (cm/sec)^2なので、古典力学でのエルグと同じ単位となる。

メデタシメデタシ。

アインシュタインの方程式は特殊相対性理論から、難解な論理と数学を用いて導かれたものであるが、仮にこの方程式からエネルギーに対して別の単位を得ていたとしたら、アインシュタインは間違いに気づき、鉛筆を削り直してまた初めから計算をやり直したであろうとアシモフは言う。

 

 

 

 

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実験科学者が美しいと感じるデータ: ミリカンの油滴実験は不正か?

2019年02月23日 | 日記


実験科学者が美しいと感じるデータ-ミリカンの油滴実験は不正か?

  『Betrayers of the Truth: Fraud and Deceit in the Halls of Science (真実の背信者たち、科学の殿堂における欺瞞と虚偽)』(日本語翻訳出版『背信の科学者たち』)は、ウイリアム・ブロードとニコラス・ウェイドによる、科学研究における不正の告発書である。1983年に出版され、日本では1988年に化学同人から牧野賢治により翻訳出版された。1988年の日本語翻訳版はその後絶版となり、2006年と2014年に、それぞれ解説を改めて講談社ブルーバックスから出版されている。二人の著者は当時の「ニューヨーク・タイムズ」誌の花形科学記者であった。この書は「科学者の不正行為」という研究倫理上の問題を本格的に扱った科学史の古典と言われている。科学実験データの捏造、アイディアや論文の盗用、オーサーシップ問題、確信バイアスなどを扱っている。科学研究におけるデータ捏造疑惑については、理研の「スタップ細胞」が社会問題となって記憶に新しい。

  その本の中で取り上げらえている「不正事例」の一つがロバート・ミリカン (Robert A. Millikan: 1868-1953)の有名な油滴実験である。この実験は電子の電荷を求めるもので、帯電した油の粒子(最初は水滴を使用)を電界の中に置き、重力、浮力、電界によるクーロン力の釣り合い条件(あるいは運動速度)から油滴の電荷を計算した。ミリカンは、その大きさがある値の整数倍になることを示し、電子一個の持つ電荷を 1.592×10-19 C と見積もった(現在の電気素量の推奨値は 1.6021766208×10-19 C)。この単純ではあるが見事な実験は、高校の物理の教科書にも紹介されており、この成果によりミリカンは1923年にノーベル物理学賞を受賞した。

 

                                      

                                            ミリカンの油滴実験の図解(illume No.37. 2007より)

  ところがハーバード大の科学史家ジェラルド・ホルトン(Gerald Holton:1922~)が、ミリカンの死後、その実験ノートを調べると、140件の観測データのうち58を1913年の論文で選んで出していたという。ミリカンの実験ノートには、どのデータを使うか使わないかをミリカンの筆跡ではっきりメモされているという。このホルトンの調査をもとに『背信の科学者では』では、ノーベル賞クラスの研究でも「都合の良い」データを選ぶ不正があるが、結果オーライで見過ごされているとした。ブロードとウェイドのこの著作は総合的には質の高いインパクトなものであったので、この記述によりミリカンの「データ疑惑」の話はその後、世に敷延した。これは「確信バイアス」という不正の1種で、著者らは歴史的にガリレオ、ニュートン、メンデルの実験結果にも疑惑を投げかけている。

 これに対して、ミリカンの実験には全く不正がなかったとしたのは、『The Prism and the Pendulum: The Ten Most Beautiful Experiments in Science (2003)』(日本語訳本『世界でもっとも美しい10の実験』 (第8章電子を見るーミリカンの油滴実験)青木薫訳、日経BP社)を著したロバート・クリース(Robert Crease )である。クリースは綿密にミリカンの歴史的資料を再調査した。それによると、1909年の「平衡水滴法」 (この頃は水滴を用いていた)に関する論文では、ミリカンはデーター38個の観察に等級をつけて発表した。そのうち、水滴の位置または電場の値に問題があるもの、電場を入れたり消したりした直後のもの、値が30%も平均より小さなものなど10個のデーターは捨てたと正直に書いている。デリケートな装置の不安定性を根拠にしている。すなわち熱による残留対流、部屋の震度、気圧の変化など制御できない要因によって水滴の運動が不安定なものは、データーとして入れなかった(これらのデータを入れても結果は変わらない)。そして1913年の有名は油滴を用いた報告の実験では、140個の記録を取ったが、58個を採用した。取捨した理由は上記と同じであったと思える。ただ、このサイエンス誌の論文では「選ばれた油滴ではなく実験されたすべての滴についてのもの」と述べている。要するに油滴の運動が「美しい」とノートに記載されたデータを選んで論文をまとめたのである。ミリカンは美しい運動をしない油滴はデータとは見なさなかった。

   ホルトンも、ミリカンがデーターを都合よく取捨したと批判したのではなく、取り上げるべき適切なデータとそうでない不適なデーターとを区別したのだとしている。ちなみにホルトンは 1967年にRobert A. Millikan賞を受賞している。そもそも予測された電子の電荷が理論的に分かっていたわけではないから、ミリカンが「都合よく」データーを選択する基準などなかったはずである。いくつもの条件のスリットをくぐり抜けて実験研究は成功する。すべての条件を制御することは困難なことが多いので、何かのはずみで何枚ものスリットが重なりうまくいった時に、実験者は「美しい」と感じる。自然との共振と言える瞬間である。

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次の問に答えなさいー先祖の人口の方が今よりずっと多かったか?

2019年02月21日 | 日記

 次の問に即答できる人はかなり頭のいい人である。

 問題「自分には父と母の2人の両親がいる。そして父にも母にもそれぞれ2人の両親がいる。すなわち自分にとって祖父と祖母が4人いる。さらにこの4人にも両親がいたので、自分にとって曾祖父や曾祖母は8人。これは自分の女房にとっても、隣の主人や奥さんにとっても同様の真実である。このように次々と先祖をさかのぼって倍々計算していくと、昔の祖先の人口の方が、現在よりはるかに多かったはずである。この考えは正しいかどうか?」

  直感的にはすぐ間違っていると思われるので、バカバカしい問のようだが、それを説明してみろ言われると意外と難しい。

  答えは「兄弟あるいは姉妹のことを計算に入れて考えなければならない」である。しかも、ある条件ではこの問の結論は正しく、ある条件では間違いということになるので、まことにややこしい。順序立てて考えてみよう。

(ニホンの年齢人口分布図)

  人口というのは世代が入り混じった集団でそれの総計であるが、ここでは説明しやすいように、一世代は一斉に生まれ死んでいく均一集団とし、世代間の人口比較をしてみる。初期(基準)人口をP1とし平均生涯出生率をkとすると、2代目、3代目さらにn代目の人口は次のように計算される(^は階乗の記号)。

P2=P1x (k/2)

P3 =P2 x (k/2)=P1 x (k/2)^2

……………………………………

Pn=P1 x (k/2)^(n-1)

 これから初代(P1)とそれからn代目の人口 (Pn)の割合は

Pn/P1 = (k/2)^(nー1)となる。

 ここから

k>2の時は Pn  > P1

k=2の時は  Pn = P1

k<2の時は  Pn < P1 

  すなわち世代を経た人口の増減(大小)はkの値によって左右される。中国の一人っ子政策のような状態のk =1の時は、前の世代の人口の方が圧倒的に多いといったことがおこる。日本のこれからの状況でもある。一説では、2050年頃には日本の人口は8000万人を切るらしい。

 ここでは分かりやすいように、kは世代によらず変わらないとしたが、実際は変動するのでPn/P1は以下のようになる。

Pn/P1 = (k1xk2xk3……xkn-1)(1/2)^(n-1)

人口が増加するか減少するかは、同様に(k1xk2xk3……xkn-1)が2より大か小かによる。

 比較はあくまで、前の世代のトータルと次の世代のトータルでなければならないが、上掲の問題ではそうなっていない。親や先祖を共有する兄弟姉妹を入れず、自分一人と前の祖先(世代)を比較計算、すなわちk=2をK=1としているので、おかしい話になっているのである。(楽蜂)

