京都楽蜂庵日記

ミニ里山の観察記録

高橋和巳の風景 (VIII)

2014年03月09日 | 日記

 

(京都後二条天皇の北白川御陵)

 1967年。高橋和巳36歳。ほぼ1年勤めた明治大学助教授を辞職し、6月に京大文学部助教授に就任する。和巳を囲む関西の文人や友人を嫌っていた妻のたか子は、この京大赴任に猛反対し、怒って単身でパリに旅立ってしまった。そのために、高橋は引っ越しの荷物造りを、一人でおこなったと言われる。

 京大農学部入り口近くに下宿する。この家は、農学部に入る車道から北部構内に斜めにつづく小道にあった。二階の二室のふすまを外した約十畳の広さで、西側は鬱蒼と樹の繁った後二条天皇の北白川陵が迫る陰気な処であった。食事は近くの生協か付近の飲食店でとり、銭湯は今出川通りを渡った近くの風呂屋を利用した。  10月「我が心は石にあらず」を新潮社から、評論集「新しき長城」を河出出版から刊行。

 

 

 

 

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高橋和巳の風景 (VII)

2014年03月08日 | 日記

 

(京都帝大時代の学生下宿の風景。京大時計台歴史展示室にて。 

 高橋たか子の著書「高橋和巳の思い出」(構想社、1977年初版)は、正直に、和巳との結婚生活を綴ったものである。その中で、和巳は“弱く哀しいあかんたれ”と描かれており、自閉症の狂人であったとまで書かれている。もっとも、たか子によると文学世界で使う「狂人」とは、大いなる尊敬語だそうである。

「どうして別れもせずに十七年間もいっしょにいたのか」と訊ねられるならば、彼女は「私は終始、主人の頭脳の力に、この上もない尊敬の気持ちを持っていたから」と答えるつもりだと言っている。そう、人格にではなく、その頭脳に!たか子も、和巳がそうであったように普通の人ではなく、特異な人であった事は確かだ。文学の世界では、このような組み合わせの男女が、一緒になる事はよくある。

 たか子のその本の中に「一人碁その他」という随筆がある。

以下抜粋。「主人は一人でいるのが好きな人である。よく一人で碁を打っていた。一人で二人分の碁を打つのである。家ではいつも和服を着ていたが、がさっと着崩れた恰好で座り、一時間でも二時間でもひっそりと一人で碁を打っている。その姿は私にはとても象徴的に思えた。…………………鎌倉の家の座敷での一人碁の姿は、いまもそこにあるように記憶になまなましい。自分のもう一人の自分と闘っているという感じではなく、つまり、そういう対立は感じられずに自分が一番対立しないで済むもう一人の自分と遊んでいる感じであった。時々「あ」という小さな声が漏れたりするが、人間がいなくなったみたいに座敷はひっそりしてしまい、碁石のかちりという固い音が間をおいて鳴る」

 この随想には、和巳の活字中毒とテレビ好きについても述べられており、一人碁の共通点として相手に生身の人間がいないという結論が下されている。冷徹な和巳批判には恐れ入るが、たか子の批判は現在の多くの日本人の男性にも、そのまま適用できるようである。

 

 

 

 

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高橋和巳の風景 (VI)

2014年03月07日 | 日記

 

京都清水坂付近の市営駐車場 


  1953年。この年3月に卒業予定が、単位不足で落第。もっとも、この頃、世の中は不況で卒業しても就職口はなく、文学部の学生にとって留年は当たり前の事のようであった。

  この年の5月、高橋和巳は、酒に酔って自動車乗り逃げ事件を友人とおこしている。1953年5月4日付けの京都新聞朝刊(社会面)によると「昨日午後五時十五分ごろ東山区清水坂の市営駐車場に置いてあった神戸の貿易商、オーバティック氏の所有する小型モーリス青色乗用車を、三上和夫と高橋和巳が盗んで三上が運転、乗り逃げした。松原署は管内に一斉手配。五時半ごろ、清水坂から五条通りを西行、さらに大和大路を南行したのち、七条大和大路の大仏前派出所で窃盗現行犯により逮捕された。調べに対して二人は、いばっている外人バイヤーに好感が持てないから盗んだと自供した」と報道されている。結局、吉川幸次郎が、警察から身柄をもらい下げに行ったといわれる。

