東中仕切跡
西の丸跡
西の丸跡
大野川(白滝川)
史跡 岡城跡
有名なカマボコ石を撮らなかったと思っていましたが、偶然後ろに写っていました。
天然の断崖絶壁
竹田系宝物殿は、閉館していました。
駐車場近くの石垣
竹田市歴史文化館・由学館に来ました。
江戸後期の岡城と城下町
東中仕切跡
西の丸跡
西の丸跡
大野川(白滝川)
史跡 岡城跡
有名なカマボコ石を撮らなかったと思っていましたが、偶然後ろに写っていました。
天然の断崖絶壁
竹田系宝物殿は、閉館していました。
駐車場近くの石垣
竹田市歴史文化館・由学館に来ました。
江戸後期の岡城と城下町
東中仕切跡
岡城跡
石垣
1月22日 大分・宮﨑震度5強の地震で崩れた石垣
昨日(2月6日)杵築藩の家老大原邸の門番(管理人さん)が、杵築城の地盤は硬いので5強の地震で結構揺れたけど、杵築城の被害は無かったと言っていました。
下原門跡へ向かいます。
東中仕切跡
岡城跡
岡城跡
大手門跡から本丸跡方面を望む
前日に杵築藩の大原邸の門番(管理人さん)から、「数日前に岡城跡で墜落死亡事故があったので気をつけてください」と言われていた。
まさかそんな危険な場所は無いだろうと思っていたが、柵などは一切無かった
西中仕切跡
城内で最も狭い空間で、石垣により通路を折り曲げ、敵が直進できないようにしていました。また、その先を門により遮断することで、大手門方面から岡城中心部へ向かう敵の侵入を防ぐ機能も有していました。本丸の東側には東中仕切があり、西中仕切と同様に重要な防御施設の役割を果たしていました。
三の丸跡
三の丸は、他藩からの使者や家臣が、藩主と対面する場であったとされています。現在は、3代藩主に藩政に関する指南を行った熊沢蕃山や幕末の勤王の志士である小河一敏など、岡藩に縁のある人物の顕彰碑が建立されています。
太鼓櫓跡・鐘櫓跡
太鼓櫓は岡城の中心部への入口で、城内で最も重要な門です。2mほどの巨石を「切込接」という石積の技法を用い、隙間なく積まれた石垣は、藩主の権威の象徴であり、岡藩の石積技術の高さが窺えるものとなっています。太鼓櫓に隣接して鐘櫓があり、火災や緊急時には、銅鐘が打ち鳴らされていました。
くじゅう連山
二の丸跡
二の丸には、月見櫓や御風呂屋など、特徴的な機能を持つ建物が並んでおり、来客の歓迎や藩主の愉しみの空間として利用されていました。現在は、来場者のための休憩所が設けられています。
瀧廉太郎像
瀧廉太郎の銅像は、少年時代に廉太郎と同じ学校に通っていた彫刻家の朝倉文夫により、昭和25年に作られました。廉太郎は、少年時代に遊び場にしていた岡城をモチーフに、名曲「荒城の月」を作曲したと云われています。
主郭
対岸、武田軍五つの砦
土塁1
土塁2
長篠城おさえ 武田軍五砦へ徳川軍東三河勢が奇襲した
鳶が巣方面の戦い
土塁3(飯田線)
堅木植樹の碑
土塁1
堀1
飯田線
長篠城址(土塁1)
長篠城概要図
土塁1
歴代長篠城主
史蹟 長篠城阯
主郭
長篠城本丸跡
不忍の滝
本流の豊川(寒狭川)に落ちこむ滝が少しずつ後退してできた滝で、浸食された深い谷は、長篠城西側の天然の堀の役目をしています。
磔に散る烈士 鳥居強右衛門
豊川(寒狭川)
長篠城址史跡保存館
日本100名城 長篠城
長篠城の窮地を救った忠義の士
鳥居強右衛門勝商
鬼瓦
長篠城の今と昔
血染めの太鼓
長篠戦図
鳥居強右衛門
決戦の前夜
武田・織田・徳川 領地略図
織田氏 405万石
徳川氏 48万石
武田氏 133万石
武田氏の領地は織田氏と比べて面積は同じかそれ以上に広いが、山が多いので収入は少ない。信玄の代までは金が取れていたが勝頼の時代は金が取れなくなっていたようだ。
徳川氏 みつばあおい
織田氏 もっこう
長篠城推定復元模型
東海道・吉田宿へ
歩く、見つける、食す。旅人になれる道がある。
その道は、四00年前から続く道。
宿場町らしい風景やまちの名前は変わってしまいましたが川越しに見るお城の姿は、昔も今も絵になる景色です。
次は 東海道・坂宿へ
箱根駅伝のコース上にある松並木にそっくりですね。
次の次は 東海道・赤坂宿へ
手筒花火
1 天守について
池田輝政
15 吉田城図の天守
18 歴代の城主
19 吉田の大橋
20 宝永地震破損所絵図
21 明治期 大手門の写真
22 明治期 吉田城の写真
吉田城(本丸)復元模型
24 甲冑
3 吉田城争奪戦 古絵図より1
9 吉田城の縄張り
10 吉田城 本丸 二之丸 略絵図
11 九つの櫓で構成
12 吉田城鳥瞰図
13 吉田城と武家屋敷
14 本丸・二之丸御殿図
16 三河吉田図(諸国当城之図)
17 吉田城 石垣の刻印(所在場所)
23 廃城