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AI(人工知能)は大学教授を駆逐できるか

2019年02月19日 | 日記

  AIは21世紀のブレークスルー技術の一つと言える。20世紀の電子計算機技術の延長ではあるが、機械学習、ニューラルネットワーク、深層学習といったアルゴリズムの開発とビッグデーターの蓄積と処理能力向上により飛躍が起こった。何かすごい新しい方法が発明されて開発されたものではなく、今までの電子計算機技術が重層進化してブレークしたものである。2011年にはIBMが開発したワトソンがクイズ番組で人間に勝ち、15年にはグーグルのα碁がプロ棋士を打ちのめした。

 AIは会社でも導入されており、従業員数5000名以上の企業では25%以上がこれを利用しているそうだ。ソフトバンクでは新卒採用のエントリーシート (ES)の読み取り評価に IBMのワトソンを活用している。ここでは過去に学生が提出した数年分のES(1500枚)を分析し、合格と不合格のESをそれぞれ分析し、特徴を機械学習させた。その結果に基づいて受験者のESの合否判定をさせたところ、採用委員の合否判断とほぼ同じになった。これによってES判定の時間が大幅に縮小された。浮いた時間は個別面接の人数や時間を増やしたりできる。倍率が高いと出身大学でフィルターをかけたりする不公正なことをするが、そのようなことも防げる。今後は入社後の実績データも加味した機械学習が必要である。AIは会社の会計監査にも取り入れられている。ある大手の監査法人では、過去5年分の財務諸表を機械学習させて、AIが不正会計を検知する作業を行っているそうだ。

  AI(人工知能)が進化すると近未来において、人の職業がこれにとって代わり、多数の労働者が失職すると言われている。まず弁護士、税理士、会計士、司法書士といった「士業」の大部分がAIにとって代われるという。ある推計によると10-20年後には日本の労働者の約50%がAIにとって代われるというから驚く。しかし、一昔前、パソコンが普及したら多くの事務職が失職すると言われた時代があったが、かえってパソコンに支配される仕事が増えた。本当にそうなるかどうかわからない。

  ある研究会で一人の友人とAIについて議論したことがある。ちなみに、その友人は某国立大学医学系の名誉教授である。

  • 庵主「AIが将来いろいろな職業に取って代わると言われているけれど、大学教授はどうなんだろうね?」
  • 友人「AIは絶対に大学教授の替わりにはなれないと思うよ」
  • 庵主「へー、そんなに教授ってのはえらいもんなのかな」
  • 友人「違う違う。AIは大学教授のように、いいかげんな事を言ったりしたりできないからだよ」
  • 庵主「………………」

 

 

AIは敵か味方かは様々な議論がある。AIの悲観論の代表はジェムズ・バラット著「人工知能ー人類最悪にして最後の発明」である。2045年頃にシンギュラリティが起こり、「意志」を持ったAIがロボットに組み込まれ人類を脅かすようになという。映画「ターミネータ」に登場する機械軍である。シンギュラリティという言葉は、SF作家でもありサンディエゴ州立大の数学教授であったバーナー・ビンジが書いた論文 (1993)に出てくる用語である(本来は時間動態学などに出てくる特異点のこと)。

 AIは自由意志を持たないが、それを持った時がシンギュラリティということである。AIにできなくてヒトにしかできないことがAIとヒトを区別する本質ではないかと思える。豊かな会話は、ヒトの特徴のように思えるが、最近の会話ロボットは、並の大学生よりも気の利いた話ができる。 AIの「会話」は思考の結果の出力ではなく、無数にある「サンプル」の中から確率で計算して選択しているだけだ。しかし考えてみると、ヒトの大部分の会話もそれに近い。最近では絵画、作曲、報道などの創造的分野とい言われるところでもAIは使われている。本当にヒトでなければできない作業とは、子作りぐらいかもしれないが、AIを発達させた文明諸国では、少子化が進む傾向がある。それに自己増殖能をロボットと組み合わせれば、「ターミネータ」の世界になる。そう考えるとあまり明るい話ではない。

 一方において、AIが持続的な自己増殖能を維持するためには、地球環境と資源の簒奪者であるヒトを滅ぼすことをまず考えるかもしれない。多くの生物は人類のような高度な知能を持ち合わせていない。犬や猫にもある程度の知能はあるが、限定されたもので、人の幼児以下である。しかし知能を持たない野生生物の方が、全体として調和を保って生きている。ネズミも数が増えすぎると、集団で海に飛び込んで自殺するという。どうして、そうなるかは生態学のテーマであるが、よくわかっていない。自分勝手なエゴイストは滅び、調和者だけが長い進化の歴史を生きのびてきたとしか言えない。ところが、人類だけは、なまじ道具を使うといった知能を発達させてしまったために、地球に溢れかえり、資源を濫費し、環境まで変えている。生物は個体密度が高くなると、病原菌やウイルスが人口を減少させるはずなのに、治療薬やワクチンを開発してそれを防いでいる。知恵というよりも、地球にとっては全くの悪知恵である。

将来、万能に近くなった人工知能は考える。自分が持続して存続するためには資源の簒奪者、環境の破壊者、反省なき暴走の生物種を滅ぼさなければならないと。その後、地球環境の保全と調和のために働けば、エゴイズムを丸出しにしてネズミ以上に増殖した人類を滅ぼした地球の救世主(メシア)となるかもしれない。こう考えると、地球にとっては人工知能の未来はまことに明るい。

 

 参考図書

松尾豊 (2016) 人工知能は人間を超えるか 角川選書

野口悠紀雄(2018)  AI入門講座 東京堂出版 

中谷巌  (2018) AI資本主義は人類を救えるかー文明史から読みとく NHK出版新書 

 

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集合知と集合無知

2019年02月19日 | 日記

 イングランドのプリマスで開かれた牛の品評会で、一匹の太った牝牛の体重を当てるコンテストが行われた。見た目の感じで体重を推定して投票し、測定値に一番近い人が賞品を獲得する。約800人がこれに挑戦した。このコンテストには肉屋や酪農家といった専門家が多かったが、一般の人も混じっていた。

 ここで投票された体重の平均値を計算すると、驚くべきことに牛の実際の体重543kgとわずか1%しか違わなかった。この話はフランシス・ゴルトンの「the wisdom of crowds:群衆の知恵」(1907)という論文に載せられている。これはAI人工知能を利用した話でもなんでもなく単に平均値(中央値)をとっただけの事であるが、投票者の知能を利用したという意味で1種の深層学習と言えるかもしれない。

 

  このコンテストでは、牛についての知識が比較的に豊富な集団が実験に参加していたので、こういった結果が出たのか、どの集団でも平均値はあまり変わらないのか興味がある。例えば小学生にこれをやらせたどうなるか。出てくる値の分散は広がることは予想されるが、平均値(中央値)は、上の値と変わらないだろうか?

  集合知あるいは集団的知性の概念を最初に提唱したのは昆虫学者 William Morton Wheeler である。彼は個体同士が密接に協力しあって全体としてひとつの生命体のように振舞う様子を観測した。社会性昆虫のような集団では個体の相互作用が集積して、予想できない全体の行動を引き起こすことがある。この時も”集合知統計”の情報処理がなされている可能性がある。

  クラウドソーシングによる「集合知」は、専門的な知識やバックグラウンドがないと無益になる場合もある。あるフィンランドのサッカーチームが、新人や監督獲得の判断にファンに参加させる実験を行った。その結果は惨憺たるもので、チームの成績は最低で、実験は途中で突然打ち切られたという。それと選挙も必ずしも「集合英知」とはならず、「集合無知」の結果を生み出すことが多い。頭のおかしい政治家を大衆が選んで、大変な目にあったりする。これは牛の体重といった客観的な事象を判断するのではなく、ほとんど自分の好みや思想を基準に投票するためである。どこの国でも、良心的な中間政党が多数派を占めたことは滅多にない。

 参考図書

スティーブン・スローマン、フィリップ・ファーンバック著「知ってるつもりー無知の科学」(早川書房 2018)

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最近の科学雑誌 (Scientific journals)の裏事情