  その後、二人が処分されたという記録も様子もない。このような事件を、今の学生がおこすと、自動車窃盗、飲酒運転、公務執行妨害などで厳しい刑事罰が科せられ、大学でも退学処分はまのがれない。第三高等学校時代の学生のバーバリズムは、相当のハメ外しでも、京都市民は大目に見ていたそうだが、そのような伝統がまだ残っていたのであろうか?

 この話は、石倉明の随想「高橋和巳と三上和夫と」(「高橋和巳の文学とその世界:梅原猛、小松左京編。阿部出版、1991)でも述べられている。主犯の三上は、後に、この車の持ち主の外国人バイヤーと懇意になり自分の就職まで世話になっている。三上和夫は、高橋と京大文人同好会の仲間であったが、高橋が若くして死んだ2年後に、後を追うようにして胃がんで亡くなった。

  この年9月、岡本和子(高橋たか子)と知り合う。10月父秋光死去。


 

 

 

 

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高橋和巳の風景 (V)

2014年03月06日 | 日記

 

(京都大学文学部東館)


 1952年高橋和巳4回生21歳。吉田内閣が破壊活動防止法を国会に上程したため全国で労働者学生の反対運動がわき起こった。京大文学部の学生自治会も学生大会を開きこの法案に反対して5月1日のメーデーにストライキを打つ事を決議し、当日、学内集会の後に労働者の街頭行進に参加した。これに対して大学当局(服部峻治郎学長)は学生の責任者3名を停学処分にした。

 高橋和巳は、この措置に抗議し文学部の他の学生2名とともに学長室前廊下でハンストに入った。後に発掘された高橋のメモには、「社会が何者かの手によって狂気の領域へと導かれる時代に、弱々しい個人としてなしうる抵抗は、無為かあるいは小さな自己犠牲だけであるだろう」とその動機が書かれている。

結局、ハンストは5日目でドクターストップがかかって終了したが、その間、各学部は次々とストライキを打ち、後に全学ストライキへと発展した。高橋は情念だけの人ではなく行動の人でもあったエピソードである。

 このような活動の一方で、この年の十月には親友の小松左京らとともに発行した「現代文学」に捨子物語を発表するなど活発な文学活動を続けている。

 

(いまも陰鬱な回廊の片隅に学生自治会のボックスがある)

 

 

 

 

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高橋和巳の風景 (IV)

2014年03月05日 | 日記

 

 (京都大学時計台)

   1951年4月、 高橋和巳は、2年間の教養課程を終了し、吉川幸次郎が主催する文学部中国語学科中国文学科に進学した。厳格そうな吉川教授の印象に、怠け者の文学青年を惹き付けるなにかが、あったようだ。11月には京大天皇事件がおこっている。

 この頃、高橋は京大文学研究会に参加し、同人誌に「月光」「淋しい男」など沈鬱な小説を発表している。彼の沈鬱は、後天的な厭世主義や悲観主義によるものではなく、人について生まれて来た事についての、何ものかのようであった。普通の生涯を送ろうとする者には、これに関わる異常に肥大した感性や感覚ほど厄介なものは、ないであろうが、高橋和巳はそれを文学に昇華する才能があった。司馬遼太郎の評論などを読むと、画家ゴッホにもそのような傾向がみられたという。

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高橋和巳の風景(III)

2014年03月03日 | 日記

 