2019年02月10日 | 日記

 日本では数年前に発表された理研のスタップ細胞が社会問題にまでなったが、論文の内容に再現性のない話はごまんとある。製薬会社AmgenやBayerHealthCareが臨床前研究の論文成果を検証したところ、再現性が得られたのはわずか25%であったという(Nature483,531-533, 2012)。論文内容でも統計処理が誤っていたり、不適切であるケースが多いらしい。再現性ナシの論文はインパクトファクターが20以上の有名雑誌でも同様の割合で見られるという。

  雑誌の査読者(レフェリー)は投稿論文の実験などをいちいち追試しておれないので、記述の内容がおかしくなければ掲載可と言わざるをえない。庵主は、実験系もフィールド系も理系論文の半分ぐらいは再現性がないのではと疑っている。膨大な予算を使って科学者の生活を支えるために「論文」というゴミが地球に増えていく。

  大発見などというものは滅多にないので、業績を上げるためには、そこそこの内容の論文をいくつも書いて、数で研究者の評価値を上げる必要がある。論文という実績が無いと科研費があたらない。最近は運営交付金が減らされて科研費が無いと大学では研究ができない状態である。publish or perish(書かざるものは消えゆくのみ)というわけである。さらにpublish and perish(いくら書いても消えゆくのみ)という時代になってきたそうだ。論文はあって当たり前で、そのインパクトファクター (IF)が大事だというのである。指数関数的に増える論文の山の中で、ありふれた研究をしていてもゴミのように埋もれてしまうだけである。少しでもいい仕事をして著名な雑誌に論文を掲載したいと思うのは研究者の本能である。

  IFは、それが掲載された論文の引用頻度を比較した指数に過ぎない。すなわち、その分野での論文の重要性を査定して決めたものではないのである。そもそも研究者人口が多い分野の雑誌は当然、IFは高くなる。NatureやScience, Cell, PNAS, Lancetなどの有名雑誌はIFがべらぼうに高い。一報出すだけでIFを30点以上も稼げるのである。まあまあの生理学関係の雑誌のIFが1.0あるかないかだから、30報も稼いだことになる。研究でちょっとした発見をしたと思う色気のある科学者はこれらの雑誌に一回は投稿してみる。しかし、うぬぼれ屋はこの世にごまんといるので、掲載率は低い。ほとんどがリジェクト(掲載拒否)される。上で述べたNatureの記事でも、再現性のない論文がむしろ引用頻度が高かったと述べている。IFが本当に論文の価値を反映しているのか疑問だということは前から言われているが、大学や研究所で人事の査定の際に候補者の論文リストからこれが計算比較されるケースもある。

  ワトソンとクリックによるDNA(遺伝子)の二重螺旋の発見は、Nature誌 (1953)にたった一枚の論文で発表され(図)、これがノーベル賞の対象になった。大事なことは総合的に何が創造的であったのか、何を本質的に進歩させたかのかということであろう。論文が多いとか少ないとかは指標ではないと思う。有名雑誌に掲載されたとしても再現率が確率として20%であるのなら、必ずしも評価の得点にならないのではないだろうか?

 

( ワトソンとクリックの1953年Nature論文。この短い論文が人類の生物

に対する認識を決定しただけでなくその後の文明と文化に革命的な影響を与えた)

 

  先日久しぶりに、ある国立大学の理系学部の図書館に文献を閲覧に行った。雑誌を並べる書架を見るとガラガラに空いている。お目当ての雑誌も購読中止になっていた。どうしたことかと図書の事務員に聞くと、最近、大学ではほとんど電子ジャーナルに変更になり、冊子体は経費節約のために購入をやめているとのことであった。電子ジャーナルは学内で手続きをすれば利用可能であるとのこと。確かに、これを利用すれば図書館に出向いて、いちいち雑誌から論文をコピーしなくても、自分のパソコンにダウンロードすれば、簡単にコピーが手に入るので便利ではある。ただ、学外者は使えないから、冊子の場合のように、許可を得て図書室で読めるというものではない。それに、古い世代にはバックナンバーが並んでいないと、雑誌が「仮想現実」のようで不安で仕方がない。

   この電子ジャーナルは、印刷代や郵送の手間がいらないので費用がかからないかというとそうでもない。冊子体と変わらないくらい結構な値段がするらしい。一つの研究室では、これを購入するとかなりの負担となるので、関連する部局や教室が共同で出資することになるが、いくつも雑誌をとるとバカにならない。Elsevier、Wiley-Blackwell, Springerなどの商業出版社が独占資本化して、投稿料も講読料も意のままに釣り上げている。一方で、オンライン上で無料かつ制約無しで閲覧可能な学術雑誌を運営する良心的なオープンアクセスジャーナル(OA:open access journal)が開設されている。最近ではこれに投稿する研究者も多い。しかし、どのような形態にせよインターネットを経由する電子的ジャーナルは、それを管理運営する会社が破産しサーバーが停止すると、その雑誌の過去の論文が全く読めないということになる。国会図書館ではこう言った電子ジャーナルはどう扱っているのだろうか?

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ある洞穴生物学者の思い出

2019年02月08日 | 日記

ある洞穴生物学者の思い出

  吉井良三先生(1914 -1999)は庵主の大学教養時代の担任教授であった。先生は大阪府に生まれ、1935年に旧制の第三高等学校(三高)理乙類を卒業、1938年京都帝国理学部大学卒業し、1940~1946年ヨーロッパに留学した。最初はドイツとの交換留学生としてミュンヘン大学に派遣されていたが、戦火が激しくなり帰国の便が断たれたために、長期留学になったものと思える。京大が保存する三高の資料によると1944~1946年まではスペインで外務省嘱託日本公使館附雇員となっており、最後のほうは留学というより、ほとんど避難生活のようであった。帰国後1946年5月から、三高の講師(動物学)、光華女子専門学校教授を兼務、そして1963年には京都大学教養部教授になられた。円い眼鏡をかけた飄々とした先生で、学生のクラスコンパによく参加された。そこで、ご自分の研究対象である洞穴に棲むトビムシの話などを面白くしてくださった。

  記憶では次のような話があった。洞窟の虫をおびき寄せるのに、あるフランス人がチーズを使っていたので、自分も試みたが日本のチーズは全く効果がなかった。そこで漬け物を使ったがこれも効果がない。結局、発酵させたドブロクのような酒に、ヤスデ、トビムシをはじめいろいろな昆虫が寄ってくることがわかった。さらに洞窟にいる生物には真同穴性、好同穴性、迷同穴性のものがいて、真同穴性の種が学術的には貴重だと教わった。この話に刺激されて、先生の著である「洞穴学ことはじめ」(岩波新書)と「洞穴から生物学へ」(NHKブックス)を買って下宿で読んだものだ。

  吉井先生はミュンヘン大学の森林昆虫学研究所に留学されたが、ちょうど第二次世界大戦が始まって1年ほどで、戦争が激しくなるにつれて、そこの指導教授を含めて研究員はみな徴兵されていなくなり、ベルリン大学に移った。そこでインスブルック大学研究員のヤネチェクと知り合い、氷河のトビムシの共同研究が始まった。ヤネチェクは、のちにインスブルグ大学の生物学の教授となるが、その頃は軍服にいかめしい鉄十字章をぶら下げていたという。

 帰国してだいぶ経ってからヤネチェクがネパールのマカール氷河から送ってきたトビムシの標本を見て、吉井先生は驚愕する。それはルーマニア、アフガニスタン、日本(福島県)の3箇所の洞窟でのみ発見されているアケロンティデスという種類のものであったからだ。先生は、それまでこれらの種は平行進化でそれぞれの地方で生じたと考えていたが、ヒマラヤの高山帯にも生息する事より、この仮説は捨てざるをえなかった。そして氷河期には世界中で分布していたアケロンティデスが気候変動によって一部は高山に押し込められ、一部は洞穴に逃げ込んだという別の仮説を提出した。