(京大旧教養部の正面入口。木造の門扉はいまもそのまま保存されている)。

授業が始まり十月になって、旧三高の木造の物理学教室で、文学サークルが結成された。最初の集会には、約三十名が集まったが、人数は会を重ねるにつれて減り、結局、高橋を含めて十名ほどになった。このサークルは、最初、京大文人同好会と称していたが、後に京大作家集団と改称された。これは、五号まで作品集を出すが、途中で小松実(左京)などの共産党の学生メンバーが加入し、引き回しを謀ったため解体してしまう。この辺りの話は「小松左京自伝」(小松左京、日本経済新聞社出版:2008年)に詳しく書かれている。高橋和巳は、三号誌に「片隅から」というはじめての小説を発表している。この頃、教養課程で、桑原武夫の授業を受け「文学は人生にとって必要か」というレポート課題が出され、呻吟したといわれる。

 

 

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高橋和巳の風景(II)

2014年03月01日 | 日記

   高橋和巳が、新制となった京都大学文学部に入学したのは、1949年の7月である。新学期の授業は、9月から始まった。後に、和巳と結婚した高橋たか子によると、この学年は旧制高校からきた男子が圧倒的で、当時は自由人の気風が濃厚であったそうだ。この年は、三鷹事件、下山事件、松川事件などが起こり、戦後社会は混乱していたが、湯川秀樹博士が日本人ではじめてノーベル物理学賞を受賞した年でもある。

   和巳の最初の下宿は、上京区の荒神口の近くで、京都御所の見える屋根裏の三畳間であった。西日の差し込む蒸し暑い部屋で、上の階に通づる階段の下で、いつも小説を書き続けていたと言う。高橋は、食事を切り詰めても、時間の無駄としてアルバイトはしなかったという。

 

  下宿から河原町通りを渡って少し東に歩くと、荒神橋が鴨川にかかっている。この橋の上でおこった荒神橋事件は、高橋の四回生の時で、小説「黄昏の橋」(未完)のモチーフを生んだ。

 

     

   京大の教養過程では、図書館の書棚の本を、アイウエオ順に読破するという荒業を行っている。早い順に並んだアインシュタイン関係の著作を読んで、相対性理論を理解したと言われている。相対論は、一般解説書で読んでも憂鬱にならない人はいない。人間の日常感覚では、決して理解も納得もできない仕組みで、時空が存在するという認識が、高橋和巳の憂鬱文学の背景にあると思える。たか子の随想によると、高橋は世界一般、宇宙一般に絶望していたそうである。なんと深淵なる憂鬱。

 

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高橋和巳の風景 (I)

2014年02月26日 | 日記

      

   軽薄短小を旨とするこの時代に、高橋和巳の重い小説を読む若者は少ないが、1960-80年代、物思う学生の本棚には、この作家の著書が一冊は見られたものである。「捨子物語」「悲の器」「我が心は石にあらず」「邪宗門」「憂鬱なる党派」「孤立無援の思想」「現代の青春」「日本の悪霊」「わが解体」「黄昏の橋」「孤立の憂愁の中で」「暗黒への出発」「自立の思想」….。多くの青年にとって、高橋和巳は孤独で陰鬱な青春の一里塚であった。このシーリズでは、その高橋の京都での軌跡を関連する風景で追う。

 

 高橋和巳年譜

1931年8月31日 大阪市浪速区で父秋光、母慶子の次男として生まれる。

1937年 大阪市西成区に転居。

1941年 10歳 12月8日太平洋戦争勃発

1945年 3月13日大阪大空襲のため全焼。母の実家の香川県三豊郡大野原に疎開

1948年 旧制松江高等学校文科乙類入学

1949年 新制京都大学文学部入学

1951年 10月京大天皇御幸事件

1953年 落第留年。10月父秋光死去。

1954年 京都大学文学部卒業。修士課程に進学。11月岡本和子(高橋たか子)と結婚。

1956年 修士課程修了。博士課程進学。埴谷雄高に会う。

1958年「捨子物語」出版。

1959年 京都大学大学院文学研究科博士課程修了。論文「陸機の伝記とその文学」立命館大学文学部講師となる。6月「憂鬱なる党派」を発表。

1960年 安保闘争の高揚。

1962年 「悲の器」を脱稿。第一回河出書房新社「文芸賞」受賞

1966年 明治大学文学部助教授。「日本の悪霊」の連載はじまる。

1967年4月 明治大学を辞職し京都大学文学部助教授に着任。4月文化大革命中の中国を視察。10月羽田デモで京大生山崎博昭が死亡。

1968年2月 東大学園闘争が始まる。

1969年 1月 京大学園闘争が始まる。3月東洋史闘争委員会の「清官教授を排する」の壁新聞が学内に出る。10月体調不良を訴える。

1970年 3月京都大学文学部助教授を辞職。

1971年5月3日東京女子医大で結腸癌のために死去。9日葬儀告別式が青山葬儀場で営まれ数千人の学生、市民が参列。

(つづく)

 

 

 

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ローマ帝国と現代日本

2013年09月09日 | 日記

     

              ローマのコロッセオとパラティーノの丘

  クリストファー・ロイドの「137億年の物語」(野中香方子訳、文芸春秋 2012年)は「宇宙が始まってから今日までの全歴史」を記述した異色の著である。一時は書店で横積みされていたので、かなり売れたのではないか。地球が出来てからの46億年を一日24時間として換算すると、人類が誕生したのは約500-600万年前なので午後23時57分ということになる。人類は残りのたった3分で地球環境を激変させるほどの繁殖に成功したということだ。

  ロイドはこの本のローマ帝国の歴史の項で次のように述べている。

「ローマの豊かな支配階級にとって、奴隷や下層階級を激しく弾圧することは、その生活水準を保つために欠かせなかった。しかし、首都に暮らす膨大な数の市民をコントロールするには、他の戦略が必要とされた。最も効果ありとされたものが、軍隊、土木工事と見せ物であった」そして2020年東京オリンピックはまさに「土木工事と見せ物」だ。これから日本国にスパルタカスが出るのか、はたまたカエサルが出るのか?

 

追記(2024/09/01)

ロイドのこの書によると、ナチスヒトラーは政権を奪取後、「動物保護法」を制定し、動物の虐待を禁止したとしている。野生動物と家畜の区別は廃止され、動物を生きたまま解剖することが禁止された。ゲーリングはこれに反する者は収容所送りと宣言したそうだ。ナチスの思想からどうしてこのような法律ができた?不思議である。



 

 

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荒神橋の風景

2013年08月31日 | 日記

  

  荒神橋は京都鴨川にかかるまことに趣のない石造りの橋である。ただ戦後、1953年11月に起こった荒神橋事件の舞台として有名である。これは、当時の京大の学生のデモ隊と警官隊が衝突して多数の負傷者を出した事件である。その生々しい記録が「資料・戦後学生運動3:1952-1955(三一書房編1969年)」におさめられている。以下その抜粋。

 {荒神橋・市警前事件に抗議して全国民の蹶起を訴える!警察暴力事件の真相   共同闘争委員会

『加茂川の水を染めて数多くの尊い学生の血が流されました。太平洋戦争で死んでいった先輩の悲劇をくり返さぬ固い決意を秘めて、全国学生の拠金で建立されるわだつみの像を迎えようと立命館大学へ急ぐ学生を武装警官が五米以上もの橋の上から欄干もろともつき落し、加茂川の水を血で染めたのです。憤りをこめて、朱に染まったハンケチをかかげ抗議に押しかけた七百の学生に対し「落ちたのは引力のせいだ。警官には責任がない」とうそぶき、無抵抗の学生に数百の警官が再びおそいかかり、百人以上に重軽傷をおわせました。無惨にひきさかれた顔、頭を砕かれ、腕を折り、腰を打ち、再び上れない学生をみた時、こみ上げる怒りで、ものを云うことができません。涙も悲しみも何の役に立ちません。労働者、市民のみなさん!今はもう組織された大衆行動あるのみです』

 学生が信じられないぐらい純粋で多感な時代の話でありました。この資料本をさらにパラパラめくっていると大島渚(京大同学会副委員長)の署名で「学園復興への道—京都大学についての試論」(1953年11月号「学園評論」)と題する記録が目にとまった。大島渚(1932-2013)は今年1月に亡くなった社会派の映画監督である。