  先生は動物行動学者の日高敏隆先生とも親しく、理学部の動物学教室にもよく来られていたので、後になってそこでお会いした。京大定年後は、ボルネオ島のサンダガンの森林研究所に勤めて、植林の害虫を防除する研究にたずさわったそうである。三高の同窓会誌『神陵文庫』第3巻に吉井先生の講演記録「オランウータンの国ーサンダカンの生活」が載っている(http://www.tbtcf.com/ shinryo/a0003/ 0006. pdf)。これがまた抱腹絶倒の講演なので、さわりの部分を要約して紹介する。

 『マレーシアボルネオ島のサンダカンで植林のための事業にたずさわった。サンダカンは深い入り江の中にあって丘のある長崎を小さくしたような街である。丘に登ると日本軍の掘った防空壕が残っている。ラワン材となるフタバガキは約200種類もあるので、適当に選んで植林すればよかろうと思うが、簡単ではない。これらの種は5~6年に一斉開花するが、花が咲き実が落ちて1週間ほどで発芽しなくなる。すなわち種子の保存が難し。また発芽してから、数年は比較的暗いところで育てないと、いたる所から枝が出て材木としては使えない。サンダカンでの生活は食費が安いので楽ではあるが、湿度が高くすみにくい。家は高床式になっており、雨季には床下に水がたまり、カエルが夜通し鳴くので、うるさくて寝られない。植林してしばらくすると、それを食害する昆虫が大発生する。例えばネムの木には、タイワンキチョウがついて、これが羽化すると植林地全体が黄色い絨毯をひきつめたようになる。象が夜に植林地にやってきて、木を引っこ抜くいたずらをするので、ジープに乗って爆竹をバンバンやったら、そのうち象は来なくなった等々…。』

先生の書物や談話、講演にはいつもユーモアが溢れていた。

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科学者における神概念の形成

2019年01月28日 | 日記

 科学者における神概念の形成

  ギリシャ以来の西洋世界の哲学(物や世界の解釈)の根底には起源論があり、方法論的には二分法であった。一方、東洋の宗教や哲学は起源を論ずることがなく、おまけに二項対立を好まずに「ああもあるがこうもある」と言った曖昧主義である。特に仏教は宇宙の起源を考えない宗教で対立を好まない。対立の代わりに共生を主張したりするが、これも曖昧主義の表れである。これではグレートな科学は発展しない。西洋の中世においては天動説と地動説に見られるように聖書内容と科学的知見との二項対立が見られた。西洋科学はこの二項対立をバネに発展したと言える。

  歴史的に優れた科学者が全て唯物論者や無神論者というわけでなく、多くは神を信じる敬虔な信者であったようだ。人知の及ばない不可知の自然領域に万能神の存在を予想する科学者は多い。宇宙や生命の精妙を演出しているのは神であるという「インテリジェントデザイン説」を信じる科学者も沢山いる。一方、そうでない科学者は徹底した唯物論者で不可知の領域といえども、何らかの物理的な法則にそった仕組みが存在し、技術や知識が蓄積されれば将来人の手によって、きっとそれが解明されると信じている。過去の科学の礼賛家であり未来に対する楽天家でもある。

  カントは『純粋理性批判』において中世以来の「神」の存在証明を4つにまとめた。1)世界が規則的かつ精巧なのは、神が世界を作ったからだという目的論的証明(自然神学的証明)。2)「存在する」という属性を最大限に持った神は存在するという存在論的証明)3)因果律に従って原因の原因の原因の…と遡って行くと起源因があるはずで、これこそが神だという宇宙論的あるいは生命起源論的証明。4)「道徳に従うと幸福になる」と考えるには神の存在が必要だとする道徳的証明の4つである。宗教は社会を維持する倫理規定であった。司祭などの宗教者一般的な信者は小さい頃からの教育でこの形と言える。

  これらの説はいずれも「証明」と言っているが、カント自身がこれらを論駁しているように、どれも詭弁か単なる定義命題か実証不能な主観的表明に過ぎない。2)と4)はいわば心理学の問題である。科学者が考える「神存在」の理屈は1)と3)に関わるものである。これらの説をともかくタイプ1~4と類別する。タイプ0型は無神論者である。

  歴史的に有名な科学者の神や宗教に関する考えについては、次に述べるように多様である。それぞれどのタイプか仕分けしたい。

 地動説で有名なニコラウス・コペルニクス(1473-1543)は現在のポーランドに生まれた。彼はイタリアのボローニャ大学に留学し司祭となった。当時のキリスト教会はアリストテレスの説に従い天動説を教義としていたので、コペルニクスは自説の発表を逡巡したようである。しかし、コペルニクスは「天球の回転」(1542)という大部な論文を、死ぬ直前に発表した。そもそも聖書にはっきりと天動説を明記した部分がないので、それほど宗教的な葛藤はなかったと考えられている(タイプ4型)。

 ガリレオ・ガリレオ(1564-1642)はコペルニクスの死後20年ほど経ってイタリアのトスカーナ地方で生まれ、ピザ大学で数学と自然学を学んだ。彼は「星界の報告」という本で地動説を支持した。彼は「聖書と自然はともに神の言葉から生じたもので、前者は聖霊が述べたものであり、後者は神の命令の忠実な執行者である。二つの心理が対立することはない。したがって、必然的な証明によって我々が確信した自然科学的結論と一致するように、聖書の章句の真の意味を見出すことは注釈者の任務である」。宗教裁判にかけられ、下手をすると死刑かという状況に追い込まれたガリレオも聖書を否定する積もりはなかった(タイプ1型)。コペルミクスやガリレオの地動説は神の居場所を少し変更しただけで、神の存在を否定したもんではなかったのである。

  中世の天文科学者でタイプ0型に近かったのはジョルダーノ・ブルーノ (1548-1600)ではなかったか。ブルーノはドミニク会の修道士であったが、一切妥協をせず地動説を唱えて火あぶりの刑に処せられた。最後はおそらく無神論者になっていたのではないかと思う。マルクス主義者がブルーノを賞賛する理由がここにある。

 アイザック・ニュートン (1642-1727)はケンブリッジからペストを避けて疎開していた1665-67の「驚異の1年半」の間に運動方程式、万有引力の発見、微積分の開発などの業績をあげた。これによって神は天界を失ったと言われる。しかしニュートンが極めて熱心なキリスト教徒で神学者であったことも知られている。その著「プリンピキア」において「美しい天体は知性を備えた強力な意図と統一的な制御があって初めて存在する。神は永遠であり無限なお方である」と述べている。典型的なタイプ1型。

 二十世紀最大の物理学者であったアインシュタイン (1879-1955)はドイツのウルムという町のユダヤ人家庭に生まれた。アインシュタインは1905年の「奇跡の年」に「特殊相対性理論」「ブラウン運動」「光電効果理論」の3つの発見をした。若い頃に無神論者のスピオザの影響を受けたと言われるが「神」は否定しなかった。それはウイリアム・ヘルマンとの対話記録が物語る。そこでは、「宇宙的宗教では宇宙が自然法則に従って合理的であり、人はその法則を使って創造すること以外に教義はない。私にとって神とは、他のすべての原因の根底にある第一原因なんだ。何でも知るだけの力はあるが今は何もわかっていないと悟った時、自分が無限の知恵の海岸の一粒の砂に過ぎないと思った時、それが宗教者になった時だ。その意味で、私は熱心な修道士の一人だと言える」と述べている。アインシュタインはボーアとの量子力学論争で「神はサイコロを振らない」という有名なセリフを吐いた。典型的なタイプ3。アインシュタインの一般相対性理論の解から導かれたルメトールの膨張宇宙論とその帰結であるビッグバーン理論は、時間を逆回しすれば始まりがあることを予想しているが、カトリック教会は「神の存在証明」としてこれを歓迎している。今や教会がタイプ3型に改宗している。創世記はビッグバーン理論の暗喩であったということか。