この時期、学生運動は谷間の時代と言われているが、内容はそれほど過激ではなく至極穏当な主張がなされている。日本の大学が当時、どれほど荒廃しているかを分析し、京都大学での復興の具体的な提案を行っているものだ。この報告で驚くべきことは、約5200名の学生のうち三百数十名が結核にかかっていたという健康診断の結果である。当時の学生にとって、いかに栄養・衛生環境が悪いものであったか分かる。中には貧困のあまり血を売る学生も少なくなかったようである。文字どおり生存が日常的危機に曝されていた時代であった。これがあの頃の学生運動のエネルギーの基盤となっていたのであろう。その後、54年には自衛隊が発足、55年には自由民主党が政権を握り、社会党が野党第一党を占める55年体制が成立した。

  庵主は学生時代に荒神橋の近くの古い町家風の民家に下宿していた。東一条から川端に抜ける医学部ぞいの斜めの道に下宿は面していた。家主のおばあさんはすでに亡くなったが、当時娘夫婦とくらしており、5人ほど下宿人を置いていた。このおばあさんは生粋の京都人で、5月の吉田神社の祭りの頃になるといつも鯖寿司を作ってくれた。 

下宿時代は1960年代後半の事で日本は高度成長期に入っており、学生も物質的には昔ほどの飢餓感はなかったが、急激な経済発展がもたらす社会の歪みと矛盾が渦巻いていた。安保闘争後、分裂により沈滞していた学生運動はベトナム反戦、日韓条約締結反対、エンタープライズ寄港粉砕をテーマに次第に高揚し、東大日大闘争をはじめ全国学園闘争となって燃え広がっていった。

 最近、そのあたりを訪れると周辺の様相は昔とすっかり変わっていた。川端通をはさんで橋の東側には京都大学東南アジア研究所のモダンな建物が延び、少し北側には京都ゲーテインスティチュートの粋な建物が見られる。下宿していた町家は奇跡的に残っていたが、0さんの家族はどこかに引き払い、今はまったく別の人のものとなっていた。

 

 

追記 (2014/11/01) 荒神橋は近世末までは小さな仮橋で、幕末に擬宝珠高欄を備えた本格的な木橋が架けられた。明治十年に架け替えがあって、さらに大正三年に現在のものに改築されたとされる。

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小林秀雄の「鍔」とセンター試験

2013年02月14日 | 日記

 先月19日に行われた大学入試センター試験の国語の平均点が、今までで最低だったそうだ(200点満点で101.04点)。それは小林秀雄(1902-83年)の評論「鐔」という難解な文章が出題されたためである(朝日新聞デジタルhttp://www.asahi.com/edu/center-exam/TKY201301240041.html)。小林の全集では5ページ半に及ぶもので、その全文を読ませ解答させている。

  新聞に掲載された問題をみると、確かにこれは受験生にとって、とんでもない災難であったろうと思う。鍔や刀の絵入で注釈だけでも21個もある。文章そのものが難解なだけでなく設問も趣旨がたいへん読みとりにくい。

たとえば第4の設問は「もし鉄に生があるなら、水をやれば、文様透は芽を出したであろう」が、どういうことを例えているかを問うている。これは5択になっており朝日新聞(2013年1月20日朝刊20面)の解答例では正答を2番としているが、他の選択肢も間違いとは言えないものだ。短時間で高校生にこんな難解な文章を読みこなせというのは無理であろう。出題委員会では多数の委員がいるのに、どうしてフィードバックがかからないのだろうか?こんな問題では国語力は差分できない。センター試験では、たまにこのような奇問難問が出されるが、責任者は猛省すべきであろう。

   小林秀雄は戦前から活躍していた評論家で、エクセントリックな文章表現を多用し、昔の文学青年がこれに幻惑されさかんに模倣した。その文学青年達が文系の大学教師になり無闇に小林の作品を入試に出した時代がある。