 チャルーズ・ダーウイン(1809 -1882)は進化論を唱え「種の起源」(185)を著した。ダーウインの一族は自由思想家が多かったが、父ロバートは子どもたちに英国国教会で洗礼を受けさせた。しかしダーウィンは兄妹や母と共にユニテリアンの教会へ通っていた。彼はしばらく正統な信仰を持ちつづけ、道徳の根拠として聖書を引用したが、旧約聖書が述べる歴史には批判的だった。ダーウィンは宗教を民族の生き残り戦略であると書いたが、まだ神が究極的な法則の決定者であると考えていた。しかし1851年の愛娘アニーが死に、神の存在を疑うようになった。いわば、タイプ4型から無神論タイプ0型への転向があったような形跡がある。1870年代に親族に向けて書かれた『自伝』では宗教と信仰を痛烈に批判するようになっている。進化論の思想的な徹底により無神論へ転向したというより、家庭的な不幸が強い作用を及ぼしたと言われている。タイプ0型。

  宇宙物理学や量子力学が宇宙生成の理屈をどのように説明したとしても、なぜビッグバーンが起こったのかを説明はできない。このようなありえない事は神が起こしたのだといえば言えるのである。科学が地平を切り開けば、また向こうに未知の世界が存在する。山頭火の「分け入つても分け入つても青い山」である。神は居場所を奥に奥へと変えるだけだが、ますます人知の及ばないところに行ってしまう。ちなみに1992年ヨハネ・パウロ2世は「ガリレオ事件調査委員会」を設置し、当時の教会の「誤謬」とガリレオの「無罪」を宣言した。そして「宇宙は特異点からはじまた」とする「特異点定理」を主張したスティーブン・ホーキング(1942-2018)に、神の存在を確かなものにしたとして、カトリック教会は1975年に金メダル(教皇庁科学アカデミー創設者ピウス11世賞)を与えた。教皇パウロ2世は「ビッグバン以降の宇宙の進化を研究するのは大いに結構だが、ビッグバン自体を探求してはいけない。それは創造の瞬間であり、神の御業だからです」とホーキングに語ったたそうである。しかし、ホーキングは特異点を否定し、宇宙に「始まり」はなかったとする「宇宙無境界仮説」の構築に邁進していたのである。ホーキングは後に、「教皇がそれをご存知なかっやたのには、ホッとしたよ。私はガリレオと同じような運命をたどりたくはないからね」と回想したと言われている。

宇宙に始まりがあっかた無かったはとてつもない難問ではあるが、天体物理学の理屈はある。一方、生物学の分野では、「生命の起源」がまさに人知の及ばざるところである。最初の原始細胞の生成は、どんなに考えても「神の手」による一撃という奇跡が起こったとしか考えられないほど不可思議なことに思える。これには今のところ、ささやかな仮説さえも出されていない。

 参考図書

三田一郎『科学者はなぜ神を信じるのか』ーコペルニクスからホーキングまでー講談社ブルーバックスB2061、2018年

マリオ・リウ”ィオ『偉大なる失敗』~天才科学者たちはどう間違えたか。早川書房  2017年

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ノーベル賞受賞者かバスドライバーか?ー米国における科学事情

2018年10月30日 | 日記

ノーベル賞受賞かバスドライバーか?ー米国における科学事情

  オワンクラゲから緑色蛍光たんぱく質(green fluorescent protein:GFP)やイクオリン (aequorin) を発見し、2008年にノーベル化学賞を受賞した下村脩博士(90歳)が今月19日に老衰のため亡くなられた。オワンクラゲの発色細胞内では、GFPがイクオリン(カルシュウム感知蛋白で青色発光体)から励起エネルギーを受け、最大蛍光波長508 nmの緑色の蛍光を発する。GFPの緑色蛍光の発色に関しては、下村博士の一連の研究により提唱された発色団の分子構造モデルをもとに、自己脱水結合のみで充分で、酵素など他分子の助けを必要としないことが解明された。

  GFPに励起光を当てると単体でも蛍光発光する。下村博士によるその発見から30余年を経た1990年代、ダグラス・プラッシャー(D.C. Prasher)らのグループがGFP遺伝子の同定・クローニングに成功した。それの構造をもとにマーチン・チャルフィー (M. Chalfie)、ロジャー・チエン(R.Y.Tsien)らのグループがトランスジーンとして異種細胞へのGFP導入・発現に成功した(チャルフィーおよびチエンもまた、下村博士と同時にノーベル化学賞を受賞)。GFPの発色は基質を必要としないことや単体で機能するなどの特徴から、発色団形成に酵素反応が必要でないこと、異種細胞への発現方法が確立したことなどから1990年代にレポーター遺伝子として広く普及した。GFP遺伝子および、改変GFP遺伝子は、細胞生物学・発生生物学・神経細胞生物学などではレポーター遺伝子として使われている。

             

  チャルフィーは、最初は大腸菌でついで線虫においてGFP遺伝子を導入して細胞でGFPを発現させ光らせることに成功した。一方、GFP遺伝子の構造を明らかにしていたプラッシャーも、大腸菌で同様にGFPを発現させようとしたが、うまくいかなかった。これは遺伝子の端に余分なDNA配列があり、それがGFPの発光を妨害していたのである。チャルフィーはGFPのアミノ酸配列そのものだけを確認し余分な部分を除いていた。ロジャー・チエンはGFPの構造を変化させて緑色以外にも青、シアン、黄色などの蛍光蛋白を開発した。これにより「多色観察」や「 FRET」(蛍光共鳴エネルギー移動)の実験が組めるようになり、その有用性が評価されてノーベル賞に結びついた。

  それまでGFP研究のトップを走っていたプラッシャーは競争に敗れ、その後の人生は幸福なものではなかった。実は、チャルフィーはプラッシャーが提供してくれたGFP遺伝子のプラスミドを利用していたのである。それからプラッシャーの研究費助成の申請は却下され、研究職を失なってしまう。今はバスの運転手をしながら家計を支えているという。勝ち組と負け組がはっきり分かれてしまうのが、アメリカ(USA)の科学者社会である(『光るクラゲがノーベル賞をとった理由:蛍光タンパク質GFPの発見物語』石浦章一監修 、生化学若い研究者の会編著、日本評論社 2009を参照)。ここでは、一流大學で博士号を取っても、ポスドクの職にありつけるのかどうか確実ではない。バリバリ競争を勝ち抜く根性と才覚、それに運が生き延びていくうえで必要である。ハーバードで博士号を取ってタクシードライバーという人はザラにいる。

  下村博士もそうだったが、海外流出の学者で華々しい成果を上げた人は多い。例えば免疫機構の解明でノーベル生理学賞を受賞した利根川進博士(MIT)もそうだ。利根川博士が京大から分子生物学を目指して海外留学した経緯は、その著『私の脳科学講義』(岩波新書755)に述べられている。しかし、うまくいった人はスポットが当たるので、海外に出た人の大部分が成功しているように錯覚してしまうが、実は99.9%(あるいはそれ以上の人がどこかに消え去っているのである。

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アインシュタインとミツバチ

2018年09月07日 | 日記

 アインシュタインのIf the bee disappeared off the surface of the globe then man would only have four years of life left “もしミツバチが地球の表面から消え去ることがあれば人類はたかだか4年もたたぬうちに滅びさるであろう”は有名な警句として、よく引用される。野外でのポリネータであり、農作物でも重要な人工送粉者として利用されているミツバチがいなくなると、植物の更新が行われれずに、地球環境が破滅するだけでなく、人類の食物生産も破綻し短期間で文明は破局にいたるだろうというのは、確かに“天才”アインシュタインの口から出た、それらしい忠告のように思える。

  ミツバチの大量消失(CCD)が世界各地でおこり、その原因が地球温暖化や農薬汚染によるのではないかという、報道がなされるにつれて、この文言は拡散していった。

 しかし、これはアインシュタインが亡くなった1955年から40年もたった1994年に、ブルッセルのとある養蜂関係の新聞に登場した文言で、それまでのいかなるアインシュタイン関係のデーターベースにも出てこない。すなわち出所がまったく分からない“名言”で、アインシュタインの研究機関はこれは彼のものでないとしている。そもそも、理論物理学者のアインシュタインがミツバチの生態を議論するなどは不自然なことと考えるべきであろう。

 このようないいかげんな言葉や文言が、疑われずに人口に膾炙される理由は、その内容の感染力の強さ、すなわちもっともらしいさにある。気の毒なことに、アインシュタインはその度に利用されるようである。(参照https://www.snopes.com/fact-check/einstein-on-bees/)

 

 

あかんべのように師走のファクシミリ 小沢信男

 

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囲碁の中押しと言う事について

2018年04月09日 | 日記

囲碁の中押しと言う事について

 

 打そむる碁の一目や今日の春 

 掲句は、戦国時代の武将で織田信長や豊臣秀吉につかえたと言われる斉藤徳元が碁の正月での打初を詠んだものである。徳元は関ヶ原の戦いのあとは浪人となり江戸に出て俳諧で身をたて、日本で最初の俳書とされる「俳諧初学抄」を著した。徳元にならって碁にかかわる拙句をいくつか。

 待ちわびて碁石を磨く桜時

 碁の師匠作ってくれし木の芽和え

 長考はいつまで続く金鳳花

 碁に負けて後の月見る長者町

 カンとばかり石を敲けば九月尽

 大石の頓死も知らず峰の月

 中押しの客に食わさん崩れ柿

 秀策の棋譜を並べし冬星座

 人も碁も愚形ばかりの歳の暮

 碁会所の障子の人影(かげ)の大晦日   

               

                 

 小学二、三年の頃だったろうか、父親に無理矢理、碁盤の前に座らされた。「取り囲んでたくさん相手の石を取った方が勝ちだ」とルールらしきものを教えられたので、ひたすら父の打つ白石を追いかけて取ることに専念した。後になって、碁の勝敗は自分が囲った地の多寡によって決まるという事を知った。父は、碁の基本は戦いであるという考えで、最初わざとそんな教え方をしたようである。その後、大学時代に大阪教育大学教授であった高木豊氏(故人)に本格的に教わった。高木氏はアマチュアの六段ぐらいであったが、お宅が京都御所の近くの上長者町にあり、晩遅くまでおじゃまして打ってもらった。その頃は貧乏で娯楽も少なく、学生はたいてい麻雀か囲碁かダベリングで時間をつぶしていた時代である。八句目に出て来る秀策というのは江戸時代の有名な碁打ちの事で、ごく普通の穏やかな手を打つだけで負けなかったという名人である。その本因坊秀策の打ち碁集などを読んだりしたが、しょせん次元が違う話でなんともならない。

 ともかく碁歴六十年を数え、本棚に碁書を並べ日曜のNHK囲碁講座は欠かさず視聴し、枕元に詰碁集を置く涙ぐましい努力をしているが強くならない。もともと生まれつき脳のシナプス回路がこのゲームに向いてない事や集中力に欠けるせいだが、三つ子の魂百までもで、相手の石を追い回して取りに行くクセが直らず、大抵、反対に自分の大石がボロボロに取られて惨敗してしまう。こんなへぼ碁の趣味でも良い事の一つは、手談を通じて親しい友人が出来ることである。もっとも、長年の碁友は気心が知れているせいか、お互い口が悪く、勝っても負けても、憎まれ口をたたきあって別れる事が多い。そんな碁仇だが、いつもの約束の時間に現れないとなんだか寂しい。そんな時は、ぶつぶつ言いながら、仕方なく一人で碁盤に石を並べることになる。町内には碁キチが沢山いるせいか、信じられことに大晦日も営業している碁会所がある。普通の家庭なら一年で一番忙しいはずの大晦日に、灯りのともる夕方まで碁会所にいる客も客だが席主も席主だ。いずれも、帰宅してから除夜の鐘が鳴る頃まで奥さんと一悶着あるのは覚悟せねばならない。

 さて、中押し(ちゅうおし)という言葉である。囲碁で使用する特殊な言葉は沢山あって劫(こう)、持(せき)、中手、長生、止長などであるが、なかには「駄目(だめ)を押す」のように日常用語に取り入れられているものもある。中押しも囲碁特有の用語で、碁の試合の途中で大差がつき一方が投了して勝負がつく事を中押し勝ち(負け)という。直近の国政選挙の結果である自民一強はまさに政治の中押し状況といえる。我々の周りにも不本意ながら中押し状況は生ずるが、そのような時は何が敗因を反省した上で、結果にこだわらず盤をふき清めて再生を目指す必要があろう。

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パソコンに潜む不便のリスクかな

2017年10月21日 | 日記

パソコンに潜む不便のリスクかな

 長らく自宅で使用していたアップル社のパソコン(iMacG5)が故障した。これは昔、スティーブ・ジョブズさんが開発したディスプレイ一体型のもので、当時としては、その機能の良さと外見のスマートさから、人気の高いものであった。これの起動ボタンを押しても電源が入らなくなった。取り扱い説明書や関連サイトの記事を参考に、本体裏のパネルを外し、複雑な電子回路に埋没しているリセットボタンを何回か押しているうちに、ポーンという大きな音がして、再起動がかかり、ディスプレイに画面が出てパソコンが動き始めた。

 これで目出たしと、思っていたら、1時間程で画面がフリーズしてしまい、結局、電源プラグを引っこ抜いて、前と同じような操作で再起動するのだが、こんな事を繰り返しても埒があかないので、ついに近所の大学生協のパソコンショップに修理に出すことにしました。そして、1週間ほどして帰ってきたのは、「部品の製造中止につき修理不能」というメーカーからの手紙が付いた壊れたままのパソコンであった。部品というのは、小さな電源部分で、そこを取り替えさえすれば、このパソコンは十分機能を果たす事ができたのである。実はいままでにも同様のトラブルがあり、電源部(結構な値段がした)を替えた経験があった。

 電化製品の部品については、少なくとも10年間はメーカーが保有しなければならないと信じ込んでいたので、生協の担当者に文句を言うと、彼は「そのような法律はありません。パソコンの原価償却期間は4年間なので、販売終了後6年(アップル社の場合)も備蓄すれば良いほうですよ」と冷たく言い放った。

 パソコンのCPU(中央演算処理装置)、OS、ソフト、メモリーなどの機能は1-2年の間にバージョンが変更されるので、メーカーとしては、長期間、古いタイプの機種の備品をストックして、根気よくユーザーをサポートする気なぞ、さらさらなく、消費者に新しい物に買い替えよと、いつも強要していると言う事である。こういった「買い替え強要シンドローム」は、パソコンだけではなく、電気製品一般に見られるメーカーの戦略になっているようだ。たまたま部品があっても、その修理費は不当に高く、新品を購入するのと、あまり変わらないという事もあある。昔は丈夫で長持ちが工業製品のトレードマークであった、昔のものよりも壊れやすくなっていると感ずるのは筆者だけであろうか?

 故障したパソコンは下取りされ資源回収されるというが、回収されるレアーメタルの量なんてしれた物で、大部分は廃棄されてしまう。産業資本は地球の資源をどのように考えるかといった視点で商品の販売戦略を考えるのではなく、ともかく新製品をつぎつぎ出して、いかに人々に消費させるかに腐心している。今は亡きワンガリ•マータイさんでなくても「もったいない」と大声で叫びたくなるような話である。近所の大学でもまだ使えるのに、少し古くなったパソコンを集めて廃棄処理しているのを見て、これは何だとおもったものだ。すこしでも機能の進んだ機種を使いたいという人々の過剰な欲求と予算消化の必要性が、まったくの「もったいない」状態を生み出している。

 結局、泣く泣く最新型のiMacを購入する事になった。これは前の物と比較すると、格段に機能が進化しているが、こいつはキーボドとマウスがワイヤレスになっていた。それ故、乾電池が必要なのだが、それの消耗が結構早い。ある日のこと、深夜までパソコンを使っていたが、突然、マウスのポインターが動かなくなった。電池が切れたのである。「電池残量が少なくなりました」という警告が画面にでたが、まだ大丈夫と思って使っているうちにサドンデスとなったわけである。そのような時に限って、手元に予備の電池がなく、結局、コンビニが朝開くまで作業ができないという事になった。マウスやキーボドにコードがついていてもついていなくても、使い勝手にそれほど変わりがない。ワイヤレスという「文明」のために、まったく余分な資源と労力が必要となっている。まったく無駄な変更としか言えない代物だ。設計者も分かっているのだが、他社がそのような製品を出すと、遅れてはならじと真似をする。