   向井敏(1930- 2002年)はその著「文章読本」(文芸春秋:1988年)において、小林秀雄を「殺し文句にかけては海内無双の名手」と述べ、その一例として「ランボウ論」の一行「酩酊の船は瑰麗な夢を満載して解繿する」を引用している。これは、ほめているのではなく、こけ脅しだと言っているのだ。

小林の言っている事はあきれるくらい単純なのに、その当たり前の事を素直に表現せず、人を幻惑する「殺し文句」を多用し文章を修飾していると批判している。そして、「小林の殺し文句はたしかにみごとなものだが、ただし、それは論じられている当面の問題や批判対象から独立した手前勝手な感情の表明が多い」とし、「殺し文句の効果はたしかに大きいが、一面こうした危うさを蔵していて、そのからくりを見破られたときには失笑を買い文章全体の信用性を失いかねない」と切り捨てるように結んでいる。

   そもそも、小林の美術評論を読むと、内容は単純も単純で底の浅さを感ずる。「鍔」にしてもそうである。鍔は信家、金家としているが、ようするに「巨人•大鵬」と通俗の評価を確認しているだけで何の事はない。体系的に鍔を観賞して得た深い知識と造詣に裏打ちされたものとは、とても読み取れないのである。

  小林秀雄の他の美術評論に「真贋」という作品がある。この書き出しが、またすさまじい。小林は良寛のものといわれる詩軸(詩のみが書かれた掛け軸)を買って悦に入っていた。ところが良寛研究家の友人に「これは偽物だ」と言われると、傍らにあった刀でその掛け軸をバラバラに切り裂いてしまう。

 「よく切れるな。その刀はなんだ」

 「一文字助光だよ。全くよくきれる。何か切ってみたかったんだよ」

まったく子供じみていてバカバカしい。後の話も骨董品の入手とその真贋についてのつまらないエピソードがクダクダと続く。小林秀雄に、深い経験と見識で裏打ちされた審美眼があったようには思えない 。どうして、あの頃、高所に立つ知的な評論家として小林がもてはやされたのかまったく理解に苦しむ。

  (写真:蘭亭コレクション 「葡萄透かし鍔」)

 

 

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原発の俳景

2012年03月11日 | 日記

  原発の俳景

 

                                                                                                                 

蹌々踉々大ないの国の桜かな

原子炉を冷やしてくれよ春の雪

福一に怯えて縮む列島弧

原子炉は破れて白い東風来る

E=mc2の方程式を恨む鮎

栗の太り行く日の放射線

セシュウムの薪燃やさぬ大文字

Fukushimaのノート重ねし九月尽

原発をののしる声や茸苅り

臨界のニュースが届く今朝の秋

避難地区日めくり換らず年を越す

放射線貫き通す去年今年

悔恨の弥生や黒き海の色

 

 平成二十三年三月十一日の大地震発生後に来襲した津波により、東京電力福島第一原子力発電所(福一)は主要建屋設備の全域が浸水、一~六号機の交流電源は、六号機の非常用ディーゼル発電機一台を除きすべて喪失し、一、二、四号機では、交流電源喪失時に監視機能を確保する直流電源盤も機能を失い、さらに、原子炉の除熱や各設備を冷却するために必要な冷却系もすべて使用不能となった。そのために、原子炉内の核燃料の崩壊熱により高温となり、燃料棒が融けはじめ、圧力容器の底にたまり、さらにそれを貫通して格納容器の底のコンクリートを熱で分解し、最大六十五センチ侵入した可能性が報じられている。容器を覆う鋼鉄まであと三十七センチという際どさで、首の皮一枚を残し、今のところ止まっている。電力資本や政府が膨大な金と時間を使って築き上げた「安全神話」が、あっという間に崩れ去った瞬間である。