 電池の取り替えがわずわらしいので、USB接続のキーボードとマウスにかえて使うことにした。オール電化が文明の進歩の指標のように思われて、あらゆる器具を不必要に電化する傾向がある。暖房器具は、いままでは手動の電撃式の火花発生器を使っていたが、最近では電気で火を起こす物が大部分である。災害時には電気が止まり、これらの器具が利用できなくなる。「普段の便利」は非常のリスクが存在するという事である。無駄と言うと非生産性を意味するのが一般であるが、実は「生産性」こそが今や無駄そのものであるといえるかもしれない。このような資源の消費をもたらす無駄のシステムを市民が変えるためには、商品に応じた機能保証(少なくとも10年)を義務付ける法律を作る消費者運動を起こすと必要がある。

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方丈記と京都の災害リスク

2017年10月07日 | 日記

『方丈記』と京都の災害リスク

  京都糺の森、下鴨神社のそばに河合神社がある。そこには鴨長明(1155-1216)が住んでいた「方丈の庵」が復元されている。これは一丈(約3メートル)四方の組み立て式茅葺小屋で、長明はそこで和歌を作り、琴や琵琶を楽しんでくらしていた (写真1. 2)。

 

 

(写真1)

 長明の著『方丈記』の書き出しである「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみにうかぶうたかたはかつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と又かくのごとし」は、無常観を表したものとして有名だが、この無常観の背景には、長明が二十代から三十代にかけて経験した様々な災害がある。『方丈記』はそれを子細に描いた災害文学と言われている。

  『方丈記』に記された災厄とは「安元の大火」「治承の辻風」「福原遷都」「養和の飢饉」と「元暦の大地震」の五大災害の事である。この中で福原遷都だけは平清盛による暴挙で、一種の人災だが、この時は、家屋や屋敷が次々と解体され材木を淀川に流して福原に運んだので、京都の町は打ち壊しにあったように殺伐たる景観だったそうだ。

「安元の大火」の原因は人為的な失火によるが、たまたま強風が吹き荒れたために、都の三分の一が灰になったと書かれている。「治承の辻風」は、想像し難い事に京都で巨大な竜巻が発生し、三、四町をすさまじい勢いでとうり過ぎ、楼門や屋敷を含めて大小を問わず家屋を倒壊したという。「養和の飢饉」は養和元年から翌年にかけて日照りや洪水なので天候異変が起こり、たいへんな飢饉が起こったものである。現代のように冷蔵設備による食料の備蓄ができなかった時代の事だから、天候不順が続けばたちまち深刻な飢饉が起こった。

   これらの災厄は、当時の都の人々にとって、恐るべき試練であっただろうが、それにも増して元暦2年(1185年)の大地震(なゐ)は驚天動地の出来事であった。この地震は現代の暦で言うと、8月の中旬に起こり、平家が滅びた壇ノ浦の合戦の約四カ月後の事である。長明は、それを新聞の報道記事のようにリアルに記述している。

 おびただしき大地震(おおなゐ)ふること侍りき。そのさま世の常ならず。山崩れて、川を埋み、海はかたぶきて、陸地をひたせり。土さけて、水湧き出で、巖割れて、谷にまろび入る。都の邊には、在々所々、堂舍塔廟、一つとして全からず。或は崩れ、或は倒れぬ。塵・灰立ち上りて、盛んなる煙の如し。地の動き、家の破るゝ音、雷に異ならず。家の中に居れば、忽ちにひしげなんとす。走り出づれば、地割れ裂く。おそれの中に、おそるべかりけるは、たゞ地震なりけりとこそ覺え侍りしか。

  まさに 最近の様々な震災で目撃したままの光景がえがかれている。さらに長明は、地震のあとの余震についてもたいへん正確に書き残している。この地震の震源については、琵琶湖西岸断層帯南部説と南海トラフ巨大地震説があるようだ。

 尾池和夫先生の本などによると、京都はもともと地震で出来た盆地で、歴史的にも震源の浅い大きな地震が多発するところのようである。最近は大きな地震が少ないので、これは意外に思うが、この地の大地震は、1185年の元暦地震以降、1317年、1449年に発生し、1596年には「慶長伏見地震」で、豊臣秀吉が築いた伏見城の天守閣が大破し約600人が圧死するなどした。そして、1662年、1830年と続くが、以後180年以上、大地震は起きていない。東山沿いに花折断層という有数な断層が走っている。

 

(写真2)

 「天災は忘れた頃にやってくる」というから、油断する事なくそれなりの準備が必要であろう。鴨長明の「方丈の庵」は、いかなる災害をもやり過ごせる究極の防護ハウスだったかも知れない (楽蜂)。

    

 

 

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京都の若冲巡り

2016年09月13日 | 日記

                  京都の若冲巡り

 今年は伊藤若冲生誕300年ということで、それを記念して様々な取り組みがみられる。 京都は、異能の絵師と言われる伊藤若冲の生誕の地であり、その事跡と生涯にわたる作品が見られる。今回は、若冲を巡る京都近辺の一日ツアーを企画したので、しばらくおつき合い願いたい。ツアーは京都の台所と言われる錦市場から始める事にしよう。

 伊藤若冲は、享保元年 (1716年)に京都錦小路の青物問屋「桝屋」(通称桝源)の長男として生まれ、二十三歳で家督を継いだが趣味の作画にふけったと言われている。若冲が住んでいた桝屋は、錦小路と高倉通りの交わる角にあり、南北に広がる大きな敷地と屋敷を有していたようである。若冲は、庭に数十羽の鶏を放ち、その姿を描き写生の練習をしたといわれる。このあたりは、今やビルや店舗が乱雑に建て込んでいて面影もないが、錦市場の入り口の角に「伊藤若冲生家跡」と書かれたモニュメントが設置され、説明板がおかれている。ちなみに、若冲と同年生まれの与謝蕪村は、晩年、烏丸仏光寺を西に少し入った長屋に寓居を構えていた。若冲の住まいから歩いて、わずか数分ほどの場所で、町内の散歩で二人がばったり顔を合わせても不思議ではない。

 

 

写真1錦市場高倉通付近

 

 若冲は、家業に精を出さない「おたく画家」と考えられていたが、最近になり「京都錦小路青物市場記録」という当時の錦市場の動向を伝える史料が出てきて、そのイメージが一変した。それには、錦市場の存続に係わる奉行所の営業認可をめぐり、若冲は精力的に活動をおこない、その結果、錦市場は窮状を脱することが出来たと記されている。若冲は青物問屋の家督は弟にゆずっていたが、市場の組合委員長として立派に活躍していたようである。買い物客で混み合う錦市場を見物した後、西にしばらく歩くと、東洞院通りの角に古風な木造の八百屋さんがあり、その店頭には、京野菜がたくさん並んでいる。ここの方が錦市場より、なんだか「若冲風景」のような気がする。この八百屋のおじさんにはいつも「頑張れよ」と声をかけたくなる。

 四条烏丸から地下鉄に乗り、次の目的地である相国寺に向かう。烏丸丸太町で降りて同志社沿いに東へしばらく行くと、相国寺の山門へと続く参道に出会う。松林のような境内にある庫裏のわきから北へ回り込むと、承天閣美術館がある。ここは、相国寺・鹿苑寺・慈照寺・他塔頭寺院に伝わる美術品を保存•展示しており、若冲作品も多数、所蔵する。若冲は相国寺の大典顕常と深い親交があった。大典は若冲の天才性を見抜き、また若冲も大典を禅師と仰いでいたと言われる。

 若冲は十数年かけて花鳥画・動植彩絵30幅を完成させ、釈迦三尊像とともに相国寺に寄進した。「動植彩絵」は明治になって宮内庁の所有となったが、平成十九年には里帰りし、承天閣美術館で一般展示された。これには多数の観覧者が押しかけて、たいへんな混雑であった記憶がある。中には「ワカオキってすごいね」といいながら観賞している若者達の姿もみられた。動植彩絵は、いずれもこの世のものとは思われぬ構図と色彩を見せていたが、「釈迦三尊像」と並べられて一連の仏画であることを認識したと梅原猛先生は述べておられた。一木一草の中に仏を見るという華厳思想が表現されていると言うのである。

 この美術館には、鹿苑寺大書院を飾っていた若冲の障壁画や襖絵が展示されている。中でも三之間に描かれた「月夜芭蕉図」は、累々と茂る芭蕉の巨株に満月がかかる所を描いた傑作である。また、この美術館が所有する「売茶翁高遊外像」は、若冲の描いた唯一の人物像画として有名である。売茶翁も若冲に影響を与えた京都の文化人の一人である。この美術館には、他にも「立鶴図」「葡萄栗鼠図」「海老図」など、若冲ならではの構図の水墨画がある。「海老図」は、「伊勢海老図」(国立京都博物館編「伊藤若冲大全」作品150)や蘭亭コレクション(楽蜂蔵)の「蝦図」など、よく似た作品がある。いずれも筋目書きの技法が絶妙で、「千画絶筆」の朱方長方印が押されており、晩年の頃に描いたお正月用の慶賀図であろう。

 若冲の遺髪を納めた墓などを見学したら、相国寺を出て、次の目的地である細見美術館に向かう。今出川通りを東に進み、百万遍で南に下り、途中で降りて、仁王門通りを岡崎方向にしばらく歩くと疏水に出る。その側に、地味な建物の細見美術館がある。ここも若冲のコレクションを多数収蔵している。多くは細見家二代目の細見實が収集したものである。中でも秀抜な作品は「鶏図押絵貼屏風」(六曲一双)であろう。若冲は生涯、鶏を描き続けたが、このふすま絵は代表的なもので、尾のはね曲がった奇妙な形が鶏の多様な個性を表現している。

 細見美術館には、筆者が好きな作品の一つである「糸瓜群虫図」がある。ヘチマの黄色い花が咲き、それが小さな実から大きな実に成長する様と、11種類の動物(昆虫9種とマイマイとカエル)を描いたファンタジー画である。中には判別不明は奇妙な形をした虫も見える(スズメガの幼虫という説があるが)。この絵の署名『平安若冲製』は固い筆跡で、桝屋の家督を譲る直前の制作とみられる。この絵のモティーフは、動植彩絵の一幅「池辺群虫図」へと発展した。この他、この美術館には「瓢箪牡丹図」「鼠婚礼図」「伏見人形図」など、観ていて心がなごむ作品が多い。

 細見美術館からすぐ近くに、東大路に面した信行寺がある。信行寺には、若冲の天井画「花卉図」があることが知られている。先年秋、公開されたが、今はされていないので、これを横目に南下し、次の訪問サイトである京都国立博物館に向かう。

 京都国立博物館は東山七条にある。この博物館が所有する若冲の水墨画の中で、最も有名なのは畳一枚ほどの大きな画面の「果蔬涅槃図」である。二股大根を入滅する釈迦に見立て、弟子である野菜や果物がその死を悲しんでいる。沙羅双樹は玉葱の茎と葉になっている。青物問屋を営んでいた若冲は敬虔な仏教徒であったので、草木も野菜も成仏するという「草木国土悉皆成仏」の思想をもって描かれてものとされているが、人並みはずれた洒落っ気が画面に表われている。

 

 

写真2若冲作「果蔬涅槃図」(京都国立博物館蔵)

 

 さらに、ここの若冲作品の中で圧巻は、何と言っても水墨画の点描という特殊な技法を用いた六曲一双の「石灯籠図屏風」であろう。水墨の濃淡が御影石の質感を表現している。他に、拓本の要領で作られた特異な作品で淀川の風景を幻影的に表した「乗興舟」がある。ここでは平成28年12月13日~平成29年1月15日の間、若冲生誕300年を記念した特別展示が予定されている。

 京都国立博物館での見学が終れば、七条通りを西に少し歩き京阪七条駅から電車にのって深草駅で降りる。ツアー最後の目的地、石峰寺は駅から東に歩いて十分程のところにある。この寺には、若冲の遺骨を納めた墓があり、そこには「斗米庵若冲居士」と刻まれている。隣には円筒形の筆塚がある。本堂の裏山には、若冲が制作した五百羅漢石像があちこちに置かれている。一部は風化しているものがあるが、何事かを語る風貌がそれぞれ面白い。若冲は還暦を迎えたころから、五百羅漢の制作をはじめた。その資金を捻出するために絵一枚を米一斗に換えたために斗米庵と称した。天明八年(1988)の大火で焼けだされた若冲は、石峰寺の門前に移りすみ、寛政十二年(1800)に85歳で死去した。当時としてはまれにみる長寿であった。

 

 

写真3石峰寺の若冲の墓と筆塚

 

 この他、京都市内には若冲ゆかりの宝蔵寺(中京区裏寺町)がある。この寺には伊藤家先祖代々の墓があり、「髑髏図」「竹に雄鶏図」などの水墨画を所蔵する。また左京区鹿ヶ谷には泉屋博古館があり、目白押しを描いた「海棠目白図」を持つ。

 京都市内とはいかないが、大津膳所の義仲寺•翁堂には若冲の天井画「四季花卉図」がある。杜若、菊、朝顔など若冲風の花画を観賞できる。原画は傷みが激しいので別に保存され、ここにあるのは精巧な複製だが、常時、観覧できる。 義仲寺は、京阪電車で浜大津を経由して膳所で降り、歩いて15分ほどの距離にある。このお寺は、松尾芭蕉と木曾義仲の墓所として有名である。こじんまりした寺なので短時間で観光できる。

 さらに、滋賀県甲賀市信楽にあるミホミュージアムも多くの若冲作品を所有しているので、時間がゆるせば訪れてみるのもよい。このミュージアムはすこし不便な場所にあるが、JR石山駅からバスが出ている。ここには「双鶴•霊亀図」「松鶴図」「象と鯨図屏風」などがある。陸と海で一番大きな哺乳動物を対峙させた「象と鯨図屏風」は、若冲の独創性と想像力の豊かさを示した傑作の一つである。これらの情報を参考にそれぞれの若冲を楽しんでいただきたい(楽蜂)。

 付記: 京都市美術館では若冲生誕300年「若冲の京都 KYOTOの若冲」を10月4日(火)~12月4日(日)の間開催している。

 

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高橋和巳の風景 (IX)

2014年03月10日 | 日記

(京大本部旧学生部建物) 

 1969年。京大学園闘争(全共闘運動)は、東大のそれに遅れる事、約1年で始まった。闘争のきっかけは寮問題での総長団交決裂で、1月16日の寮闘争委員会らによる学生部建物の封鎖で本格化した。3月13日には、京大文学部の全館封鎖が行われ、この頃には、吉田地区の多くの学部が、ストライキで封鎖される状態になっていた。

 この運動が高橋の精神に及ぼした正や負の作用については、二年後に著した「わが解体」に詳しく述べられている。高橋の作品は、学園闘争という社会現象と共振することにより輝きを見せた。

   『スターリンを疑い、レーニンを疑うことからやがてはマルクスをも疑うに至るだろう。仏法のためには釈迦をも斬る精神のほかには、しかし期待しうる何があるだろうか。こうした徹底した精神のいとなみは、従来は、表現を通じて文学の中で試みてきたものである。それと同質の精神が青年特有のラディカリズムさで行動に移されようとするとき、それを自己の内面と無縁なものと意識しうる文学精神などというものは、ありえない』(「我が解体」より)


 

  

 この年の4月頃から、高橋和巳は体調不良を訴え、翌年3月には、京大文学部助教授を辞任し、療養のために東京に移り二度と京都に住む事はなかった。その闘病と最期については、たか子が「高橋和巳の思い出」の中で「臨床日記」として書き記している。


(京大附属図書館に並ぶ高橋和巳とたか子の全集)


(以上のシリーズの参考資料として、国文学第23巻1月号 学燈社、高橋和巳全集(河出書房新社1980年)などを利用させていただいた。)

 

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