 三月十二日15:36 一号機水素爆発、 十四日11:01 三号機水素爆発、十五日6:00 四号機で爆発、二号機で衝撃音……。 新聞はこの頃、「極めて深刻な放射能放出が始まった。甚大な健康被害の可能性」と報じた。夕刊紙は一面に巨大な活字で「逃げろ!」というセンセーショナルな見出を掲げた。アメリカ政府は日本にいる自国民に八十キロ圏外への立ち退きを命じた。海外便の飛行機は乗客で満員になった。

 しかし、幸運なことに、結果として住民に急性放射線障害が出る程の事態に至らなかった。これは、事故現場に留まって原子炉の暴走を必死になって押しとどめた技術者や作業員の献身的努力があったとしても、事故の経緯を調べると、たまたまの僥倖によるとしか思えない。

 そして重要な事は、福島原発事故は、野田首相の冷温停止宣言にもかかわらず、いまだ収束どころか、事故の進行中であるという事だ。今のところ、原子炉内のメルトダウンした核燃料は、仮設的な冷却設備で冷やされてはいるが、不安定な状態で置かれている。十一月の始めには二号炉でキセノンが検出され、再臨界の可能性が報道された。後に、核反応生成物の自発核分裂によるものと否定されたが、周りの水がメルトダウンしたウラン燃料に浸潤して減速剤として働き、熱中性子を増やせば、再臨界の可能性は否定できない。

 膨大な量の放射性物質が破壊された原子炉から漏出し(それでも原子炉内の全体の1%ほど)、放射性雲に乗って飛び散り、大地も海洋も汚染した。一説では広島原爆の三十個分、チェルノブイリ原発事故のときの十パーセントもの放射能が撒き散らされたという。放射性物質の中には長い半減期を持ったものがあり、除染のメドが立っていない。中でも放射性セシュウム、ストロンチュウム、プルトニュウムなどは比較的、量も多く、長期にわたり環境中に滞留する。一部は生物濃縮され、魚類や、ある種のキノコに蓄積する。

 今年八月、京都大文字の送り火では、福島の放射性物質に汚染した松材を燃やすか、燃やさないかで、すったもんだした。低線量の放射能でも、どこまでが絶対的に安全レベルか、科学的に確定していないので、人々はすっかり怖じけづいているのが現状だ。

 放射性物質の漏出は止まったわけではなく、今でも毎時一億ベクレルも、壊れた原子炉から漏れているという。福島では、高濃度の放射性物質に汚染された地域の約十二万もの人々が、住み慣れた自宅に帰れず、避難所で年を越す事になる。Fukushimaは、今やチェルノブイリと並んで、世界的に名の知れわたった地域となってしまった。

 福島原発事故は日本の文明社会の驕り昂りが露呈し、高転びに転んだ姿であると言えるだろう。この重苦しい社会現象を五七五の俳句でもって詠みこむのは、難しい。しかし、東北で身をもって原発事故の被害に遇った人の作品は印象深いものが多い。

  相馬よりいま沈黙の葱坊主  高橋央尚

  被曝地の薫風の野に牛痩せし 桜井字久夫

  脱原発デモに知る顔梅雨激し 下島章寿

  原発の風上にある夏祭り   下向良子

  鮟鱇の腸煮え返る放射能   多田 敬

          (朝日新聞「俳壇」より引用)

 当事者のこういった体感句に比べると、遠く京都の地で、恐れおののきながら事故を傍観していただけの筆者の掲句は及ぶべくもない。しかし、深刻な時代の記憶として、ここに書きとどめた。

 俳句では自己作品の解説はタブーとされているが、最初の掲句の最後から二句目のものについてだけ少し述べておきたい。これは本年一月に朝日新聞の俳壇で金子兜太氏の選を受けたものである。

 高浜虚子の有名な「去年今年貫く棒のようなもの」は昭和二十五年の作品である。この前年に、湯川秀樹博士が日本人で初めてノーベル賞を受賞し、この年の六月には朝鮮特需が始まった。この頃、日本を貫いていたものは、復興という明るく輝く希望であった。しかし、今、社会と自然を貫いている白々としたものは、放射線である。一日も早く、日本国よりこの棒が取り除かれる事を祈りたい。

 

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